「ううん……」
朝。龍馬は目を覚ました。
ぼんやりとしながら起き上がり、携帯を見ると時刻は午前10時。だいぶ寝てしまったようだ。
ろくに手入れをしていない自室のベッドと違って綺麗好きのヨネ子がきちんと手入れをした布団はふかふかでいい香りなため、とても寝心地がよくついつい長く眠りがちだ。
隣を見るとディレットは掛け布団に抱き付いて寝ている。
龍馬が起こそうと手を伸ばすとディレットはもそもそと動き出したので慌てて手を引っ込めた。
「ううん……リョーマ……」
龍馬の名前をつぶやく。どうやら夢を見ているようだ。
「もう食べられないよ……むにゃむにゃ……」
夢の中でも何かを食べているとは、一体こいつはどれだけ食い意地が張っているのだろうか。そう考えつつ、龍馬はディレットの身体を揺する。
「おいディレット、起きろ。朝だぞ」
「ううん……」
ディレットはのそのそと身体を動かしつつ、起き上がる。
「おはようさん」
「あ……おはよ……リョーマ……」
起床した二人は布団をたたんで押し入れに戻す。その後、洗顔を済ませて着替えた。
家の中には誰もいない。この時間は平蔵とヨネ子は畑に農作業に行っているためだ。
玄関近くを通りかかると和室の方からターボがやってきた。
「ターボおはよ」
「ワンワン!」
龍馬はターボを撫でてやると、台所のテーブルへと向かった。テーブルには二人分の食器と昨日の夕食の残りのおかずがラップをかけて置かれていた。
これは龍馬にとっては当たり前の光景である。昔から泊まりに来たときにいつも祖父母より遥かに遅く起きる龍馬のためにいつもヨネ子が用意してくれているのだ。
龍馬はガスコンロにある味噌汁の入った鍋に火をかけ、ラップのかけてあるおかずを電子レンジに入れた。
「それ、ほんとに便利だよね」
「電子レンジのことか?」
「うん、一度冷めた食べ物を火を使わずに温められるなんてね。帝国の貴族がみたらどんな顔するかな」
ディレットはアハハ、と笑う。
龍馬は鍋の味噌汁とレンジのおかずが温まるまで帝国について尋ねてみることにした。
「なあ、そういやテレビに出ていること意外は俺帝国についてあまり知らないんだけど、どんな感じなんだ?」
「うーん……私も住んでるわけじゃないからあまり詳しくは知らないけど、とにかく活気があっていい街だよ。中心に城があって、特に城下の大通りはいつもバザーで賑わってる。珍しい物がいっぱいあるし、色んな国の人達もたくさんいるから見ていて飽きないね。
あとは……そうそう!"竜の髭"亭って酒場があるんだけど、そこのおかみさんが作る料理がとっても美味しいの!」
「へえ……一度食ってみたいもんだな」
「いつかリョーマも一緒に行こうよ!案内するから!」
「もちろん。その時は頼むぜ。……お、丁度温まったな」
レンジからピーッと音が鳴る。味噌汁もいい感じだ。
龍馬はディレットと自分の分のご飯を炊飯器からよそうと続けて味噌汁を用意してディレットと自分の席に置き、テーブルに座って食べ始めた。
「んで、帝国にはまだ他に見どころはあんの?」
「そうだねぇ……あ、大きな教会や礼拝堂があるよ」
二人は朝食を取りつつ、更に会話を続ける。
「礼拝堂?」
「そう。"レクシオン教団"っていう大きな教団の本拠地。信者や巡礼者でなくても入れるのよ。中にはね、女神アレク様の大きな石像があってちょっとした観光スポットにもなってるんだ」
レクシオン教団は運命と希望の女神アレクを信奉するディレット達の世界で最大の教団であり、ディレットも礼拝堂を何度か覗いたことがある。
「ふーん、教団ねえ。宗教には興味ないけど、そのアレクって女神のでかい石像は見てみたいな」
宗教というのはどうもいいイメージがない。
