森の深さは、白露の想像を超えていた。
その時間の長さに、白露の緊張の糸が解け始めていた。
ゴトゴトと揺れる荷台の上で、白露は眠りの淵に立っていた。あともう一歩踏み出せば、底なしの闇へと落ちていきそうだ。
遠くで、声が聞こえた。
誰かが泣いている。ああ、これは赤ん坊の声だ。
誰なのだろう。
まどろみの中の思考では、答えには辿り着けなかった。
白露は、その声のする方へ近づいていく。
白露は、闇のうちに泣いている子供を見たような気がした。
小さな女の子だ。あれは、誰だろう。
何を泣いているのか。何がそんなに悲しいのか。
『どうしたの?』
声をかけるが、その子はただ顔を覆って泣くばかりだ。
白露は手を伸ばし、その子の肩に触れた。
びくりと、子供の体が跳ねた。
白露は気付く、これは自分だと。
幼い頃、田舎に預けられたときの白露は、毎日泣いてばかりいた。
誰とも遊んではいけないと言われて悲しかった。
人に見られてはいけないと、家の中に閉じこもって息をつめて生きていた。あの頃。
白露は、小さな自分の肩を抱きしめ、耳元で優しく囁いた。
『大丈夫。泣くことなんてないわ』
『ほんと? 大丈夫?』
『もう、心配しなくていいの。母さまも、父さまもみんなが待ってる』
『じゃあ、なんで迎えに来てくれないの?』
『もう少し、大きくなったら、絶対に来てくれる』
『どれくらい大きくなればいいの?』
『ずっと、人でいられるようになったら』
『人?』
『そう。人でいられたら、外で遊べるし、家にも帰れる。父さまや母さまとも、一緒に暮せるの』
『……じゃあ、駄目ね』
『え?』
『だって、あたし、人じゃないもの』
『なにを言ってるの?』
白露は、幼い自らの顔を見た。
『だって、あたし、獣だもの』
ニヤりと、唇の端が上がるのが、見えた。
赤い、赤い口だ。
あっと、声をあげて白露は覚醒した。
夢だ。
嫌な夢だと、溜息をひとつおとしたところで、白露は現実世界の異変にようやく気付いた。
馬車が、あきらかに異様な速度で走っている。
御者は、ただめちゃくちゃに馬を追い立てている。
どこをどう走っているのか、白露には全く分からなかった。
「どうしたの!? 何があったの」
そう怒鳴るが、御者は振り返ることも手綱をゆるめることもない。
立ち上がることも出来ぬ揺れに、白露は這いながら前を目指した。これでは、まるで獣だ。
「止まりなさい!」
御者の肩に手をかける。
御者は、悲鳴を上げた。
「なに?」
「あ、ああ、お嬢様」
御者は何と自分を間違えたのだろうか。御者はうろたえ、呆然としながらも、必死で馬を走らせ続けようとしている。
「何があったの?」
少し、落ち着いた声で白露はその言葉を繰り返した。
「あ、妖魔です! 妖魔が出て!!」
「妖魔? 珊揮と戒莉は?」
荷馬車の周囲に、いるはずの二人がいない。
「あの二人が、妖魔を足止めするから、逃げろと。ただ逃げろと!!」
御者は、揺れに舌を噛みそうになりながら、それだけをなんとか言い切った。
「分かったわ。まかせるから、御願いね」
白露は、頷いて御者の肩を叩いた。再び後ろに視線を遣った。
何かが追いかけてくる様子はない。ただ、遠くで声がした。夢の中で聞いた。あの、赤ん坊の声だ。
あれは、妖魔の声だ。
獣の声だ。
お嬢様の特技は、どこでも、何が起こっても眠れることです。
すごいですね。