その日の曇ひとつ無い空を、私は憶えております。
私の御主人である保源さまは、その頃とても気難しくていらっしゃいました。
何か宜しくないことが起きたようで、常に苛立っておられました。その矛先は身の回りのお世話をさせていただいている私どもに向けられ、ほんの些細な不備や、仕事の不手際もお許しになりませんでした。数刻に渡って叱責を受け、そのまま職を辞した者までいた程です。
それが事件の数日前から、保源さまはまことに御機嫌が麗しく、私どもにも寛大で、大様に構えていらっしゃいました。
この変わり様の理由を、私は知っておりました。
保源さまを、この上もなく幸福な心持にさせているのは、たった一振りの剣でございました。
たかが剣。ですが、保源さまにとっては御自身の命の次に大切なものと言っても、決して言いすぎではなかったでしょう。
とにかく、お好きだったのです。剣のみならず、あらゆる武器をお好みで、それらを納めた蔵に毎夜お一人きりでお入りになり、時のたつのも忘れてお楽しみになられていたようでございました。
その時に、手に入れられたという剣は、私のような不調法者にはその良さは分かりかねますが、天下の名刀と賞される逸品であるとのことでした。
その名を『法輪刀』、別銘『天涯』と呼ばれるのだとお聞きいたしました。
保源さまは剣を手に入れられると、巷の剣客や傭兵などという胡散臭い輩を屋形に呼びいれて、その剣が使われる様を御覧になるのがお好きでいらっしゃいました。
御自身ではお使いにならないのは、失礼ながらその技量がおありにならないためでございます。
自らが使えぬものを収集することに、何の意味があるのかと。昔は保源さまのなさることが、私には理解出来ませんでした。
ですが、長い年月お仕えしていますと、徐々にその御心が分かって参りました。
おそらく、自分では使えぬ故に、それを自分のものとしたかったのではと。
しかしながら、剣を手に入れたとて、それは剣の本質を我がものとしたことにはならないのでございます。
魂のない形代をいくら愛でても、空しいだけ。
そのことに、保源さまはお気づきにはならなかった。
ともかくも、その日はその名刀で、腕のたつ剣客たちが闘う様を御覧になるという日でございました。保源さまの御機嫌は最上級に麗しく、使用人にとっても安息の日。そんな日になるはずでございました。
中庭には、既に剣客どもが控えておりました。
保源さまは、中庭に張り出した露台から立会いを御見物なるという趣向でございます。
警護の者とお世話をする下男下女の十人ほどが、その場に居ることを許され、私も保源さまのすぐ後ろから、その一部始終を見ることとなりました。
保源さまは御酒をめされ、かなりの上機嫌とお見受けいたしました。
私は、保源さまの杯の進み具合に気を配っておりました。
その時が来るまでは。
中庭に対峙するふたりの剣客は、いかにも対照的でございました。
一方は、見上げるばかりの大男で、その筋肉のつきかたなどは、まことに惚れ惚れといたします。肌は浅黒く、世界を渡って剣を振るってきたであろう年月が、男を更に逞しく飾っておりました。
ですが、そこにいた皆の視線を釘付けにしていたのは、男というにはまだ稚い、もう一方の剣客だったのです。
剣など持たせてはならぬたおやかさ、刃などで傷つけることの許されぬ美麗を身にまとったその剣士がそこにいました。
この男に出逢って、透けるような肌というのは、こういうものを言うのだということを、私は初めて知ったのです。
つややかな黒髪は、ただ一つに束ねられているだけで、それはいかにも無骨な剣客らしくも思えたのですが、きっちりと結い上げられているよりも、むしろ優雅になびき、サラサラと心地よい音までが聞こえてくるかのような錯覚に囚われたものでした。
少し切れ上がった目を見ていると、その瞳の深さに心を吸い込まれるかのようです。白い肌の中で、そこだけほんのりと赤く色づく唇。そこから零れる声を、聞いてみたいと、私は知らずのうちに熱望しておりました。
しばし、時を忘れ、保源さまがおられることも忘れ、私はその剣客に見入っておりました。しかし、見ていたのはその男の姿ばかりで、その腰に差している剣にはしばらく気がつかずにおりました。
すらりとしたというよりも、むしろ細い体に、剣はいかにも荷が重い様子で、しかもそれはこの場の主役であるはずの、件の名刀でございます。
正直、これはいけないと私は思いました。
この剣客が、その剣を使いこなせるものとはとうてい思えなかったので御座います。
私は、反射的に保源さまの表情を伺いました。
何を考えておいでかと。
保源さまは、私と同様、その若い剣客の美しさに瞠目し、魅入られておられた。
そうしてゆるやかに動揺し、焦りと苛立ちをお見せになられました。
