「もう、いいですよ」
水瓶がひとつ満たされたところで、秋明は戒莉に水汲みを止めてもらおうと思った。
これ以上、戒莉にこんなことをさせてはいけないような気がしたのだ。
昨日は冷たいと感じていた戒莉の肌の下に、今朝は血の巡るのを、秋明は感じた。昨日と何も変わっていない顔のつくりのはずなのに……。その理由は明らかだった。
「いいよ。もうひとつ瓶をいっぱいにするんだろ」
「いいえ、水汲みは私の仕事ですよ。あなたにとられてしまう訳にはいきませんから」
秋明は冗談めかして戒莉の申し出を断った。
もう、そろそろ誰かが起きてくる。誰かに見られたら、家公に告口でもされたらさすがに面倒なことになる。
空腹をあらためて思い出している自分に、秋明は可笑しくなった。
「仕事は、辛くないか?」
ぽつりと戒莉の口から、そんな問いがこぼれた。
問うた本人も、問われた秋明もドキリとした。
「そりゃ、楽じゃないですよう。でも、あたし他に何も出来ないですし。ここならあたしの出来る仕事がたくさんあるし。ここじゃなくても、おんなじことしか出来ないですから。あたし」
それが当たり前、そうでしょ、と言う顔で秋明は答えた。
「ここを出るとか考えないのか?」
「そんなこと考えたことないですよ」
問われた内容と、戒莉の口調がちょっと乱暴になったのに、秋明は驚いた。
「なんで?」
普通考えないだろうか、少なくとも戒莉はかつてそう思った。
「だってあたし、ここ以外のところを知らないんですよ。気づいたら、この家にいて、気づいたら水を汲んだり、床を磨いていたんですよ」
笑いながらそう言う秋明。戒莉の胸の奥にじわりと何かが湧き上がっていた。それは、なんとも酸っぱく、苦い、嫌な感じのするものだった。それを何と呼ぶべきなのか、戒莉は知らない。
「仕事を止めたいとか思わないのか?遊んだり、勉強したり、そういうことをしたいと思わないのか?」
「……思わないはずはないですよ、あたしだって。でもねえ、家生が遊んだり、学校に行ったりしたら、困るでしょう」
「困る?」
この秋明が働かないと、誰が何に困るというのだろう。戒莉には分からない。
「あたしも仕事なんかしないでいられたらそうしますよう。でも働かなくちゃ、ここにはおいてもらえないし、ご飯も食べられないもの」
「他に仕事はいくらでもあるだろう」
「だといいんですけど、やっぱりそうじゃないですよ。ここを出たら、あたし、何も出来ないような気がします……」
卑屈だ。秋明がうつむいた姿に、戒莉はそう怒鳴りつけてやりたい衝動を何とか抑えた。
戒莉のきれいな眉間に皺が刻まれるのを見た秋明は、あわてて早口で訴えた。
「それに、世の中には学校に行って勉強する人もいるし、それで学者になる人もいるし、役人になる人もいて、畑を耕す人もいるし、着物や靴を作る人がいたりするでしょう。王さまになって国を治める人もいるし、あたしみたいに水を汲む人もいるんですよ」
「……」
秋明から王という言葉が出てきたのに、戒莉は軽く衝撃を覚えた。
そして先ほどの酸っぱく、苦い感情が『傲慢』だと分かった。戒莉は、秋明を憐れんで、見下していた。
今、戒莉は自分自身を軽蔑している。
ふと、日本に居た頃に聞いたある言葉が、頭の上に落ちてきた。
―― 天は人の上に人をつくらず 人の下に人をつくらず
なぜ、この人は怒っているのだろう。秋明は心の中で、首を傾げた。
「王さまの仕事に比べれば、あたしの仕事なんてくだらない、誰でも出来る仕事だってことは分かってますよ。でも王さまがいなくちゃ困るけど、水を汲む人もいなきゃ困るでしょう」
秋明の言うことは正しい。でも、間違っている。
「でも、君は幸せなのか」
「飢えたり、安心して眠る家がないなんて考えただけで、あたし怖いです。だから、ここにいたら食事も貰えるし、寝床もあるし、あたしの出来る仕事もあるし、あたしは幸せなんだと思うんですけど」
正しい。でも。
戒莉はそれ以上、言うべき言葉を見失った。
間違っているのは、誰なのだろう。
ちょっと、視点があっちいったり、こっちいったりして読みにくいすね。
ナントカしろと言われる前に、書いてみました。