古代より人類が文明を築きだした時から人類における戦争の火種は縄張り争いや種の存続を賭けた戦い以上に宗教が原因の場合が多い。
抑止力によるにらみ合いや外交が国同士の駆け引きとなった現代においても戦争が起こっている国の原因はやはり宗教だ。
同じ神を信仰しているにも関わらず、その解釈の違いから同じ人間同士でその信じる神のために終わりの無い殺し合いを続け、更には聖戦や神のお告げなどと称したテロ行為で無関係の人間まで巻き込んで命を奪う。
もはや神のためと言うよりは気に入らない人間を殺したいがための方便としか龍馬には思えなかった。そのため龍馬はどうしても宗教というものを好きにはなれなかった。
だが一概に嫌いというわけでもない。宗教の背景にある神話などは好きだったし、礼拝堂なんかの神聖な雰囲気は一度味わってみたいと思っていた。
「そこの司祭さまのノエル様がすごく優しくて綺麗な女性なんだ。彼女目当てに来る人もいるくらいね。
私がまだ帝国に卸売をし始めた時、道に迷ったことがあったけど、たまたま出会ったノエル様がすごく私に優しくしてくれて道案内までしてくれたの」
ディレットは苦笑いしつつ、きんぴらごぼうに箸を伸ばす。
「でも最近変な噂があって……」
「変な噂?」
「うん、アルカ帝国の教団をまとめているのはヴォルティス大司教って人なんだけど……その大司教様が帝都で一番大きいラオグリッド商会と癒着してるって……でも大司教様もものすごくいい人でそんな風には見えないんだけど……」
ほら見ろ。やっぱり宗教屋なんてロクなヤツがいねえ。
心の中でそう思った龍馬であった。
しかし口には出さずにディレットの話に相づちを打つ。
「ま、あくまで噂だからどこまでほんとかわからないけどね……森に住んでた私には知りようもないし……ごちそうさまでした」
ディレットは朝食を丁度食べ終わり、同時に龍馬も食べ終わった。龍馬は二人分の食器を洗って乾燥機に入れておいた。
朝食後は平蔵とヨネ子が戻ってくるまでテレビを見て待つ。
畑仕事の手伝いをしてもいいのだが、手慣れていない龍馬が手を出すとかえって二人の邪魔になる。そのため龍馬は手伝いを頼まれた時だけやるようにしていた。
昼頃になると二人が昼食のために帰ってきた。
昼食を取ると平蔵が道場で改めて稽古をつけてくれることになり、龍馬とディレットは胴着と袴に着替えて道場で待つ。
本来ならば袴は合気道では上級者のみに許される胴着なのだが、平蔵は二人とも袴を履くようにと指示した。
しばらくすると平蔵も胴着と袴に着替えてやってきた。
「おう、待たせたのう。ほな……よろしくお願いします」
「お願いします」
「お、お願いします」
龍馬と違い、慣れない袴でぎこちなくお辞儀をするディレット。
「ディレットちゃん、そこまで堅くならんでいいとよ。武道では礼に始まり、礼に終わるが基本やけど今から本気で殴り合うわけじゃないんだから気楽にしていいとばい」
「は、はい。ありがとうございます」
「さて……まずは龍馬、お前からいこうかのう。しかしただ俺も捌くだけじゃお互いに面白くないけん、必殺技的なやつをいくつか教えとってやろうか。そこのホワイトボードに置いてあるマジックを持ってきてん」
龍馬は言われた通りに道場の隅にあるホワイトボードからマジックペンを持ってくる。
「それをナイフに見立てて適当に俺に攻撃してみ。突きでも斬りでもなんでもいいたい」
「わかった」
龍馬はマジックを右手でナイフのように構えて平蔵に向かって素早く突く。
すると平蔵は龍馬の右手を左手で掴んで捌き、龍馬の手首に軽くチョップをしてマジックを叩き落とす。
「いって!」
「どや?なんもできんかったろうが?
