「今日、馬腹が出たそうよ」
女はサンキの上着を受け取りながら、街でもちきりの話題をふった。
「ああ、らしいね」
サンキは、「見た」とは言わない。他意はないつもりだったが、思えば戒莉のことを話したくなかったせいなのかもしれない。
女は、サンキにとって恋人と呼べる女性の一人だ。つまり、他にもそういう存在がいる。サンキは、彼女たちに互いの存在を感じさせない……つもりでいた。
女の字は、ランリョウ ― 藍椋 ― という。与えられた土地を売り払い、街に出て、古着を商っている。小さな店だが、品の趣味が良いと評判で、乞われれば寸法直しや仕立て直もするなどして、けっこう繁盛している。
「街に妖魔が出るなんて、もう駄目なのね」
藍椋は溜息とともにそうこぼした。
柳が荒れ始めて、どれくらいだろう。法によって整然と統治された美しい国は、今や何処にもない。役人が賄賂をとったりするのは当たり前で、皆が私腹を肥やそうと躍起になっているような気がする。それが結局、自分の身を滅ぼしていくのだと、気づきもしない。
「まさか王は、もう居ないのかしら」
「さてね」
サンキの軽い口調に、藍椋は苛ついた。
「もう珊揮、あんたは気楽でいいわね」
「そうでもない」
珊揮は、女の言葉を笑顔ですいとやり過ごした。
「これから、どうなるのかしら」
藍椋は若い。まだ二十才そこそこというところだ。国に王がいないということを経験したことがない。国の行く末、己の行く末が、本当に不安で堪らないなのだ。
それなのに珊揮の態度はどうだ。まるで国が荒れるのを喜んでいるかのようだ。いや、もしかすると本当に喜んでいるのかもしれない。珊揮というのは、剣客だ。国が荒れれば、妖魔や盗賊が跋扈し、珊揮の仕事も増えるというものだ。王が居ないときが稼ぎ時、ということだ。
「あたしが死んだらどうするのよ」
恨み言のひとつも言いたくなる。
珊揮は、すこし驚いた。1日のうちに同じ問いを異なる人間からされた。しかもそれが「死」にまつわるモノであったのが、さすがに嫌な感じがする。
女は、戸惑った。軽い気持ちで言ったことだが、珊揮が応えに詰まっている。
何か、気まずい。
珊揮は、仙だ。今まで多くの者を見送ってきたのだろう。そう思うと、不老不死のこの男が哀れに感じる。
「藍椋」
「なあに」
呼ばれた女は、出来るだけ明るい口調で応えた。
「この国がもう駄目だったら、ここを出る気はあるか?」
意外な言葉ではない。王が倒れ、国が荒れれば、生国を離れて他国に移り住むのはよくあることだ。
しかし、藍椋はキッパリと迷うことなく言った。
「あたしは、何処にも行かない。ここ以外に住むところはないの。それにあたしがここに居なくなったら、この国であんたが寄る処がなくなっちゃうでしょ」
珊揮は何も言わずに藍椋の小さな体を抱きしめた。
何て愛おしいのだろう。ずっと、このままでいたいような気すらしてくる。けれどこの藍椋もいずれは、自分を置いて行ってしまうのだろう。それは明日かもしれない。何十年も先のことかもしれない。
慣れているつもりだが、慣れていない。珊揮は人と出会うたびに、その人との別れを考えてしまう。だから出来るだけ人と深く関わらないようにしようと思った時期もあったが、やはりそれは出来なかった。
いずれ別れはやって来るが、だからと言って愛する者が生きている今を無駄にはしたくなかった。
藍椋を腕に抱いたまま、珊揮の脳裏に戒莉の姿がひらりと浮かんだ。
……あれも、私を置いていってしまうのだな……
珊揮は、一層きつく藍椋を引き寄せた。