この日、学校が終わったディレットは真っ直ぐ車校へと向かう。
今日は学科を二時間受けた後に実技教習を受ける予約を入れている。
この時間の教官は風間という教官で少し禿げた頭と独特の口調が特徴的なおじいちゃん先生だ。
いつもニコニコとしているが、キビキビしている頼れるおじいちゃんといった感じだ。
「えーっと……ディレット・アドミラシルさん、やね?うん、えーっとね、ディレットさんはね、今日は坂道発進の練習のあと一本橋とスラロームをやろっかね。うん」
風間教官はディレットの教習原簿を見ながらそう言った。
「まず最初の10分くらいは外周を軽く回ってからポンピングブレーキの練習、次に坂道発進を何回かやったら呼ぶからそれから一本橋やろうかね、うん」
「はい」
ディレットはCB400SFに「今日もよろしくね」と言いながら跨がり、外周を回る。
風間教官の言った"ポンピングブレーキ"とは、直線で加速してコーナーに入る前に減速する際にブレーキを三回に分けて使用する技術のことである。
自動車もオートバイもそうだが、急ブレーキは事故の元である。特に二輪車は急ブレーキによる前輪のロックによって自動車よりも思わぬ大事故に繋がる恐れがあるのでブレーキングの知識と技術はしっかりと身に付けなければならない。
さらにポンピングブレーキによる複数回のブレーキランプの点灯によって後続車に減速を早めに伝えることで急ブレーキによる後続車の追突事故の危険性を大幅に下げることが出来るのだ。
ディレットはコーナーから直線に抜けてすぐ、40㎞まで加速するとポンピングブレーキを行い20㎞以下まで減速する。それを2周繰り返したのち、今度は坂道のエリアに進入する。
坂道でのマニュアル車の発進はしっかりと身に付けなければ危険だ。
坂道での停止によって車体が後ろに下がり、事故になる恐れがある上に、平坦な道よりもクラッチを繋げるときのエンジン回転数を高めにしてやらないと上手く発進できなくてやはり車体が後ろに下がったりして事故の原因になる。
特にバイクは普通自動車よりも危険性が高い。坂道発進は必須のテクニックである。
「よし……!」
右側足元にあるリアブレーキのペダルを踏みながら坂道で停車し、再び発進する。
少し多めにアクセルを回して車体が坂道による影響を受けないように発進し、坂道を抜けて外周へと戻る。
坂道発進を難なくこなし、外周を回ったあとに風間教官の誘導で外周内側のエリアへと進入する。
「はいっ、じゃあまず一本橋やろっかね。うん。はいっ、そしたらね、そこの停止線にまず止まってね」
目の前には数センチの段差が長く続く金属の平均台がある。手前には停止線。
自動二輪教習ではバランス感覚の練習のためにこの一本橋と呼ばれる平均台に乗って最後まで走りきらなければならない。
ただし、落ちずに最後まで走ればいいということではなく、普通・大型それぞれに規定の秒数があり、その秒数の間は平均台の上にとどまらなければならない。
なお、小型はタイム規定なし、普通二輪は7秒、大型二輪は10秒以上となっている。
ディレットはギアを1速に入れてゆっくりと発進し、平均台に乗り上げる。
が、しかしーー
「わっ!?」
乗り上げ時のわずかな斜面で失速し、左側にバイクを転倒させてしまった。
教習車は両側にガードがついているため大事には至らなかったが、軽く足を打撲してしまう。
「おおい!?ディレットさん大丈夫ね!?ん!?気をつけてね?」
さすがに少し危ないと思ったのか、今回はバイクの引き起こしを風間教官がやってくれた。
風間教官はバイクを起こすと白線の位置まで戻してバイクのスタンドを立てる。
「す、すみません。ありがとうございます」
「ん、いいんだよ。教習もね、大事だけどもね、生徒の安全が第一だからね。さ、コツを教えてあげるからね、ね。さ、もう一回やってごらん」
「は、はい」
ディレットはバイクに再び跨がり、エンジンをかけた。
「はい、じゃあね、一本橋のコツやけどもね、よく生徒さんがやっちゃうのが"足元ばっかり見ちゃう"ってやつなのよ。一本橋って狭いでしょ?だから気持ちはわからんでもないけど、それじゃあバランスが悪くなっちゃう。コツは"進行方向を真っ直ぐ見据えること"。一本橋の終わりあたりを見るといいよ。これだけで劇的に上達するよ。あとは課題の秒数を気にしないこと、それから一本橋に乗り上げる時は気持ちバイク加速してあげること。乗り上げは若干斜面になってるからここで失速してバランス崩しちゃうのもありがちなんだよね。さ、じゃあもう一回やってみようか」
風間教官の指示通り、ディレットは平均台に乗り上げる時に軽くアクセルを回してみた。
すると失速によるバランスの低下を気にすることなく、自然に乗ることができた。
そして平均台上では真っ直ぐ前を見る。
するとどうだろうか。
足元を気にしてふらついた時より遥かにバランス良く進行している。7秒以上というタイムはあまり気にせずにとにかく渡りきることだけを考える。そして無事平均台を渡り終えることに成功した。
