「あの日も、杏玲はここでお茶を飲んでいったんでしょうか」
玉葉は茶杯を両手で包み、中で揺らぐ薄い緑色の茶を眺めていた。
「あの日は……」
藍椋は、ふうっとその日に想いを巡らせた。
「あの日は、寄っていかなかったわね。どこかへ行かなくてはいけないとか言ってたわよ」
「どこへ行くと言ってました?」
玉葉は思わず身を乗り出した。少し茶をこぼしてしまった。
「あら、大丈夫?これで拭いた方がいいわ。しみになっちゃうかも」
藍椋は、手拭を玉葉に渡してくれる。
「あの」
まだ玉になって膝の上を転がっている茶を吸い取るのももどかしく、玉葉は藍椋へ視線を投げた。
「ええ、何処へ行くかは聞かなかったの。ああ、聞いておけばよかったわ」
藍椋は心底後悔する。
「そう、ですか」
玉葉も落胆を隠せない。
「他の店にも仕立物を届けたのかもしれないわ。ねえ、あの日、何を届けたか憶えてる?私が頼んだのは、ええと」
藍椋の思考は、めまぐるしい。落ち込んだと思っていると、次に新しい道を探す。今は、三月も前の依頼品を一所懸命考え始めている。
藍椋があげていく物をひとつひとつを心の内で確かめながら、玉葉もその道を進んでいく。
と、
「あの。婚礼衣装はどうでしょう」
玉葉は、はっと顔をあげた。
玉葉が婚礼衣装に刺繍をしたのは、それが最初で、今のところそれきりだ。紅い絹地に金の糸で、花鳥寿喜という文様を刺繍した。それはこの地方に伝わる伝統的な文様で、とてもおめでたいものだった。技術的にも難しいが、たいへん細かく、根気のいるものだった。そうしてようやく仕上がったものを、玉葉はちょっと手放したくないような気がしたものだった。
「婚礼衣装? いいえ、あたしは頼んでないわよ」
藍椋はすぐさま答えた。考えるまでもない。藍椋の店では、日常使いのものしか扱っていない。婚礼衣装などという贅沢な品を頼むはずがない。
「じゃあ、それを届けに行ったんだわ」
玉葉は顔を輝かせる。顔の傷のことなど、忘れているようだ。
「だとすると、どこで依頼を受けたのかしら? そんな豪勢なものを頼むなんて、限られてくるわよねえ」
玉葉の明るい心を藍椋が後押しする。そうして、いくつかの店の名前を挙げていく。
玉葉は、胸に刻むようにそれらの店の名を聞いていた。
「わたし、これからそこへ行ってみます」
そう口からこぼれたのは自然のことのようで、実は玉葉自身も驚くようなことだった。ここ何年か、玉葉が家族以外に話をしたことがあるのは藍椋ぐらいなものだ。それなのに、行ったことのない店に行き、面識のない人の話を聞こうと思っている。
「そうね。でも、ひとりで行くのは止めた方がよくないかしら」
藍椋は、玉葉の変化を喜びをもって迎えていた。けれど、不安がある。婚礼衣装を届けに行った、その先で杏玲は姿を消したのだ。玉葉がその届け先に辿りついたとして、玉葉の行く先は杏玲と同じでないと言えるだろうか。
「でも」
今、行かなければ、挫けそうな心を玉葉は抱えている。
「ねえ、戒莉を憶えている?」
藍椋は、また次の道を見つける。その道は、心細い玉葉を浮き立たせるようなものだった。
「ええ」
玉葉の脳裏には、あの闇色の髪と低く響く声が蘇っていた。自然、口元に笑がうっすらと浮かんできた。
「戒莉は、今は仕事でいないんだけど、そのうち戻ってくるわ。そうしたら、一緒に行かせるから、それまで待ってちょうだい」
実は、藍椋は戒莉が「そのうち戻ってくる」という確信はなかった。ただ、この目の前の娘を今は止めたいという心がそう言わせた。戒莉の名を出したのは、とっさのことだったが、明らかに効果があったようだ。多分、珊揮では玉葉を留めることは出来なかった。
「そうですね。一人で行ったら危ないかもしれないですよね。お言葉に甘えて……よろしいのでしょうか」
玉葉は、俯いた。顔の左側がチクリと痛んだ。まるで、忘れてはならないと、警告をするかのように。
「ええ、そうなさいよ」
藍椋の声は、明るく響いた。
花嫁衣装。消えた娘。
さきほど否定した答えが、玉葉の柔な心をあざ笑うかのようにはためいていた。
『あの娘は、親も姉も、みんな捨てて逃げたのさ』