これが五十嵐流無手術のひとつ、"
ちょっとぎょうらしい(※『ぎょうらしい』=大げさ、仰々しい)名前やけどくさ」
五十嵐流・小刀封じ。
かつて日本に武士がいた時代。まだ帯刀が当たり前だった時のころ。
刀や脇差し、
現代においてもサバイバルナイフやダガーに姿を変えて不良やチンピラが持ち歩くことも多い。
この技は片手で使える短刀を素手で封じるために考案された技だ。
五十嵐流はそこからさらに腕捻り・後ろ手による拘束・背後拘束からの押し倒しによる無力化などさらに派生していく。
「さらにこっからこげんすると……」
平蔵は掴んだままの龍馬の手を捻る仕草を見せて龍馬の肘に手刀をトントンと軽く当てる。
「これは実戦やったら相手の関節を砕いとる。五十嵐流はこれを"
五十嵐流・斬骨。
手刀を刀に見立てて相手の関節の骨を砕くその様はまさに"骨を断つこと"そのものであり、下手をすれば相手の腕を一生使い物にならなくするレベルの技だ。
「やけどこれはよほどのことが無い限りは使ったらいかん。下手をすれば自分のほうが犯罪者になりかねん。
武道っちゅうのは無手においても常にその手に人を殺せる
「わかった」
「はーい」
「よし、そんじゃあ俺が教えちゃった通りに二人とも動いてみい」
龍馬とディレットは平蔵を敵役として小刀封じの型を練習する。平蔵が二人に交互に教えてしばらくの時間が経過した。
「ん、龍馬もやけどディレットちゃんもなかなか筋がいいたいね。よし、じゃあ次の技を教えちゃろう。
龍馬、そこさいある竹刀を持ってきてみい。ほしてそれを適当に構えて攻撃してみいや」
龍馬は平蔵が用意した竹刀を構える。
そして頭上で竹刀を構え、平蔵に向かって振りかぶった。
「でやぁっ!!」
「はっ!!」
龍馬が完全に降り下ろしきる前に素早い動きで懐に潜り込む平蔵。そして竹刀を握った龍馬の手首を掴んでそのまま受け流すと同時に竹刀を奪い取り、床に龍馬を引き倒した。
「ぐっ……!」
「これが五十嵐流"武士泣かせ"たい。両手で構えるような長い得物を持った相手に有効や」
武士の命とも言える刀。
それをよもや素手の相手にいともたやすく奪い取られた武士はただただ悔しさのあまり、そして自身が丸腰となり逆に相手に刀を奪われ、命の危機に晒されたことで地に手を付いて泣くことしか出来なかったという。
「武器を持っとる人間は大概が武器があるっちゅう自信と安心感を持っとるけん、それを奪い取ってやりゃあ赤子も同然たい。もうそれだけで雑魚やったら戦う気力なんざ無くす」
平蔵は奪い取った竹刀を構える。
「ほな二人とも俺がゆっくり振りかぶるけん、今の動きをとりあえず見よう見まねで真似してみ。その都度修正したがいい場所を教えちゃるけん」
平蔵は龍馬とディレットに交互に竹刀による攻撃をゆっくりと加える。上段からの斬撃、中段からのなぎ払いや突き、下段からの斬撃など両手による武器に対応する武士泣かせの動きを徹底的に教える。
「その動き忘れんどきーよ。よし、受けの技ばっかりっちゅうのも飽きろう。次は攻めの技を教えちゃろうかねえ。龍馬!」
「また俺がサンドバッグか」
「女ん子にサンドバッグになれっちか!いいけはよせえ!形はどげでもいいけん、構えてみ」
龍馬は前に出て、構えの体勢を取る。
「ほな行くぞ……はっ!!」
龍馬との間合いを一瞬で詰めた平蔵は龍馬の足を素早く払う。文字通り足元をすくわれた龍馬はすっ転んで仰向けに倒れてしまう。下は畳なので大して痛くはなかったが。
「こっから倒れた相手に追い討ちかけるたい。拘束でも打撃でもどっちでもええ。これが五十嵐流・"鬼崩し"や」
五十嵐流・鬼崩し。
たとえ巨大な体躯や怪力を誇る鬼といえども、その体躯を支える両の足を崩されてはその巨体も恐るるに足らず、ただ地に伏せるのみ。
龍馬が山崎と戦った時の発想と同じだ。
「いてて……ねえじーちゃん、名前はかっこいいけどさ、これって単なる足払いじゃないの?」
「やれやれ……お前はまだこの技の本質がわかっとらんのう。お前たち二人になんで袴履かしたかわかるか?」
