―― 良く寝た。
戒莉はスッキリした心持ちで、目覚めた。
ここしばらく、戒莉にとって朝は心も体もだるい時刻だった。
戒莉は伸びをしながら、ゆっくりと体を起こし、ぼんやりと室内を見わたした。
「いない。か」
部屋には戒莉ひとりだ。珊揮の姿はどこにもない。
昨夜は「見張ってろ」と珊揮に言い捨てて、ひとり寝に入った戒莉だった。 ここ数日、戒莉はよく寝ていない。それは外敵に対して備えていたというよりも、同じ屋根の下に息をしている朱甲を警戒していたからだ。
珊揮は、戒莉を朱甲の屋敷に放り込んだ時に、こう言った。
「夜、眠らないように」
では、いつ眠れば良いのだ。戒莉は、抗議した。
それに対する珊揮の答えはこうだ。
「毎日、わたしがこっそり訪ねていくからね。その時に眠るといい」
そんなことを言っておいて、珊揮が来たのは三日後のことだった。
寝不足に加えて、ずっと気を張り詰めていたせいだろう、戒莉はいちど眠るとあっという間に深いところに落ちていってしまった。
戒莉はここに来てからずっと張りつめてきたものを、たかが珊揮のせいであっという間に緩めてしまう自分に呆れる。
挙句、見張っているはずの珊揮は姿を消し、戒莉自身はそれにも気づかずに惰眠を貪っていたのだから、どうしようもない。『何かあったらどうするつもりだ』と、戒莉は自分と珊揮の二人ともに、意味の無い怒りをぶつけてみた。
襟元の乱れをそのままに寝台から降りると、戒莉は卓の上に一枚の紙切れをみつける。そこには、珊揮の字で『明るくなったので、人に見られる前に出ていく』旨が書き残されていた。それから『また来る』などとも記されている。
「またって、いつだよ」
戒莉の独り言が虚しく落ちた。
別に珊揮に会いたい訳ではない、ただ眠りたいだけだ。そう思うのすら言い訳めいていて、戒莉は気に入らない。
振り切るように、戒莉は寝台に寝ている剣を叩き起こした。
ここに来て、戒莉は実はあまり朱甲と話をしていない。
多忙のようで、朱甲の姿を見ることもあまりない。
それがこの日、『昼餉を一緒に』という誘いが朱甲からあった。
それを戒莉が断る理由はなかった。
しかし、その誘いを受けてから、戒莉の気分はどうしようもなく沈んでいった。
なにか、話があるのだろう。もしかしたら、もう護衛はいいと断りを入れてくるかもしれない。そう言われたら、どうすれば良いのだろう。まだ、戒莉はここでの役目を充分には果たしていない。今、ここから出なくてはならなくなったなら、何のためにここに入り込んだのか分からなくなる。
―― もしも、朱甲が解雇を切り出したら
戒莉は、覚悟のようなものを決めていた。
とはいうものの、昼近くになると、戒莉はぞわぞわと落ち着かなくなる。
浮つく心を静めるために、戒莉は店や屋敷の中を歩き回った。
下女や下男、客らしい姿、どこへ行っても、人が居る。
そして戒莉は、その誰にも愛想よく笑ってみせた。戒莉に笑いかけられた者は戒莉に見惚れながら、笑い返して来る。
店から屋敷につながる廊下に行くと、床に這いつくばる秋明がいた。
秋明は床を磨く手を止めて、顔を上げ、小さく頭を下げた。
戒莉が自己嫌悪に陥ったり、自分を避けているなどとは、秋明は思いもよらない。
「たいへんだね」
戒莉は、そう言葉を落とした。
朱甲の屋敷の廊下は、長い。これを毎日磨き上げるのは、戒莉には苦痛に思える。
「ええ、でも貴方には手伝わせませんよ。これは私の仕事ですからね」
屈託なく笑う秋明。
その様子を見ていると、自分の憤りも、焦りも、反省も、この娘にはどうでもいいことなのだと、戒莉は気づいた。
「そうだな。俺は自分の仕事をしなくちゃな」
言いながら、戒莉は微笑んでいた。
その笑顔は、危険物です。