珊揮の話によれば、白露の乗った馬車はうまく逃げおおせているはずだ、とのことだ。
「うまく逃げすぎてるような気もするんだけどねえ」
なんだか気になるもの言いをする。
珊揮は、こんな風になぞかけのようなことを言うことがある。
状況的には、そんな余裕はないのではないかと思う時でも、それは変わらない。
戒莉はそれに苛立つが、珊揮の言葉の意味を察することができない自分に腹を立てている割合も大きかった。
戒莉は口惜しさから、これまでその意図するところを聞かずにいたが、今はそんなことを言ってる場合ではない。
「あんた、なにを疑ってる?」
やや、もつれ気味の舌で、戒莉は問いかけるというよりも、命じていた。
「まあ、御者がちょっと怪しいかなって思ってるだけ」
珍しくあっさりと、そしてなんとも軽々しく、珊揮は言ってくれた。
「こんなとこで呑気にしてる場合か?」
そう叫ぶとともに、体を起そうとしてみるが、全くどこにも力が入らない。戒莉は、情けなさに泣きたくなるが、今は泣きはしない。
「まあまあ、無理は禁物だよ」
珊揮の様子は、状況に不似合いなくらいに落ち着いている。
戒莉は、自分があせればあせるほどに、この男は冷静であろうといるような気がした。
「お嬢さんは、今から私が探してくるから。お前は、ここで大人しくしておいで」
その満面の笑顔は、戒莉を落ち着かせようとしているのか、はたまた煽ろうとしているのか?
不明だ。
珊揮は戒莉の背に手をさしこむと、その体を起こした。そして剣を、戒莉に差し出した。
戒莉の手の力は、まだ弱く、とても剣など握れたものではなかった。しかし、珊揮はそれにかまわず鞘から剣を引き抜くと、柄を戒莉の掌にのせ、それを握らせた。
「これで、なんとかできるね」
問いかけではない、断定だ。
戒莉は、頷くだけだ。
珊揮が遠ざかっていくのを、戒莉はただ見送るだけだ。
なにしろ、立ち上がるどころか、剣を支えに座っていることもやっとのところだ。
既に手が痺れてきている。それでも、柄を離すわけにはいかない。
ひとたびこの手を離したら、とたんにその身はひっくり返るか、前のめりに崩れるかだ。そうしたら、しばらく自分では起き上がれなくなってしまう。
だから、ここで倒れるわけにはいかない。
倒れては、いられない。
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ガラガラという音に、戒莉は覚醒した。
つまり、寝てしまったということだ。
白露の呑気が伝染したのかもしれないと、のちに珊揮は戒莉をからかったものだ。
「ただいま」
その音とともに現れたのは、珊揮であった。
すっかり日は沈み、姿はよくとらえることができない。
珊揮はたいまつを手に、馬車に乗って帰ってきた様子だ。白露も乗っているのだろうか。
「どうなってるんだ?」
剣を支えに、戒莉はゆっくりと立ち上がってみた。
戒莉の体は少々きしんだが、珊揮を見送った時よりも数段回復している。
「どうも、こうも」
珊揮の声の割に明瞭ではない。状況はおもわしくないのだ。
よく見れば、車につながれているのは、先に馬車を引いていた馬ではなく、珊揮が乗っていた騎獣のようだった。そして、馬車のところどころ血のようなものが飛び散っていた。
幌の中を覗いてみたが、戒莉は誰の姿もみつけることができなかった。
「白露は?」
「見つからなかったよ」
けろりと珊揮が言う。
戒莉は少しの間、ぽかんと珊揮を見返した。
白露を探しに行って、見つけられなかったといって帰ってくるという。その男の神経を疑った。
「御者もいなくてね」
馬車だけが見つかったと。珊揮は、付け加えただけだった。
「どうなってるんだ?」
無駄とは分かっているが、戒莉は問わずにはおれなかった。
「さあね」
言葉どおりの表情。
戒莉は、本気で珊揮に呆れた。
言葉を失う戒莉に、さすがに説明不足だろうと考えたのか、珊揮は馬車をみつけた時の様子などを話しはじめた。
珊揮は終始、呑気な口調はくずさなかった。
珊揮は白露たちが逃げた方向に向かって行ったが、しばらく何も収穫はなかった。その間に、どんどん辺りは暗くなったので、これ以上の探索は無理と考え、引き返そうかと思ったのだという。
「お前のことも心配だったからねえ」
余計なことだ。戒莉は、むっとしたが、話を続けるように無言で珊揮を促した。
やれやれという顔をしてみせて、珊揮は話を続けた。
ここに戻ろうとしたところで、珊揮この馬車にでくわしたのだそうだ。
馬車には、誰も乗っては居なかったのだという。白露も御者も。
しかも馬は二頭ともに無残に食いちぎられている様子で、息絶えていたという。
血がおびただしく流れ、飛び散っており、その血が馬のものなのか、人のものなのかははっきりしなかったと、珊揮は溜息まじりに言った。
「ただね。こんなものを見つけたんだよ」
珊揮は、茶色い布に包まれたものを差し出した。
その包みは、はっきりと血で汚れていた。戒莉は、それを受け取り、用心深く開いた。
「……」
はたして、それは胴から離れた人の腕だった。
刃物で切断されたのではなく、力まかせに引きちぎられた。そんな感じだ。
そしてその筋肉のつき方から、白露のものではなく、男のものであることが分かった。
「やれやれ、もうちょっと驚いたらどうだい?」
ちょっとガッカリ、みたいな表情。
「それで?」
そういう戒莉の声は、戒莉自身も驚くほどに冷静なものだった。
珊揮は、やはりガッカリして、また話を再開した。
「これはたぶん御者の腕だね。それから、この切断面からいうと、何か獣のようなものに襲われたと思うよ」
御者のものと思われる体の一部が、あちこちに散乱していたが、白露らしきものは見つからなかったのだということだ。
それは、つまり白露が無事である可能性をさしているが、珊揮ははっきりとは言わなかった。
「白露は、馬車に乗っていなかったのかもしれない」
思ったことを戒莉は口にしてみた。
「そうだね。御者がお嬢さんを置いて、荷物を盗んでいったところを襲われた。そう、考えたいところだね」
否定はしないが、完全なる肯定でもない。珊揮の言いたいことは、戒莉にも分かる。
あまり、期待してはいけない。
そういうことだ。
その夜は、そこでお仕舞だった。
夜、森の中で無闇に歩き回るのは、得策ではない。
珊揮は、寝なさいと戒莉に言う。
戒莉は寝ている場合でないと思う。しかし、きちんと休んで体調をもどさなくてはならないという場合でもある。
戒莉はその義務感だけで、横になり、そっと目を閉じた。