鬼少女の幻想奇譚 作:らくしゅみ
その日、博麗神社は閑散としていた。騒がしい客人の姿はどこにも見えず、夕闇の中をぽつんと御神木の梅が境内の石畳に影を落としているだけである。
「……遅くなっちゃった。早く夕飯作らないと」
笹帚を握りしめて、霊夢はつぶやいた。本当はもっと早くに掃除を終えて夕食を用意する予定だったのだが、午後にとった昼寝が少々長引き、始めるのが遅くなったのである。
(まあ今日は客もいないし、適当でいいかしら)
博麗神社を訪れる客がいるときはその分食事を出すが、客はたいてい何かしらの食材を持ってきているのでおかずが一品増える。しかし普段はそんな食材を買う余裕はないため、ご飯と味噌汁、運が良ければ川魚、といった粗末な食事になる。
「霊夢、いるかー⁉」
霊夢が箒を戻すため、納屋の方に向かって歩き始めた霊夢の耳に、魔理沙の声が飛び込んできた。空を見上げると、ちょうど魔理沙が急降下してきているところだった。よほど急いでいたようで、着地するやいなや、堰を切ったようにまくし立てた。
「多分、異変が起きた! 妖怪の山の近くを飛んでたら、ふもとの方で怨霊とか土蜘蛛がわんさかいたんだ。それでちょっとドンパチしてみたんだけど、なんせ数が多くて、私だけじゃ無理だ」
「ええ……それ本当に異変なの?」
正直に言うと、今から妖怪の山まで出向くのは面倒だった。確かに大量の土蜘蛛や怨霊が出てきているのは異常事態だと認めざるを得ないが、紅御前退治のおかげでまだ派手に神社の宣伝をする必要はなく、それに第一、腹がすいている。
魔理沙はそんな霊夢の心を見抜いたらしく、やれやれとばかりに肩をすくめた。
「まあ面倒なのは分かるけどさ……お前は絶対来ないといけないだろ」
「その通り」
突然横から口を挟まれ、霊夢と魔理沙は声のした方を向いた。そこにいたのは、見間違いようのない、九尾の狐―藍だった。藍は、腕組みをしたまま霊夢の方に向き直った。
「魔理沙の言った通り、これは異変だ。地底から逃げ出した怨霊を追って、地底の妖怪も妖怪の山の辺りを跋扈している」
「………ならいいんじゃない。そのうち帰るでしょ」
「よくない。これは口実だ。明らかに地上の妖怪への挑戦だ」
「地上の妖怪、ねえ……ならあんたたちで勝手にやってれば?」
馬鹿らしい、とばかりに霊夢は鼻で笑い飛ばした。妖怪の山が地底の妖怪に占領されようがされまいが全く霊夢に関係がないのである。レミリアや幽々子のときのような迷惑があるならまだしも、今回ばかりは興味の埒外だった。
騒ぎが大きくなれば出動するだろうが、藍としても騒ぎが大きくなる前に霊夢を動かしたかったのだろう。
「………なら、報酬は出そう」
「どれくらい?」
「………即決できないが、まあこれくらいは」
こしょこしょと霊夢と藍が交渉しているのを見て、魔理沙は呆れかえっていた。こんなことをしているのを見ているくらいなら、さっさと現場に急行した方が早い。
「もう、まどろっこしいぜ! 私は先に行くからな!」
魔理沙はそう言い捨てると、未だにそろばんを弾きあっている2人を残し、空へ飛び立った。
◆◆◆
くらいのはこわい。
夜の野山。風に揺られる草のさざめきに混じって、何かの気配を感じる。不意にうなじに生暖かい息を吹きかけられそうなほど、濃密な闇。どこか遠くから、青白く光るいくつもの目が私を探して近づいてくる。
私は辺りにいる何かに気取られぬよう、草むらの中で、息を殺しながらそれらが過ぎていくのを待っている。目をつむって開けたら、そこには私を見つけてにんまりと笑う何かの姿があるのではないか―そう思ってしまうから、目を閉じるということもできず、ただただ草むらの中で体をちぢ込めることしかできない。
やがて、息を吸うのが難しくなってくる。青白い目はすぐそこまで迫ってきているのに、呼吸は余計荒くなる。狭いところに隠れているせいか、それとも何かが瘴気を纏っていたせいか。
息をととのえないと。
