その淡い恋心に、日常は反転する。
※
・二万字に抑え込もうとして破綻しました。
・舞台は現代日本ですが、ファンタジー要素ありありです。
某探偵なスクープの番組見てたら思いついた短編。
ファンタジー要素は残念ながらあります。スマソン電子。
商店街を歩いた。
僕は、お父さんとお母さんに連れられて、にぎやかな通りを歩いていた。
家から少し離れたそこは、レストランや薬屋さんみたいないろんな店でいっぱいだ。ハンバーガーとか、ラーメンとか、いろんなにおいが僕の鼻をくすぐってくる。
そんな中で、ふと違うにおいを感じた。
ふわりと、鼻をなでる音。
甘くて優しい、丁寧に包まれたその香り。
お菓子のような甘さじゃない。果物みたいな爽やかさでもない。なんだか、においにつられて引き寄せられたチョウチョのような気分だった。
そう、この香りは――花だ。
ひらひらとしてて、くらくらとしてしまうような、花の香り。
通りの中に咲いた一輪の花。
花屋のそれに、僕はあてられた。頭の芯まで、焼き付いてしまいそうだった。
◆
「ぼく、あのお姉さんとデートしたい」
とある一軒家の、とある家族。
消防車のサイレンが鳴り響く、閑静とは言い難い住宅街。所謂ベッドタウンのそこに家を為し、今年小学校への入学を果たした一人息子との三人家族だ。幸せの絶頂とも言える家族の団らんの中で、唐突に息子がそう言った。
父親も、母親も、目を丸くする。
しかしそれも仕方ないだろう。まだ七歳になったばかりの彼が、いきなりそんなことを言い出したのだから。
「……えーと」
「……お、お姉さん……って、誰?」
驚いた父は言葉を失い、母は恐る恐るそう尋ねた。
それに少年は、満面の笑みで答える。
「この前見た花屋のお姉さんー。とっても綺麗だった」
それはなんとも、幼子らしい無垢な答え。
息子の成長に喜ぶべきか、思わぬ発言に困惑するべきか。父はやれやれと頬を掻き、母はなんだかわくわくとした表情で顔を満たす。
「ねぇねぇ、この子の初恋かな」
「……随分とませたなぁ、こいつぅ」
嬉しそうな母の様子に父もその頬を綻ばせ、息子の頬をつついた。息子はあうと小さな悲鳴を上げるものの、まんざらでもなさそうな様子で微笑む。
なんだか面白いことが始まりそうだと、両親はそう予感した。その思いのままに、彼らは可愛い我が子をとにかく抱き締めるのだった。
少年の、お姉さんへの想いは止まらない。
毎日、「あのお姉さんは今何してるかな」と家族に尋ね回る。元気かな、今日もお花を育ててるのかな、なんて。いたいけなその問いが、両親は微笑ましくてたまらない。
ある日は、拙い手付きで文字を書き始めた。
「これ、お姉さんとのデート……ぷ、ぷ……」
「……デートプラン?」
「そ! でーとぷらん!」
それはひらがなの形をしているものもあれば、ただの線の塊のものもあった。
しかし、全て息子が丹精込めて書いたもの。母は無下にはできぬと、しゃがんで視線を合わせつつその内容を尋ね始める。
「どういうプランなの?」
「えっとねぇ、まずねぇ。いつもの公園にいくの」
「パパとママといつもいくところ?」
「うん!」
休みの日に、家族三人でいくところ。芝生と遊具に満たされた、大きな公園だ。
「そこ行って、何するの?」
「お弁当食べるー」
「えっ、お弁当!」
作るのは私でしょ、と母は心の中で突っ込むけれど。
しかしそれは口に出さず、息子の書いた残りの文字らしきものを指差す。
「これは何て書いてあるの?」
「キャッチボール!」
「あぁ、ほんとだ。じゃ、これは?」
「手を繋ぐの!」
「おおぅ、ませてますなぁ~」
思わぬ発言に母はにやにやとしながら、息子にくすぐりにかかった。それにキャッキャッと喜ぶ我が子。可愛らしいことこの上ない。
そんな息子が、ここまで丁寧にそのお姉さんとのデートプランを立てている。これは親として、なんとか形にしてあげられないものか。
彼女は夕食を作りながらも、そのことで頭がいっぱいになっていた。どうしたら実現するか、そう考えれば考えるほど、彼女の頭の中にはとあるテレビ番組が浮かぶのだった。
◆
――『真夜中のミッドナイトスクーブ』。
それは視聴者からの依頼を集め、その依頼を面白おかしく解決するバラエティー番組だ。名前の通り放映時刻は深夜だが、なかなかの高視聴率で依頼も絶えない人気番組となっている。
時には心底どうでもいい小ネタから、涙せずにはいられない感動エピソードまで。多岐に渡る依頼を、どんな手段を使っても解決する――それが真夜中のミッドナイトスクープだ。
両親はその番組のファンだった。ファン故に、息子の願いを叶えてあげられるのはこの番組しかない、と考えていた。
ホームページから依頼を入力、そして送信。あとは向こうのスタッフが依頼を取捨選択する。こればかりは、天に祈るしかない。
それから、数週間経った頃。
一本の電話が、その家族の元へ届く。
「ミッドナイトスクープのADです。今から、そちらに伺ってもよろしいですか?」
そこからは、とんとん拍子だった。
有名なタレントが訪れて、家族に向けてマイクを向ける。両親が軽く説明していれば、すぐさまカメラが回り出す。ソファーに座った家族とタレントを、無機質なレンズが映し出した。
面白おかしく話を進めるタレントを前に、母は困ったように事情を話した。父は口下手なのか、必要以上に語ろうとはせずに、妻と、そして息子に全てを任している。
そして、まさに当事者であるその息子は――全国放送など露知らず、自らの想いをありのままに口にするのだった。
「ぼく、あのお姉さんとデートしたい!」
「――――ということで、あなたとデートしたいっていう少年がいるんですよ」
「……え、えぇっ? 私と……ですか?」
タレントが伺ったのは、あの少年の鼻を奪った花屋。商店街の一角を担う人気店だ。
その店で、青いカーネーションの手入れをしていた女性。年の心を奪ったあの女性へと、彼はマイクを伸ばす。
長い黒髪が美しい女性だった。今年で二十八歳だという彼女は、アラサーらしい経験深さを見せる反面、アラサーらしからぬ若々しさにも満ちている。確かに、少年の心を奪ってもおかしくない――そう感じざるを得ないほどに、魅力的な女性だった。
「まだ七歳の少年です。ですが、あなたに一目惚れしたのだとか」
「え、えっ」
「是非とも、少年の夢を叶えてあげてくれませんか! 是非とも!」
「え、えっと……」
タレントの熱い声に彼女はたじろぐ。