その問いに龍馬とディレットは首を横に振る。
「合気道や剣道ではな、いかに自分に有利な間合いに踏み込むかが重要たい。
特に武器を使わんぶんリーチが短い合気道やったらなおさらや。そいけどさ、ただ闇雲に動いとったら足の動きで相手に自分がどげん動くか、どんな攻撃をするかが読まれるとたい。やけん袴を履く。それ以外にも意味はあるけどくさ」
平蔵は袴を指差しながら続ける。
「つまりこの"鬼崩し"の真髄はいかに相手に足の動きを悟らせないかっちゅうところにあるたい。
そいけどくさ、今のこの世の中普段から袴履いて歩き回ることなんかまず無い。
そこでこの技を確実に決めるためにあらゆる方法で敵の注意を上半身に向ける。或いはフェイントやらかけてもいいたい。
人間身体の全ての箇所に同時にしっかりと力を込めるなんざまず出来ん。
足以外の場所に力がいけば必ず下半身の力が緩む瞬間がある。そこを見極めて素早く一瞬で近付いて、刀で切り裂くようなイメージで相手の足を払う。これこそ"鬼崩し"の真髄や」
鬼崩しの真髄を平蔵から教わったところで、その動きを二人は平蔵から学ぶ。
「二人とも足の動きが大雑把や!そんなんやったら逆にやられるぞ!しっかり正確に、無駄なく動かすんたい!」
しばらく鬼崩しの動きを教わった二人。
飲み込みが早いのか、二人とも徐々に上達しつつある。
「よし、そんなもんでよかろう。
ほな次や。二人がかりでかかってきてみい。前後左右、どっからでもいい。本気で殴るつもりでかかってこい。俺がいいっちゅうまで攻撃を続けろ」
平蔵はそう言って構えを取る。
龍馬とディレットも構え、二人で同時に平蔵に攻撃を仕掛けた。
しかし二人同時にいともたやすく捌かれてしまう。
ならばお望み通り前後からと攻撃を仕掛ける。
龍馬がパンチを前から繰り出し、捌かれて平蔵の後ろに倒れる。
直後にディレットの拳が平蔵に襲いかかるが、軽く手を添えただけで受け流し、パンチはあらぬ方向へ。
すぐさま後ろから龍馬がパンチを繰り出すが平蔵はまるで後ろにも目が付いているかのごとく背後からの龍馬の攻撃を受け流しつつ腕を掴んで背負い投げへ持ち込み、龍馬は畳に叩き付けられた。
ありとあらゆる方向から同時に、或いはバラバラに、フェイントを織り混ぜたりなどして平蔵に二人がかりで攻撃を仕掛けるが一度も当てることが出来ない。二人はついに息が上がってしまった。
「よし、それまで!いいか、喧嘩っちゅうんは相手が一人とは限らん。複数を一人で相手にせないけんこともある。そこでこの"
五十嵐流・狼牙捌き。
まるで狼の群れすら捌くかのごとく一対多数の戦いにおける捌きに特化した武術である。
「この技を極めればありとあらゆる方向からの攻撃を捌ける。受け流しや捌きを極めることは普通に防御するより体力の温存にも繋がるけえのお。
仮に後ろから攻撃を加えられても空気の動きや気の流れから気配を感じ取ったり、相手の次の一手を読み取ったりして即座に対応できる。
死角を突くことが出来ないとわかった相手には相当なプレッシャーになるはずや。
ただ、これは技術だけじゃ出来ん。実戦の中で己が心を鍛えてこそ上達するたい。
よし!ほなら俺が捌き方のコツを教えちゃるけん、二人とも交代で練習してみるか!」
二人は平蔵に捌きの動き方をしばらく教わった。
「よーしよし。なかなか筋がいいぞ。……お、もうこんな時間か。なら今回はここまでにしとくか。
次また暇が出来たら相手しちゃる。それまではイメトレしっかりしとけ」
「うん」
「はーい」
時刻は午後3時を回っていた。
あまり長すぎるとヨネ子の雷が落ちかねない。平蔵はそう考えてキリのいいところで稽古を切り上げた。
三人で道場の後片付けと掃除をして母屋に戻る。
「あら、お帰り。二人ともちょっとは強くなったね?」
「おかげさまで」
「私もです!」
「そうねそうね。そらよかったたい。
ほんでさ、話変わるんやけどくさ、今日の晩飯どうするね?昨日食材使いすぎてから今日晩飯なんしょうか迷っとるんやけど」