確かに、その剣客はまことに眼福。けれど、ここで保源さまが御覧になりたいのは、剣とその剣によって繰り広げられる血湧き肉踊る闘いでございました。
その期待を裏切る、目の前の剣客。
ただし、それは更に裏切られることとなるとは、私も、保源さまも気付いてはおりませんでした。
ふたりの剣客は静かに向かい合い、互いの目を見ておりました。
保源さまがその立会いを止めようと、わずかに動かれた時に、それは突如始まったのです。
ほぼ同時に、ふたりの剣は抜かれたかと思うと、激しくぶつかったのです。
大男の肉厚な剣が振り下げられ、若い男は名高き法輪刀でそれを受け止めたのでございます。
信じられぬと、思う暇もなく、法輪刀は翻り、大男に打ち込まれ。
それを易々と許すことなく、大男の大刀が跳ね返す。
―― 速い……
私は、息を呑みました。
長年、保源さまの傍近くで、多くの立会いを拝見してきた私ですか、これ程までのものを目の当たりにしたことは、ございませんでした。
若い剣士の剣は、変幻自在。斬り下げ、斬り上げ、はらい、突き。上に下に、左右、斜めに、走っておりました。
大男の操る大刀のひらめきは、鋭く、激しく、狂おしく、総てを薙ぎ払う風をはらんで若い剣客に襲い掛かっていたのです。
互いの刃は、寸でのところで、互いをかすめて届かない。
事実、剣と剣が散らす火花が中庭を満たし。
闘いのすさまじさ、動きの速さ、そして僅かに散る汗の煌き。
若い男の体が反転すると、その髪先がそれをもどかしく追って弧を描く。
眉間にきつく刻まれた皺、力を帯びた黒い瞳、食いしばる口から零れる声。
男の何もかもが美しく、この世の奇跡のように思えました。
そこに居る誰もが、若く美しい剣客に、心を、すべてを奪われてしまっていたのでございます。
法輪刀が一気に攻め立てると、大男ですら押されているかのようでした。 もう一歩、もう一太刀、彼の者がより深く踏み込んでいく様に、私は心をすっかり委ねてしまっておりました。
カラン……
その音に、私ははっといたしました。
見ると、銀の酒杯が床に転がっておりました。その杯を手にしていたのは、保源さまのはず。私は視線を、我が主に恐る恐る転じました。
「きゃーっ」
耳を劈く、下女の悲鳴。このような無作法が、許されてよいものでしょうか。
いいえ。それは声を上げたくなるほどの怖ろしい光景でした。
保源さまの頭が、あるべきところにない。
私は、再び床に視線を走らせました。
そこには、保源さまの顔がございました。驚きもせず、恐怖もなく、うっすらと笑みすら浮かべているかのような表情を張り付かせたまま、御主人さまは息絶えておられました。
仙とはいえ、首を断たれれば生きてはいけぬ。
そのことは、私もよく存知ておりました。
だれも、暗殺者が保源さまの首が落とされる瞬間を見てはおりませんでした。すぐ、後ろにいたこの私ですら、目の前の立ち会いに気を奪われていたのでございます。
首を斬られた当の保源さまも、それとはお気付きにならなかったのかもしれません。
保源さまに駆け寄る者、正体の分からぬ暗殺者を警戒する者、怒号と悲鳴。
その場は、騒然とし、混乱と戦慄に包まれていきました。
誰もがそこで何を成せばよいのかを見失っておりました。
私も、ただ呆然とそこに立ち尽くしておりました。体が強張り、動けなかったのでございます。
ふと、中庭の様子が目に入りました。
当然、立会いは中断され、ふたりの剣客は剣をおさめておりました。 若い剣客はその騒ぎの中、身じろぎひとつせず、驚いた様子すら見せずにそこに居りました。
私は、その姿に慄然といたしました。もちろん、彼が保源さまの首を断った訳ではありません。それは、ここにいた皆が証人となったことでしょう。
皆が、彼を見ておりました。ゆえに、誰も暗殺者を見ていなかったのでございます。
ああ、だから、それゆえに私はゾッとしたのです。もし、彼がいなかったら、暗殺はこれほど密かに、速やかには果たされなかったのではないかと。
そう、私は何も見てはおりません。
そんなはずはないと仰りたいでしょうが、本当に見てはいないのです。
暗殺者の顔も姿も、なにひとつ。
ですから、私がお話しできるのは、これぐらいのことなのでございます。
おもえば、それまで私は私が見たいものを見ているのだと、思っておりました。
ですが、人は他者の意思によって何かを見せられているのかもしれません。そして、それを自分が決めたことと思い込んでいるのかもしれません。
私は、一体何を見ていたのでしょうか。
そう言えば、何を見ようとしていたのでしょうか、そのとき若い剣士は、ふうっと天を仰ぎました。
私も、それにつられて空を見ました。
蒼い、蒼い空でした。雲ひとつない。
天は、どこまでも、ただ蒼かったのです。
『天涯 ~ 柳編 ~』 完