戒莉は、朱甲を斬ってはいない。
何をしているかと言えば、茶を飲んでいる。
藍椋の茶とは違って美味い茶だ。しかし、隣に座っている朱甲のせいで、苦々しい気分になる。
朱甲は、先に隣町警護を頼んできた雇い主だ。はじめ戒莉を失望と懐疑の目で眺め、徐々に好奇の目でなめ回していたおっさんだ。
「その後、お体はよいのですか?」
戒莉は、朱甲の声を初めて聞いた。生ぬるい感じの声だ。
「はい、おかげさまで」
戒莉にしては、まともな受け答えだ。あげく微笑みすら浮かべているのだから薄気味悪い。
戒莉の隣に居る珊揮は、朱甲の気をひけと自分で言ったものの、そのとおりに実行している戒莉の様子にぞっとした。
戒莉に着せているのはいつもの質素なものではない。派手ではないが、ものの良さはひと目で分かる。軽くたっぷりとした絹物だ。藍が白い肌を際立たせる。常に束ねてあった髪は解かれ、肩にかかり、うねり、背へ黒々と流れている。
――― これは、後がおそろしいな
「それは宜しかった」
珊揮の懸念とは逆に、朱甲の方は戒莉の姿に満足しているようだ。見るからに上機嫌だ。
「そちらは如何ですか?」
「と、おっしゃると?」
おっさんは、おとぼけのご様子。
「何か変わったことはありませんでしたか」
戒莉は、心配そうに朱甲を見つめた。
「はい……あぁっ! いえ、何もありませんよ。でも、ど、どうして」
おっさんは、しどろもどろになりながら、戒莉の目に吸い寄せられたままだ。
珊揮もここまで黒い瞳には、なかなかお目にかかったことがない。あまりにも黒くて底が見えない。
「いろいろと噂を聞きまして……」
戒莉は朱甲の顔に頬を寄せ、声をひそめてそっと耳打ちをした。
戒莉の息がかかると、朱甲はびくりと跳ねた。
戒莉は目を細めた。ふと、玉葉のことを思い出した。あの娘も声をかけたときに、ずいぶんと跳ねた。
そんなことを思い出していて、戒莉は一瞬、遠い目になっていた。
どうもそれが、また効果的に働いたらしい。
「あ、ああ、盗賊がうちの店を狙っているという噂ですね」
朱甲は、口内の乾きにうまくしゃべれず、すっかり冷めた茶を慌ててすすりこんだ。
「そんなことを聞きまして、失礼ながら私たちも知らない間柄ではありませんので、こうしてお邪魔させていただいたという訳なのです」
『知らない間柄』ではないというのは、どういう関係なのだ。自分で自分に心の内で突っ込みを入れながら、戒莉は目を伏せた。
「差し出がましいこととは、思いましたが。どうでしょう、警護の者をおかれてはいかがでしょうか」
戒莉は、こんなバカ丁寧な喋り方をこちらに来て以来したことがない。
―― 舌を噛みそうだ
戒莉は、言葉を間違えないように緊張している自分に内心舌打ちをしながら、乾いた唇をちらりと舐めた。
「つまり、また私どもを雇っていただけないでしょうか……不躾なことで、お許しください」
「いえいえ、それほどまでに心に掛けていただき、大変……たいへん嬉しいです」
朱甲は、勢いをもって戒莉の手を握った。
珊揮は、朱甲の行為に冷やりとした。
―― 絶対にまずい!!
後と言わず、戒莉は今爆発するに違いない。珊揮は、身がまえた。
「お許しいただけて、こちらも嬉しいです。朱甲さま」
うっとりと微笑みながら朱甲の手を握り返す戒莉に珊揮は、目を疑った。ここまでは指示をしていない。素晴らしいと言えば、素晴らしい。怖いと言えば、怖い。
「で、護衛の件、如何でしょう」
上目遣いで、そう問われた朱甲のごときは否と言ってのける力を失っていた。
こうして珊揮の思惑どおり、戒莉たちは朱甲の警護という仕事をもぎ取った。
また、一人、落ちました。おっさんですが。。。