腹は減っている。しかし二人とも何が食べたいかと聞かれると色んな選択肢が出てなかなか決まらない。
「ばーさん、それなら今日は焼肉でも行こうか。せっかく孫が来ちゃっとるんやけん」
「肉!じーちゃん、ばーちゃん、俺焼肉食いたい!」
「はいはい。孫がそう言うなら仕方ないねえ。可愛い孫のためやけん」
ここから車で少し走った場所に平蔵行きつけの焼肉屋がある。普通の民家を改修した焼肉屋で、安くて肉の質もよく、連日地元民で賑わっている人気の焼肉屋だ。
龍馬はここの焼肉屋に小さい頃から平蔵とヨネ子によく連れていってもらっており、あまり物をねだらない龍馬が唯一祖父母にねだるほどの美味さを誇る。
「ちゅーてもまだ3時過ぎやし店も開いとらんしなあ。龍馬、お前ディレットちゃん連れてぶらーっとどっか行ってきたらどうや?」
店が開くのは夕方5時からだ。まだ時間もあるし、周辺をツーリングしてみるのもいいかもしれない。
この近くだと福岡三大神社のひとつである宮地嶽神社か大峰山自然公園あたりがいいだろう。
龍馬は迷った末に大峰山自然公園へ行ってみることにした。
「なら、ちょっと出掛けてくるよ。ディレット、行こうぜ」
「うん!」
「5時くらいまでには帰ってくるんやぞー」
龍馬は納屋からバイクを出してディレットを乗せ、海沿いを走って大峰山へと向かう。
大峰山自然公園。別名"東郷公園"とも呼ばれる。
ここは標高114メートルとあまり高くない山だが、山頂まで道路が通っており、キャンプ場もある。
春には桜の名所としても賑わう公園だ。
もう6月だからか流石に満開の桜は見られないが、まだちらほらと花を残している桜は見受けられた。
「よし、着いたぞ」
バイクを駐車場に停め、二人は遊歩道を歩いて展望台へと登る。
しばらく歩くと山頂には芝生が広がっており、さらにその先には見晴台を兼ねた高くそびえる石碑が建っていた。石碑には漢字で何かが書かれており、まだ日本語の文字をあまり読めないディレットには何が書いてあるのかが分からなかった。
「大きな石碑……リョーマ、これは?なんて書いてあるの?」
「"日本海海戦紀念碑"って書いてあるんだよ。とりあえずあそこに登ろう」
二人は石碑の見晴台に登る。そこからは美しい
「わあ……!いい眺め……!」
美しい玄海灘を一望できる景色にディレットはしばし見とれた。すかさずスマホを取り出して景色を写真に納める。
「リョーマ、これって大砲?」
石碑の裏側には船の大砲のようなものが建っていた。
「それは戦艦三笠の主砲を模したモニュメントだよ。本物じゃない」
「主砲……ってことは昔ここで戦争があったの?」
「ああ。石碑の脇にあるレリーフ見てみな」
龍馬が石碑の表側に回り込んである部分を指差す。
そこには髭を生やした軍人らしき男性のレリーフが彫られていた。
「この人は?」
「"東郷平八郎"。俺らの世界じゃ有名な100年以上前の昔の日本の軍人さ」
「トーゴー……ヘイハチロー……?」
有名なのは明治37
東郷は日露戦争が始まって1年後の明治38
東郷は敵艦隊に大きく接近し、敵前で大回頭を行うという誰しもが驚くような大胆な指示を各艦隊に出し、ロシア海軍の度肝を抜いた。
この回頭は後に"トーゴー・ターン"と称された。
当時世界最強といわれるロシア海軍・バルチック艦隊を相手に東郷はこの大胆な作戦でほとんど被害を受けずに完勝。バルチック艦隊を壊滅させたのである。
そしてその功績を讃え、後に日本海を一望できるこの大峰山自然公園に記念碑が建てられた。
さらに東郷の死後、彼は神格化され、この大峰山に東郷神社と名付けられた神社に神として祀られた(東郷自身は死後に自分が神社に祀られる事を知って嫌がったらしいが)。
英語が堪能であった東郷にちなんで神社のおみくじは英語で書かれている。さらにこの神社に参拝すると英語が堪能になる御利益があるとされている。
これが大峰山自然公園が"東郷公園"と呼ばれている由来である。
そして今日に至るまで東郷平八郎の名は100年以上が経った今なお伝説の軍人として語り継がれているのだ。
「……って、人なんだ」
