私が見た景色。感じたこと。あの時にしか感じられなかったこと。
最後まで信じられるのは自分の脚だけだ。
ゴールするまでは私だけの時間。
pixivにも同じものを投稿しています。
暑い。暑い。熱い。熱い。
頭が熱い。首筋が熱い。アスファルトからの輻射熱が熱い。アスファルトを蹴る足の裏が熱い。全身の筋肉が熱い。
九月二十二日、本日の天候は晴れ、予想最高気温はセ氏二十八度。風はほぼ無風。
現在の時刻は十一時三十分すぎだろうか。まだ予想される最高気温には達していないだろうが、二十六度くらいにはなっているのではなかろうか。
二十六度ならそれほど暑くはないだろうと思うかもしれないが、そうはいかない。
なぜなら、私は今、走っているからである。なぜ走っているかって? ハーフマラソンの大会に出場しているからだ。
現在、私は十八キロメートルの看板を過ぎて東へ向かって走っている。
服装は黄緑色のランニングTシャツにグレーのランニングパンツ、そして黒のロングタイツ。頭の方は純白のキャップにショートボブを収めている。昨晩、姿見の前で確認した際は、なかなかきまっていると自画自賛したスタイルである。
話を戻そう。私は前方より強い日の光を浴び、庇の影から視線をまっすぐ前に向けて走っている。
ここからが正念場なのだ。
目の前の高架に鉄道の架線が見える。自分が走るコースはその下だ。深く掘り下げられたアンダーパス。八メートルほど下ってから、二十メートルほどの高さを一気に登る。脅威の激坂だ。
後半にこんな坂を設定するなんて主催者は意地が悪い。そう頭の中で愚痴りながら、迫ってきた難所へ向け、なるべく呼吸を整えていく。
高架によってできた影に入り、一瞬ふっと涼しさが通り抜けた。
下りに入る。腕をやや下げて気持ち後ろで腕を振る。いわゆるペンギン走りだ。膝でブレーキを掛けぬようにストライドを狭めて脚の回転数を上げていく。膝を回してトンネルの湿気を切り裂きながら下っていく。
先ほどまで強い日差しを浴びていたので、暗さに目が慣れない。しかし、目を慣らす間もなく、一気に坂を下って底に到着してしまう。四角く切り取られた白く光る出口を見上げて一度大きく息を吐く。
今回は自分の中に目標タイムを設定している。負けられない。さあ勝負だ。
顎が上がらぬようグッと奥歯を噛みしめて足を踏み出す。肘の位置を下げて大きく腕を振る。肩甲骨を動かし背中を上に引っ張り上げるイメージだ。骨盤は平面を走る時よりもさらに前傾。上り坂に対して倒れ込むように足を交互に出していく。
左足を一歩踏み出す。前へ倒れる。右足が出る。前へ倒れる。左足が出る。
速度を一定に保ち高度を稼いでいく。
気持ちが折れて歩いている人の横をすり抜け無心で登る。自分の体重が膝にのしかかりいつも以上に自重を感じる。もう少し痩せなければだめだろうか? 足の母指球でグッと身体全体を押し上げてまた一歩前に出る。
繰り返す。繰り返す。
坂を半分ほど登ったところで、ようやっと光の中へ出た。昼前の強い日差しが全身に当たり腕の汗が輝いた。
日差しが目に入り眩しい。左手でキャップの庇を下げて目深にかぶりなおす。隣のランナーは歩きながら惚けたような表情で顔を上げて坂の頂を見ていた。恍惚の人のようである。
私はまた顎を引き直し、坂の頂上をにらみつけた。重い身体を重力に逆らって一歩一歩持ち上げていく。歩いてるランナーを次々と追い抜いて、また一人、また一人と置き去りにしていく。
もうすぐ坂は終わる。
最後の一歩を踏み出して急坂を上り切った。肺が苦しい。太ももが鉛を詰めたように重たい。いくら息を吸っても苦しさは変わらず、脚も軽くならない。身体も頭も酸素が足りない。
坂を上り切ったからといってこれで終わりではない。目の前ではコース誘導係が旗を振って右へ曲がるように指示を出していた。
この坂で何人を抜き去っただろうか? 十人程度は追い越したはずだ。私としては上出来ではないか。そう考えながら身体を右へ傾け交差点を折れた。
交差点を折れた先は、両側に戸建ての住宅が立ち並ぶ生活道路だ。
歩道ではこの近辺の住人であろうか、小さな女の子を連れた家族やお年寄りたちが小旗を振っている。この応援は誰へのものであろう? 特定の誰かに向けたものであろうか? ランナー全員に向けられたものであるならば、私にも少しは向けられているのかな?
