アナザー・ディメンジョン -異界交流記-   作:誠龍

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龍馬の母親・涼子の学生時代を描く過去編です。
1988年に起きたある事件。五十嵐一家と御堂誠公会の因縁の始まりを描きます。

※未成年の喫煙シーンがあります。


第138話 鬼と呼ばれた女

昭和62年。バブル経済最盛期の日本。欲望と金にまみれたこの時代、誰もが一攫千金を夢見ることの出来る時代で夢を見出すことができずに生きる一人の女子高生がいた。

 

 

五十嵐涼子、17歳。

 

 

博多龍院学園に通う彼女は周囲の誰もが進路を固める中、未だ自分が歩む将来を見出せずに女ながら喧嘩に明け暮れる日々を送っていた。

 

「オラァ!!」

 

「ぎゃはぁっ!!」

 

他校の不良生徒、それも男子をいとも簡単に殴り倒す涼子。周りには既に仲間の不良達が気を失って倒れており、涼子は鉄パイプと己の拳を武器に圧倒していた。

 

「うちの可愛い後輩に手ェ出しやがってこのシャバ僧が……歯ァ食いしばれや!!」

 

武器の鉄パイプを投げ捨てると片手で胸ぐらを掴み、思いきり顔面を拳で殴る。不良生徒は吹き飛ばされ、きりもみ回転しながら地面に叩き付けられた。

涼子の力は男顔負けの怪力だ。細身の身体のどこにそんな力があるのかはまるでわからないが、そんな力で思いきりぶん殴られたらただで済むはずがない。不良生徒は悲鳴を上げる間もなく気絶してしまう。

 

「ふん、喧嘩を売った相手が悪かったね。女ぐらい思うて甘く見たんが運のツキたい」

 

こいつらは自分の大事な後輩に手を出した不届き者だ。先週の放課後、とある女子生徒が四人の不良学生達に絡まれたのだ。彼等は女子生徒を拉致し、乱暴しようとした。すんでのところで通行人に目撃されて騒ぎになったため事なきを得たが、もう少し遅れていればどうなっていたことか。

この女子生徒というのが涼子が可愛がっていた後輩の一人であり、それを知った涼子は自身の友人や知人の情報網を駆使してその犯人達……目の前で倒れている四人を探し出した。

その結果はご覧の有り様だ。“鬼"の逆鱗に触れた彼等は成す術もなく無惨に倒されてしまった。鬼と呼ばれた彼女を止めることが出来る者など皆無だ。彼女を怒らせること、それは即ち破滅を意味する。この男達は最も敵に回してはいけない女を敵にしてしまったのだ。

 

「お前ら、仕返ししたかったらいつでも来ていいばい。十人でも、二十人でも、いくらでも相手してやるけんね」

 

涼子はそう言うと懐から愛用の煙草であるマルボロを取り出して火を付ける。涼子はこの頃から煙草を吸っていた。もちろん警察に見つかれば事だ。

別にカッコつけたいわけでも大人ぶりたいわけでもない。未成年の喫煙という行為が大人や社会に対するせめてもの反抗になるという涼子なりの反抗心からだった。

一服すると彼女は男達を踏み潰してその場を去る。帰り道、彼女のセーラー服のポケットから着信音が鳴った。涼子は黒い端末をポケットから取り出して画面を見る。

 

「1052167……美香からか」

 

涼子の取り出した端末。それはポケットベルである。携帯電話が発達しておらず、さらに一般市民が利用するには料金が高すぎることからこの時代では液晶ディスプレイに数字や文字を映す“ポケベル"が主流であった。

涼子の持っているタイプは数字しか表示できないため、当時の中高生の間では語呂合わせの暗号で簡易的なやりとりをしていたのである。ちなみに1052167とは「どこにいるの」と読む。

近くの煙草屋に公衆電話があったため、涼子はポケベルの数字を打つよりもそちらを選んだ。彼女はダイヤル式公衆電話のダイヤルを回してとある人物に電話をかけた。

 

「“もしもし?"」

 