それはそうだ。いきなりテレビカメラが押し寄せてきたと思えば、テレビに出演してほしいと言われたのだから。それも、まだ七歳の男の子とのデートをお願いされたのだから。困惑するのも当然だろう。
しかし彼女は、その整った唇をきゅっと引き締めた。そうして、柔らかな笑顔で彼らに応える。
「……わ、私でよければ……。精一杯、頑張ります……っ!」
どうやって彼女を引き込むか。そう心の中で算段を立てていたタレントは、少しばかり鳩が豆鉄砲を食ったような顔をする。彼は良くも悪くも手段を選ばないことで有名だった。おそらく、幾ら積めば応じてもらえるかと頭の演算機を稼働させていたのだろう。
しかし彼女は、快く応じた。真面目な性格なのか、それとも断れない性質なのか。とにもかくにも、彼女の了承は得られたのだった。
「……お、おぉ。よろしくお願いします」
驚くほど早くとれた了承に、彼は些か面を喰らうものの。それでも切り替えて、すぐに車を手配し始める。
その一方で、新人ADの一人が不安そうに眉を顰めた。そうして、おずおずと花屋の女性に向けて話しかける。
「……あ、あの、大丈夫なんですか?」
「え?」
「その、恋人さんとかに何も言わないで決めてしまって……」
その言葉に、彼女は顔に少しばかりの影を差す。
「……実は私、今はフリーなんです。恋人を、数年前に亡くしてしまって」
「え……あっ……」
「でも大丈夫、もう乗り越えましたから。だから今日は、男の子の夢のために頑張りますっ」
「あ、その……すみませんでした」
気丈に笑う女性を見て、ADは言葉を失って。
おじおじと下がりながら、小さく頭も下げるのだった。
少年は、憧れの彼女を前に目を輝かした。
しかし飛びつくなどせずに、自らを律しながら、丁寧に彼女をデートへと誘った。
「あ、あの……ぼく、と。で、デート……して、きゅださい」
若干噛んだのも気付かずに、彼は小さな手を差し出して。
そんな舌足らずな様子に女性は微笑みながらも。その細い手で、彼の掌をそっと包み込む。
「お姉ちゃん、嬉しいよ。私でよかったら、喜んで」
デートは、驚くほどスムーズに進んだ。
いつもの公園へと、少年は彼女をエスコートする。一生懸命、その小さな体で彼女を送り届けようと奮闘した。
やっと公園に着いた頃には、少年は少しばかりくたびれてしまって。そんな彼に向けて、彼女はお昼ご飯を食べようかと提案する。時刻は午後二時近く。少し遅めの昼食だ。
卵焼き、タコ足ウインナー、おにぎり。数あるおかずを二人でつつき合う。少年が美味しいねと笑えば、お姉さんも優しく微笑んで。ふと、彼のほっぺの米粒をとれば、何だか気恥ずかしい空気が流れて。
そんなこんなで、心が癒されるような時間が過ぎていく。
手を繋いで公園を歩き回ったり、キャッチボールをしてはしゃいだり。少年にとって、まさに夢のような時間が続いた。
とはいえ、夢には必ず終わりが来る。楽しい時間というのは、あっという間に過ぎ去ってしまうものだ。
気付けば、陽は既に傾いていた。夕焼けが山へと手を伸ばしている。
「……今日は有り難う。お姉ちゃん、とっても楽しかったよ」
「ぼ、ぼくも! ……ぼくも、楽しかった、です」
そろそろ収録も潮時か。スタッフのそんな判断の下、このデートは終わりを迎えようとしていた。
夕闇に溶ける公園で、少年と女性は向かい合って。彼は両親に迎えられつつも、彼女からは目を離さない。
女性もそれに応え、彼を優しく見つめていた。背後に集まるスタッフにも、まるで気に掛けないで。
「……あの、あのね」
「うん?」
「あの、あのぼく……ぼく、すぐに大きくなるから」
「うん」
「大きくなって、またお姉さんのとこに行くから……」
「……うん」
「そしたら、ぼくと……けっこんして、ください」
随分と大胆なプロポーズだった。
おそらくその言葉の意味もよく分かっていない少年の、人生初のプロポーズ。それに両親も、微笑ましい思いと驚きに葛藤する。引き攣っているような、そんな笑顔だ。
女性は、少しばかり目を丸くさせた。その透き通った瞳を大きく開き――しかし優しげに、少しばかり細めた。細めて、少年の目線に合わせるようにしゃがみ込む。
「……その時は私、四十歳のおばちゃんだよ?」
「でも、それでも、ぼく……っ」
込み上げる想いに、少年の幼い思考は追い付かない。思うように言葉にできず、ただ歯を食いしばるように下を向いた。
そんな、可愛らしい仕草に彼女は微笑んで。そっと、彼を抱き寄せた。
「有り難う。じゃあお姉ちゃん、待ってるね」
おそらく、その日が少年にとって最も幸せな日になったのだろう。
涙を湛えた目を大きく開けて、彼は最大級の笑顔を咲かせる。たんぽぽみたいに笑うんだな、と彼女は思った。
◆
◆
◆
俺は先日、高校を卒業した。
少しばかりの空白を含みつつも、四月からは大学生になる。大学生ともなれば、半自立的な、自由な生活を送ることが可能だ。一人暮らしをすることも、遠くへ一人で出掛けることだって。自己責任という言葉に付きまとわれながらも、時間を自由気ままに使うことが可能になる。だから今日は、なけなしの所持金を使って電車に乗った。
行き先は、以前暮らしていた町。俺が小学生の頃まで過ごしていた町だ。
父が転勤族だったから、俺は様々な町を行ったり来たりしていた。数年単位での引っ越しの繰り返し。構築した友人関係もあっさりリセットされる日々だ。とはいえ、思い出がない訳ではない。数年単位とはいえ、どれもこれも素敵な時間だった。
そして、今俺が目指している町は、何よりも思い出深い町。初恋の日々が詰まった、最も戻りたかった町だ。
――じゃあお姉ちゃん、待ってるね。
いつかの彼女の言葉が脳裏によぎる。
あの商店街の花屋で働いていた女性。俺よりもかなり年上で、長い黒髪がとても美しかった。優しく笑う表情がとても可愛らしかった。
幼少期だった俺の想いは、今も変わっていない。あの初恋の思い出は、一日たりとも忘れたことはない。
俺は高校を卒業した。もう自由に、どこにでもいける。あのお姉さんに、会いに行ける。
「……あ」
車窓の向こうから、あの懐かしい町並みが見えてきた。
発展している都市ではあるけれど、首都に比べればどうしても見劣りしてしまう景色。高層ビルはどれもマンションで、どうあがいてもベッドタウンだ。並ぶ町並みに少しばかり哀愁が漂う、良くも悪くも発展途上の都市だった。
