玉葉と入れ違いに、珊揮がやって来た。
「あら、お久しぶりねぇ」
平静を装ってやりたかったが、藍椋の声には鋭い刺が生えていた。
「たった十日ぶりだよ」
にこやかに藍椋を抱きしめる。刺は珊揮には全く刺さっていない。
藍椋は次の次に吐く毒まで用意していたというのに、こんな安っぽい抱擁ひとつですべてを解かしてしまう自分の意気地の無さに嫌気が差す。けれど、これで良いのだと微笑む藍椋がいる。
「もう十年も会っていないような気がしたわ」
目を閉じると珊揮の熱が伝わってくる。
――生きている。
仕合せだと思った。
目を開ければ、珊揮がいる。
「あら」
珊揮の背後に居ると思っていた戒莉が、いないことに気づいた。
「戒莉は一緒じゃないの?」
「ああ、仕事で朱甲のところにいる」
藍椋を抱きしめる腕を緩め、珊揮は言う。
「え、朱甲って、あの……」
藍椋は、そこまで言って言葉を続けることを躊躇った。
「そう、あの朱甲だよ」
珊揮は微笑む。
食料問屋の朱甲。商売人としてはやり手だ。その評判を枕詞に皆が口にするのは、稼いでいるくせに、出て行く金に厳しいということ。そして、色好みだということ。
平たく言うと成り上がりでケチで、助平。
「しかも美形好きで。綺麗な顔をしていたら、女でも男でもドンと来いだ」
珊揮が陽気に宣言する。
「それ。戒莉は知ってるの?」
「もちろん」
「信じられない」
戒莉を知って間もない藍椋だが、彼が自分の容姿を嫌悪しているのは分かっていた。他者から下心を含んだ視線を向けられるその容姿はもちろん、視線を送って寄越す人物へも同様の感情を抱いていることは明らかだった。
その戒莉が、綺麗ならば女も男も見境の無い朱甲のような男の護衛を買って出るなどということは、いくら仕事とはいえ想像し難い。
「仕事だからね」
珊揮はどかりと座り込んだ。
「お客さん?」
卓の上に並ぶふたつの茶杯を見ながら、珊揮は話の方向を変えた。
「あ、ええ。玉葉さんよ。刺繍を頼んでいる娘さんなの。今日は仕上がったものを届けてくれたのよ」
珊揮の意向に乗せられて、藍椋は本当に言いたいことから遠ざかってしまった。
「玉葉か、是非お目にかかりたいねぇ」
軽口をたたくのも白々しい。
「字のとおり、とても素敵な娘さんよ。でも貴方には会わせない」
「意地が悪いね」
「あら、それは貴方のことを言うのよ」
藍椋は心の底からそう思う。
「私にもお茶を煎れてくれないか?」
「あら、珍しい」
藍椋は小さく微笑んで、かすかな刺を隠した。
藍椋は茶を煎れている。
珊揮は、ふと傍らの台に置かれた着物にちらりと目をやった。
「刺繍って、これかな?」
「そうよ。この柄、あたしが考えたの。結構評判が良いのよ」
色とりどりの小さな花が、競うように咲いている。にぎやかで、いかにも藍椋という感じがする。
「この花、帯に刺したものはどれくらい売ったのかな」
珊揮は着物を手にとると、花々の乱舞を見ながらぽつりと訊ねた。
「どれくらいもなにも、これを帯に刺繍してもらったことはないわよ」
ずいぶん妙なことを言い出すものだと、藍椋は首を傾げた。
珊揮が刺繍に興味があるとは思えない。しかも、帯とはなんとも唐突だ。
「もし、帯があったとしたら。どういうことだと思う?」
「そうねぇ……」
更に問う珊揮に、藍椋は答えながら花刺繍をした帯を胸に思い描いてみた。
はた、と気付くことがあった。
「見たことあるわ。その帯……」
でも、どこで?
この柄は藍椋が考えたものだ。それを見ていれば、誰かが真似たか、玉葉が勝手に刺して他の店に売ったとか。いずれにせよ、そんな理由ならば藍椋は憤慨しただろう。しかし、そんな怒りを煮えたぎらせた憶えはない。と、言うことは見てもそれを自然と感じたということだ。
「あ、杏玲さんよ。玉葉さんの妹さんなの」
いつだったか、杏玲がしていたことがあった。玉葉が練習用に刺繍したものを帯にしてみたのだと言っていた。
杏玲は、いけなかったかとひどく恐縮していた。藍椋は「いいわ」と言った。
「だって、とても素敵だったから。今度頼みたいわって……あたし、なんで忘れてたのかしら」
帯を見たその場で、藍椋は杏玲に言ったはずだ。次にくるときに同じものをいくつか作って欲しいと。でも、なぜ藍椋はそれを忘れ、未だに玉葉は帯に刺繍をしたものを持って来ないのだろう。
「その娘が行方不明になったから?」
珊揮の声が、さくりと藍椋の疑問に割って入った。
「そう……だわ。その日、杏玲さんが居なくなってしまって……」
あの騒ぎの中で、藍椋は帯のことを忘れてしまった。そして、玉葉に帯のことは伝わらなかった。
「なるほどね」
珊揮は小さく頷くと、茶をすすった。
花の香りが、がらんどうの体に染み渡る。
「ごちそうさま」
甘い笑顔でするりと立ち上がり、珊揮はそう言う。別れの言葉だ。
こんな一言で、どれだけこの男と会えないのだろうか。
「行ってしまうのね」
藍椋は、胸の奥が焦げるような匂いを感じた。
珊揮はそんな藍椋の心を知らない。微笑みながら、その唇で藍椋の頬に触れる。
「行ってくるよ」
その熱の冷めぬ間に。