私は手を振り返そうか迷ったまま、その前を駆け抜けた。手を振り返すのが少し気恥ずかしかったのだ。
十九キロの看板が見えた。あと、二キロと少し……。
ここいらで、少しペースを上げていく。先ほどから後ろに気配を感じていたランナーをちぎってやる。
じりじりと日差しが身体を焼き、体力が奪われていくのを感じる。キャップの隙間から眉間に流れてきた汗を右手で拭いとる。
指が汗でべたついて不快である。
『給水300m先』の看板を横目に通り過ぎる。これが最後の給水だ。
左手に長机が並び、ボランティアが手際よく紙コップに次々と飲料を注いでいる。手前がスポーツドリンク、少し離れた先にあるのが水だ。
スピードを緩めることなく左手で紙コップを鷲掴みにして上部を半分潰す。隙間からスポーツドリンクを二口流し込み喉から胃へ落とし込む。甘い。
残ったドリンクを路上に捨て、ゴミ箱目掛けて紙コップを放った。風にあおられたようでゴミ箱に入ったかどうかはあやしい。
次の長机でも左手で紙コップを取る。これは飲まずに中身をうなじへかけた。ヒヤリとした感覚が首筋を通り抜けて背中へと流れた。
流れた水はTシャツとインナーのスポーツブラに吸収され、残りは背中をまっすぐに流れ、ショーツのお尻側を濡らした。この水は汗と違って不思議と不快感を感じなかった。
コップに残った水は黒いランニングタイツを履いた太ももへとぶちまけた。オーバーヒート気味の脚には心地よい冷たさだ。水が掛かった部分の色が濃くなっていく。
紙コップをゴミ箱へ投げ捨てて先を急ぐ。今度はきちんとゴミ箱に収まったのが確認できた。ナイスシュート。
住宅地の十字路を左へ折れると、すぐに国道が見えてきた。国道を封鎖中の警察官が道路の中央で右へ折れるように赤棒を振っている。暑い中ご苦労なことだ。
マラソンのために幹線道路を封鎖して、周囲の住人にとっては迷惑極まりないことだと思う。だが、今の私はそれどころではないのだ。そんなことを心配している余裕もない。急げ急げ。
警官を左にかわしながら大きな国道へと出た。さあ、ここからは下り坂だ。タイムを縮めるチャンスである。
河岸段丘の下り坂を駆け下りていく。途中で二十キロの看板の横を通り抜ける。もう、体力を温存することはない。ストライドを広げてスピードを上げる。地面に足が接地するたびに踵にグッと体重かかり、シューズのミッドソールが沈むのがわかる。それを反発に変えてぐんぐんと進む。
沿道で幼女が母親と手を振って「がんばれー」と声をあげている。今度はそれに小さく手を振り返した。
ありがとう。私への応援ではなかったのかもしれないが。
息が苦しい。息が苦しい。胸が苦しい。胸が苦しい。脚が重い。身体が重い。
スポーツブラにしみ込んだ汗が気持ち悪い。Tシャツにしみ込んだ汗の重さをも感じる。
もしや、スポーツブラで胸が締め付けられているから苦しいのではないか、と余計なことを考えて頭の中がぐるぐる回る。はては、胸が重いのでは? そんなことはない。私の胸は平均以下だ。いや、それどころか遠く及ばない。何を考えているんだ。
そうか、男性は素肌の上にそのままシャツを着ているのか。それはそれは快適であろう。
前のランナーはずいぶんと昔のシューズを履いているな。アウトソールが擦り切れそうになっているじゃないか。
今通過した銭湯、今日は大繁盛だろうな。
次々と無駄なことが頭をよぎっていく。走っている最中の頭の回転は異常だ。普段の生活でもこれくらい高速で頭が回ればいいのに。
頭の中のぐちゃぐちゃを吐き出すように、大きく息を吐きだし、スゥっと空気を吸い込む。体中に血液を巡らせてながら、下り坂を下りきって、左に身体を傾けながら最終コーナーを曲がる。
あと、三百メートルほど。
最後の直線に入った。
急にカッと太陽が照り、目の前が白くなり思わず眼をつぶった。
――眼を開けると、少し先の地面が鏡のように光り輝き浮いている。
逃げ水だ。
私は夢中になって逃げ水を追いかけた。ゴールまでに逃げ水を追い抜いてやる。
腕を目いっぱい振り、ストライドを広げ、力いっぱい地面を蹴って脚を前へ前へと動かす。顎が上がりもうフォームはめちゃくちゃだ。追いかけても追いかけても逃げ水は先へ先へと逃げていく。
もう周りの音は聞こえない。聞こえるのはバクバクとうるさい心音と荒い息。足から振動と共に伝わってくる自分の足音。そして、風を切る音。
ゴールまでの距離は縮んでも、逃げ水との距離は縮まない。ちくちょう、ちくしょう。
その間に初老の男性ランナーを一人かわした。
ゴールラインまであと五十メートルほどか。私は大きく息を吸い眼をつぶった。
――少し、陽が陰ったような気がした。