「もしもし、美香?あんた今連絡したやろ?」

 

「“あっ!涼子センパイ!"」

 

電話の相手は森下美香。涼子の後輩で新聞部の部員である。リボンとそれで結ったポニーテールが特徴で男子生徒からの人気も高い。しかし好奇心旺盛で活発な性格、そして新聞のネタを探すために事件に首を突っ込む性格が災いしてかトラブルに巻き込まれることも多い。この間も記事作成のために繰り出した街でよせばいいのに、わざわざ治安の悪いとされるエリアに赴いて被害に遭っている。ちなみに今回の被害者というのはこの美香のことだ。

 

「今あんたに手を出した奴らをボテクリ回したところや。それで?何の用ね?」

 

「“佳子さんから涼子センパイが一人で敵討ちに向かったって聞いて……それで心配になって……"」

 

「はっ、あたしがあげな奴等に負けるとでも思うとるんか!軽くのしてやったわ!それより……」

 

涼子はハァ、とため息をついてしばらく間を置いてから再び口を開く。

 

「あんたさ……新聞のためやけっち言うて危ないとこさい行くのやめりいよ……今回は本当に運が良かっただけばい……」

 

「“はい……気をつけます……"」

 

電話の向こうからしょんぼりとした声が聞こえる。最近は暴走族やチーマー達が勢力を拡大していて、一部の地域では非常に治安が良くない。特に“天神連合"と呼ばれる暴走族が数を増やしていっており、警察もあまりの多さに手を焼いている始末だ。

今回の件ではただの不良の1グループだったからよかったものの、これが天神連合の連中と関わりがある連中だったらいかに涼子といえど多少手を焼く自体になっていたかもしれない。

 

「“あの……!涼子センパイはこのあと予定とかは……?"」

 

「んー、ほんとやったらサ(※喫茶店のこと)に行って時間潰そうかなって思ったんやけど……」

 

正直涼子はあまり家には帰りたくない理由がある。できれば一秒でも長く外出したいところだ。

 

「“じ、じゃあ……私の家に来ませんか?お礼もしたいですし……"」

 

「あんたんとこに?……ま、いいけど」

 

一人で喫茶店に入っても雑誌を読むくらいしかやることがない。それならば誰かといた方が遥かにいい。一度行ったこともあるし、涼子は美香の家に行くことにした。

電話の向こうで美香の喜ぶ声が聞こえたのちに涼子は電話を切ってテレホンカードを抜き取って財布にしまい、美香の家に向けて歩き出した。

二十分後、美香の住むマンションに到着した。四階の彼女の部屋の前まで来た涼子はベルのスイッチを押す。

はーい、という声がドアの向こうから聞こえてきたのちドアが開く。ポニーテールが特徴的な美香がその髪を揺らしながらドアから姿を現した。

 

「涼子センパイ!来てくれたんですね!」

 

「まあ、暇やったしすることないし」

 

どうぞ、と彼女に招かれ涼子は部屋に入る。

美香の住むマンションはどちらかというとお高めの物件だ。近年のバブル経済により土地開発が進み、このマンションも二年ほど前に建設されたばかりである。

美香は元々東京に住んでいたが、父親の転勤と中学卒業が重なり、福岡に越してきたのだ。彼女の父親は大手の商社で働いておりそれなりの年収がある。

現在は父親は仕事、母親は買い物に出かけているようで家には美香一人だ。美香はコーヒーを淹れると冷蔵庫にあったショートケーキを涼子に振舞ってくれた。

 

「どうぞ、センパイ」

 

「あんたいいと?これよかケーキなんやないと?」

 

「いいんですよ、これくらい!ささ、どうぞ!」

 

それじゃあお言葉に甘えて、と涼子はケーキとコーヒーに手をつける。家が多少裕福なおかげか美香の部屋には音楽を再生する機器が揃っている。レコードやカセットテープ、CDに至るまで各プレーヤーが揃っている。