懐かしい。あの頃とあまり変わっていない。けたたましい消防車のサイレンが窓を通して伝わってきて、相変わらずの喧噪の音色を奏でていた。本当に変わっていないようだ。
「……早く、早く着かないかなぁ」
うずうずと。そんな表現が、もっとも合っていると思う。
電車が、とてものろまに感じた。もっと早く、もっと速く。馬に鞭を打つような気分で、俺は待ち切れずに足を揺らす。
窓に映る町並みを見る度に、昔の記憶が想起させられた。
初めて小学校に入って、何もかもわくわくしていたこと。
よく連れて行ってもらった公園が、とても素敵なところだったこと。
両親に連れられ、あの商店街を歩いたこと。
その中に咲いていた一輪の花に、目を奪われたこと。
両親にそのことを話したら、よく分からない大人とカメラが多数押し寄せたこと。
そこからは、もう夢のような時間だった。あの憧れのお姉さんが、俺とデートしてくれたのだ。
一緒にあの公園に行って、一緒に弁当を食べて。キャッチボールしたり、手を繋いで散歩したり。本当に、夢のような時間だった。いや、そんな言葉では表現しきれないほどに素敵な時間だった。
あの時の俺は、意味もよく分かってないのに告白をして。そしたらお姉さんは、待ってると言ってくれて。
それだけで、俺は今日まで生きてこられた。年齢差とか、そんなのどうでもよかった。ただ、あのお姉さんと一緒にいられると思うだけで心が躍った。
これから一緒に、何をしよう。
まずは、色んなところにおでかけをしたい。お姉さんと一緒に、北海道や沖縄なんて日本の端に行きたいな。海外、なんて冒険してみてもいいかもしれない。英語、結構得意だし。
一緒に、美味しいものも食べたい。そりゃあ、美味しいものを食べようと思ったら東京に行くのが手っ取り早いけど。でも、そうじゃないよね。一緒に旅行して、そのご当地の美味しいものを食べる旅。なんて素敵なんだろう。
ファッションも楽しんでみたい。やっと制服やジャージの日々から解放されたんだ。新たなチャレンジというものをしてみたい。お姉さんの綺麗な姿を、もっともっと見てみたい。
一杯遊びたい。カラオケやボウリング、アウトドアにウィンタースポーツ。どれもこれも、あまりやったことがないけれど。だからこそ、お姉さんと一緒に挑戦していきたい。遊んで、心の底から笑いたい。
あとは――お姉さんと、幸せに暮らしていければいいな。
電車はようやく駅に辿り着いて、俺はとにかく駆け出した。
電車とホームの隙間を飛び越えて、改札を雑にくぐり抜けて。
あの商店街は、駅から若干の距離がある。バスならば五分程度で着くけれど、わざわざバスを待つのも惜しい。だから俺は、続けて走った。あの商店街に向けて走り続けた。
小さい頃の、頼りない俺はもういない。
両親やテレビ番組の力を借りなければ、何もできない俺はもういない。
今の俺は、ほとんど大人だ。
やっと、やっとお姉さんに会いに行けるようになった大人なんだ。
「……っは、はぁっ……」
息が上がる。野球部だった癖に、まるで息が続かない。引退してからも、小まめに運動は続けてきたはずなのに。
それでも体が、とても重いんだ。まるで鉛になったみたいに、思うように動かない。
やっとお姉さんに会えるって思うと、何だか凄く緊張してきて。もう少しだというのに、不安のようなものが押し寄せてきて。
引っ越して、もう十年近く経っているのだから。あのお姉さんと、もうそれくらい会っていないのだから。
だからかな。だから、こんなに遠く感じるのかな。
あのお姉さんが、ずっと手の届かないところにいるように感じる――――。
「……は?」
商店街に、一輪の花が咲いていた。
燃えるような橙色が、轟々と音を立てて咲いていた。
「……何だ、これ……」
ゆらゆらと、紅蓮の花が揺れている。花弁の一つ一つが、大きく膨れ上がるように揺れている。
がたっと音を立てて、何かが崩れ落ちた。真っ黒に染まったそれが、恐ろしいまでのにおいを放っていた。花の香り――とはとても言い難い、悍ましいまでのにおい。
黒い。
臭い。
熱い。
異臭がする。思わず、顔をしかめてしまう。熱気が、薄く俺の顔を焼いているのが分かってきた。
それでも、俺の足は止まらない。一体何が起きているのかはまだ理解できなくて、ただそこに歩み寄ろうとして。
その瞬間だった。
「君、止まりなさい!」
突然、橙色の服に身を包んだ男に引き止められる。分厚い手袋に、俺の腕が掴まれる。
一体誰だと、その姿をよく見てみれば。
俺を止めるその人は、消防士の姿をしていた。彼も、そのまた後ろの男も、みな似たような恰好をしている。バリケードの中に入り込んだ消防車で、揺れる花と懸命に向かい合っていた。
「……俺、あの店に行かなきゃ……」
「何を馬鹿な。今あそこは火事の真っただ中だ。下がりなさい」
「……火事? 火事って――」
「あぁ。ここには煙も届く。もっと離れてくれ」
彼に肩を掴まれ、無理矢理そこから引き離されて。
俺があの店に辿り着くことは、結局なかった。
◆
「本日十四時に、○○商店街で火災が発生しました」
追いやられた俺に向けて、外に設置されていたテレビが喋る。そこに映し出されていた番組は、ローカル番組のニュースだった。
俺がいたあの商店街で火事が発生した。
狭い路地の中に建っていた花屋が、全焼した。
焼け跡から、女性店員の遺体が発見された。
火事の原因は――現在調査中とのこと。
「……あ」
遺体の身元は、簡単に判明した。
判明した故に、その本人の写真がモニターに映し出された。
確かに、顔は少し違う。あれから十年経って、より大人の女性らしくなった。
しかし、面影は彼女そのものだ。愛嬌とも言うべきか、人を惹きつける魅力をもったその表情。確かに彼女は、そこにいた。
「……そんな、嘘だろ……」
まさか、こんな形で再会を果たすなんて。
まさか、こんな形で再び離れてしまうなんて――――。
行く当てもなく、歩いていた。
俺にはもう、何もかもどうすることもできず、ただとぼとぼと歩いていた。
お姉さんが、死んだ。
あの優しいお姉さんが。綺麗で、包み込んでくれるようなあの女の人が。あの夢のような日々を全部呑み込むかのように、あの揺れる花の中に溶けていく。
どうしてだろう。
こんな、あまりにも唐突な行き先は全く考えていなかった。
お姉さんが、もしかしたら新しい人を見つけて結婚してしまっているかもしれない。そんな不安は、常に俺を苛ませていたけれど。でも流石に、こんな結末は予想だにしていなかった。
これから俺は、どうすればいい?
