『あれが あなたの生まれた街』
奇跡的にも、荷造りは夜が明ける前には済んだ。
旅立つ朝に、白露は既にくたびれていた。
これから、白露が経験したことのない長旅になるというのに。
なるほど、と白露は妙に感心した。
その男は、いかにも『風渡りの珊揮』という風貌をしていた。
見上げるような身の丈、それに見合うだけの筋肉がしっかりと着いた体。褐色の肌と、赤錆のような髪が、いかに長く陽の光を浴びて生きてきたかを物語っているようだった。
もしも、そこに表情というものがなかったなら、怖ろしくて近づくことさえできないような顔立ちをしている。
だが珊揮は、キレイな瞳をしていた。優しい目をしていた。
父が、丁寧に珊揮に語りかけるのを、白露はぼんやりと聞いていた。
こちらが雇い主であるはずなのだが、ついそういう態度を示したくなる。 白露の目の前に現れた、珊揮を名乗るその剣客は、そういう男だった。
「白露、ご挨拶を」
父に促されて、白露ははじめて自分が挨拶もせずに、不躾に珊揮を凝視していたことに気付いた。
「道中、よろしく御願いします」
「こちらこそ、よろしく御願いいたしますよ」
物柔らかな声音で、珊揮は白露に微笑んだ。
無骨なだけではない、その柔軟さに、白露はこれは『風渡りの珊揮』なのだという確信を持った。
父母と別れ、慣れ親しんだ家や土地と別れ、向春と別れ、白露は今日会ったばかりの男と旅立つ。
不安はなかった。それよりも、心が解き放たれるような、今までのしがらみから切り離されるような、浮き立つ心持ちが白露を満たしていた。
馬車を操る御者、そして警護の珊揮と、もうひとりの杖身が白露の旅の供となった。
荷物を満載した馬車の荷台の上から、白露は遠ざかる街並みを眺めるともなく、眺めていた。
「よく、御覧になっておくとよいですよ」
珊揮が、目を細めて遠くを見遣った。
「あれが、あなたが生まれた街ですよ」
その声に、白露の心は今しがた別れを告げたものに引き戻されるようだった。
それでも、白露は旅立つのだ。そうして、半分失くした人生でも、全うに生きるのだと、小さく誓った。
荷台というのは、正直快適ではない。そもそも人を乗せる目的ではないもの なので、それはどうしようもない。
当初は、柔らかい布張りの座椅子のついた馬車で行くつもりであったのだが、そんな立派な馬車を見せ付けて旅するのは、襲ってくれと言わんばかりだという意見に従った結果だった。
綿のたっぷり入った座布団をしいているものの、床から伝わる振動は否応なく白露に伝わった。
だんだん気分が悪くなってきた白露は、空ろな目で空を見上げた。
青く、晴れ渡った空は、なんだか白露をバカにしているようにも見えた。もちろん、これは気のせいだ。
白露の様子を窺いながら、珊揮は頻繁に休憩を入れていた。白露は、それに感謝しつつも、自分のふがいなさに呆れていた。
白露とて大学に進もうというくらいだ、一通りの武芸なども身につけている。体は、むしろ鍛えている方だし、体力は人一倍あるつもりだった。見た目よりも丈夫なのが取り柄でもあった。
「どうぞ」
差し出された水は、今まで飲んだ、どんな飲み物よりも美味しかった。
それでも、夕刻までに町に入ることが出来たのは、もともと珊揮が白露があまり旅慣れていないことを考慮に入れて行程を考えていたのだろう。
その町は、どんよりと薄闇に沈んでいた。うら淋しい、荒んだ風が通り抜けているような町だ。
その頃になると、白露は疲れてはいたものの、気分の悪さは何とか解消されていた。
「今夜は、ここで宿をとります」
「はい」
ようやく揺れない地面に足を下ろし、横になれる。
白露は、情けないが飛び上がるほどに嬉しかった。