「やった!」
「おおー!いいよ、うん、そう!そんな感じ!タイムは5秒93!ちょっと短いけど練習段階にしちゃ上出来、上出来!ねっ?先生の言った通りでしょ?よし、次はスラローム行ってみようか!」
続いてディレットはパイロンがジグザグに設置されたエリアへとやってくる。
ここにはスタートとゴールにパイロンのゲートが作られており、間に5箇所のパイロンの障害が交互になるような位置で設置されている。
スタートしたらパイロンに当たらないように細かいアクセルワークでバイクを傾けながら蛇行してゴールを目指す。目標タイムは8秒以下だ。
「……って、感じでゴールを目指すんだけどもね、ここは慣れないと一本橋よりむつかしいから二人乗りして実践してみようかね、うん」
そう言うと風間教官は別のバイクに乗ってスラロームまでやってきた。
二輪教習ではこうして教官のバイクに二人乗りして生徒に指導することもある。
「さ、じゃあ、先生の後ろに乗ってごらん。結構左右に揺れるからしっかり掴まってないと振り落とされるからね」
風間教官はさらっと恐ろしいことをハハハと笑いながら言った。出来ればそのような結果になるのはごめん被りたい。
ディレットが風間教官の後ろに跨がると、教官はバイクを発進させる。そしてとても老齢とは思えない素早いハンドルさばきでスラロームを通過する。
「わっ!わあっ!」
ディレットはしがみつくので精一杯だった。ほんの数秒程度の出来事なのに恐ろしく長く感じられた。これを今度は自分の手でやらなければならないのか。
「はいっ!終わり!こんな感じでね、うん、スラロームはやるんだよ」
「は、はい……」
不安だ。横にスッ転ぶ未来しか見えない。
ディレットの世界では未来を見通す魔力を持つ大賢者なる存在が過去にいたという伝説を聞いたことがあるが、今この状況では大賢者でなくとも容易に未来が見通せる。
「あの……先生……私これ自信ないです……」
ディレットが自信なさげにそう言うが、風間教官はニッコリと笑って言う。
「大丈夫、だいじょーぶ!みんな初めはそんなもんだからね、うん。そのために先生達がいるんだから安心しなさい。一本橋と同じだよ。ね?最初はタイムは気にせずゆっくりでいいんだよ。あまりね、車体を無理に傾けなくていいからね、さ、やってごらん。転びそうで怖かったらすぐに足ついてもいいからね。ゆっくり、パイロンを倒さないことだけ意識して慣れていけばいいよ」
風間教官の励ましに多少の不安が緩和されたのか、ディレットはバイクに再び跨がってスラロームの入り口に立つ。そしてバイクを発進させてスラロームに進入、パイロンをかわしつつゴールを目指す。
時間は教官よりも遥かにかかっているが、今はそこを気にしてはいられない。
スラロームを抜けると一本橋に戻り、一本橋を抜けたらスラロームに進入する。今日の教習はこれを繰り返す。
何度か繰り返すうちに身体がコツを掴んできた。
一本橋に入れば前を見据えて足でタンクを軽く締めるようにすればバランスが安定して上手く乗れるようになるし、スラロームではリアブレーキとアクセル、そしてバンクさせるリズムを掴めば思ったよりも楽にクリアできた。
「一本橋、8秒67!スラローム、10秒56!お見事!ん、いいね!一本橋はオッケー!スラロームはもうちょいだね!オッケーオッケー!その調子!」
一本橋は7秒以上留まることに成功し、見事合格ラインに。スラロームはまだ目標タイムには届かないが、上達を実感できた。
もう少し頑張れば目標に辿り着けそうだ。
丁度その時チャイムがなり、本日の教習は終わりを告げる。
「はいっ、じゃあ今日はここまでね。原簿に判を押しとくからね、後で取りに来てね。うん。はい、じゃあね、また次の教習でね。お疲れ様でした」
風間教官は先にライダースルームに戻っていき、生徒の教習原簿に判を押している。
ディレットはバイクを指定の位置に戻すと、プロテクターやヘルメットを脱いで返却し、原簿を受け取ってロビーで返却すると帰宅した。
その週の土曜日、ディレットは午前中から学科と実車教習を受けた。これまでの教習内容の応用といえる授業を受け、前回以上に上達し手応えを感じた彼女はより確かな技術と自信を身に付けた。
授業が終わって昼食時のころ、龍一郎が龍馬と共に車で迎えにきてくれた。
三人で近くの定食屋で昼食を取ると、龍一郎がディレットをある店に連れていく。
「わあ……!」
ディレットは目を輝かせて店内を見渡す。
そこには大量のバイクのパーツやヘルメット、ライダースジャケットやブーツなどのバイク用品が所狭しと並んでいるバイク用品店であった。
福岡に住むライダーの多くがこの店を利用していて土日はライダーで賑わっている。
今日は天気がいいこともあり、やはり多くのライダーがこの店に来店していた。
「そろそろディレットちゃんのヘルメットやバイクウェアを用意しとかなきゃと思ってね。ヘルメット買うなら頭のサイズも測らなきゃいけないし」