彼女ともう一度会うことだけが、生きる希望だったのに。
それがなくなって、行き先を見失ってしまって。俺はこれから、どうすればいいんだろう。
ただ眩しい夕陽だけが、俺の視界を焼いていた。河原から見える丸い夕陽が、とても見ていられなかった。この色が、俺はどうしようもなく嫌いになりそうだ。
「……おや、君は」
細めていた視界。橙色に溶ける景色。
背後からかけられる、どこか聞き覚えのある声。
「……あなたは……」
振り返った先に、男が立っていた。
やや太り気味で、眼鏡をかけた男。随分と昔に、会ったことがあるような気がするその顔。
「やぁ、見違えたけど……随分大きくなったね、君」
懐かしそうだ。彼の様子は、その一言に尽きる。
夕陽の眩しさではない、まるで思い返すような素振りで、彼は目を細めていた。その曲線に、俺は見覚えのような感覚を強く感じた。
「……あなたは、もしかして」
「はは、僕はそんな変わってないでしょ? おっさんだからね、ははは」
彼は嬉しそうに笑う。何度もテレビで見た顔が、そこにあった。面白おかしく笑うあの顔が。
あのよく分からない番組と、同時に訪れた大量のカメラ。それらを先導していたあの男。いつかの番組で俺にマイクを向けていたタレント――目の前のこの男は、その人だった。
「どうして、ここに?」
「今日はもう収録が終わったからね。今は少しばかり散歩しているのさ。君は……ずっとここで?」
「いえ、そういう訳じゃ……」
そう問われると、俺は思わず目を伏せた。
ずっとここにいた訳じゃない。久しぶりにここに帰ってきたんだ。あなたがチャンスをくれたあの人に、また会うために。
そんな言葉が溢れ出るけど、とてもじゃないが言葉にできなかった。それより先に、嗚咽が溢れ出してしまいそうだった。
「……何か、あったんだね」
人からの依頼を受けること、それを仕事にしていた彼の勘が働いたのだろうか。
まるで何かを察したかのように、少しばかり眉間に皺を寄せて。そうして、僕の手を引いては河川敷へと座らせた。
「まぁとりあえず、これでも食べなよ」
そう言いながら彼が出したのは、一つの小包。『カーネーション』という名前の、子どもに人気のお菓子だった。
「……青色」
そのお菓子には、包みの色が複数ある。その色によって、味も異なるという贅沢なものだ。
僕がもらったのは青色。青色だけど味自体は何も関連がなく、チョコチップの甘い香りがした。
「……悩み事かい? 勉強? それとも、恋愛?」
「…………」
「懐かしいね。君が依頼をくれた時も、恋のお話だったねぇ」
いよいよ、俺は何も言えなかった。
彼の懐かしむような言葉の一つ一つが、激しく俺の心を穿ってくるように思えてくる。
「……今回は、どんなことに悩んでいるんだい?」
「…………」
「真夜中のミッドナイトスクープは、どんな依頼にも全力で応える番組だ。もしかしたら、君の悩みを何とかできるかもしれない」
「……何とか、できる?」
随分と無責任なことを言う人だ。
どんな依頼でも?
全力で応えるだって?
たかがテレビ番組でしかないのに、何をそんな神のようなことを――――。
「……ろよ」
「ん?」
「そこまで言うんだったら、叶えてみせろよ……」
堰き止められなかった涙。抑えられなかった嗚咽。
口調の割に、嫌に弱々しい声しか出ない。もう何も抑えられなくて、俺はぽろぽろと涙を溢した。思いのままに、胸に詰まった言葉を溢した。
「……あのお姉さんと、一緒に生きたかった……。隣で、俺も一緒に年をとりたかったよ……っ!」
あの人は、もういない。
もうどうやっても、一緒にいることはできやしない。
こんな男にそれを言ったって、どうにもならないことは分かっているのに。それでも俺は、この濁流のような思いを抑え込むことができなかった。
「……そうか」
この人といると、昔を思い出すからだろうか。まるで子どものように、俺は泣きじゃくる。
――それを前に、彼は意を決したかのように立ち上がった。
「……実は、当番組の依頼者はね、君で丁度一万人目なんだ。記念、ということで少しばかり奮発しようと思っていたけれど――これは、人肌脱ぐしかないかもしれないなぁ」
「……え?」
そう言いながら、彼はそっと俺の手を掴んで。
「これじゃあ番組にならないけど、サービスだ。君の依頼、叶えよう」
ふざけている訳でも、冗談でもなんでもない。
彼は至って真面目な表情で、さらに言えば何とも無機質な表情でそう言った。それはまるで、人の形をした何かのような。彼の輪郭線が歪み、形という形のない物凄く不気味な何かに見えた。
「……は?」
「まぁ、頑張れよ」
空洞のように空いた彼の顔が、にこっと笑ったら。彼のもう片方の指が、ぱちんと弾けるような音を奏でたら。
途端に俺の視界は暗転して、全てが翻る。まるで落下するかのような気持ちの悪い感覚が腹を抑えつけて、俺はどうしようもなく意識を手放した。
○
●
○
「……て……」
やけに高い声が、俺の耳を穿った。
「……きて……」
何度も俺を呼びかける声。羽で撫でるような、跳ねるような声。
「……てよっ、起きてよ!」
ばちんと、視界が反転。
まるでバネが弾けたかのように、俺の意識が戻ってきた。
「わぁっ!」
思わず飛び起きて、重い瞼を強く開いて。
言いようのない感覚に、冷や汗が止まらなかった。動悸が収まらず、胸の内が激しく痛む。
一体、これは何なんだ。俺は一体どうなった?
確か、確かあのタレントの男に出会って。
彼が下らない話をし始めるから、俺もついつい抑えが効かなくなって。
漏れ出た本音に、彼は応じた。応じて、指を鳴らして――――。
それから俺は、どうなった?
