侑は、佐伯沙弥香と共にいた。
なぜ彼女が沙弥香と共にいるのか、それは、侑が燈子に拒絶されたと思ったことが始まりだった。
やが君の原作6巻からのIFとなります。
※このSSはPixivにも投稿してあります。
「んん……」
私はおぼろげな視界の中、ベッドの上でゆっくりと体を起こす。それと共に、私の体からするりと体にかけていたタオルケットが落ち、私の裸体を露わにする。
どうやら眠ってしまっていたらしい。ベッド側のカーテンを少し開けると、薄ぼんやりとした朝日が部屋に入り込み、私と、私の横で寝ている彼女を照らし出す。
「う……」
その光で、寝ていた彼女も目を覚ましたらしい。
私は未だにまどろみの中に逃げ込もとうとしている彼女の顔にかかっている髪を片手で除ける。
そして、そっと彼女の頬にキスをする。
「おはようございます、起きてください……沙弥香さん」
「ん……おはよう、侑」
そう言い合って、私達は唇を重ねる。
彼女こそが、私小糸侑の今のパートナー、佐伯沙弥香。
ここは、昔いた街とは少し離れた場所にあるアパートの私の部屋。
二人でこうした関係になってから、もう三年になる。
高校時代から始まったこの関係は、大学生になった今でも変わらない。
私達がこうした関係になった三年前。そのきっかけは、あの日、私が当時の想い人、七海燈子先輩に拒絶されたのが始まりだった。
◇◆◇◆◇
「……ごめん」
私はバカだ、と思った。
言わなければずっと一緒にいられたのに。
想いを秘めていれば拒絶されることはなかったのに。
七海先輩は、先輩を好きにならない私が好きだったから。
でも私は言ってしまった。
七海先輩に好きだ、と。
でも、その答えがこれだ。
私はその答えを聞いた瞬間、駆け出していた。無我夢中でその場から逃げ出していた。
後ろで先輩が何かを言っているのが聞こえる。
でもそれを聞くのが怖い。聞いてられる余裕なんてない。きっとまた、否定の言葉が飛び出してくるだろうから。
そう思うと、私は耳も目も塞いでその場から逃げ出すしかなかった。
とにかく走る。必死で走る。行き先も分からないまま、私は走る。
もうどれくらい自分が走ったのか、分からないくらいに。
気づいたら、私は学校の生徒会室にいた。
誰も居ない生徒会室。その角に、私はもたれかかっていた。
私は生徒会室を見回す。思えば、七海先輩と一番一緒に過ごした場所かもしれない。
生徒会の激務に追われてあんまり先輩とおしゃべりしたって記憶はないけど、それでもあの人と同じ時間を過ごした空間なわけで――
「……うっ!?」
それを思い出したとき、私は急激な吐き気に襲われた。
私は口を手で塞いで必死にその吐き気と戦う。でも、七海先輩の事が頭から離れず、あの人との思い出が頭をよぎるたびに、吐き気は強くなっていって――
「おっ、おええええっ!?」
そして、私はとうとう吐き出してしまった。と言っても、溢れ出てくるのは胃液ばかり。
喉が焼ける感覚がする。口の中で気持ち悪い味がする。
でも、それ以上に、七海先輩の姿が、私の心を真っ黒に焼き尽くす。
「はぁ……はぁ……」
ああ、そうなのか。これが、人を好きになる代償なのか。
恋をしたら、漫画や小説のように、羽が生えたような気持ちになると思っていた。
それは間違っていなかった。
でも、私は知らなかった。あまりにも空高く飛ぶと、落ちたときに体がバラバラになってしまうってことを。
私はそれを今、身をもって知ったのだ。
「誰か……誰か助けて……」
私はかすれるような声で助けを求めた。
誰か、誰か助けて。私のバラバラになった体を、誰か拾い集めて――
「小糸さん……?」
と、そのときだった。
声が聞こえた。玄関から、声が。
その方向を見ると、そこにいたのは、佐伯先輩だった。
佐伯先輩が、私を見て、今まで見たことのないような表情をしている。ああ、今の私ってそんなひどいのか。
でも私は、なんだか佐伯先輩を見たら安心して、すっと体から力が抜ける感覚を味わった。
そして、そこで私の意識は闇に落ちた。
「……ん」
次に私が目を覚ましたときに見たのは、見覚えのある天井だった。
そう、ここは生徒会室だ。
でもなぜだろう。私の頭は今、柔らかい感触を感じている。
生徒会室にクッションなんてあったっけか。
「やっと目を覚ましたわね」
私の視界にぬっと頭が入ってくる。それは、佐伯先輩の頭だった。どうやら私は、佐伯先輩に膝枕されていたらしい。
「佐伯……先輩……どうして……」
「どうしてって、それはこっちが聞きたいわよ。生徒会室に忘れ物を取りに来たら、あなたがいて突然倒れたんだもの。それに、なんだか吐いたっぽいし」
「それで……ずっと見ていてくれたんですか……」
「ええ。本当は保健室につれていくべきだったんでしょうけど、あなたの倒れる前の顔を見たとき、なんだか人には言えない事情がありそうってなんとなく思ったから。……多分、燈子絡みで」
ああ、この人は本当に鋭い。
七海先輩のことになると、この人の鋭さは人一倍になる。本当に、七海先輩が大好きなんだな、この人は。
……七海先輩……。