「だな。ヘルメットは早いうちからあった方が愛着も湧くし」
当然のことであるが、日本では二輪車に乗車する際は安全のためにバイク用のヘルメットを着用することが法律で義務付けられている。もちろんノーヘル運転の先に待つのは警察に捕まるか、事故った時に簡単におっ死ぬかの二つである。ヘルメットは一番大事な頭を守るもの。これが無くてはバイクに乗れない。
「でも……ヘルメットって種類がありすぎてどれを選んだらいいのか……」
ヘルメットの種類の多さにディレットは悩む。
バイクにヘルメットは必須だが、ヘルメットならば何でもいいというわけではない。
公道でバイクに乗る場合、使用するヘルメットには安全規格をクリアしたものを使用する必要がある。
まずSG規格。このマークがないものは二輪車用ヘルメットとして認められない。自転車用や工事用の安全ヘルメットではノーヘル運転と同じなのだ。
そして
次に世界で最も厳しいといわれる
非営利団体の"スネル財団"が定める基準を満たさなければクリアできない厳しい規格で、しかも5年ごとに内容が更新されるため、大手の企業でなければクリアすることは難しい。
「うーん、オフ車とは言っても街乗り中心になるならオフロードヘルメットじゃなくてジェッペルかフルフェイスでいいんじゃないかな。無難にAraiとかSHOEIで」
「ごめんなさいリュウイチロウさん、私にもわかる言葉でお願いします」
「草」
まず、ヘルメットにはいくつか種類がある。
ハーフヘルメット。いわゆる"半ヘル"である。
半ヘルは一番安価だが、安全性も最も低く、ヘルメットメーカーと自動車学校共にハーフヘルメットは推奨していない。
正直言って、"ノーヘル運転は違反"という部分をクリアするためだけにしか存在せず、安全性は皆無あるいは無いよりマシという程度のレベルである。
次にジェットヘルメット。通称"ジェッペル"。龍一郎と勇斗が使っているタイプのヘルメットであり、戦闘機のパイロットを思わせるデザインは主にアメリカン乗りや女性に人気が高い。
顔以外の側面や後頭部まで覆ってくれる安全性に加え、ちょっとバイクを停めて休憩した時などにヘルメットを被ったまま飲み物が飲んだり出来る手軽さがあるが万が一の事故で転倒した場合、顎の部分が無防備なために顎に重傷を負うリスクを孕んでいる。
そしてフルフェイスヘルメット。龍馬が使っているタイプのヘルメットで、顔全体をすっぽり覆ってしまうタイプである。
そのため安全性はピカ一だが、欠点として視界が最も狭いという難点がある。
それとフルフェイスの亜種としてシステムヘルメットというものがある。
フルフェイスの下顎部分が可動可能で上にあげればジェッペルになり、フルフェイスとジェッペルの良い点を併せ持つが、事故の衝撃に対する耐久性は純粋なフルフェイスより劣る。
また、オフロードヘルメットもフルフェイスの亜種であるが低速による悪路走行を前提としているため、空気抵抗を受けやすかったり風が容赦なく入り込んでくるために長距離走行や街乗りには向いていない。
「ヘルメットを作ってるメーカー?ってどこがいいんですか?」
「いい質問だね、ディレットちゃん。オススメするのは二つあってスネル規格をクリアしている上に自分達独自の安全規格を持っている
日本のヘルメットメーカー二大ブランドであるAraiとSHOEI。日本国内のみならず、海外でも人気の高いこのメーカーは多くのライダーが愛用している。
ちなみに龍馬はArai製、龍一郎はSHOEI製ヘルメットを使っている。
「うーん……」
ディレットは悩んだ。一通りの説明は受けたがあまりピンとこない。
「もうディレットもフルフェイスにしちゃえよ。別に毎日泥道走るわけじゃないし、オフロードヘルメットはそのうち買えばいいさ」
「う、うん」
龍馬の奨めでディレットはフルフェイス一本に絞った。とりあえず色々試着しつつ、頭のサイズも測って選んでいく。
その中で緑と黒のフルフェイスヘルメットを選んだ。
「あ!リュウイチロウさん!これがいいです!」
「お、カワサキグリーンとはなかなかいいじゃないか。うん、バイクのカラーにもマッチしてていいと思うよ。じゃあそれにしようか」
「はい!」
龍一郎は店員にヘルメットを用意してもらい、さらにディレット用のライダースジャケットやライディングブーツ、グローブも一緒に買ってくれた。
バイクウェアが一気に揃ったディレットは帰りの車の中でとてもご機嫌だ。
「ディレット、嬉しそうだな」
「うん!早く免許取ってバイク乗るのが楽しみだよ!それと……ありがとうございます、リュウイチロウさん!」
「いやいや、いいんだよ。そんなに喜んでくれたらこっちも奮発して買った甲斐があるってもんさ」
龍一郎は車を運転しながらニッコリと微笑む。
後部座席にいるディレットは帰る道中、しきりに袋の中身を何度も何度も確認しつつ、ライダーになった未来の自分を想像して顔をほころばせるのであった。