「……だいじょうぶ?」
ふっと、視界に入る黒い髪。心配そうに覗き込んでくる、幼い少女。
「……え」
まるで黒曜石のように、深い黒色だ。髪も、瞳も。見つめられると吸い込まれそうになるほど深い色。
一瞬、錯覚した。
あのお姉さんが目の前にいるのかと思った。
「……君は……?」
だけど、背丈は比較するまでもなく小さい。座ってる俺の目線とさして変わらない高さの目線。それは、彼女がとても小柄ということを表していた。小学生にも届かないほどに、幼いと。
面影はあった。けれども、目の前の彼女は、どう見ても就学前の少女。髪もまだ首にかかるくらいしかなくて、あのお姉さんとはどう見ても別人だ。
ダメだ。現実を受け止め切れないのだろうか。似ている、と思った人を俺はそう見てしまうのだろうか。
「呼んでも全然起きないんだもん、お寝坊さんだね」
「……え? あ、えっと……ごめん?」
「もう、今日は一緒に遊ぶって約束してたでしょー。早く起きて、遊ぼーよ!」
いまいち状況が掴めていない俺の手を、少女はぎゅっと掴んで。彼女に手を引かれるままに、俺は起き上がるけれど。
そこで俺は気付く。俺の体に起きた異変に、今ようやく気付いた。
「えっ……なんっ、何だっこれ……っ!?」
やたらと、地面が近かった。
やたらと、視線が低かった。
やたらと、世界が大きく見えた。
「えっ、なっ、えぇ……!?」
きっと少女からしたら、突然慌てふためいた俺を変に思ったのだろう。こてんと、可愛らしく首を傾げていた。
とはいえ今の俺には、そんなことに反応している余裕もなくて。
ただ周りを見渡して、不意に目に入った鏡のせいで頭が真っ白になる。そこに映り込んでいた姿を見て、愕然としてしまう。
心なしか、膝が激しく笑ってるような気がした。
「……子ど、も……?」
その鏡に映っていたのは、確かに俺。だけど、俺じゃなかった。
十八歳の俺はもうどこにもいなくて、全く別の顔をした誰かがそこにいた。寝癖のついた幼い少年の姿が、そこにあった。
◆
高校生の次は、何になるか。
俺は迷わず大学生を選んだ。受験戦争も勝ち抜いた。俺は春から、立派な大学生になる――はずだった。
誰が予想しただろうか。高校生の次に、五歳児になるだなんて。
「あーそーぼー!」
インターホンがあるというのに、わざわざ叫んでいる声が耳に届く。
向かいの家に住んでいるあの女の子だ。先日、俺を起こしたあの少女の声だ。
俺には、もう俺の面影がなかった。全く別の顔だった。
こんな幼い顔だから、面影を探すというのも少し難しいけれど、それでも高校生の俺と今の俺は、全く違う顔をしている。実際、昔のアルバムを思い返してみても、小さい頃の俺はこんな顔じゃなかった。時々両親が見返していたあの番組の俺も、こんな顔はしていなかった。
ということは、どういうことだ。
俺は突然、別人になったとでもいうのだろうか。
「ねぇねぇ、あそぼ?」
母親――と思しき女性に、家に入れてもらったのだろうか。あの少女が、またもや俺の前に立っている。
俺の姿には、まるで思い当たる節がない。
けれど、彼女の姿を見てみれば――――見れば見るほど、どこか見覚えのある姿だった。
「……?」
こてんと、首を傾げる仕草。小動物のような、愛嬌に満ちたその仕草。
見れば見るほど、似ている。あのお姉さんに、そっくりだ。
「どしたの?」
「いや、あの……」
お姉さんに似てるね、なんて言ってみても、彼女に伝わるとは思えない。だから言葉を濁してはぐらかすけれど。
でも、やはりそっくりだ。あのお姉さんの幼い頃です、なんて言われたら、信じてしまいそうなほどそっくりだ。
お姉さんに似ている少女。もしかしたら、妹だろうか。いや、流石に年が離れすぎているだろう。
だとしたら、姪っ子か。それとも、あまり考えたくはないが、娘――とか。
「ねぇねぇ見て見て! 今日ね、お母さんからお手紙もらったの!」
そんな俺の悩みも蹴散らすように、少女が一枚の紙切れを突き出してきた。
そこには母からのお手伝い有り難うという一言から始まる、娘へのメッセージが記されていた。
「……お手伝い、したの?」
「うん! 机拭き!」
「へぇ……これからもやってくれたら嬉しいな、だって」
最後の一文を何となく口にした。本当に、何も考えずに彼女にそう投げかけた。
しかし、彼女は一瞬きょとんとして。そうかと思えば、その大きな瞳を宝石のように輝かせる。
「……すごい」
「え?」
「すごい、すごい!」
突然、彼女は跳ねた。うさぎのように、ぴょんぴょんと跳ねた。
「すごい! 字、読めるの? すっごーい!」
「え、あ……」
そうか。そうだ。
今の俺は、五歳児だった。目の前にいる彼女も、見た感じ俺と同じくらいの年齢だ。
つまり、文字が読めるにはまだ至ってない訳で。
つまり彼女は、この手紙の言葉もまるで読めずに持ってきたのだ。
「ねぇねぇ、ここはなんて書いてあるの?」
「『お母さんより』、だよ」
「おぉぉー! じゃあ、ここは?」
「え、えーっと、これは『おてつだい感謝状』って書いてある」
「かんしゃじょー?」
「有り難うのしるしってこと」
「わぁぁ! じゃあ、じゃあここ!」
次に彼女が指差したところには、丁度彼女の名前を当てた言葉が刻まれていた。
一字一句、俺はそれを見る。まるで釘でも打たれたかのように目が離せずに、その文字の羅列に吸い込まれそうになった。
俺が何度も見返した文字列。
憧れと胸の中の想いをずっと温め続けたその相手。
そこに記されていた名前は、見覚えのあるものだった。ずっとずっと、何度も呼び続けたその名前。世界で一番綺麗な響き。
――あのお姉さんの名前が、そこにあった。
どうやら、予想以上に凄い事態に巻き込まれたみたいだった。
あの女の子はお姉さんの血縁関係に当たる人なのかな、とか。ただの一時的な夢なのかな、とか。
色んなことを考えるけれど、俺がこの少年の体から抜け出ることはなかった。もう二週間も経った今でも、未だ予兆すら見られない。
俺は本当に、五歳児になってしまったのだろうか。
俺は本当に、別の誰かになってしまったのだろうか。
未だに覚めない夢なのだ。もしかしたら、もう覚めることはないのかもしれない。そもそも、夢どころではないのかもしれない。
カレンダーを見た。トイレにかけられていたカレンダーを見た。
西暦がおかしかった。和暦も、大きくずれていた。
俺がいた頃は、平成最後の年。天皇が生前退位をするとか何とかで、年号は来年から変わるという土壇場の時期だった。
けれど、目の前のカレンダーが指しているのはなんだ。
初めて見た時は、笑ってしまった。目を疑うとか、そんなレベルじゃない。もう、笑うしかなかった。
昭和。
そんな年号が、でかでかとカレンダーに乗っている。
つまり、今がまだ昭和時代であることを如実に表しているのだった。
別の誰かになっているだけでも、もはや理解が追い付かないのに。そこに時代が昭和ときたもんだ。本格的に頭がおかしくなってしまったのか。それとも、本当にタイムスリップでもしてしまったのか。
憑依、なんていうジャンルがある。
二次創作なんかでよく使われる、人気のジャンルの一つだ。
それはその言葉の通り、別の誰かに憑依すること。例えば漫画やゲームの世界で、そこの登場人物に憑依した高校生が、波乱万丈な展開に巻き込まれていく――なんて。そんなありきたりなストーリーだ。
これも、もしや憑依なのだろうか。この幼い少年に、俺は憑依してしまったのか。
「……むしろ転生の方が笑えるし、ウケるよなぁ」
あの時に俺も死んで、今こうして別の誰かになっている。
転生して、新たな人生を歩もうとしている――とか。
いやいやいや。百歩譲って生まれ変わりだとしても。前世の記憶があるとしても。
何故俺は、過去にいるんだろう。自分が生まれるよりずっと昔、下手したら両親すら今の俺とそう年が変わらないかもしれない。そんな時代に、何故俺はいる?