ひたひたと、追手は傍にやって来る。それの正体は分からない。だが、私を追ってきているということだけは、はっきり分かるのだ。それは私が息を潜めている草むらの、すぐ横を通り過ぎる。まるですでに私の居場所を知っていて、じらすためにわざとやっているかのように、ゆっくりと―
不意に、右頬に吐息がかかった。
はじかれたように右を向いた私の目に見えたのは、爛々と光る瞳と、赤く、不気味な笑いを浮かべて横に裂けた口。叫ぶ間もなく、何かは飛び掛かって来た。
がくん、と高いところから落ちたような感覚とともに、私は目を覚ました。
目を開けると、そこはさとりの書斎だった。さとりの見張りをしに来たのだが、私がやってきた時、彼女は眠っていた。そのためソファに腰かけてさとりが目覚めるのを待っていたが、つい眠り込んでしまったらしい。
(……久々にあの夢を見たわね)
あれは里から追い出されて地底へ行くまでの間、数年ほど野山を彷徨ったときの記憶だろう。夢に出てきたのは狼か何かだったはずだ。今は無論敵とはいえないものだが、あの頃は野山の暗闇というものの恐ろしさをいやというほど思い知らされた。
勇儀様に名前をもらい、鬼としての力が引き出された時にようやく夜目が利くようになったが、それまでの夜は、恐怖の棲む場所だったのである。
「……全然ほどけない……こいしにはあとでガツンと言わないと……」
そのとき、私の耳にそんな声が聞こえてきた。さとりが目を覚まし、縄で縛りつけられた体を動かし、どうにかして抜け出そうとしているようである。私は前のように気分を損なわないよう、できるだけ刺激しないように話しかけた。
「おはようございます。気分はいかがですか」
声をかけると、さとりはぎろりとこちらをにらんだ。
「最悪よ。それとも何? 私が縛られて気分が良くなるとでも思ってたの? しかも居眠りして……本当に何しに来たの?」
「……私は異変が起きるまであなたをここから出さないためにいます」
―酉の刻(午後6時)になるまでさとりから目を離すな。
私が勇儀様から承った最初の指示だった。その後は自由だという。ある意味勇儀様らしく、実に分かりやすい命令だった。
「……異変……そんなの私は許可しないわよ」
「ですから勇儀様もあなたを真っ先に押さえたのだと思います。まあ迷惑はかけませんから」
「……もうかかってるの! ほんとあなたと関わるとろくなことにならないわ……」
縛ったのは私ではないし、別に私の意志でさとりを見張ろうというのでもないが、そう思われるのも仕方ない。部屋の柱時計に目をやると、もうすぐで酉の刻だった。
「少し辛抱していてください。すぐその縄をほどきますし、私も地霊殿から出て行くので」
「……なら最初っからそうしてよ。もう窮屈でたまらないわ」
私が縄を解き終わると、さとりは私の手を払って「どうも」と明らかに心のこもっていないお礼を吐き捨てるように言った。やはり、さとりとはつくづく相性が悪いようだ。お互いに離れていた方が楽でいいだろう。私も自分のしていないことで延々と文句を言われ続けるのは気分が悪い。
「では。そろそろ異変の方は始まってるでしょうし、これでお暇させていただきます」
「どうぞどうぞ。さっさと霊夢にボコボコにされに行きなさい」
霊夢。その名を聞いて、思い出した。どうして今まで気付かなかったのか。当然異変となれば無敵の彼女はやってくる。以前の対決では終始防戦一方で、反撃する暇さえなかった。あれが来るとなれば、いくら勇儀様でも一筋縄ではいかないだろう。
(………私が最初に相手をしようかしら)
パルスィやこいしなど、主な異変の参加者はあらかた地上へ出てしまっている。彼女らを呼び戻すのは面倒だし、何より霊夢は地上の敵を倒してからここへくるとは限らない。面倒くさがりの彼女だから、こちらがわざと放った怨霊が陽動、あるいはきっかけにすぎないと見抜けば不必要な戦闘を避けて直接地底へ侵入してくる。
