フーガ   作:志須

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AXZ本編後、エルフナインがキャロルにもう一度逢う話。

キャロルの過去想像や、託された命題のエルキャロ二人にとっての顛末の想像などを交えながら、過去作『カノン』https://syosetu.org/novel/161102/とほぼ同じ結末へ至る内容になっていますが、叙述がエルフナイン視点であったり、AXZで加わった設定を踏まえたり、エルキャロのそれぞれの命題の認識など、カノンを書いたGX最終話放送直後時より深まった原作把握や考察を元に書いているので、その辺りの相違がわりと多めとなっています。

(拙作『クリスマス・ビフォア・アポカリプス』https://syosetu.org/novel/168313/、『レセ・ヴィヴレ』(R18)https://syosetu.org/novel/169818/等の過去作を若干継いでいますが、読んでいなくても内容は通じます)
(初出:2018/06/01)(他サイトと同時投稿です)







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 両腕で抱えていた分厚い資料を、自分の胸ほどの高さにまで積まれている資料のてっぺんに載せる。

「ふう、これで全部のはず……」

 自分には胸くらいの高さでも、他の人びとにとっては腰ほどの高さでしかない。けれど誰から見ても山と言って差し支えのない量の資料が、台車の上に数本の柱を成している。

 使っていた資料のうち、資料室から借りていた分を部屋の隅に置いた台車の上にひとまとめにし終えた。

 返却は今夜これからでなく明日以降、時間のあるときに友里に手伝ってもらう約束になっている。

 小学生サイズの自分では踏み台を使っても手が届かない高さの棚から出してもらっている資料もあるので、誰かの手伝いがなければ全てを戻しきることができない。錬金術の気元素操作が使えれば浮遊して全ての棚に手が届くのだけれど、キャロルと違ってエルフナインには四大元素操作も、そのエネルギーソースとなる想い出の焼却もできないので、それは適わなかった。

 ブラウスの上に着ている白衣は、支給品の中で一番小さなサイズだけれど自分には袖や丈が長い。ロングコートのように長い裾を翻しながら部屋を振り返れば、最新の科学技術の利器に混じって、現代世界が非科学的として前時代に置き去ってきたオカルトに由来するレトロな器具があちこちに散在している、科学と超常の統一性のない部屋の光景が目に入る。

 S.O.N.G.本部潜水艦の研究区画、その一角。前事変のさなかに急ごしらえで用意された錬金術工房のこの風景に身を置くようになって、すでに三ヶ月ほどになる。

 この部屋からそう遠くないベッドのある自室とは、前事変の勃発した七月の初めにS.O.N.G.に保護されて以来だから、もう少し長い。

(病院から退院する少し前、お見舞いに来てくれた弦十郎さんと、病室でお話したときのことを思い出します……)

 ――S.O.N.G.に引き続きの協力をしてくれるとのことで、それにあたり君の住まいを改めてきちんと用意しようと思うのだが、エルフナインくん。場所や環境など何か希望はあるだろうか?

 ――でしたら、ボクはこれまでの部屋のままでかまいません。

 ――艦内のあの部屋でか? 遠慮することはないんだぞ? 出自や保有技術の秘匿レベルの関係上、身辺警護はどうしてもついてしまうが、なるべく希望にかなうよう陸(おか)の家を融通できるのだが……。

 ――ベッドとラボの距離を限りなくゼロに近づけることで、よりたくさんの時間を研究に使えます。憩いのひとときにも別な研究ができますし、むしろラボに住みたいくらいです。

 ――け、研究の息抜きに研究をするのか……。むう、エルフナインくんがそれを望むというなら、あいわかった。だがあまり根を詰めるんじゃないぞ。

 ――はい、ありがとうございます!