考えてみろ。
俺がこうなった原因を。
――あのお姉さんと、一緒に生きたかった……。隣で、俺も一緒に年をとりたかったよ……っ!
半ば独白のように吐いたあの言葉。
あの番組のタレントと偶然出会い、彼を前にして零れ出たあの言葉。
そうだ。
確か俺はあの時に、あのタレントに会って。そこでお菓子を――カーネーションの青色を貰ったんだ。そうして、彼に何を悩んでるのかって聞かれて、だから俺は吐き捨てるようにそう言って。
そこから――そこから、どうなった?
彼が叶えようと言って、指を鳴らしてから――俺は一体、どうなった?
こうだ。
昭和の時代に、どこかの一般家庭で。そこの息子として、今五歳児になっている。
それが今の俺だ。
「……もしかして」
一緒に生きたかった。一緒に年をとりたかった。
そんな俺の願いを、あのタレントが叶えたのだろうか。たかがテレビ番組が、俺を全く別の誰かに変えたとでもいうのだろうか。
馬鹿馬鹿しい。
そんなこと、ありえるか。ありえてたまるものか。
テレビ番組が? あのどんな依頼でも叶えるという真夜中のミッドナイトスクープが?
俺を、全く別の誰かにした? 時間ごとずらして、こんな幼児に変えたとでも――――。
「……あ」
不意に、あの少女の顔が脳裏をよぎった。
お姉さんと全く同じ名前をした彼女が。あのお姉さんをそのまま幼くした少女の姿が。
まさか。
まさか、そんな馬鹿な。
こんなの、ありえない。こんなことが起こるだなんて、とてもじゃないが信じられない。
「……まさか、俺はお姉さんの幼馴染になって、ここにいる……?」
あのタレントが俺の願いを汲んで叶えたのが、これか?
お姉さんと一緒に生きたかった。
今、確かに彼女はそこにいる。あの火事で死んでしまった時よりもずっと前で、俺と同じく幼児となってそこにいる。
お姉さんと一緒に年をとりたかった。
俺は今、彼女の幼馴染としてここにいる。毎日一緒に遊んで、一緒に笑いながら過ごしている。
「……マジかよ……」
あの男は、本当に叶えたのだ。
俺の願いを、言葉通りの形にしたのだった。
こんなこと、信じられない。けれど、今目の前がまさにそうなのだから。信じられないが、そんなこと関係ないと言わんばかりにそこにあるのだから。
俺は確かに、ここにいるんだ。
信じられない。信じられないけれど――俺にとっては、願ってもない状況だった。
「……今なら、やり直せる。お姉さんと、やり直すことができる」
あの幼い子どもとして、ではなく。
年の離れた女性に、ただ恋い焦がれるのではなくて。
今の俺なら、幼馴染として彼女の傍にいられる。仲良しな同い年として、彼女と一緒にいられるんだ。
「……よし」
まぁ、頑張れよ――か。
あの人の言った言葉の意味が、ようやく分かってきたような気がする。
とりあえず盛大な一発をかましたところで、俺は幼児用の便器を降りた。あの少女に、いつの日かあのお姉さんになる少女に会いに、ドアノブへと手をかけた。
◆
地域の、同じ小学校に入学した。
クラスは別だったけど、そんなのは関係なかった。帰りの会が終わればとにかく彼女の教室までいって、そこで合流して一緒に帰る。低学年の頃は毎日だ。中学年になって、他の子と遊ぶことも多々あったけれど。それでも、小学校の卒業まで俺たちは一緒に帰り続けた。
中学校となると、なかなか一緒に帰るというのは難しかった。
二人とも、地域の公立校へと入学した。徒歩で通える身近な学校だ。
俺も彼女もそれぞれ別の部活に入ったために、時間もほとんど合わなくなる。それに男子と女子の対立みたいなのがあって、学校では少しばかり距離を置くようになった。
とは言っても、家は相変わらず向かいにある。夜はどちらかの部屋に転がり込んで喋ることもあったし、週末は一緒にでかけることも多かった。
年を重ねれば重ねるほど、彼女は綺麗になっていく。十四歳の彼女は、あのお姉さんの面影を見せる少女となった。肩まで伸びた黒髪がとても綺麗だった。
その姿を見ると、俺はますます確信する。
本当に、彼女はあのお姉さんなのだと。あの時死んでしまったはずの彼女が、今こうして、昔の姿で生きているのだと。
――そう考えれば考えるほど。
俺は自分の想いに歯止めが効かなくなった。彼女に恋い焦がれる気持ちが、高校生だった頃より、あの七歳児だった頃よりも断然強くなった。
随分と早い告白だったと、我ながら思う。ただ直球に、俺は彼女に自分の想いをぶつけた。中学二年の夏祭り。青い花火が瞬いた時だった。
「……うそ」
「嘘なんかじゃ、ない。好きだ」
「……っ」
「ちっさい頃から……いや、もっと前から好き……でした」
そう言いながら、俺は彼女のか細い手を取って。
「……俺と、付き合ってください」
俺にとっては二度目となったその告白に、彼女はその瞳からぽろぽろと涙を溢す。黒曜石から零れ落ちる宝石のような、キラキラとした涙。
花火の光に当てられたせいだろうか。それとも、もっと別の理由だろうか。
夜の闇の中だというのに、彼女の顔が真っ赤になっていること。俺はそれに気付いていた。
一緒に並んで歩いていたのが、今では手を繋いで歩くようになった。
桜並木。薄桃色の花吹雪に彩られた、華の高校時代だ。あのお姉さんが、今俺の恋人として傍にいてくれる。これ以上ないほど、幸せな時間だった。
「……放課後、会える?」
「うん、会えるよ」
「ほんと? じゃあ部活終わったら連絡するね!」
そんな彼女の言葉に、小さく頷いて。名残惜しいけれど、自分の掌の力を軽く緩める。
柔らかい手の感触が消えた。分かれ道で、彼女と道を違えた。
俺は公立の普通科高校に進み、彼女は私立の女子高へと進んだのだ。とうとう、学校も別々になってしまったけれど――心は、常に傍にあるような気がする。
