朱甲の屋敷には、店と奥向きと合わせて五十人ほどの使用人が出入りしている。
秋明は、奥向きの下女だ。物心ついた頃からそうであったように、死ぬまでそれは変わらないことだった。
十五年前、生まれたばかりの秋明を抱えて食い詰めた父母は、朱甲のもとに家生として入った。つまり朱甲の家族分ということになるが、その実奴隷と変わらない。雨風しのげる住まいと、飢えをしのげる食料は与えられるが、給金も貰えない、休みもない。朝から晩まで働いて、いつか暮らしが楽になるならばまだしも、何も変わらないのだ。
秋明もこれから子供から大人になるにつれて、出来ることが増える分、仕事が多くなるだけだ。そうして、ある時を境に年をとり、働きが悪くなり、働けなくなり、そこで死を待つばかり。
そんな人生だが、秋明自身に悩むところはない。ときおり、通りを楽しげに歩いては親に菓子をねだる子供や、学校に行く同年代の娘たちが羨ましいと思うこともあった。お腹いっぱい食べたいとか、きれいな着物を着てみたいとか、そう願うこともあった。けれど、それ以上に自分を憐れんでみることはない。秋明にとって、学校に行かないことも、満腹になることがないことも、着るものがつぎ当てだらけで擦り切れているのも、当たり前のことなのだ。
家生であるということは、そういうことなのだ。
秋明はこれから先、自分の身に変化が起こるなどということは思いつきもしない。ただ言われるままに働いていれば、飢えることもない、住むところを失うこともない。そんなささやかで卑屈な生き方を、当たり前のこととして受け容れている。それだけののことだった。
その時が来るまでは。
その日、秋明は朱甲の昼餉の給仕を言いつけられた。秋明の常の仕事は、掃除や洗濯、炊事であり、家公の給仕などということはしたことがなかった。その日はいつも朱甲の身の回りの世話をする下女のひとりが体調を崩して臥せってしまったために急遽、たまたま厨房で洗い物をしていた秋明にその役目がふられたのだった。
渡された盆の上には、豪勢な料理が載せられていた。
朱甲は、とても金の出入りにうるさい男だった。それこそ食事の品数からその内容まで、ひとつひとつまでいちいち目を光らせるような男だった。
実を言えば、朱甲がいつも口にしているのは、秋明が食べているものとほとんど変わらないような質素なものだった。
その朱甲がこのような御馳走を用意させるのは、決まって客のある時だ。しかもこの豪華さは、最上級のもてなしだ。朱甲は強い繋がりを求める相手には、金を惜しまないところがある。もちろん、その何倍のものが返ってくる目論みがあってのことだ。
朱甲の向かいに座るその客は、秋明が今まで見たどの人よりも綺麗な人だった。
黒い髪、黒い瞳、白く、冷たい肌。
触れた訳ではないけれど、秋明はそう感じた。
その頬に血が通ってないのではないかと思える程の白さ。
家公の客をじろじろと見るなどということは、いつもの秋明ならば恐ろしくてしないことだった。だが、今の秋明は、客に目がいっている自分に気づいてすらいない。
目の前の客に、秋明の胸の奥が早鐘を打っていた。手がやたらと震える。ただでさえ給仕には慣れていないのだ。
秋明は、椀のひとつを取り落とした。
はっとした時には、もう遅い。椀はひどい音を立てて床を転がり、中の汁物は一面に飛び散っていた。
それまで、にこやかであった朱甲の罵声が、すぐさま秋明に叩きつけられた。
「馬鹿者がっ、何をしている!」
秋明はすべきことを見失い、ぼうぜんと立ち尽くすのみだ。
それがまた、朱甲の逆鱗に触れた。
「ぼやぼやするな、さっさと片づけろっ。家生というのは、恩を仇で返すのが礼儀なのか」
「も、申し訳ありません」
秋明は、床にひれ伏し、ひたすらに頭を垂れた。秋明の着物がこぼれた汁を吸った。
別の下女が雑布で床を拭き始めていた。秋明は、あわてて割れた椀をかき集めた。
「申し訳ありませんね」
這いつくばる秋明の頭上で、世にも優しげな声で朱甲が言う。
それは、もちろん秋明に向けられたものではない。朱甲の向かいに座る、あの美しい客に対して向けられた謝罪の言葉だ。
「ああ、お召し物がっ」
朱甲は、ほんの僅かに客の着物の裾が濡れているのを目ざとく見つけていた。
「平気ですよ。気になさらないでください」
客は、秋明が思いもよらない声をしていた。つい、顔をあげてその顔を見てしまった。
客は、秋明の方を見ると微笑んだ。
「大丈夫だからね」
そう声をかけられて、秋明は言葉を失う。どうしようもなく、胸が苦しい。ジリジリと焦げ付くようだ。
「秋明!」
ぼうぜんと客を見つめる家生を、朱甲は許さなかった。
はっと、我に返った秋明は、また頭を床にこすり付けるように、何度も何度も「申し訳ありません」を繰り返した。
別の下女が持ってきたきれいな布を、客は微笑みながら受け取ると、自らその汚れを拭った。
その後、何をしたのか秋明は全く憶えていない。
ただ、その夜は眠ることが出来なかった。
それだけのことだった。
嗚呼、また一人……落ちました。