「この人、そんなに凄い人だったんだ……」
ディレットはもう一度レリーフを見る。
異界の国・ニホンの伝説の軍人。異界への門が開かなければ絶対に知り得なかったであろうその存在。
彼女は自身の胸にしっかりとその名を刻んだ。
「よし、じゃあ神社の方に行ってみるか」
「うん!」
二人は遊歩道を下り、遊歩道入口の向かい側にある東郷神社に向かう。
その奥で二人はある物に触れることになる。
「ねえリョーマ、これも大砲?」
「ああ。それは本物だぞ。と言っても主砲の先端部分だけどな」
東郷神社の奥、宝物庫の前に安置されているのは東郷平八郎がバルチック艦隊を迎え撃つために乗船した戦艦三笠の主砲の先端である。
第二次世界大戦後、荒廃し廃艦されるはずであった三笠。今は修復され、神奈川県横須賀市の三笠公園に記念艦として世界で唯一の現存する前弩級戦艦として停泊しているが、その部品のほとんどは修復後に作られたレプリカで、現存している主砲は福津市の東郷神社に安置されているこの先端部分だけである。
本来は北九州の八幡製鉄所の溶鉱炉で溶かされるはずだったのだが、昭和9年に地元の獣医師である安部正弘氏の懇願によって東郷平八郎の名を後世に伝えるために先端部分だけは残されることとなったのである。
二人はしばらく三笠の主砲を眺めた後、参拝をして辺りを散策して時間をつぶした。
時刻が4時半を回ったあたりで二人はバイクへと戻り、平蔵宅へと引き返した。
「「いただきまーす!」」
目の前には肉。肉。肉。
焼いた牛肉の香ばしい香りがずっと辺りに漂っている。
龍馬とディレットは白ご飯をたっぷりと盛った茶碗を片手に肉へと箸を伸ばした。
焼いた肉自体は珍しいものではないが、目の前を網を皆で囲んで焼きながら食べるという食事の方法はディレットの世界にはない文化である。
ディレットがまず食べたのは薄い牛肉。"タン"と呼ばれているらしい。
タンは牛の舌らしく、最初初めて聞いた時は舌を食べるなど若干恐ろしく感じたが、食べてみるとこれの美味いこと美味いこと。
レモン汁につけて食べるタンは柔らかく、それでいて今まで食べたことのない肉の食感がクセになりそうだった。
ロースやカルビを食べたのち食べたのは"ハツ"。なんと牛の心臓だそうだ。
しかし食べてみるとこれも非常に美味い。見た目や食感は普通の肉と変わりなく、だがこれもまた体験したことのない味だ。どんどんご飯が進む。
「そげんあわてて食わんでも肉は逃げらせんが。まあでも明日帰るんやし、今のうちいっぱい食べときぃ」
そう言って平蔵はカルビを食べるとジョッキのビールを飲み干した。
「……かーっ!うめえ!やっぱりこの店で肉食べながら飲むビールは最高やが!」
「じーさん、あんた飲みすぎんごとしとかな。前みたいにベロベロになったらもう知らんばい。あたしだけタクシー呼んであんたはその辺にほたって帰るけんね」
「わーっとるっちゃ。しゃーしぃババアやねほんと」
「そのババアに毎回世話かけさせよるジジイはどこのどいつかね」
その様子を見て笑う龍馬とディレット。
明日は家へ帰らなければならない。
福津市最後の夜は四人の笑顔の食卓のもと過ぎていく。
一方、その頃斎藤家では……
「"異界旅行プラン!あなたも異世界・アルカ帝国観光の旅に出かけよう!"ねぇ……」
涼子はテレビのCMが目に止まった。
最近は異界への旅行者も多い。日本の旅行代理店も異界への旅行プランを積極的に宣伝するようになった。
「っつってもうちにゃあそんな金あらぁせんしねぇ……ちょっと行ってみたくはあるけど」
異世界とはいえ外国である以上は国内旅行よりもそれなりに渡航費用がかかる。興味はあるが財布の中身は厳しい。
「宝くじでも当たりゃあねぇ……それか金銀財宝でも空から降ってこんやろか」
涼子はそうつぶやきつつ、テレビの電源を切る。
「……今日はもう寝ろうかねぇ。明日あの二人帰ってくるし」
涼子はいつものポジションに布団を敷いて眠りについた。
この時、いずれ異界へと行く機会が巡って来ようとは涼子ですら夢にも思わなかったに違いない。