毎日、連絡を取り合った。
会える時は会って、一緒にカフェに行ったり、デートをしたり。
受験期は一緒に勉強したりして、休憩と称してくっついたりして。
小さい頃からの憧れだった彼女と、俺は今こうして一緒にいられるのだ。それは俺たちが大学生になっても同じ。高校生から大学生と、俺たちは変わらぬ関係のまま過ごしている。
そう、大学生だ。
以前の俺がなれなかった大学生。俺はようやくそれになることができたのだ。
気付けば、随分と長い時間が経ったような気がする。この体になってから、もう十年以上だ。もう少ししたら、俺は今の方が長く生きていることになる。
最初はこんなのただの夢だと思っていたけれど――今は、これが夢じゃないことを願ってならない。夜寝る度に、目が覚めたら全部夢だった、なんてことにはならないようにと。そう祈るくらいに、俺は今の生活が大切だった。
でも、大丈夫だろう。
十三年と数十日の間、寝ては起きてを繰り返してきたのだ。
きっと、これが現実だ。あのタレントがくれた最後のチャンス。俺はそれを、ものにできたんだ。
バイト帰り。人が混み合う駅のホーム。
柱の隙間から垣間見える月を眺めながら、俺は確信めいた思いで自分にそう言い聞かせていた。
相変わらず、東京の駅は随分と混雑しているけれど。でも今の生活の満足感を思えば、こんなの全く苦にならない。
大学を卒業して、社会に出たら。
今の同棲生活も卒業だ。もうワンステップ、踏み込もう。
俺は晴れて彼女にプロポーズして、前の俺では叶えられなかった夢を叶えたい。
今度こそ、今度こそ――――。
●
○
●
丹精込めて育てた花は、いつか綺麗な花を咲かす。
そんなことを言いながら、貴方は私に花の育て方を教えてくれたよね。君にはこの花が似合うよ、って。そう言いながら、青のカーネーションを贈ってくれたよね。
私、嬉しかったよ。今まであんまり花に興味はもってなかったけど、貴方がくれた花はとても綺麗に見えた。照れくさそうに逸らした貴方の横顔が赤く染まってたことも、よく覚えてる。
私が花を好きになったきっかけは、貴方だったんだよ。
いつか、小さくてもいいからお花屋さんをやりたいなって言った私に、貴方は嬉しそうに微笑んで。応援するよって言ってくれたこと、忘れないよ。あのたんぽぽみたいに温かな笑顔、ずっと心に残ってるんだよ。
分かってた。
花は、とっても綺麗。
綺麗だけれど、いつか枯れてしまうだなんてこと。
私は分かってた。
――分かってたつもりだった。
「…………」
指に絡まった数珠が、小さな悲鳴を漏らす。赤く腫れてまともに前が見えない私を、まるで慰めるかのように。水晶の部分が照明を反射させて、ちかちかと輝いていた。
けれど、そんなのはどうだってよくて。
黒い縁に包まれた貴方の顔の前では、もう何も考えられなくて。
いつか枯れるのは分かってたけれど。
でもこんなに早く枯れるだなんて、思いもしなかった。
彼は、唐突に帰らぬ人となった。
事故だったのか、それとも事件だったのか。東京の混み合った駅にいた彼は、そこで小さく枯れてしまった。
ホームから押し出され、駆け込んできた電車に呑み込まれてしまったらしい。ただ、不幸な事故だったと。警察官が私にそう告げて、知らぬ間に彼を見送る準備が進められた。
大学二年生。まだ二十歳になったばかりだったのに。それなのに、彼は旅立ってしまったのだ。将来を誓ってくれた彼は、私を置いて手の届かぬところへ行ってしまった。
こんなの、あんまりだ。
本当に突然過ぎて、理解が追い付かない。
「……酷いよ」
やたらと広くなった部屋の中で、私は写真の中の彼にそう言うけれど。
でも、彼が悪い訳じゃない。本当に、不幸だっただけだ。彼が進んで、私を置いていこうとする訳がない。いつも私の方を見ながら、歩幅を合わせてくれるもの。そんな、そんな優しい彼だったのに――――。
もう、いない。
もう、どこにもいないんだ。
◆
遺品整理。
彼が残したものを、私は無心に整理していた。
よく一緒に食べたカーネーションのお菓子。
読みかけの漫画。
使い古した机に、旅行の度に持ち歩いていたキャリーケース。
どれもこれも、思い出深いものばかりだ。見る度に、彼との思い出が私の中で蘇る。
一緒にお菓子を食べながら、テレビを見ていたよね。洋画のアクションシーンに盛り上がったり、恋愛映画にときめいたりして。
漫画も、色んなものを交換して読んだよね。彼は少年漫画を、私は少女漫画を。趣味はちょっと違ったけど、おすすめのものをずっと前から交換し合ったね。それの話をして、とても楽しかった。
大学の課題の相談も、よくしたよね。文献を調べなきゃって、貴方はこの机でよく唸っていて。私は花に水をやりながら、その愚痴に耳を傾けて。何だかんだ言いながら、貴方は真面目に取り組んでた。よく机に、読めない字でメモを書いてたね。
旅行。そうだ、旅行。色んなとこに行こうって話してたのに。結局、近場のところにしかいけなかったよね。折角こんな良いケースを買ったのに、一番遠出して金沢だった。向こうの魚、美味しかったよね。
「……北海道にいく計画、立ててたのになぁ」
子どもみたいに笑いながら、貴方がガイドブックを読んでたことを、私はよく覚えてる。
まだずっと先のことなのに、もうケースに荷物を詰めようとしてたことを、私はよく覚えてるよ。
「……冷たい」
触れれば、秋風のせいか少しばかりひんやりとしていて。そこに積もっていた埃も相まってか、跳ね返る夕陽の光が眩しかった。
折角だから、掃除しよう。
そう思いながら、私はそのケースのチャックを開けた。重い片面ががばっと開き、その中身が露わになる。
「……?」
黒い布で作られたその中身に、白い紙が入っていた。
