珊揮は白い豹に顔を近づけ、しげしげと見ていた。
いくら野木の下だからといって、危険はないのだろうか。
戒莉は、そう言ってやった。
「ああ、大丈夫だよ。ことに、このコはね」
白い豹は、確かに優雅な雰囲気を持っているが、猛獣には違いない。それを『このコ』呼ばわりするとは……。戒莉は、半ば呆れ気味に感心した。
それにしても、白露はどこへ行ってしまったのだろうか。
こんなところで、白い豹にかまけてなどいられない。
「珊揮、はやく移動しよう」
「なんで?」
まさか、そう聞き返されるとは予想だにしなかった。戒莉は、一瞬言い返す言葉を見失った。
「白露を探す」
なんとか吐き棄てるように言って、戒莉は自分が焦っていることに気付いた。
駆り立てられている。苛立っている。いてもたってもいられなくなっている。
「さて」
珊揮は、戒莉とはやはり対照的に、よく言えば冷静で落ち着いている。悪く言えば、呑気で無責任だ。
「本当にずいぶんあのお嬢さんに入れ込んでいるみたいだね」
「どういう意味だ」
「どういうも、こういうも、言葉どおりだよ。お前は、ちょっとあのお嬢さんにこだわり過ぎているよ」
何を言っているのか、戒莉には、本当に理解できなかった。
白露は、護衛の対象だ。金を貰い、雇われている以上、彼女を守ること、彼女を無事に大学まで送り届けることが役目であるはずだ。行方を見失ったその白露を、一刻もはやく探し出さなくてはと思うことは、そんなにおかしなことなのだろうか。
「お前、あのお嬢さんに何を期待してるんだい?」
全く、さらに珊揮の問いかけは理解不能だ。
戒莉は、白露に何を期待しただろうか?
くだらない質問を繰り出すのは止めてくれとか、そのヒラヒラした服は旅には向かないから何とかしろとか、そんなことだけのはずだ。
「あんたは、おかしい。なにを言ってるのか分からない」
口にする言葉は、戒莉の素直な気持ちのはずだ。
そう思いながらも、なんとなく珊揮から視線を逸らすのは、何かあるのだろうか。戒莉自身が、戒莉の心を図りかねていた。
白い豹が、すこし首をかしげて、こちらを見ているのが、戒莉の視界に入った。
ただ、見ているだけなのだが、興味津々という目つきに見受けられる。白豹とは、こんなに好奇心旺盛な生き物なのだったろうか。
戒莉には、この獣の視線も厭わしげに思えた。
珊揮も、この白豹も、戒莉に何を言わせたいのだろうか。
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「官吏って、すごいよねえ」
しばしの沈黙を破って、珊揮が発したのはそんなものだった。
全く脈絡を感じさせないその言葉の先には、一体なにが潜んでいるのか。戒莉は心のうちで身構えた。
そして白豹までが、珊揮を疑わしい目で見ている……ようにみえた。
「普通の人間は、政に関わることなんてないだろう」
いつか、戒莉が思っていたようなことを珊揮は口にする。まるで、見透かしているかのようだ。いつも、そうだ。
「立派なものだよね。それに比べて私たちは、何なのだろうね」
どっかりと、木の下に座り込む。珊揮は、本当に白露を探す気はないらしい。
戒莉からは、もう溜息しか出てこない。
「あの白露ってコを見てると、思い出すことがあるんだよ」
珊揮の語り出しは、極めて好調だった。
「昔ね、知り合いに官吏がいたんだよ。とても、優秀な官吏でね。しかもこれが美人だったんだよ」
昔、と言うときの珊揮の目は、どこか遠くへ行っていた。しかし、『美人』という単語で、あっという間に現実にもどっていた。
これ以上、関係のない話を聞く余裕は全くないはずなのだが、珊揮が『昔』のことを話すことは珍しい。
戒莉は、つい珊揮の話に耳を傾けてしまう。
「その官吏の娘が仕えていた王は、その御世が千年続くのではないかなんて言われるくらいの名君だったんだよ」
豹が身を乗り出していた。
戒莉は、珊揮の話と白豹の様子と、両方ともに気になり始め、気がちりじりになる。
珊揮は、戒莉も豹の様子もまるきり無視するかのように、ひとり、話を進めるばかりだった。
「それがね。なんのきっかけか、あるとき王の様子がおかしくなってしまったんだよ。民に重税を課し、どんな軽い罪を犯した者も皆死罪にした。そういうとんでもない勅令を出す以外は、ほとんど政務を投げてしまった。集めた税を遊興に使い果たし、国庫は空になる勢いだった」
淡々とした口調に、むしろおそろしい勢いで、国が、王が傾いていく様が想像された。そのとき、珊揮はそれらを目の当たりにしていたのだろう。そして、今、語りながらその当時を追体験しているのだ。
「あるときね。王はこういう勅令を出したんだ『みな、仲良くするように』ってね。まあ、一見スバラシイというか、勅令にするほどのことだろうかと思うだろう。これが、とんでもないものだったんだな。少しの争いも、王は許さなかった。子供同士の喧嘩も、夫婦の言い争いも、ちょっとした小競り合いも、ついかっとなって怒鳴ることも、みんな死罪」
その王が何をしたかったのか、戒莉には理解不能だ。王というのは、民のことを思い、道を外れぬように努めるものだと、なんとなく戒莉は考えていた。それをわざと道を外れていこうと、しているようにしか思えない。
「王は、どこまでしてみたら、天は自分を滅ぼそうとするのか、それを試そうとしているみたいだったよ」
ふふっと、笑って、珊揮は奇妙な表情になった。泣きたいのか、可笑しいのか、怒っているのか、全く汲み取れない。
「どうして、そんなことになるんだ」
珊揮に訊いても、せん無いことを戒莉は口にしていた。
そのとんでもない王の心など、誰も分からなかったはずだ。
ここで久方ぶりに、珊揮の焦点が戒莉で結ばれた。
「さてね。王も、人間だということかな。人はあまり長く生きていると、どこかがおかしくなってしまうのかもしれないね」
戒莉は珊揮にある問いを投げかけそうになって、寸でのところで止めた。それはとても怖ろしいことに思えた。答えを聞いてはいけないと、戒莉の中の臆病が叫んでいる。それを問うてはならない。それを口にしてはならない。そう。
『あんたも、そうなのか』と。