「毒なんて入ってないって? 笑えない冗談だな」
その声のする方に、女と白露の視線は走った。
そこに立つのは、戒莉だった。
まだ弱い朝の光の中でも、戒莉の姿は鮮明だ。
女は、しばらく戒莉の姿に魅入られたように釘付けになっていた。
ようやく正気を取り戻し、女がはっとした時には、戒莉は厨房の中まで歩みを進めていた。
「あ、あんた誰だい」
女は慌てた。
「俺が何者かよりも、あんたが何者かの方が問題だと思うね」
戒莉は、詰まらないことを言わされているという風情で吐き棄てた。
「何、訳の分からないことを言ってるんだい」
女はそう反論しながらも、逃げ腰なのが分かる。
「なら、その料理、あんたが先に味見をしてみたらどうだ」
言いざま、戒莉は白露の手から皿をとると、女に差し出した。
女は、視線をその皿と戒莉の顔の間を行ったり来たりさせながら、一歩下がった。
「なんで、私がそんなことを」
首を振りながら、女はなおもう一歩下がる。
戒莉は、一歩前へ。
笑の一片たりとも浮かべず、むしろ女を見下すような視線で、戒莉は女に迫っていく。
「戒莉」
白露は、女の方が気の毒になった。
『なんだ』という目で、戒莉は白露をチラッと振り返った。
「この人が本当に、それを食べたらどうするの?」
追いつめられた寛勢は、毒をあおって死んだ。それぐらいの覚悟が、この女にもあるかもしれない。
「その時は、その時だ」
そう言い棄てる戒莉の白い横顔に、白露はゾクリとした。
本気なのか、口先だけのことなのか、白露は戒莉という人間が分からなくなっていた。
「そうね。でも、それじゃあ何も分からないままでしょう」
白露は溜息をひとつ落として、女の方に向き直った。
「で、あなたはどうするの?」
女は、ぺたりとその場に座り込んだ。
そして、ぽつりと一言。
「もう、お終いなんだね」
呟いた女は、寂しげだった。
「もし、あなたが毒を料理に混ぜていたら、そういうことになるでしょうね」
しっかりとした声で、白露は女に宣告した。
実を言うと、白露はこの女が毒を盛ったか否か、懐疑的だった。
女は、寛勢の妻ではない。寛勢の妻は、もっとほっそりとした、儚い感じの人だった。
この女を、白露は知らない。
だから、この女が白露の命を狙う、そんな暗い熱情を持っているとは思えなかったのだ。
だが、女は毒を手にした。そして、それは白露だけではなく、他の多くの学生の命を奪っていたかもしれない。
「なぜかと、あんたは思っているだろうね」
それまで視線を床に這わせていた女が、何のきっかけか、そう言って顔を上げた。
女の目には、底知れぬ憎しみと、涙がうっすらと浮かんでいた。
「なぜ?」
白露は、女の憎悪から目を逸らさずに、そのまま問い返した。
「坊ちゃんが死んだのに、あんたが生きていていいはずがないだろう」
理不尽な話だと、女は憤っている。
しかし、白露にしてみれば、それこそが理不尽だ。
この女が坊ちゃんと呼ぶのは、おそらく顕彰のことだ。白露のかつての婚約者で、大学をともに目指し、その道を断たれて、自害した男。
気の毒だったと思う。悲しいことだったと思う。顕彰を追いつめた原因のひとつに、白露の存在があったかもしれない。白露に罪がないとは言えない。
「でも、私はここで死ぬわけにはいかない」
自らの死による贖罪を、白露は否定した。
女の唇は白露への呪いの言葉を探していたが、ただ震えるばかりで、みつけることが出来ずにいた。
「私は、何もまだしていない。だから、まだ死ぬわけにはいかない」
まっすぐ前を見て、白露は言い放つ。
その凛とした白露の態度が、女を追い立てた。
と、女は信じられない程の俊敏さで立ち上がったかと思うと、調理台に置かれた包丁を掴もうとした。
しかし、一瞬早く戒莉の手が女の腕を掴み、後ろへねじり上げていた。
「ああっ」
とらえられた女は、逃れようともがいたが、戒莉はそれを許さなかった。
「言いたいことがあったら、言っておけ。これが最後だ」
静かに、冷淡に、しかし戒莉は女を背後から嗾けていた。
女は、はっと白露を睨み据えた。
「あんたひとりに何かできる? 自分が何でも出来ると思ったら大間違いだよ。どんなにお偉くなっても、どんなにご立派になろうと、あんたが出来ることなんてたかが知れたものだよ」
ようやく女が捕らえた言葉は、空しくも残酷に響いた。
「あんた一人が死んでも、誰も、何も、困りはしないんだよ」
そうだ。
顕彰が死んでも、世界は嘆かない。国は、彼の死を惜しまない。
女は自らの深みにはまっていた。
「そう。ひと一人が出来ることなんて、たかが知れてる」
白露は、女の闇に揺らぐことはなかった。
ただ、静かに女に言葉をかけていく。
「でも、何もできないわけではない……私は、そう思いたい」
祈るように、白露は微笑んだ。