戒莉は朱甲の臥室の手前まで来て、すっと柱の陰に隠れた。
戸が開け放たれており、部屋の様子がおぼろ気に伺える。
そこには、異様な廊下の様子とは別世界のように、静けさが淀んでいた。
男がふたり、立っていた。
男のひとりが、珊揮なのは分かる。そして、もう一方も見知った顔であることは間違いない。ただ、名は知らない。
対峙する二人の男の放つ密やかな殺気に、戒莉は息が詰まりそうになる。ここに割り込むのは、はっきり言って御免こうむりたい。かと言って、ただ待ち続けることは苦痛が過ぎた。
このとき、戒莉の心を見透かしているかのように、男の声が低く滑り出した。
「さて、どうする?」
珊揮の声ではない。
「さてね。どうしてくれようか」
珊揮の声には、からかう様な調子が滲んでいた。
珊揮の言葉に、相手の男がどんな表情を見せたのか、薄闇の中では判然としない。
「見逃してくれると有難いんだが」
「申し訳ないけど、ご要望には添えないねえ」
珊揮の口調は柔らかだったが、面と向かって言われている訳ではない戒莉ですら、ぞっとする程尖って響いた。
「このおっさんは俺の獲物でね。悪いが、あんたには譲れない」
凍るような声で、男は言う。
『このおっさん』というのは、朱甲のことだろう。戒莉からは見えないが、朱甲も部屋の中に居るらしい。
「悪いが、私の獲物はあんただよ」
こんなことが言えるのは、よほどの馬鹿か、それに相応しい力があるか、そのどちらかだ。
珊揮の場合、両方とも言える。
「そちらがそういうつもりならば、話は早い」
カチリと、鞘から鍔が離れた音がした。男の持つ剣の刀身が、僅かに外気に触れている。
男の動きは、そこでピタリと止まった。
珊揮は、動かない。
じわりと、戒莉は自分の背に汗がにじむのを感じた。
と、同時にどうしようもなく腹立たしさが湧き上がってきた。
「面倒くせえ……」
塞き止め様もなく、不用意に言葉はこぼれた。
戒莉は、自分のうかつさに愛想が尽きた。だが、しまったと思う暇すら、許されてはいない。
意志とは別に、体が動いた。
戒莉は柱の陰から、薄氷の張る闇の中へと突っ込んで行った。
「面倒くせえ」
ふいに不機嫌そうな声が、珊揮とやる気満々の男との間に割り込んで来た。
珊揮は、少し前からそこに戒莉の居ることに気付いてはいた。こういう場合、珊揮が危機的状況に陥ったところで、颯爽と現れるというのが王道だろう。まあ、そんなにうまいことはいかないだろうとは思っていたが、戒莉がこんなにも道を外した登場の仕方をするとは、さすがの珊揮も恐れ入ったというところだ。
珊揮はちらりと、戒莉の声がした方に視線を走らせた。
そこには夜の淵から這い上がってきたような若い男が立っていた。
その黒い髪の先からは、闇の雫が滴り落ちている。
珊揮は、今まで自分に殺気をみなぎらせていた男が、戒莉に心を奪われる一瞬を見逃さなかった。
巨体に似合わぬ珊揮の俊敏さが、男の喉もとを刃で捕らえた。
あとはこの剣をひと払いすれば、男の首は確実に珊揮の足元に落ちる。
だが、珊揮はそうしなかった。
「仙ってのは命が長いせいか、みんな回りくどい話し方をする癖があるんじゃないのか」
戒莉は珊揮と男を見据えて、悪態をついた。
男は珊揮に刃をつき付けられて、まさに絶体絶命というところだ。珊揮にしても、少しでも気を緩めれば、形勢が逆転するかもしれないという状況にじわりと汗を滲ませている。
その男ふたりに向かって、一歩一歩と近づきながら、戒莉は続けた。
「あんたは何がしたい?このおっさんを斬ったら満足なのか」
これは男に対して。
「あんたは本当は、何を知りたいんだ?」
これは珊揮に。
「それから、おっさん。あんたは、どうしたい?」
ついでのように、床にへたり込む朱甲に一瞥も呉れずに。
しばし、珊揮、そして男、ついでに朱甲は、戒莉の言い分に思考がピタリと止まる想いで一致した。
はじめに、戒莉に反応したのは珊揮だった。
「それを言ったら、お仕舞いだよ。戒莉」
緊張と男を捕らえる手を緩めながら、珊揮は戒莉に微笑む。
珊揮の刃が遠のくのを感じながらも、男は珊揮に逆襲をかけようというそぶりは見せなかった。
男の刃は鞘に帰っていった。
毒気が抜かれた。とでも言うのだろうか、戒莉のむちゃくちゃに直球なもの言いに、男は自分の望むものを改めて拾いなおした。
「俺は、このおっさんを殺したい訳ではない。いや、心情的には殺したい。だが、それを我慢しても、このおっさんに聞きたいことがある」
ぽつり、ぽつりと語る男の口調。
珊揮は剣を腰におさめながら、それを聞いていた。
「私は」
珊揮が口を開く。
「私は、朱甲とそれに繋がる者達がしていることを、明らかにしたいんだよ。それから、『王の目』が本当に暴走しているのかを、知りたいね」
珊揮の視線が、男の目を捉えた。
『王の目』は、暴走などするのだろうか。
その疑念は、初めから珊揮の中に沈めても、沈めても浮かび上がろうともがいていた。