 そんなやりとりを経て住まいは士官室の一室のままでいるので、本部潜水艦は自分にとってすでに、中世の錬金術師の住まいのように錬金術工房を兼ねた家のようなものだった。

 作業デスクへ戻って椅子に座り、デスクに固定設置されている端末のキーを一つ叩く。画面の表示が復帰し、グリーンを基調としたモニター上に表示された錬金装置の制御画面で、装置の状態を確認しつつ、設定の見直しを始める。

(………この端末とも、壊されたギアの改修作業以来、ずっとのお付き合いですね)

 退院後、様々なことが起こった二ヶ月だったけれど今は、数世紀に渡って歴史の裏側で暗躍していたパヴァリア光明結社と、明るみになった局長アダムの人類を支配するという千年計画の野望を退け、その事後処理も落ち着いてS.O.N.G.は日常を取り戻したところ。

 自分個人としては『神の力』と人間の原罪についての考察と仮説のまとめにひと段落がついたところだった。

 生まれながらに原罪を背負った人類に『神の力』が宿ることなどないはずが、なぜ響は『神の力』を宿せたのか――響が神の力に取り込まれた直後からその原因を早急に知る必要はあったけれど、響自身の救出の準備とギアの反動汚染の除去に追われて、調査に手を付けられなかった。

 救出され戦線に復帰した響によって『神の力』は霧散でき、アダムという目下の脅威を退けて事変終息ムードになった中で、延期して開かれた響の誕生日会のお誘いを辞退してまですぐに調査に取りかかった。

 その甲斐あって、響の状態は事実上、事態に緊急性はないと判断をつけられて、やっと一安心することができたのが二週間ほど前のことだった。

 フロンティア事変において、小日向未来に纏わされた神獣鏡のシンフォギアから放たれた、凶祓いの光。それに晒されたことによって響は人類の背負う原罪を浄罪され、穢れなき魂の持ち主となり、原罪のないティキやアダムといった人形と同じように神の力を宿すことができたと思われる――手掛かりを求めて響の超常に関わったこれまでの記録を遡って辿り着いたのは、そんな仮説だった。

 弦十郎の気付きの通り、映像記録にもあるように、響とともに凶祓いの光に晒された未来もまた、響と同様に神の力を宿せる可能性がある。

(けれど、すぐに何かの危険が迫るかと言えば……)

 神の力を錬成する術は超常によって人類にも可能でも、あの規模の神の力と対峙することは今後、アダムのように(“魔力”と称するより他がない正体不明の)膨大なエネルギーを行使して、地上の神門に照応させたオリオン座からなる天の神門を強引に開き、星々から抽出した生命エネルギーを変換錬成でもできるか、アダムに相当かそれ以上の存在が現れなければあり得ない。

 今のところ、そのような存在は国連に連なる情報網では観測されていない。アダムの口にしたアヌンナキの存在は警戒すべきだけれど、星々が今事変の神門開闢時と同じ位置に来るのは、天体運行周期からすると数百年後。

 また、オリオン座を天の神門に見立てた照応は、地の神門があってこそできた。東京近郊の氷川神社郡からなる地の神門の開闢は、レイラインと要石の管理と監視を日本政府と風鳴家が強化することによって、今後は起こされない。

 ゆえに、必然的に事実上の平和が訪れているというわけだった。

 未知の可能性へは、対策を講じようにもできることは限られている。

 ここまでの情報を取り急ぎまとめた報告を司令から依頼されるままに提出した後は、現時点の情報で考えられる対処療法的な施策を今のうちに考案しておいたり、留意点や考察を整理したりまとめるなどしたけれど、むしろ対策としてはそれくらいしかできないというのが実情。

 必然的に至った平穏な日常の中、装者のギアの調整やトレーニング協力などを行う傍らで仮説や留意点のまとめや、未来の自分へ向けての申し送りや資料を作り――そのさなかに、任務と平行して余暇などに進めていたBeatriceの改修を終えた。

 電界顕微観測鏡Beatrice。フロンティア事変収束時、マリアたちの運用していたエアキャリアから押収したダイレクトフィードバックシステムに錬金技術を応用して発展させた、仮想脳領域観測装置。

 元はウェル博士が中心となってFISにて開発された、人間の脳内情報に直接的に介入する危険な装置だったのを、仮想空間を構築する装置を介在させ、装置から被験者の脳へ送信した電気信号の反射から被験者の脳構造を装置内にリアルタイムに投影、仮想空間を構築し、そこへ電気信号化した観測者の意識を送り込むことで、被験者の無意識世界までを内覧できるよう応用したもの。