実は美香の家に来るのはこれが涼子のひとつの楽しみでもあった。表向きはクールを装ってはいるものの、美香の音楽の趣味が合うため涼子も内心彼女とつるむのが楽しいと思っていた。

 

「それにしても涼子センパイは本当に強いですよね!負け無しじゃないですか!さすが“鬼の涼子"ですね!」

 

「一応あたしも女やけん、鬼とか呂布とか呼ばれるとあんま好きやないんやけどね……」

 

彼女が鬼と呼ばれる所以は小学生にまで遡る。涼子は弱い者いじめが何より大嫌いだった。クラスの気弱な男子をいじめるガキ大将とその取り巻き達と毎日喧嘩しては傷だらけになって帰ってくるような少女であった。

中学生になり、我の強くなってきた涼子は両親との喧嘩が原因で力を振りかざすものだけではなく、大人に対しても対立的になり世間一般で言うところの“ヤンキー"のレッテルを貼られている。

外見こそそうだが涼子は気の許せる友人と付き合うことはあってもいわゆる“ヤンキー仲間"を作ることはしなかった。涼子はヤンキー同士でつるむのはダサいと考えていたからだ。そうした連中とは度々衝突しては喧嘩に明け暮れた。

いつしか喧嘩を繰り返して男よりも遥かに強い腕っぷしを持つ彼女は“鬼の涼子"、“博多の呂布"などの異名で呼ばれ、恐れられることとなった。

 

「まあまあ。でも先輩はモテてるんでしょ?こないだも男子と女子両方からラブレターもらったって聞きましたよ!」

 

涼子は見た目こそ不良だが実は成績はとても優秀である。さらに髪型や化粧などにも気を使っているため彼女の強さや優しさに惚れて告白を受けることは多い。

 

「あたしは恋愛なんか興味ないんよ。お洒落してるのは自分がダサく見られたくないだけやけん。別に異性の気を引こうとか思っとらん」

 

「またまたぁ、ご謙遜を」

 

「あんた、ゲンコツ喰らわすばい」

 

「すんませんっした」

 

そんなやり取りが続き、涼子は美香と他愛ない会話をして過ごした。好きな音楽、昨日のテレビ番組、来日した洋楽アーティストの話題、学校での出来事などなど……手のかかる後輩だが彼女と話している時はとても楽しく“家"のことを忘れられた。

 

 

だが、そんな時間はポケベルの音によって終わりを告げる。

 

 

「……っち」

 

「センパイ……お父さんですか?」

 

「ああ。うちのあのクソ親父たい」

 

番号は自宅の電話からだ。間違いなく父だろう。……忌々しい、涼子はそう思った。時計を見るとすでに夕方6時を回っている。帰りたくはないがそろそろ帰るべきだろう。

 

「さて、そろそろおいとまするかね」

 

「涼子センパイ……」

 

重い腰を上げて立ち上がる涼子。暗い表情の涼子を心配するように美香は見送る。

 

「またいつでも来てくださいね。私はいつでもセンパイの味方ですから」

 

「そういうことは自分の身を守れるくらい強くなってから言いーや。……でもまあ……ありがとうね」

 

彼女が涼子の数少ない心の拠り所のひとつとなっていることは間違いない。涼子はぶっきらぼうながら美香に礼を言って彼女の家を後にした。

暗くなりつつある博多の街を涼子はひとり、重い足取りで歩いていく。家に帰ることが涼子にとって何よりも苦痛だった。それは彼女の家庭環境にある。

涼子は自宅の前に着いた。誰もが目を見張る、立派な屋敷だ。ここが彼女の自宅である。近所の小学生からは「ヤクザの組長が住んでいる」なんて噂されたりもしている。

涼子は家の門を開けて玄関から家に入る。立派な絵画や装飾品、骨董品で彩られた玄関には既に父である平蔵が仁王立ちして待ち構えていた。

 

「遅い!どこ行っとったんか!」

 

「っち……しゃーしぃなぁ。どこ行っとろうがあんたに関係ないやろクソ親父」

 

「キサン、この……!親に向かってなんやその態度は!」

 