ゴールラインを跨いだ瞬間、いつものように左手の腕時計を止めた。
前を見ると逃げ水は消えていた。タイムはどうか? 止まった腕時計を確認すると、『01:50:53』とデジタル数字が並んでいる。
一時間五十分切りと自分で設定した目標は達成できなかった。最後を競った逃げ水との勝負も、おそらく負けただろう。
私は二度負けたのだ。
私は熱いアスファルトの上を目線を落としとぼとぼ歩いた。鼻筋から汗が流れ、アスファルトにぽつんと落ちた。
私の前を路肩の縁石に腰かけて、頭からキャップをむしり取って握りつぶした。じわっと生暖かい水が掌にしみ出してくる。熱せられた縁石に汗が染みだして尻の形に跡が付いた。一時間五十分を走ってかいた自分の汗だ。
……気持ちが悪い。
次々とゴールしたランナーが通り過ぎていく。すでに息は整い、頭は正常な思考に戻っていたが、私はしばらくうなだれて座り込んでいた。
そうだ、記録証を貰いに行かなければ。
記録賞発行のテントまで行こうと立ち上がると、雲が晴れ、また日差しがギラリと全身に降り注いだ。キャップを取った頭にまともに日差しを浴びて眩しさに眼がくらんだ。それと同時に、立ちくらみのような症状を感じた。
私は瞼をそっと閉じて静かに息を吐いた。心と体を落ち着かせる。
薄く目を開けて、ふと、ゴール地点に顔を向けると、意外なものが目に入った。
先ほど通過したゴールの向こうの地面がゆらりと動いている。逃げ水だ。逃げ水はまだゴールの向こうにいた。
なんだ、あいつはまだ向こうにいたのか。
私はふっと息を吐いて踵を返した。
縁石に残した汗の跡はもう乾いていた。
逃げ水だ。
私は夢中になって逃げ水を追いかけた。ゴールまでに逃げ水を追い抜いてやる。
腕を目いっぱい振り、ストライドを広げ、力いっぱい地面を蹴って脚を前へ前へと動かす。顎が上がりもうフォームはめちゃくちゃだ。追いかけても追いかけても逃げ水は先へ先へと逃げていく。
もう周りの音は聞こえない。聞こえるのはバクバクとうるさい心音と荒い息。足から振動と共に伝わってくる自分の足音。そして、風を切る音。
ゴールまでの距離は縮んでも、逃げ水との距離は縮まない。ちくちょう、ちくしょう。
その間に初老の男性ランナーを一人かわした。
ゴールラインまであと五十メートルほどか。私は大きく息を吸い眼をつぶった。
――少し、陽が陰ったような気がした。
ゴールラインを跨いだ瞬間、いつものように左手の腕時計を止めた。
前を見ると逃げ水は消えていた。タイムはどうか? 止まった腕時計を確認すると、『01:50:53』とデジタル数字が並んでいる。
一時間五十分切りと自分で設定した目標は達成できなかった。最後を競った逃げ水との勝負も、おそらく負けただろう。
私は二度負けたのだ。
私は熱いアスファルトの上を目線を落としとぼとぼ歩いた。鼻筋から汗が流れ、アスファルトにぽつんと落ちた。
汗をぬぐうこともせずに力なく歩いて、路肩の縁石に腰かけた。奥歯を噛みしめ、頭からキャップをむしり取って握りつぶした。じわっと生暖かい水が掌にしみ出してくる。熱せられた縁石に汗が染みだして尻の形に跡が付いた。一時間五十分を走ってかいた自分の汗だ。
……気持ちが悪い。
私の前を次々とゴールしたランナーが通り過ぎていく。すでに息は整い、頭は正常な思考に戻っていたが、私はしばらくうなだれて座り込んでいた。
そうだ、記録証を貰いに行かなければ。
記録賞発行のテントまで行こうと立ち上がると、雲が晴れ、また日差しがギラリと全身に降り注いだ。キャップを取った頭にまともに日差しを浴びて眩しさに眼がくらんだ。それと同時に、立ちくらみのような症状を感じた。
私は瞼をそっと閉じて静かに息を吐いた。心と体を落ち着かせる。
薄く目を開けて、ふと、ゴール地点に顔を向けると、意外なものが目に入った。
先ほど通過したゴールの向こうの地面がゆらりと動いている。逃げ水だ。逃げ水はまだゴールの向こうにいた。
なんだ、あいつはまだ向こうにいたのか。
私はふっと息を吐いて踵を返した。
縁石に残した汗の跡はもう乾いていた。
マラソンなんてことを趣味にしていると、他人から「走ってる間は何を考えているの?」なんてことをよく聞かれます。何にも考えてないこともありますが、意外といろいろなことが頭の中で回っています。これは走っている最中に思い浮かんだお話なのです。
周りの人のことを見て服装や装備について考えたり、景色について考えたり、趣味のことを思い浮かべたり、時には仕事のことを思い出して嫌になったり……
周りに沢山ランナーがいても一人の世界に入り込めるんですよ。
みなさん走ってみましょうよ。フルマラソン完走するだけなら意外といけるよ?