男は、漣浄と名乗った。
本当の名前かどうか疑わしいものだと、戒莉は思ったが、この男がなんという名前だろうと、どうでもいいようにも感じられた。要は、男を指し示す言葉であれば何でも良いのだ。
戒莉が戒莉という名であることも、他人にとっては同様なのだろう。
「あんた、王の目なのか」
我ながら、もっと聞きようがないものかと思うが、戒莉は自分にはそういう能力が欠けていると、諦めかけている。
「そうだ」
それに漣浄は、異様にあっさりと応えた。
そんなに簡単に認めて良いものなのだろうか。戒莉は、思わず問いかけるように珊揮に視線を投げた。
珊揮はそれらしい顔を作っては、もっともらしく頷いてみせている。
本気だろうか。
漣浄と珊揮、二人を見比べながら、戒莉は深く溜息を落した。
大体がして、この状況はどう考えるべきなのか、戒莉はもうお手上げだった。
「塩を取って呉れないか」
漣浄は、戒莉の目の前に置いてある塩の瓶を指差した。
何か言いかけて、戒莉は黙ってその頼みに応じた。
「ありがとう」
漣浄の笑顔に、戒莉は胡散臭いものを見る目で返した。
どうしてこのようなことになったのか、戒莉と珊揮、そして蓮浄は朝餉の卓を囲んでいる。ついでに言うと、朱甲も蒼ざめた顔で同席している。
珊揮と蓮杖は、ごく普通に食事をしている様子だった。戒莉は食が進まないが、もともと朝はあまり食べないので通常とも言えた。
朱甲はというと、かろうじて箸を持ってはいたが、菜を摘む程度で、明らかに食欲はないようだ。皿の辺りにうろうろと視線を彷徨わせ、時折チラチラと珊揮と漣浄の様子を伺っている。
珊揮は、何も言わない。ただ、黙々と食べ続けている。
軽口ひとつ叩かない珊揮は、不気味だ。戒莉は、気まずさについ自ら口を開いてしまった。
「珊揮、廊下に転がってた十三人は一体どこへ仕舞ったんだ?」
「箪笥の中だ」
冗談なのだろうか。戒莉は中途半端な笑すら浮かべられなかった。
「冗談だよ。しまつを俊英と希央に頼んだんだ」
俊英と希央は、珊揮の仲間だ。と、言うことは戒莉の仲間でもあるのだが、戒莉自身はこの二人と面識はない。ただ、情報を収集するのに長けており、様々な後始末も得意な二人だと聞いているに過ぎない。
「あの二人もここに来てるんだな」
「まあね」
「聞いてなかった」
珊揮が戒莉に話さないにしても、二人が陰で動いているのはいくら鈍い戒莉にも推して知るべしだ。だが、戒莉の口調はどこか恨みがましく響いてしまう。
「痴話喧嘩は、ふたりだけの時にやってくれ」
漣浄がニヤニヤと昨夜の戒莉の言葉を真似て冷やかした。
この後、戒莉が猛烈に抗議したのは、言うまでもない。
「随分、可愛いのを相棒にしていんだな」
漣浄が言っているのは、もちろん戒莉のことだろう。
怒りで卒倒しかねないような顔をしているだろう戒莉に一瞥くれることもなく、珊揮は視線を漣浄に向けた。
「まあ、それだけじゃないんだけどね」
珊揮にこう言わせているのは、戒莉の逆襲が怖ろしいからではあった。もちろん、それだけではなかったが。
「知っている」
明瞭な答えが、珊揮の心をチリリと引っ掻いた。
「あんたが俺の何を知ってるんだ?」
戒莉の、不機嫌という言葉が似合いの声音が漣浄をさした。
「名前を知ってる。ただ、どんな字なのかは知らないが」
これは、漢字を教えろと言っているのだろう。
それぐらい、戒莉にも分かったが、そこは知らぬふりをしてみせた。
「知ってるのは、それだけだろう」
ツンと、戒莉はそっぽを向いた。
会話という会話が無駄なのだ。戒莉は、何も進展していない状況に痺れを切らしていた。
それなのに、漣浄はなおも会話を続けようとする。
「それだけじゃない。剣を使う。しかも馬腹を一撃でとらえるような凄腕だ。それから、今度俺と呑む約束をしているはずだ」
「してない」
即答してみた。
「いや、したはずだ」
「おぼえがない」
「俺がおごると言ったら、お前は『また今度』と言っただろう」
確かに、言った。戒莉は、本気で言った訳はなかったが。
「どれだけ長く生きてるのか知らないが、あんた社交辞令というのが、分からないのか」
「知らないな、そんな言葉は」
憎らしい。
確かに、戒莉はこの男に『また今度』と言った。
この街に来て間もない頃、戒莉は馬腹を打ち倒した。その時に助太刀を買って出た仙がいた。
それがまた、目の前に漣浄と名乗って現れるとは、戒莉は思いもよらなかった。
それが分かっていれば、『また今度』などとは言わなかったものを。
戒莉は心底、後悔した。