「何が親や!自分の会社のために娘の将来奪うようなヤツが都合の良い時だけ父親ヅラすんな!」

 

涼子は怒鳴る平蔵に対してさらに大声で怒鳴りつけた。近くにあった父の革靴を拾って思いきり投げつけるとその隙に涼子は二階にある自分の部屋へと足早に上がっていく。

 

「おい、涼子!おい!……ったく、本当にどうしょーもない娘やが……」

 

平蔵は涼子を追うことはせず、やれやれといった感じで居間へと引き返す。居間で座布団に座り、娘の反抗に頭を悩ませていると妻のヨネ子がお茶を淹れて運んできてくれた。

 

「はい、お茶」

 

「おお、悪いな」

 

「……涼子はやっぱり言うこと聞かんとね?」

 

「……相変わらずたい。あいつにはいつか会社を継いでもらわないけんとにから」

 

五十嵐一家の大黒柱・五十嵐平蔵。彼は今バブル経済の波に乗って急成長を続ける建設会社“寿建設(ことぶきけんせつ)"を経営する社長であった。今や建設業界・不動産業界は濡れ手に粟状態で驚くほどの利益を叩き出しており、平蔵もその利益をものにした一人だ。いずれは後継者として涼子に後を継がせたいと考えている。しかしこの有り様だ。平蔵はため息をついた。

 

「あいつは音楽を仕事にしたがっとったが……音楽なんかで食っていけるのはほんの一握りだけや。それに今のバブル経済には必ず終わりが来る。もしそうなりゃあ、日本の経済は大きく落ち込む氷河期が来るやろうたい。そうなった時に会社を安定して支えられるだけの力があれば……後を継がせたあいつに不自由のない生活をさせてやれるんや」

 

平蔵はいずれ来るであろうバブル経済の崩壊を予感していた。金という潤滑油で狂った歯車が回すこの時代、そう長くは続かないだろう。その時代を安定して生き抜くためには会社をさらに成長させる必要がある。そして何よりそんな会社を娘に継がせることで将来的に娘に金に困るような生活を送らせたくなかった。

 

「でもお父さん、たまには涼子の言い分も聞いてあげたらどうね?このままやったら会社継ぐどころかあの子家出しかねんばい」

 

「家出するならもうとっくにしとるやろ。そんなことしたら路頭に迷うのがわからんほどあいつは馬鹿やない。本人も心のどっかではわかっとるはずや。俺が言いよーことが正しいっちな」

 

涼子は小さな頃から音楽が大好きで、小学校の頃はピアノの先生になりたいとまで言っていたくらいだ。しかし平蔵は涼子が音楽学校に進学したがったことを許さず、商業科のある今の学校に進学することを強要した。

それが決定的となり親子仲は最悪の状態だ。平蔵としては長く先を見据えた上での措置だったのだが、自分の将来を奪われた涼子からしてみれば殺してやりたいくらいに憎い父親なのだ。

 

「はぁ……おいヨネ子、風呂は沸いとるか?」

 

「はいはい、さっき沸かしとったよ」

 

「そうか。なら風呂入ってくるけん、飯の準備しとってくれ。早めに寝ときたい」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「近々、デカい仕事があるけんな……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

翌日。涼子は数少ない親友の一人である荒巻佳子(あらまきけいこ)、そして美香と共に放課後合流して学校近くの喫茶店へ来ていた。シックで落ち着いた雰囲気の喫茶店は涼子とその友人達にとって放課後の憩いの場となっていた。

 

「私カルコー(※1)。美香はどうすんの?」

 

「私はレスカ(※2)!」

 

「あたしゃアイスコーヒーでいいよ」

 

(※1……カルピスとコーラを割ったもの)

(※2……『レモンスカッシュ』の略)

 

大体この三人で来た時はいつも同じメニューだ。せいぜい腹が減った時にナポリタンやカレーを佳子達が頼むくらいだろう。

しばらくしてドリンクが運ばれてくる。頼んだそれぞれのドリンクに手をつけて一息付くと佳子が先に話し始めた。

 

