天涯~巧編~   作:清夏

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『獣の夜』

 

 

 そのまま眠ってしまってことに気付いたのは、どれほどたった頃だったろうか。

 白露は、図太い自分の神経に呆れながら、笑った。

 そういえば、盗賊のときも、妖魔に襲われたときも、白露は肝心なところで眠りほうけていたのだ。

 そしてまた、白露は自分の呑気さかげんに、ほとほと嫌気がさすこととなる。

 

 

 静かだ。そして、寒い。

 寝返りをうつと、焚き火が消えかけているのが白露の目に映った。

 いけないと、身を起したところで、白露ははっとする。

 何の気配もない。

 危険が迫っているわけではなかった。

 しかし。

 馬車がない。

「洋高!」

 白露はすぐさま飛び起きると、御者の名を呼んだ。

 返る声もない。

 洋高の姿は、消えていたのだ。

 

 

 白露は、笑った。大声を出して、笑った。それを聞くものがあったなら、妖の声と聞いたかもしれない。

 そう思うと、白露は益々おかしくなって笑った。

 情けない。

 洋高は馬車とその積荷を持って、白露を置いて行ってしまった。これがどういうことを意味するのか。よもや単身、助けを呼びに行ったのではあるまい。

 やはり、野木の下で一番危険なのは、人であったということだ。

―― 人は嫌だ

 白露は、その言葉を洋高と、自らにも投げつけた。

 人は裏切る。

 人は醜い。

 人は愚かだ。

 ならば、いっそ獣であった方がいいのかもしれない。

 

 

 

 

 ふいに、背後に光が見えたような気がした。

 白露の笑いは、ピタリと止んだ。

 ゆっくりと、白露はその光の方へ振り返った。

 それは、闇夜を照らすような眩い光ではない。

 ただ、黒い世界に赤い炎の玉がふたつ、ゆらゆらと点っていた。

 白露は、息を飲んだ。

 これは何なのか?

 白露の中で、熱いものが駆け巡った。

 答えは、簡潔だった。

 

 これは、獣の眼だ。

 

 声ひとつ立てず、身じろぎひとつせず、白露はその眼を見返していた。

 その赤い眼も、じっと白露の眼を見ている。

 じわりと、全身から汗が滲んだ。

 野木の下にいれば、相手は襲っては来ない。そう理解しながらも、白露は今にも飛び掛ってきそうな視線に息が止まりそうだ。

 にらみ合う相手はその目だけを晒し、姿を闇に隠している。

 白露には、無防備にこの世界に放り出されている自分が見えた。

 震えが止まらない。

 牙に、爪に引き裂かれることを恐れているのではない。

 もの言わぬ赤い眼が、白露にこう語りかけてくる。

 

『お前は、こちら側の存在ではないのか』

 

 ふっと、赤い視線が白露から外された。

 光が、消えた。

 おそらく、獣は白露に背を向けて、立ち去ろうとしている。

 草木を揺すりながら、遠ざかる足音。

 白露は、声を出そうとしたが、喉は干からびていて、何の言葉も出ては来なかった。

 もしも声が出たならば、白露は何を言えたのだろうか。

 置いていかないでくれと。連れて行ってくれと。叫んでいたかもしれない。

 

 その夜、白露は人の姿をしていなかった。

 

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