 退院後からさっそく取り掛かったウェル博士のチップ解析やギアの調整の合間に、時間を見つけては少しずつ脳領域の研究と、Beatriceの開発を進めておいて結果的に良かった。個人的な研究だったそれは、思いがけなくLiNKERの完成に大いに役立つことになった。

 また、マリアの纏うアガートラームの、土壇場に度々見られた発光現象。あの現象を目にしていなかったら、マリアの脳内に残されたアガートラームの電気信号痕からシンフォギアが脳のどの領域に接続しているか突き止めるという発想は得られずきっと、もっと無為に時間を浪費していた。

 LiNKER完成の要因をさらに挙げるなら、任務の合間に繰り返してきたマリアたちの地道な訓練による適合係数の上昇の他に、パヴァリア光明結社とその幹部たちとの戦いがなければ、LiNKERは永遠に完成しなかったかもしれない。

(……いえ、LiNKERの完成だけに留まりません)

 サンジェルマンたち三人の錬金術師がいなければ、戦場となった神社を中心に広範囲の地が反応兵器によって穢されていた。爆心地付近に居た装者たちも、着弾までほんの数分という僅かな時間では避ける術なく、シンフォギアによって外傷は防がれたとしても、付随する有害な因子による生体への深刻な影響を免れ得なかったはず。

 さらには、対抗する超常の力を行使する存在がいなくなったアダムによって、人類は間もなくアダムの目論見どおりに支配されていたかもしれない。

 理想に殉じたあの錬金術師たちによって、世界はアダムの脅威から守られた。

 目を閉じると、瞼の裏に情景が蘇る。

 サンジェルマンと僅かな時間、僅かに言葉を交わしたこと。

 浄化特性の技術を教示してもらうときに手渡された賢者の石には、手に受けた重さ以上の重みがあったこと。

 ファウストローブだけでなく、数千年を生きた命までも賢者の石に見立て、命を燃やして理想に殉じた姿を見せられたときのこと。

 あれもまた『完全』を為そうする錬金術のひとつのかたち。理念を体現する姿を、目の当たりにした。

 錬金術師はキャロル以外にも現在の世界に存在すると知っていたけれど、実際に出逢ってみると、人物が個性的なことはさておき、いずれも深淵な叡智に裏付けられた高度な技術と術理を保有していて、キャロルにインストールされた錬金知識と読んだ書物でしか世界を知らない自分には驚きに満ちていた。

 世界は広い。知らないことはまだまだたくさんある。

 画面から視線を外して、モニターの右側に置いている、写真立て風の卓上鏡を見遣る。

 そんな風にときどき写真の代わりに眺めているそれに映っているのは、自分の姿であり、かつ、もうひとりの自分の姿。

 世界を、さまざまなことをもっと知りたい。知ってみたい。

 世界を識ること。それは、パパから託された命題でもあるから。

 その想い出を、これから紡いでいきたい――キャロルと一緒に。

 そのために、キャロルともう一度、逢いたい。

(そのための――)

 座席の左隣に安置されている、腰ほどの高さの装置に手で触れる。

 静かに、ごくかすかに作動の振動と音を奏でている円筒形の装置――マリアの脳領域観測の際に医務室にて使用したBeatriceは、今はこの錬金術工房に戻されて、付帯の仮想空間サーバーは端末の隣に設置されている。

 今事変の前までは自説の研究の試行品に過ぎなかったけれど、成り行きで結果的にマリアの脳構造を被験体に臨床試行することができた。

 人の脳内は意識が複雑に入り組んだ迷宮。最悪の場合、被験者と観測者の意識が溶け合い廃人となる恐れもあったけれど、他者の脳構造を他者が観察することは後遺症を生じることなく成功できた。

 ならば、キャロルを素体としたホムンクルス躯体に生まれた自分の意識は、素体であるキャロルとは別個体であれど他者というにはもっと近しい存在関係なので、自分がキャロルの躯体の脳領域を観察することは、比較的危険が少ないはず。

