天涯~柳編~   作:清夏

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『水をくむ人』

 早朝、皆が起きてくる前に秋明には仕事がある。

 大きな二つの瓶をいっぱいにするまで、秋明は裏庭の井戸と厨房の間を桶をふたつ提げて何度も往復する。慣れているとはいえ、重いし、手が痛い。少しよろけながら、秋明は桶の中の水を瓶に移した後の、両手の軽さを思い描いた。

 と、右の桶が軽くなった。それは秋明の気のせいではなかった。

「手伝うよ」

 響く声がやさしく、秋明をくすぐった。

 昨日の昼餉の客が、いつの間にか秋明の左手の桶をひょいと持っている。

「す、すみません。でも、いいんです。お客様に手伝ってもらうなんて、勿体無いです」

 秋明は、相手の手から桶を取り戻そうとした。

 こんなことが朱甲に知れたら、きっと叱られる。そしてまた、食事抜きになってしまう。秋明は、昨日の昼から水しか飲んでいない。これ以上は空腹には耐えられそうにない。

「いいよ。俺は客じゃないから」

「え?」

 秋明は左がわにいる客の顔を見上げた。

 客でないとしたら、何であるか。

 昨日、他の下女たちが話していた言葉が、秋明の脳裏にはためいている。

 秋明は十六になった。まだ大人とは言えないが、何も知らないと言えるほど子供ということもない。

 目の前のこの男は綺麗だ。家公の好みだ。これが何を意味するのか。

「俺は杖身だから。雇われの身だよ」

 にこりと笑う白い顔に、秋明は目を丸くする。

 面白くない冗談だと思った。秋明が知っている杖身は、大概は普通の男よりも逞しい。それが普通以下に痩せていて、いかにも頼りない。そして、並の美女などは蹴散らしてしまう程の美貌を持つ。この男が杖身などと言うのは、冗談にしても詰まらない。それとも、朱甲はそういうことにしてこの男を住み込ませているのだろうか。

 秋明は、そんなことをさまざまに考えながら男をじろじろと見た。

 着ているもののせいだろうか、昨日よりもくだけた感じがする。そういえば、喋り方も違う。

 

 男は柔和な顔のまま、秋明の視線を受け止めていた。

「そう、見えない?」

「い、いいえ」

 明らかに嘘だ。

 男は更に、秋明のいかにも言いつくろった様に、おかしそうに笑みを重ねた。

「いいんだ。そう見えるって言われたことないから」

 男は秋明から桶のひとつをすっかり取り上げてしまった。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 灰色の髪をした娘の瞳は、薄緑だった。

 戒莉が字を問うと、娘は嬉しそうに「シュウメイ」と答えた。そして秋に明るいと書くのだと、付け加えた。

 戒莉が綺麗な名前だと言うと、秋明は本当に嬉しそうに笑った。

 戒莉も秋明に名を教えた。

 

 戒莉と秋明は、水桶をひとつずつ持って、並んで井戸と厨房の瓶の間を何度となく往復した。この状況で何も喋らないのは不自然だった。

 三往復したあたりで、秋明がずいぶん打ち解けてきた。もともと、人懐っこい娘なのだ。たまたま、昨日は慣れない仕事に緊張し、見たことのない男に目がくらんで、しくじりをしてのけたので、おどおどとしていただけだ。

 秋明は昨日の失敗を戒莉に重ねて詫びた。いつもは、給仕などはしないので慣れていないし、あまりお客とは顔を合わせたことがないのだと言い訳もした。

 戒莉は自分は客ではないともう一度言ったが、秋明はあまり信じてはいない様子で調子良く「あら、そうでしたね」などと言った。

「信じないんだ」

「だって、うちの御家公さまは、あんな御馳走を雇い人に振舞う方じゃあないもの」

「そうなんだ」

 朱甲の下心の顕わなのは、正直分かり易くてありがたい。などと、戒莉は言ってみる。

 秋明は笑った。

「でも、杖身なのはホント」

 戒莉が言い訳のようにまた言う。

「それは分かりました」

 いや、分かっていない。秋明の口ぶりは、全く分かっていないということを表している。

「じゃあ、君は何をしてる人?」

「水汲みをする人ですよ。後は床を磨いたり、洗濯をして、食事の支度をして片付ける人」

「へえ、そうは見えなかった」

「あら、あたしが何に見えたんです?」

「給仕をする人」

 また、秋明は笑った。

 瓶に桶の水をひとつうつし、秋明の持っている桶もよこすように身振りで示した。

 もう秋明は空腹も忘れて、それに従った。

 そうして、またふたり並んで井戸へと歩いていく。

「ご家公さまってのは、そんなにケチなのか?」

「そうですよ。それこそ米粒ひとつまで無駄は許さないんです」

「それは、それは」

「昨日の御馳走から考えると、かなりのものを期待しているお客様としか思えないですよ」

―― 何を?

 なんて言葉を飲み込みながら、戒莉は言う。

「料理で客の等級が分かるんだ。面白いね」

「ええ、一番の客には夕餉に梅香鳥の料理を出すんですよ」

 梅香鳥は高級食材とされていて、雁にしかいない鳥だ。朱甲はこれを雁から運ばせているのだそうだ。

「半年に一度来るお客さまに梅香鳥をお出ししてるんですよ」

「へえ、どんなお客さんなんだろうね」

「あたしは、よく知らないんですけど。そういうことは桂凛がよく知ってますよ」

 秋明は、桂凛というのは朱甲の身の回りの世話をする下女なのだと説明した。そして、ついでのように、「彼女はお給金を貰っているんですよ」と付け加えた。    

 

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