その夜も、白露はぐっすりと眠ってしまった。
夢すら、白露の睡眠の深さに辿り着けなかった。
ようよう起き上がり、ふらふらと戸を開けようとして、白露はそれに気付いた。
鍵がかかっていた。
それはなんと言うことはない。白露自身が昨晩かけたものだ。
昨日の夜、食事を終え、寝室に引き取ろうとしている白露に、それまで黙っていた戒莉が言ったのだ。
「戸に鍵をかけてくれ」
白露は、少し驚いた。
言われなくとも、そうするつもりだったが、どうしてそんなことを戒莉が言い出したのか、白露は首を傾げた。
「何かあるの?」
「あるかもしれないし、何もないかもしれない」
用心の為だと、戒莉は言った。それ以上、聞かれても何も答えないという響きがある。
白露は、息をひとつ吐いて、分かったと頷いた。
結局、別になにもなかったのだ。
白露は小さく笑って、鍵を開けた。
「……」
戸の向こう側に居間を見たとたん、白露の呑気さが露呈した。
そこには、明らかに血を拭き取ったような跡があちこちに残されていた。
その血は、決して少ないものではなかっただろうことが予想された。
「何?」
何があったのか。これは誰の血なのか。その血の主は、生きているのか。
様々な疑問が、空しくも白露の中を駆け巡った。
白露は、直ぐに向かいの寝室の戸に駆け寄った。
「戒莉!」
果たして、そこには空の寝台があった。
近寄ってよくよく見れば、きっちりと整えられた寝具。そこには戒莉が横になった形跡がない。
「おはようございます」
廊下の方から、声をかけてくる者がある。
「珊揮!」
白露は勢い良く、廊下への戸を開けた。
「おはようございます。よくお休みでしたね」
にこやかに笑う珊揮の声。やや皮肉のようなものが混じっていると感じるのは、白露の気のせいだろうか。
「何があったの!? 戒莉は?」
口調が、つい強くなる。
「まあ、落ち着いてください」
「落ち着いてなど」
いられないと、言おうとした白露を、珊揮は手で制した。
「戒莉は、大丈夫です。少し疲れたので休んでいますが、怪我や病気ではないです。それから……」
やや、間をおいて、珊揮は微笑んだ。
「宿に賊が入りましてね。でも、安心してください。皆、捕まえましたから」
「え」
白露は、その言葉を理解しきれずに、しばらく珊揮の顔を見返していた。
どれだけの時がたったのか。おそらく、そんなにたってはいなかっただろう。
白露は、はっとした。
「賊が?」
「そうです。昨日からずっと誰かが私達の後をついて来る感じがしていたんですよ。
騎獣か荷物のどちらが目的だと思っていたんですがね。どうやら、あなたが狙われていたようですね」
背筋に冷たいものが走るというのは、本当にそんな感じがするのだと、白露は知った。
白露たちの様子を窺っていた者がいることに、珊揮は気付いていたのだという。
それ故に、番をするために珊揮は厩で寝ると言い出したのだと。
しかし、しかしと、白露は思う。
荷物や騎獣は守れても、白露がさらわれてしまったり、傷ついたり、死んでしまうことがあったなら、どうするつもりであったのだろうか。
白露は怒り混じりで、その疑問を珊揮にぶつけた。
「貴方は、私が狙われていた可能性を考えなかったのですか?」
「だから、戒莉と同じ部屋で休んで貰ったんですよ」
さらり、ふわりと珊揮は笑って、そう答えた。
「だから?」
白露はただ、繰り返した。
だから、珊揮は戒莉を白露の近くに置いたと言うのだ。白露を守るために。
珊揮は、白露を守ることに、それが有効と考えたのだ。
それが正しかったのかと、問う以前に、答えはここにある。
「これは」
白露は、辺りの血の染みを指した。
「これは、戒莉が?」
「そうですよ。五人です。幸いなことに二人は息がありました」
静かな珊揮の声音に、白露はあらためて戦慄する。
賊が襲ってきた。
戒莉は、五人の賊をここで斬った。そうして三人は、死んだということだ。
「戒莉が怪我をしたのではないのね」
呆然としながらも、白露の意識はそこへ向かった。
「ええ。でもね、やっかいなことに戒莉は血に弱いものでね。寝込んでますよ」
「は?」
「面白いでしょう。特に自分が斬った相手の血がね、駄目なんですよ」
「それは……酷い話だわ」
珊揮の笑顔に、白露はそうつぶやいた。
「でしょう」
珊揮は、にんまりとした。
「扉一枚隔てたところで大立ち回りをしていると言うのに、貴女はぐっすり眠っていた。
貴女のような図太さが、少しでも戒莉にあればいいんですがねえ」