よく眠れた。
今度は夢も見なかった。
今度は、起きても珊揮の顔はそこになかった。
ぼんやりとしながら、戒莉は顔を洗い、着替えをすませた。長い髪は首の後ろで一つに束ね、寝台に引き入れていた長剣とそれより短めの脇差を腰に指す。
脇差しは、何となく気に入って買った。蓬莱の物だ。
鍔に雷雲、鞘は黒漆に倭風の龍の蒔絵が施されていた。良いものなのか否か分からないが、手にしたとたんに心に吸い付くようだった。
妖刀と言うものなのかもしれない。その時は、それでも良いかと思った。あちらから飛ばされて来た者が、あちらから流されて来た剣を帯びるというのも面白いかと。
長剣の方はこちらのもので、飾りなどない実用一筋のものだ。
戒莉は重い剣を振り回す体力がない、だからと言って軽ければ良いという訳でもない。力のない戒莉は、剣の重量をある程度利用して斬っている。
珊揮は、戒莉に重過ぎず、軽過ぎず、手に持ちやすく、体に合った長さのものを選んだ。
はじめ、戒莉にはそれがとても詰まらない剣に思えた。何も煌びやかな飾りがついている者が欲しかった訳ではない。珊揮の持つ幅広で大きな剣に比べると、自分に与えられた剣が非道く、ひ弱で貧相なものに見えたのだ。自分自身に見合っていることは分かっているが、それ故に「ひ弱」で「貧相」な自分自身を象徴しているようで、嫌だった。
今では、そんなことは全くどうでも良いことだということを知っている。珊揮と同じ剣を持ったところで、その剣は自分には合わない、何より珊揮になれるはずがない。
細身だが、折れず、曲がらず、良く切れる剣、それが戒莉の剣だった。
息をひとつ深く吸って、吐く。
戒莉は扉を開けて、外へ出ていった。
仕事は、隣街までの護衛だった。
隣とはいえ、途中には暗い森が横たわっている。
街にまで妖魔が出る昨今のこと、無事に済むとは限らない。ここは護衛を頼むのが得策というものだ。
戒莉の姿を見た時に、雇い主は明らかに嫌な顔をした。確かに眺めている分には、眼福といった戒莉だが、護衛としては全く役には立たなそうな容姿だ。
護衛を頼む者は、見た目に逞しい男を好もしく思う。
戒莉自身も、どうせならそのような姿形になってみたいと思う。
しかし、どうしようもないのだ。鍛えればそれなりに筋肉はついたが、珊揮とは付き方が違う。骨格も違う、身の丈も全く違う。仕方がない。 雇い主には、逞しい頼りがいのある見た目の護衛は、諦めてもらうしかない。
それにしても、今回の雇い主はしつこく戒莉を少し離れたところから眺め回している。値踏みするような、懐疑的な、嫌な目だ。
「よく寝たかぁ?」
守られたい護衛ナンバー1みたいな男が戒莉と雇い主の間に入りこんできた。戒莉の姿は、雇い主からは全く見えなくなっているだろう。
「何だよ、あれ」
戒莉は男――珊揮に抗議した。
「ああ、あれか?」
珊揮は、ちらっと雇い主……まだ戒莉を見ている……をちらっと振り返ると、さも面白そうな表情をして戒莉に耳打ちをした。
「昨日のお前の武勇伝に感服して、雇って下さったんだ」
「なるほど」
馬腹を倒した豪傑を雇おうと思っていたところに来たのが、こんな優男ではガッカリの度合いが違う。そして、疑うだろう。騙されているような気にもなる。よくよく見極めてみたくなる。
「まあ、せいぜい見せてやりなよ。減るもんじゃない」
珊揮はすっと戒莉の横に立つと、再び戒莉の姿が露わになる。
雇い主と目が合う。戒莉は腹立ちまぎれに、にっこりと最上級に笑ってやった。
とたんに雇い主は、目をそらし、転けつ、まろびつ、ギクシャクとあさっての方向に歩いていった。
「最凶だな、お前」
珊揮は、急に面白くなった雇い主の姿を見送りながら言った。
「あんたには敵わない」
「どうかな」
さらりと軽々しい。
だから、敵わないと言うのだと戒莉は思う。
実際に珊揮の剣の腕の凄まじさは、その目で見るとよく分かる。
相手の刃を寄せ付けない。総てをなぎ倒す。鬼のようだ。
ふだんの珊揮は、呑気な流れ者といった風情で、体格の良さがむしろ可笑しいくらいだ。
巷では、『風渡りの珊揮』などと呼ばれているらしい。あまりひとつところに留まらず、各国を風のように巡って剣を商売にしているところからきているらしい。
『風渡りの珊揮』と言う時に、人々は超人的な剣客を想像する。
珊揮は伝説的な人物だった。実在しない者と考える人も多い。彼の歩んできた道が、あまりに誇張された武勇伝となってしまっているせいもあったし、何百年も前から語られていたせいでもあった。
今回の雇い主も、この珊揮が『風渡りの珊揮』だとは思っていない。同じ名前の剣客だとぐらいにしか考えていないだろう。『風渡りの珊揮』が実在したとしても、伝説の人には隣町への護衛などという仕事は役不足だ。引き受けるはずがない。
剣客で、珊揮という字を持つ者は少なくない。『風渡りの珊揮』にあやかってつけるのだ。
戒莉は、この珊揮も実はその口ではないかと思う時がある。今までそれを確かめることはしてこなかった。戒莉にとって珊揮と言えば、目の前にいる珊揮以外にはいない。
そして珊揮は、強い。それだけで良かった。
「さて。お仕事、お仕事」
珊揮は、道化た様子で戒莉の背中を叩いた。