朱甲に関する噂は、もはや噂の域を超え、血も肉もある現実のような顔をして街中を歩き回っていた。
朱甲の裏の商売は人商で、元々はこれで稼いだ金で表の商売を始めたのだとか。
今も世の情勢が不安定になってきたのに乗じて、人をさらっては国外に売り飛ばして、金を蓄えているのだとか。
実際のところ、だいたいが事実ではあったが、それにしても噂が定着するのが早い。珊揮が念入りに流布した賜物というところだ。
戒莉は、朱甲がまだ自分を雇っていることに戸惑いを感じていた。
もはや、朱甲が護衛を雇っている状況ではない。
朱甲を守ることのできる者など、どこにもいないのだ。
朱甲の店の前に陣取っていた例の胡散臭い賊たちは姿を消したが、役人たちがそれにとって代わった。
彼らが屋敷内に入ってくるのは時間の問題だと、朱甲の雇用人の間で囁かれ、 暇をもらう者も日に日に増えていく。あれ程に活気に満ちていた朱甲の屋敷も急激に寂しくなっていった。
宵闇がさす頃、あまりの静けさに、戒莉はここだけが世界から隔絶され、取り残されてしまったのではないかと、思うほどだった。
だが、朱甲の周囲でも時間は確実に流れ、留まることはない。
毎夜、毎夜、戒莉は愚直に屋敷の見回りを続けた。
徐々に夜吹く風が、肌に寒く感ぜられるようになって来る。
夏が傾き始めている。
ひとつ、溜息をつきたくなる。
夜が闇に満たされた頃、そろそろ見回りに出ようかと戒莉は身支度を整えていた。
と、その部屋の扉を開ける者があった。
身構えつつ、戸口に視線をやると、女がひとり立っていた。
「こんばんは」
女は、口元に誘いの笑を浮かべ、左手に惑いの酒を携えていた。
―― 今夜か
戒莉も自然、笑い返していた。
「今晩……だね。桂凛」
戒莉の言葉に、桂凛は小さく首を傾げた。
はじめは、見回りに出るという姿勢を見せていた戒莉だったが、しつこく一杯だけと酒を勧める桂凛にほだされる形で、部屋に留まった。
桂凛をかわしながら、戒莉はむしろ桂凛に酒を飲ませてみた。
そうこうするうちに、ここの使用人が暇を取り始めたという話題が上った。
「沈みかけた船から鼠が逃げるのは、世の習いだわ」
桂凛は、やや滑らかになった口で、いかにも可笑しそうに言った。
「君は逃げないんだ」
言いながら、戒莉は桂凛の瞳の奥を覗き込んだ。あらためて見てみると、女には底知れぬものがある。
「そのうち逃げるわよ。でも、いただくものを頂いてからよ」
「いただくものって、なに?」
桂凛の耳に唇を寄せて、問うてみる。
桂凛の肩は僅かに跳ねた。が、彼女は戒莉の誘惑を『秘密』とかわしてのけた。
ゆらゆらと、蝋燭の炎がふたりの影を揺らしていた。
「戒莉」
「なに」
「あんたは、どうしてここに居るの?」
意地の悪い質問をする。と、戒莉は思った。桂凛は、とっくに分かっているはずだ。
「そりゃ、いただくものをいただいてないからね」
戒莉の答えも、やはり少し意地が悪い。
どうして、ここに居るのかって?
ここにいるしか、ないからだ。