「そういえばさ、もうすぐ福岡にドーム球場が出来るって聞いたけど」

 

「あ!あれでしょ?南海ホークスの拠点になるやつ!」

 

「……」

 

福岡を拠点とするプロ野球球団の南海ホークス(現・福岡ソフトバンクホークス)。そのホークスの新たな拠点となる“福岡ドーム"の話題が世間を賑わせていた。

日本で最大級のドーム球場となる予定の福岡ドームの建設にプロ野球ファン達はちょっとしたお祭り状態である。だが佳子と美香の会話をよそに涼子は不満げな表情である。

 

「涼子、どしたん?」

 

「センパイ、何か嫌なことでも?」

 

「……いや、何でもない。ちょっと考え事よ」

 

涼子は頬杖をついたまま明後日の方向を見ながら不満げな表情のままボーっとしている。福岡ドームの事が話題に出てから明らかにおかしい。

 

「センパイ……もしかして野球嫌いでした?」

 

「ん?ああ、いや、そうやないんよ……ただ……ちょっとね……ごめん、ドームの話はあんまりしたくないんよ。他の話題にしようや。ね?」

 

怪訝な顔をする二人をよそに涼子はカバンから音楽関係の雑誌を取り出して今流行っている音楽について語り出した。何か事情があるのだろうと察した二人は話題を変え、涼子が話し始めた音楽の話題に乗った。

……野球に興味はないが、決して嫌いではない。地元球団をテレビで見かけたら応援するくらいには愛着というかそれに近い感情はあるつもりだ。

しかし涼子がドームの話を嫌うのには訳があった。それは自分と犬猿の仲とも言える父・平蔵の仕事が関係している。

福岡ドームの建設。その大掛かりな仕事の大部分を平蔵の会社が請け負っているのだ。世間はドーム建設の話題で盛り上がっており、ドームの話題を聞くたびに父親のことを思い出して嫌になる。だから涼子はこの話題を避けていたのだ。

そういう事情は知らない二人だが涼子があまりいい顔をしない以上この話題に触れるべきではないと判断し、別の話題を持ち出す。お笑い番組のこと、音楽やファッションのこと……他愛ない会話だったがこの時だけは涼子は家庭のことを忘れることができた。

日も傾いてきた頃、先に佳子が帰宅した。その30分ほど後には涼子と美香も喫茶店を後にする。途中で美香と別れ、あの家に帰ることを憂鬱に思いながら歩いていたその時だった。

 

「おい、五十嵐!!」

 

自分を呼び止める声が後ろからした。振り向くと涼子はやれやれ、とため息をついた。しつこいくらいに見飽きた顔だからだ。

 

「ここで会ったが百年目!今日こそ決着つけてやらぁ!!」

 

ボンタンと長ラン姿のリーゼントの学生。隣には見知った彼の舎弟。もうこの状況は何回目だろうか。いい加減にしてほしいと涼子は再びため息をつく。

 

「行くぞオラァァ!!」

 

有無を言わさず男は殴りかかってきた。しかし涼子はあくびをしながらヒラリとかわすと後ろに回り込んで軽く背中を蹴飛ばしてやった。

 

「ぐっ……!このアマあぁぁ!!」

 

体勢を立て直し、再び殴りかかる男。しかし涼子は全く動じず、その鳩尾に蹴りを入れた。

 

「ぐふっ……!」

 

「やめとけ。あんたなんかじゃ相手にならん」

 

「く、くそっ……!」

 

「はいはい、そこまで。鬼怒川さん、もういいでしょ?無理っスよ、“鬼の涼子"に勝つなんて」

 

「うるせえ中原!てめぇは黙ってろ!」

 

もう一人のパンチパーマの学生……中原と呼ばれた学生は鬼怒川(きぬがわ)と呼んだリーゼントの学生に手を差し伸べるがそれを払われる。

リーゼントの学生は鬼怒川 勝己(きぬがわ かつみ)、パンチパーマの学生は中原(なかはら)アキラという彼の舎弟だ。二人は博多で勢力を拡大しつつある暴走族集団・天神連合の総長とその子分でもある。