 机の上のスタンドに吊るしてあるヘッドセット型のBeatriceのデバイスを手に取る。

 子供サイズの自分には少し大きいそれを頭に被り、頭頂部のアジャスターを調整して頭に合わせる。後頭部分のパーツから生えているケーブルの接続を確かめ、その手を下ろす途中で、頭の後ろにつくられている短い小さな三つ編みに触れた。

 ……キャロルはきっと、この躯体の脳領域のどこかにいる。

 キャロルに逢いにいく。自分らしく、自分の錬金術で。

 椅子の背もたれを倒しリクライニングの状態にして、ゆっくりと深呼吸をし始める。

 身体の力が抜けて自然体になれた頃に、キーボードパネルに手を伸ばしてキーを叩くと、モニターの表示がREADYから切り替わって、9、8…とプログラムした通りにカウントダウンがされ始める。

 その様子を眺めながら、目を閉じた。

 

 

    ◇

 

 

 閉じた瞼の向こうで、サーバーの低く唸るような作動音が一段と大きくなるのが聞こえた。カウントダウンがゼロになったのだろう。今頃はきっと、モニターに人体とシステムの接続状況を示すシンボル略図が表示されている。

 目を閉じていて真っ暗なはずの視界が、不可思議に急速に明るくなっていく。意識に関係する何かが可視化されたのだろう光の粒や雲が視界いっぱいに広がり、沸き起こった浮遊感がそこに加わって、漆黒の暗闇の代わりにまばゆい光で満たされている銀河に、身一つで放り出されたみたいになる。

 光はさらに溢れてやがて視界を、こちらを真っ白に染め上げた。

 何も見えない、何も聞こえない、何も感じない。

 そんな白一色の世界に取り込まれたのもつかの間、しばらくして見えてきたのは左右に二つの、傾いた楕円の形をしたおぼろげな影だった。

 真昼の霧が晴れていくように、世界は色彩と輪郭を取り戻していく。

 傾いた楕円の影は、鈍い光沢を放つ真鍮色の巨大な歯車。

 周りを一定間隔でぐるりと囲んでいた明るい点だったものは、時代がかったの西洋意匠のポールの先端に据えられた淡紫の光球だった。

 その脚元には、同じ意匠の腰高の欄干。

 欄干より内側の四方に配された、円柱の脚元だけ造ったかのような形の台座。

 白い闇が去る際の道連れとしたかのように光は失せて、どれだけ高いのか分からない天井は闇に融ける。

 広間の周縁に備わる照明灯の淡紫の光球だけが光源の、ここは。

「玉座の間……チフォージュ・シャトー……?」

 忘れるはずもない、自分の原風景。玉座の間の、大扉をくぐって少し進んだあたりの、広間の中心近くの位置に立っていた。

 現実のチフォージュ・シャトーは先の魔法少女事変の終局で大破し、墜落して今は瓦礫と廃墟になっている。だから、これは仮想空間。

 被験者の脳から得る電気信号反射からの仮想脳領域の構築と、電気信号化した観測者意識の仮想脳領域への接続は、再び成功できたようだった。

「ここは、キャロルの想い出の中……?」

 その可能性は高い。

 致命傷によって死に瀕してベッドに伏せっていた頃、深夜に忽然と病室に現れたキャロルは自分の記憶の状態を『全てが断片的』と語っていた。

 過剰に焼却したとはいえ燃え残ったキャロルの想い出の断片は、この世に意識を生じて一年足らずの自分の想い出より数では圧倒的に上回っているだろうので、これはおそらくキャロルの想い出だろう。

 足下のガラスのように透き通った床の向こうでは、鈍色をした大小の金属の歯車が幾重にも奈落のような底へ向かって無数にひしめき、噛み合い回っている。

 その床に立っている自分の足が、革のローファーではなく若葉色のバレエシューズを履いていることに気が付いた。

 本部で着ている白衣のものだと思っていた白い布地の裾沿いには、見覚えのあるモスグリーンの二本の並行ライン。裾を見るためにスカートをつまんだ手の、腕には袖が無く、予感のするままに頭の後ろに手を回してみると、あるはずの小さな三つ編みがない。