しかしどの場合でも、霊夢は地底と地上をつなぐ洞穴を必ず通らなくてはならない。そこで待機していれば、霊夢もしくは別の調停者が現れるはずだ。もし霊夢を相手に回した場合私が勝てる見込みは1割もないが、相手のパワーを削れることができればそれでいい。私は消耗度外視で戦い、疲れた霊夢と勇儀様に戦ってもらうという寸法である。
そこまで考えたとき、私はもう地底の大通りを歩いていた。いつもは騒々しいこの道も、荒くれたちが地上へ行ってしまったため、いつになく静かだ。辺りを照らす篝火や灯篭も少なく、まだ夕方だというのに閉まっている店もある。
「……あれ、まだ行ってなかったんだ」
そう言いながら団子屋の中から出てきたのはヤマメだった。変わらずこげ茶のドレスをまとい、団子が歯につまりでもしたのかつまようじを器用に唇で動かしながら話しかけてくる。
「……ええ。私は地上には行かず、洞穴で待機するつもりです」
「お、大物狙いかな? ヤマメさんそういうの好きよ」
「ヤマメさんは行かないんですか?」
「うーん、私はいいかな。地上で病気が流行って私のせいにされるのも嫌だし。本物の死人が大量に出たら異変じゃないでしょ」
確かにあくまで異変を起こしたい勇儀様にとって、それが本気の殺し合いになるのは好ましくない展開だ。ヤマメが本気を出せば人里の1つや2つ、疫病で壊滅しそうなものだがそんな破壊力は異変、ひいては弾幕ごっこに求められない。
「ま、出来る範囲なら手伝ってもいいわよ」
「……じゃあ1つだけ頼まれてくれませんか」
◆◆◆
「……確かに今度の異変は何っていうか……やらせくさいよなぁ……」
最高速度で空を飛びつつ、魔理沙は眼下に広がる森を見下ろした。かなり暗くなったとはいえまだ地上の様子はかろうじて見える。その森のあちこに、妖怪らしき影がいくつもあった。
(藍の言う通り、本命は怨霊っていうより地底の妖怪の方か)
博麗神社の道中、多少の妖怪には遭遇したが、怨霊には一度も出くわしていない。そもそもの絶対数が少ないのだろう。
しかし大量の敵と戦う必要が無いとはいえ、この異変の本質が地底妖怪たちによるものなのだとしたら、当然魔理沙はわざわざ地底まで赴かなければならない。余計な魔力をここで失うわけにはいかないだろう。
(霊夢がさっさと来ればもうちょっと楽だがな)
だが、霊夢は紫からの「報酬」の交渉に忙しいらしい。まあ首を突っ込む必要は魔理沙にもないうえ、霊夢が遅れてくるというのは、魔理沙単独で異変を解決するチャンスでもあるのだ。
魔理沙は心の中でにやり、と笑った。これまでさんざん張り合ってきたが、完全な勝ちというのは少なかった。もともと凡人が天才に勝てるということ自体が少ないからである。
「……でも今回は、私が一番乗り……」
魔理沙がそう言いかけた瞬間、不意に山の向こうから魔理沙めがけて飛んでくる影があった。目を細め、よく見ようとすると、その点はだんだんと大きくなり、そしてその正体が明らかになったときにはすでに、フリルをあしらったスカートを揺らし、やってきた人物—古明地こいしが魔理沙を見下ろしていた。
「……あっはは、魔理沙み~っけ。ねえ、遊ぼうよ」
「残念だな。私は今、異変解決で忙しいんだ」
無意識で動いている奴などに構っているヒマはない。魔理沙がこいしを避けてそのまま通り過ぎようとすると、こいしは人さし指を魔理沙に向け、ばん、と言いながら拳銃で撃つような真似をした。
ばしゅっ、という音とともに少量の閃光が魔理沙の顔の傍をよぎり、長い尾を引いて遥か彼方へと飛んで行った。
「ちょっと、私も異変に参加してるんだから無視しないでよー」
「ああ、そうみたいだな」
魔理沙はため息をつくと、こいしに向けて、八卦路を構えた。
・霊夢は乗り気でない
基本的に面倒臭がりというのもあるが、地上と地底の妖怪のトラブルと考えたのでさらに意欲がない。
・さとり捕縛
実行したのはこいしだが、勇儀の指示。さとりへの配慮だが荒っぽすぎて理解されない。