四つ折りにされたそれは、文字の羅列が刻まれた小さな紙。
そこにある、手癖の強い字。
何度も見つめた、彼の乱雑な字。
「……手紙?」
開いてみたら、そこには堂々と私の名前が記されていて。まるで殴り書きのようだったけど、それでもそれは、確かに私宛の手紙だった。
『君にしてもらいたいこと』
『何だか言葉にすると気恥ずかしいから、文字にして書いておこうと思う。もし君がこれを一人で見つけたとしたら、それは俺がもう死んでるからかもしれないけど』
随分とくさい文句だなぁ、と私は少しだけ頬を綻ばせる。
『大きくなったら、君と一緒にしたいと思うことをリストアップしておこう。きっと楽しいと思うし、素敵な思い出になると思う。だから、できれば一緒にやりたいけれど、そうじゃなくても君にしてほしいなって。なんたって、俺は君に幸せになってほしいから』
置き手紙。もしくは、遺書。
多分、彼のことだからそういうつもりはあまりなかったんだろう。あくまでも、文字にして残そうとしてたんだろう。使い古された机に遺された大量のメモ書きもあって、つくづく彼らしいなって思った。
彼の、最後のお願いだ。
もう二度とない。彼の私に対するお願いだった。
だったら、それを無下になんてできない。そう思いながら、私は彼の言葉の一つ一つを凝視する。
『①美味しいものを、お腹いっぱい食べること』
私は、とりあえずお寿司屋さんに駆け込んだ。
カウンター席を陣取って、とりあえずエンガワを注文する。
一人寿司なんて、初めてだったけれど。でも、誰の目も気にしないで、とにかく好きなものを頬張るの。美味しくて、美味しくて、涙が出た。たぶん、わさびのせいではなかった。
『②ファッションを楽しんで。君はとっても可愛いんだから』
彼に可愛いって言ってもらえるのが嬉しくて。でもあまり勇気が出なかったから、いつも無難な服を選んでた。
彼がいなくなって、新しいものにチャレンジするなんて。そんなの、笑い話もいいところだけど――――。
少し派手な服に身を包んだ私は、何だか私じゃないみたいだった。茶色に染めた髪を見たら、彼は何て言うのかな。可愛いって、言ってくれるかな。
『③たくさん遊ぼうね。カラオケとか、遊園地とか。思い出をたくさん作ろう』
一人でカラオケに行った。何時間も歌った。それに飽きたら友達と一緒に行った。
遊園地にも行った。ボウリングだってやった。長いことテニス部だった癖に、あんまりスポーツは上手になれなかったけど。それでも、初めてチャレンジしてみたアウトドアスポーツはとても楽しかった。スキーは上手くできなかったけど、友達が丁寧に教えてくれて。大学三年の冬には、とうとう一人で滑れるようになったんだよ。
『④旅行も行きたいね。遠いところ……海外とかさ』
卒業旅行で、台湾に行ったの。仲良し四人組で、色んなとこに回ったよ。
ねぇ、たくさん写真撮ってきたの。見て見て、九フンっていうところ。あの映画のモデルになったところだよ。ほら、女の子が神様の世界に神隠しになっちゃうやつ。何回も、一緒に見たよね。
社会人になって、もっとお金貯めたらさ。私もっと遠いところに行ってみたい。オーロラ、見たいなぁ。絶対、写真撮ってくるからね。
『⑤どうかいつまでも、元気に長生きしてください』
うん。
私、元気だよ。
社会人になって、仕事は大変だけど。でも、元気にやってるよ。もう何も、心配いらないよ。
◆
彼の言葉の一つ一つが、とっても優しくて。読み返す度に、涙が溢れ返りそうになるけれど。
でも、そんな彼の言葉に支えられて、私は今こうして元気に生きている。花の匂いを感じる度に、貴方の声を思い出すんだ。
確かに私と貴方はもう別々になってしまったけれど、それでも貴方の声が聞こえるような気がするの。別の姿になって、同じ眼差しのままで。いつかまた会いにきてくれるような、そんな気が。
貴方がいなくなったこと、忘れた訳じゃないよ。受け止めてるよ。ちゃんと抱き止めてるんだよ。
でも貴方が元気でいてほしいって願うなら、私はそれに精一杯応えたい。いつか貴方が、また私のところに来てくれたなら。二十歳の頃よりもっと素敵だって、思ってもらいたいから。可愛いって、言ってもらいたいから。
私、夢を叶えたの。
貴方が応援してくれたおかげだよ。お花屋さん、開けたんだよ。
まだまだ小さいお店だけど、やりたいことを仕事にできてるの。都心から離れた商店街だけど、結構お客さん来てくれるんだよ。
そりゃあもちろん、失敗もたくさんあるけれど。でも私、今が凄く楽しい。貴方が今も見守ってくれているから。いつか、また会いに来てくれるような気がするから。
だから私、頑張るね。
精一杯、生きるね。
「――――真夜中のミッドナイトスクープっていう番組の者ですが、少しよろしいでしょうか」
それから、何度も太陽と月が追いかけっこを繰り返した頃。茶色が抜けて、黒に戻ってきた頃。
テレビで何度か見たことのある男が、店の前に立っていた。多数のカメラとマイクを引き連れて、私に一枚の写真を見せながら。
「あなたとデートしたいっていう少年がいるんですよ」
私の顔を見るや少しばかり目を丸くして、かと思えば柔和に細めるその男。
水やりの真っ最中だった青のカーネーションの香りが、何だかとても強くなったように感じた。
無限ループって怖いね(´・ω・`)
青のカーネーション。
花言葉は、永遠の幸福です。
元々は普通のおねショタだったんだ信じてくれよぉ。でも性癖に忠実になったらこんなに拗れてしまいましたどうしてこんなことに。
番組名、いろいろ混ざりましたね。こんな時間だと――テスト勉強しながら読んでる、金髪で眼鏡で小太りの、悪人顔の人もいるんじゃないのかな!
閲覧有り難うございました。