鬼怒川は苗字の通り“鬼"と呼ばれた男だった。喧嘩は無敗、誰も彼には勝てなかったのだ。この博多で彼に勝てる人間などいなかった。

 

 

……五十嵐涼子という女と出会うまでは。

 

 

きっかけは些細なことだった。夜の街を歩いていた涼子がバイクから爆音を鳴らす天神連合の連中を「うるさい」と一蹴し、全員叩きのめしてしまったのが事の発端だ。もちろん鬼怒川もだ。

この事をきっかけに涼子は“鬼の涼子"として広く恐れられるようになったのだ。それ以来鬼怒川は涼子へのリベンジを試みているが……。

 

「おっ、鬼怒川さん。おめでとうございます。これで十戦ゼロ勝十敗ですよ。記念すべき十敗目ですね」

 

「うるせぇぞ中原!てめぇどっちの味方だ!」

 

もうこの光景には見飽きたと言わんばかりの表情で中原はまあまあ、と鬼怒川をなだめる。その横で涼子はめんどくさそうに煙草を取り出して吸い始める。

 

「こっちは色々あってイライラしとんよ。頼むけんほっといてくれ」

 

「うるせぇ!五十嵐ぃ……今日こそはオメーに勝たねえと気が済まねぇんだ!」

 

めんどくさそうに煙草をふかす涼子を前に鬼怒川は再び拳を構える。しかし構えもせず煙草をふかし続ける涼子を前にして鬼怒川は構えを解いた。

……何かがおかしい。今日の五十嵐涼子はいつにも増してやる気がない。普通なら既に反撃をもらっていそうなもんだが。

 

「……あんたらは気楽でいいね。仲間も沢山おって馬鹿騒ぎできるし……」

 

「な、なんだよ……」

 

「……あんたらが羨ましいよ。喧嘩のテッペンなんか虚しいもんなのに……」

 

涼子は小さくなったマルボロの吸い殻を金属製の携帯灰皿へとしまう。大きくため息をつく涼子を前に鬼怒川はやる気を削がれてしまった。やはりいつもと何かがおかしい。

 

「鬼怒川、あんたは将来のこととか考えたことあると?」

 

「な、なんだよ突然……」

 

「……その様子じゃ微塵も考えとらせんね。馬鹿なこと聞いて悪かったね。とりあえず今は喧嘩なんかする気分じゃないったい。また日改めてくれん?」

 

ふう、と再びため息をつきながら涼子は踵を返して歩き出した。今まであんな発言をしなかった涼子に拍子抜けしてしまった鬼怒川はアキラと共に彼女の背中が小さくなっていくのをただただ見守るしかなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「五十嵐さん、こちらが例の書類です」

 

「……おう」

 

この日、平蔵は自身の会社の応接室である取引のため来客対応の最中だった。相手は黒いスーツの厳つい風貌の男であり、明らかにカタギではないことがわかる。

 

「これで五十嵐さんの保有する株の価値は保証されたも同然。これからは先を見据えた投資の時代です。常に一歩先を行かねばバブルが崩壊した際には我々は生き残れないでしょう」

 

「……わかっとる。あんたらのおかげでうちも将来が安定しそうや」

 

「やはり寿建設……五十嵐さん達とはよいビジネスパートナーになれそうです。これからもよろしくお願いしますよ」

 

「ああ……こちらこそ」

 

「では……私はこれにて。まだまだ仕事がありますので失礼致します」

 

男は立ち上がると平蔵に一礼し、応接室を後にした。一人応接室に残った平蔵は煙草に火をつけ一服すると書類の入った封筒を開けて中身を確認する。

 

 

近いうちにバブル経済は崩壊するだろう。その先にあるのは景気の悪化であることは想像に難くない。そうなった時に会社と家族を守るためには……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

手段など……選んではいられないのだ。

 

 

 

 

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