 横髪をひと房つまんで、目の前にかざしたそれを見る。

「この髪の色は……」

 緑がかったくすんだ金のようなこの色は、キャロルによって覚醒させられた廃棄躯体の髪の色。袖のないこの白いワンピースは、S.O.N.G.に保護された後にいただいて着ていたもの。自分の姿と装いは、キャロルを止めるためにS.O.N.G.に協力していた頃のものになっているようだった。

 けれど以前に観測したマリアの仮想脳領域では、キャロルの躯体と同化している現在の姿をしていた。

(それはたぶん、被験者がマリアさんだったから……)

 仮想脳領域では被験者の意識の影響が強く、マリアから見た今のこちらの見た目で投影されていたのだろう。こちらからするとキャロルと自分は異なる外見という認識がはっきりあるため、本来の姿である廃棄躯体の容姿で現れるのかもしれない。

(ここは玉座の間……ということは――)

 頭を過ぎった可能性にはっとして、弾かれたように階段の上を見遣った。

 予感のした通り、ここから数十メートルはあるホールの突き当り、遠く見える玉座には、座る誰かがいる。

 十歳前後の子供の身体には大きい玉座の、片側に寄って座るあの姿は、見間違えようもない。

「キャロル……!」

 見つけ、られた。再び出逢えた。胸に込み上げる想いが、しぜん玉座に向かって身体を駆け出させていた。

 ホールの中心を駆け抜けて、玉座への階段に差し掛かる。玉座への階段は、そこに漂う威圧感よりも、何か勘気に触れたキャロルが怒気を込めて怒ったときが怖くて怖気づいていたものだったけれど、今はシャトーの巨大装置が世界を分解する装置だと知って問い質しに赴いたときのように、怖れを忘れて駆け上がる。

 最上段に、玉座の元にたどり着く。

 そして、玉座にいたのは。

 丈の短い緋色のワンピースに黒のシルクロンググローブをはめ、左後ろから垂らした床に触れるほど長い金の三つ編みを座面に侍らせて座る、シャトーでともに暮らしていた時分に見慣れた、軽装姿のキャロルだった。

「っ……」

 胸が、締め付けられる。こうしてキャロルの元に参じていたことが遠い昔の出来事だったような気さえする。

 シャトーを抜け出して三ヶ月近く。過ぎた月日の割にこの情景をひどく懐かしく、かけがえなく思うのは、もう二度と立ち戻ることはかなわない風景という事実がそうさせているのかもしれない。

 胸の中では、二度とまみえることがかなわない人だけでなく、情景も生き続けている。

 深夜の病室へ現れて以来、ずっと行方がわからなかったキャロルが目の前にいる。

 これでようやく、伝えたいことを、伝えることができる――

 けれども。

「キャロル……?」

 キャロルはこちらを見ようともせず、無言のまま微動だにしなかった。

 階段を駆け上ってきて目の前にいるのに、キャロルは子供の身体には大きな玉座の片側に寄って肘掛けに頬杖したまま、こちらに気付いてさえいないかのように虚空を見据えて黙考し続けている。

(どうして……?)

