天涯~巧編~   作:清夏

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『優しい世界』

 戒莉が目覚めると、既に朝ではなかった。

 のろのろと寝台から降りると、ぼんやりと歩いた。

 扉を押すと、そこには昨日まで居なかった人物が座っていた。

 

「おはよう。ごゆっくりですね」

 にこにこと、平凡で人のよさそうな顔を向けてくる。

 英俊だ。

「ゆっくり休んでるところだからな」

 戒莉は、常よりも低い声でそう応えた。

 確かに珊揮は、戒莉に『ゆっくり休みなさい』と言っていた。

 英俊は、苦笑しながら視線を向かいの珊揮にやった。

「まだ、疲れてるようだねえ」

 珊揮は、戒莉にも座りなさいと、隣の椅子を示した。

 そのまま、戒莉は示された反対側の椅子に倒れこむように座った。

 やれやれと、大袈裟なしぐさを見せて、珊揮は茶を煎れた。

「まあ、お飲み」

 差し出された茶杯に、戒莉は用心深く匂いを確かめた。

「残念ながら、藍椋のお茶は手に入らなくてね。あれは、お前にとても効くのにねえ」

 嬉しそうに珊揮は、笑った。

 戒莉は、その顔を無視しながら茶をひとすすりした。

―― 甘い

 

 

 

「さて、ちょっと面倒なことになってね」

 戒莉の寝起きのぼんやりが、やや退いたところを見計らって、珊揮がもったいつけた口調で、話を始めた。

「お嬢さんの元許婚の父親が行方不明になったんだよ」

「逃げられたのか?」

 口の中の甘さに苛立ちながら、戒莉は英俊をちらと見た。

「私の落度ですね。まさかこちらの動きに気付かれていたとは思いませんでした」

 英俊はそういいながらも、それほどに落胆しているわけではない様子だ。

 

 白露の元許婚の父親、すなわち白露を狙った男は、字を寛勢というらしい。

 寛勢のことを聞いた白露の父親の行動には躊躇いがなかったそうだ。役人にも話をつけ、あっというまに寛勢を捕らえる手はずを整えた。しかし、それより寛勢の動きは早かった。寛勢のところに捕り手が押しかけ時に、寛勢の姿はどこにもなかったということだ。

 

「どうも、傲霜に潜伏しているんじゃないかということだよ」

 珊揮は、静かに茶を一口含んだ。

「まだ、白露を狙ってるってことか」

 当たり前なことを口にして、戒莉は後悔した。

「まあ、そうでなければ、今までのことは何だったんだっていうくらいだよ」

 珊揮は、この状況を面白がっているようだ。

 残念ながら、戒莉にその余裕はない。

「寛勢は、見つからないのか」

「まだです。今、希央と真佳が探しています」

 今度は、英俊のこの丁寧な言葉に、戒莉は苛立った。

「そんな悠長なことで、いいのか」

「もちろん、悠長に構えてるわけじゃありませんよ。白露さんのところにも護衛を密かに置いていますから」

 やはり、悠然とした様子を崩さない英俊。この男の底知れなさは、珊揮以上であるかもしれない。

 戒莉は、すっと立ち上がり、さきほどまで寝ていた部屋に向かった。

「おや、また寝るのかい」

 珊揮の声が追いかけてきた。

「着替えて出かける」

 きっぱりと、戒莉は返した。

「どこへ?」

「どこでもいい。こんなところで呑気に茶なんて飲んでるよりましだ」

「でも、お前に人探しの才能はないよ」

「うるさい」

 馬鹿みたいだ。戒莉はそう思いながらも、子供っぽい声を上げてしまった。

 戒莉があてもなく町を走り回っても、ただ相手にこっちの動きを知らせるだけだ。戒莉は、目立つのだ。

 そんなことは戒莉自身分かっている。けれど、役立たずだとはっきり言われているようで、認めてしまうのには勇気がいる。

 

「まあ、まあ、戒莉には寮の方に行ってもらいましょう」

 英俊が、戒莉をなだめるようにそう提案してきた。

「そうだねえ。まあ、あまりこわもてなのがウロウロしてたら、大学も迷惑でしょうからね。私が行かない方がいいでしょうね」

 珊揮は、にやにやしながら英俊に同意した。

「白露には、なんて言って護衛につくんだ?」

 珊揮の言い口に、何か引っかかるものを感じてはいたが、戒莉は何とかそれを無視して会話を進めようとした。

 白露とは、昨日別れてもうこれっきりの予定だった。もう、旅は終ったのだから、護衛の必要はないはずだった。それがまた護衛です。などと言って現れたのでは、まだ狙われていることを白露に知らせて怖がらせるだけだ。やはり、密かに見張っている方がいいのだろうか。

「そのまま話せばいいんじゃないのかい」

 けろりと、珊揮は言う。

「でも」

 こんな怖ろしいことを、なぜ白露に言うのかと、戒莉は抗議した。

「ただのお嬢様なら、その方がいいかもしれないね」

 珊揮は、そう前置きした。

「でもね、あの娘はただのお嬢さまではないんだよ。いや、ただのお嬢さまでは、困るんだよ」

「困る?」

「そう。あの娘はね、官吏になろうという人だからね。ただきれいで、優しい世界で生きているわけにはいかない人なんだよ」

 ゆるやかに珊揮は、そう断じた。

 

 

 

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