藍椋の店の奥で、戒莉は珊揮と密かに向かい合っていた。
藍椋は席を外しており、ふたりの間にはしばし沈黙の糸が張られていた。
戒莉の苛立ちは、おそらく朱甲のそれにも匹敵していたかもしれない。
目の前に藍椋の煎れた茶が湯気を上げているのも、それに拍車をかけていた。
初めに口を開いたのは、戒莉の方だった。
「で、あんたはこれにどう始末をつけるつもりなんだ?」
「飲み干せばいい。ぐぐっとね」
手を差し伸べながら、珊揮は戒莉にそう勧めた。
もちろん、珊揮が言っているのは藍椋の『特製健康茶改良版』のことなのだろう。
「珊揮」
静かに、戒莉の声が珊揮の懐に刺し込まれた。
珊揮はひとつ大きく息をつき、にこりと笑った。
「そうだな。とりあえず、獲物がかかるのを待つしかあるまいね」
「獲物?」
「そうだよ、戒莉。大物を釣り上げよう」
煙に巻くつもりなのか、核心に触れているのか。
戒莉は、珊揮の心を図りかねる愚鈍な己れを呪った。
「餌は、あのおっさんか」
「まあね」
珊揮が笑う。
試しに言ってみたことが中った。戒莉は、この機を捉えねばと焦るばかりで次の一言が思い浮かばなかった。
「奴らは、朱甲との縁をこれで切ろうとしてくれるだろうからね」
思いあぐねている戒莉を飛び越えて、珊揮は言う。
「奴ら……?」
戒莉の声は、ただ珊揮の言葉をたどるだけだ。
珊揮は、嬉しそうにうなずいた。
「奴ら、王の目を潰すんだよ」
『王の目』というものの存在を、戒莉は聞いたことはある。平たく言うと、王直属の間諜なのだそうだ。
王とはいえ、万能ではない。国中隅々までを王宮に居ながら、たったひとりの、たったふたつの目で見ることは出来ない。故に、その王に代わって各地の様子を見聞きし、探る存在が必要とされた。それが『王の目』と呼ばれる者たちであるという。彼らは各州を巡り、世の動静を探る。時に不正を探り出し、時に謀反の種を掘り起こし、大事に至る前に解決へと導くのだという。
州候たちや太守、郷庁、県正といった各地の長を監視するのも彼らの役目のひとつと言われる。
もちろん、州候の行いを監視する牧伯という公の役職も据えられているが、『王の目』というのはあくまでも隠密にことを探り、監視し、密かに物事に始末をつけるのだという。 つまり公には出来ないような、公になっては人心を惑わせ、世を乱すようなおそれのある事件を密かに葬り去るといったことを、彼らは引き受けているのだとか。
『王の目』には、その任務ゆえに実は様々な権限が与えられているらしい。その場の判断で断罪することすら許されているということだ。
「でも、その『王の目』をどうして潰さなきゃならないわけだ?」
戒莉は、皆目見当がつかぬ。思わず珊揮に直球を投げ込む。
「どうも、このところ『王の目』が暴走しているらしくてね」
それに対する珊揮の返しは、謎賭けのようなものではなかった。
「基本的には、陰の存在だからね。危険な目にも逢うだろうね。たとえ、探索中に敵の手中に落ちたとしても、王は彼らを助けない」
珊揮は淡々と語る。
戒莉は、黙ってそれを聞いていた。
「そんな役割を何の見返りも無く続けることは、まあ、ほとんど不可能だろうね。どんなに崇高な志を持った者も、光のささない、誰にも認められない世界で生き続けることは苦しい」
『王の目』には、名誉の代わりに恩賞が与えられるのだという。
その金高は、ちょっとやそっとの買収に応じることのないようなものという。
「でも、金ではないんだろうね、人の心を繫ぐものというのは。王はそれを見誤ってしまったのかもしれない」
たった一言で良い。たったひとこと、『よくやった』と御言葉を賜るだけでよかったのかもしれない。