白露は、御者に火を起させ、地図を広げた。
それは巧の全体を示す地図だ。森の位置は分かるが、自分達が森の中のどこにいるのかは全く分からない。
森には、東から入って北へ抜けるのだと、珊揮は言っていた。
陽がしずんでいった方角から、行くべき方向を白露は考えることができる。だが、あくまでもだいたいで、正確なものではない。
それにかけるか、ここに留まって助けを待つか。
白露は、決めかねていた。
あらためて、地図を眺めてみる。
この森さえ抜ければ、街は直ぐ近くにある。街まで行けば、何とかなるという自信はあった。
あくまでも、森さえ抜ければ。だが。
「どうしたらいい?」
つい、口にするつもりのなかった言葉がこぼれていた。
御者は、それを自分への問いかけと思ったのだろう。それまでぼんやりと薪を火にくべていた手を止めた。
「ここで、助けをお待ちにならないんですか?」
それも一つの手だ。しかし、助けが来ると言う保障があるのだろうか。
あの二人。珊揮と戒莉は、未だ姿を現さない。もう既に、この世の人ではない可能性だってある。
その可能性は無視できないのだが、白露はあの二人の死を信じてもいない。
「そこが思案のしどころなのよ。あなたはどう思う?」
「私などには分かりません」
御者は首がもげるのではないかという勢いで、首を振った。
「でも、私よりもあなたの方が旅慣れているでしょう」
白露には、御者に意見を求めるのは極当たり前のことのように思えた。
だが、御者の方では、そんな風には思ってなかったらしい。ひたすらに恐縮し、慌てている。
白露は、ここで重大なことに気付いた。
「ねえ、今気付いたんだけど」
「な、何ですか」
御者は、白露の口がどんな怖ろしいことを言おうとしているのか、おののきながらも訊かずにはおれなかった。
「私、あなた名前を知らないわ」
頭上に巨大岩石でも落ちてきたような衝撃に襲われているような表情で、白露は御者に訴えかけてくる。
もしや、これは場を和ませるための冗談なのかもしれないと、御者は考えようとした。何か気のきいたことを自分も言うべきなのか……。
だが、白露の様子は真剣そのもの過ぎて、御者は名を名乗るのが精一杯だった。
「……私は、洋高と申しますが」
「そう、洋高……悪かったわ。ごめんなさい」
そんな風に謝罪の言葉を差し出された洋高は、とにかく混乱するばかりだ。
その夜の闇は、白露が今まで見た中で、一番深かった。
とりあえず、御者の洋高が用意してくれた食事をとり、眠ることにした。
もしも明日の朝になって、珊揮も戒莉も現れなかったら、自力で森を抜けようと、白露は考えていた。
その為にも、体を休ませなければと自分に言い聞かせてはいるものの、白露はとても眠れそうにないと思った。
白露は地面の上に敷物をひき、体だけ横たえてみた。
静かの中に身を落すと、何の拍子か、戒莉の問いかけが脳裏にふと甦ってきた。
『あんたは、なんで大学に行くんだ?』
白露は、なんと答えたのだろうか。
そうだ。こう答えたはずだ。
『私はね、官吏になりたいの』
なぜ、官吏になりたいのか。
白露は、自らに問う。
小学に通う頃、勉強熱心で、頭のよい学友がいた。それが白露が上の学校へ進んだとたんに、姿が見えなくなった。
それは、その子が半獣だからだと。皆、当たり前のことだという顔で言った。本来ならば、小学にも通えないはずの者なのだと。
白露とその子では、何が違ったのだろうか。
自分はここに居ていいのかと、白露は自問した。
半獣のあの子が、学校を追われ、自分がのうのうと勉強を続けるということが、とてつもなく罪深いことだと思った。
それは我がままで、贅沢な痛みに過ぎない。
だが、いや、だから、白露は半獣だろうと、貧しかろうと、誰もが望んだように生きられる国が欲しいと思ったのだ。
人に上も下もない。半獣だからといって、差別をされる謂れはないはずだ。
しかし、そう思っていたのにも関わらず、傲慢が頭をもたげる。
ここまで共に旅してきたというのに、白露はついさっきまで、御者の名前を知らなかった。
白露の濁った目には、洋高が荷馬車の一部にしか映っていなかったということだ。
白露は、ずしりとそれを受け留めた。
これも自分だ。
知らず、知らずのうちに人を人と思わずに過ごしてしまう。自分はそんな人間なのだと。
なんと弱く、愚かな生き物なのか。
―― 強く、もっと強く
白露は、目を固く閉じた。
さすがのお嬢様も、眠れないようです。