 戸惑い、要因の心当たりを探し始めたそのとき。

 玉座の周囲の空中に突然、小さな火球が現れた。

「あっ……!?」

 こぶし大の鬼火のようにゆらぐそれは、二つ三つと忽然と現れて数を増やし、周りの風景に火を灯して急速に燃え広がっていく。

 情景にできた、ふちの燃える穴が広がっていく様はまるで、紙の風景画や写真を火にかけたときのよう。

 焼け落ちて空いた穴から覗く漆黒の虚空に情景は塗りつぶされていき、炎はやがて玉座のキャロルにまで差し迫った。

 とっさにキャロルに腕を伸ばす。

「キャロル! くぅっ……!」

 炎の手から逃れさせようと腕を伸ばしたものの、炎と熱に阻まれてかなわない。

 怯んだ隙を突くかのように、炎は勢いのある速さで情景の残りを燃やしていく。

 為す術なく、やがて、何もかも燃え尽くされて。

 暗闇の只中に一人だけで取り残された。

「……今の炎は……想い出を焼却した体験の記憶……?」

 それが可視化されて、情景を焼く炎という形で再現されたのかもしれなかった。

「それなら、さっきのキャロルは、燃え残っていた想い出の断片の中のキャロル……」

 だとすれば、マリアの仮想脳領域を観測した時のように、想い出の中のキャロルは観測者であるこちらの意識を認識しない。

 なぜならここは、被験者の脳へ送った電気信号の反射を元にBeatriceが作り出している仮想の空間であって、すでに起きたことの想い出を記録映像のように再生されているだけにすぎないから。

 マリアの仮想脳領域でこちらを感知して襲ってきたノイズのような敵性存在は、被験者や観測者の意識に害をなす電気信号の乱れなどの要素を、Beatriceが被験者の記憶を用いて敵と認識される仮想体として出現させたものなのだろう。

 マリアを被験者としたときと違い、今回は被験者も観測者も自分、同化しているキャロルの躯体。

 観測者である自分の意識は電気信号化して装置に送られているが、マリアのときと同様、被験者の意識としてキャロルの意識も電気信号化されて装置内に送られているはず。

 仮想脳領域内でキャロルに出逢えるかもしれない――もう一度。

 けれど、被験体のマリアの意識は仮想脳領域に接続した直後からそばにいなかったように、キャロルの意識も想い出のはざまを彷徨っているに違いない。

 生年二十と少しのマリアの仮想脳領域ですら、想い出の奥行きは計り知れないほど深い気配があった。過剰に焼却したとはいえ、五百年余を生き永らえてきたキャロルの想い出の断片の数は、マリアの想い出よりはるかに数が膨大であっておかしくはない。

 人の脳内はただでさえ意識が複雑に入り組んだ迷宮。キャロルともう一度出逢うには、そうした中を探索する必要がある。

 さらに、そこにキャロルの意識があるという保証はどこにもない。

(もしかしたら、すでに意識までも燃え尽きていて――)

 これまで何度か頭を過ぎった決してゼロではない可能性を、頭を振って思考から追い出す。

「ううん、きっと見つけてみせる。何日、いえ、何年かかってでも。マリアさんたちから受け取った、諦めない心で!」

 けれど機会はそう多く持てないかもしれない。被験体と観測者を同じくする運用はこれが初めてな上、Beatriceの反復使用自体、後の影響は不明。

 身体や脳への影響次第では今後、使用を不可とせざるを得なくなるかもしれない――キャロルの身体を、傷つけてしまうことは避けたいから。

 左腕を胸元の高さにして、手首の内側を見る。

 そこには白地に黒いローマ数字の文字盤に、長針と短針を備えているだけのシンプルな小ぶりな腕時計が、想定通りにはめられている。

(そのために追加した、時計モジュール……)

 仮想脳領域で数多の想い出を巡ることは時空間を転々を旅するようなもので、時間の経過がわからなくなる。

 マリアを被験者として運用した時の友里のように、仮想空間の外でバイタル等をモニタリングし、必要に応じて装置を緊急停止するオペレーターがいなくともシステムを安全に運用できるよう、経過時間表示と、リューズを模したスイッチによるシステム緊急停止の機能を観測者の意識に付随させるモジュールを、改修したBeatriceのシステムに組み込んでおいたところ、正常に動作しているようだった。

 タイムリミットを知らせるカウントダウン時計は今回、六十分に設定してある。

 それは前回のマリアの仮想脳領域を観測した時間より少し短い時間で、前回の運用後に健康障害が何も見られなかったことから、この時間内であれば身体も精神も、装置の動作も安全域と考えられるからだった。

 腕時計から顔を上げると、自分の身体以外全てが漆黒に塗りつぶされている視界の端に、ちらりと光の点が見えるのに気が付いた。

 よく見ると、それは一つだけではなく。

 いつの間にかいくつもの光が、自分を遠巻きにするように周囲に存在していた。

 

 

    ◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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