仕上がった品を藍椋の元に届ける。なんということの無いことだけれど、玉葉には大冒険だった。はじめは嫌で嫌でしようがなかった。それも何度かするうちに、自信のようなものがついてくる。そして、少し楽しみも増えてくる。
街の賑わいが以前は自分を突き刺すようだったが、今ではそこに身を置くことを許してくれる場所になってきている気がした。
二親も玉葉の明るい兆しに引きずられてか、ぽつり、ぽつりと笑顔をこぼすようになった。
玉葉の針仕事はいよいよ評判よく、注文は増える一方だった。もちろんひとりでやっていることなので、こなせる量にも限りがある。物凄く儲かるということはないが、少しずつでもお金が入ってくるということが、経済的にも精神的にも一家を支えていた。
いちどは逃げていった幸福が、わずかなりとも戻ってきている。
でも、と玉葉は思う。
――― 杏玲がいない。
あの娘がいないのに自分が幸せになどなっていいのだろうか。いや、良いはずがない。
今の幸福を感じるたびに、杏玲の不幸せが哀しくなる。
藍椋の店に行くと、彼女は必ず玉葉をお茶に誘う。このお茶自体は大変苦手なのだが、藍椋と話をするのは楽しい。
「戒莉は留守なのよ」
藍椋は、聞いてもいないことを急に言い出した。
「え。そう……ですか」
前に戒莉が現れた店の奥に、知らず知らずの内に視線が行っていたのだろうか。玉葉は急に顔が熱くなるのを感じた。
がっかりしている自分と、ほっとしている自分が居る。玉葉は自分の心を測りかねていた。
「珊揮も一緒にお仕事なんですって」
戸惑う玉葉を置き去りに、藍椋は詰まらなそうに言った。
「あ、珊揮っていうのは戒莉と同じ剣客で、あたしのいい人なの」
藍椋は、最後の方を嬉しそうに笑って言った。
「そ、そうなんですか」
ふたたび顔に熱がよみがえって来る。玉葉は、そんなことをさらりと言ってのける藍椋が羨ましくなった。
「それより今日はねぇ、花茶なの」
更に笑顔が開く。
ひとしきり刺繍の話や世間話をする。甘く香る花茶は、いつものお茶と違って美味しい。
藍椋と話をするとやはり楽しい。
楽しいことがあると、やはり杏玲のことが思い出された。
「杏玲もここでお茶を飲んだのでしょうか」
そう問われた藍椋は驚いた。玉葉と藍椋の間で、杏玲のことを話題に登ったのはこれが初めてだった。
玉葉がそれを避けていたことは確かで、それを悟っていた藍椋もあえてそこには踏み込まなかった。
藍椋はふっと微笑むと、その問いに答えた。
「ええ、そうよ」
「こんな風に話をしたんでしょうか」
「そうよ。こんな風にあたしが物凄く喋って、杏玲さんが楽しそうに聞いてくれてね」
藍椋の言葉が玉葉の心に染みていく。
ここで、かつて、杏玲は楽しいひとときを過ごした。それは、ほんの些細で、ほのかな幸福であったかもしれない。けれど、杏玲が幸せであった欠片を、玉葉は見つけられたような気がした。
「ありがとうございます」
杏玲に言えなかった言葉を玉葉は、藍椋に贈ることが出来た。
「いえいえ、どういたしまして……て、何が?」
藍椋の軽い口調に、玉葉は思わず笑った。
「あの娘が居なくなって、いろんなことを言う人がいたんです」
玉葉は、閉じ込めた三年分の言葉を吐き出すように話し始めた。
藍椋は聞き役にまわり、相槌をうちながら、玉葉を見つめていた。
「貧乏な暮らしが嫌になったとか、私や親が重荷になったとか……わたし、そうだったらいいと思っていました」
そう言って玉葉は小さく微笑んだ。
それは藍椋を驚かせた。
「あの娘が、自分が幸せになるために、家を出て行くこと選んだならいいなって……思ってました」
玉葉は本当にそうならどんなにいいだろうと、思う。
心が、震えた。
「でも、分かってるの。杏玲は、そんなことをする娘じゃないって、自分だけ幸せになろうなんて考える娘じゃないの」
なんて残酷な言葉を口にしているのだろう。玉葉は自分の言ったことの意味することに、気が遠くなる。
藍椋は、玉葉にそっと手を重ねた。
「そうね。杏玲さんは、いつも言っていたわ。自分がお姉さんの役に立てているならば、嬉しいって。頼りにされるのが嬉しいって」
「本当に?」
思わず顔をあげる。何て浅ましいのだろう。自分をなじりながら、玉葉は藍椋の言葉にすがっていた。
杏玲が自らの意思で姿を消すような人間ではないということが意味すること。
それは杏玲が何者かによって囚われているか、もう既に命がないということ。
「ごめんね」
言葉がはらはらとこぼれた。