「……あれ……?」
すると、私の目から自然と涙がこぼれ落ちてきた。
「……私、どうして……」
「……どうしてって、なんで自分が泣いているのか分からないの?」
「……分からないんです……なんだか、すっごく胸の奥が痛いのに、その理由が分からなくなっちゃったんです……さっきまで、分かっていたはずなのに……その感情の名前が、どうしても出てこないんです……」
「……一応聞くけど、あなた、燈子と何があったの」
「私……私……七海先輩に、告白しました」
すっと、私の口からその言葉が出た。なぜだか、佐伯先輩の前では素直になれる。そんな気がした。
「そう……それで、駄目だったのね……」
「……はい」
「なるほど……小糸さんでも、駄目だったかぁ……」
そう言って、佐伯先輩はため息をつく。その顔からは、ある種の諦観と、小さな絶望があるように思えた。
「それで、あなたはこうなってしまったのね……燈子らしいと言えばらしいけど、残酷な話ね」
「…………」
私はぼうっと佐伯先輩の顔を見続けた。なんだろう、この人の顔を見ていると、私の中で名前が分からなくなったこの気持ちの痛みが、少しだけ和らいでいく、そんな感じがした。
「なによ、そんなに私の顔見つめて。私の顔に何かついてる?」
「あっ、ごめんなさい……」
私は咄嗟に起き上がる。起き上がって分かったが、私はいくつも連なった椅子の上に横になっていたらしい。
その椅子の一つに、佐伯先輩が座っていたのだ。
起き上がった私は、なんだか体に力が入らず、また倒れそうになってしまった。
「あっ……」
「っ……!」
その体を、佐伯先輩が支えてくれる。
「危ないわね、ちゃんと回復するまでそこに座ってなさい」
「はい……」
私は言われるがままにする。なんだろう、言われるままに動くのって、楽でいい。
「……それにしても、ひどい顔ね。そういえばあなた、さっき感情の名前が出てこないって言ってたけど、それどういう意味?」
「分かりません……でも、さっきまで分かっていた気持ちの名前が、どうしても思い出せないんです……思い出そうとすると、頭にモヤがかかったようになって、気持ち悪くなって……それで、考えることを辞めたら楽になって……」
「ふぅん……ある意味、あのときの私と同じ……いや、それ以上にひどいことになってしまったのね……」
佐伯先輩が小声で何か呟きながら、私を憐れむような目で見る。こんな佐伯先輩は、初めてだ。
いっつもどこか私に敵意みたいなものを向けていた、そんな感じだったのに。
今はそう……私に同情してくれているような、そんな印象を受ける。
私、同情されるような状態なんだろうか……。
「それで、今はどんな感じなの?」
「え? ああはい。なんというか、とにかく頭の中ぐちゃぐちゃで……でも、考えるのを辞めたら、少し楽になるって言うか……」
そう、今は何も考えたくない。心にぽっかりと空いた正体不明の穴は、そうしないとどんどん広がってしまいそうな気がしたから。
「……見てられないわね」
「え?」
そう言うと佐伯先輩は立ち上がり、ぐっと私の腕を掴んで私を立たせたかと思うと、私の体をぎゅっと抱きしめてくれた。
「佐伯……先輩……?」
「私はね、あなたの事正直好きってわけじゃなかった。燈子の側にずっといたかった。でもね、今までずっとあの子の隣で頑張ってきたあなたが、こんな姿になるのを、私は見ていられない。なんでかしらね。昔の自分と重ねているのかしら。ま、どうだっていいわ。今は小糸さん……あなたが、そう、憐れで仕方がない」
「憐れ……」
私は憐れなのか。きっと、この人が言うならそうなんだろうな。
「だから小糸さん……いえ、侑、あなた、私の隣にいなさい。あなたがあなたに戻るまで、私が隣にいてあげる。それが、私にできる精一杯の憐れみよ」
そう言って、佐伯先輩は私を抱きしめる力を強めた。
ああ……なんだろう……そう言われてこの人の体温を感じていると、心に空いた名前の分からない穴が、埋まっていく、そんな気がする。
「……はい……分かりました……」
だから私はそう答えた。
大丈夫。この人の言う通りにしていればきっと私は何も怖くない。もう辛い思いなんてしない。あの感情の名前はまだ忘れたままだけど、きっと思い出せる、そんな気がした。
「そう……いい子ね……じゃあこれは、その第一歩……」
そう言って、佐伯先輩が私の唇に唇を重ねた。私は、それに答える。
温かい。
この人にすべてを預けてもいい。私の、すべてを。私は、そう思った。そうしか、考えられなかった。
◇◆◇◆◇
「……あれから、三年か」
もうあの日から三年も経ったのか。私は時間の流れの速さを身にしみて感じた。
あの日の後、私のところに七海先輩はやって来た。
そして、何かを言おうとした。でも私は、七海先輩を見た瞬間、心がとっても痛くなって、七海先輩の話を聞くどころじゃなかった。
そんな私を助けてくれたのは沙弥香さんだった。
沙弥香さんは私を横から抱きしめると、七海先輩に向けて言った。
「悪いけど燈子、もうこういう事になったから。だから、さよなら」
そう言って、沙弥香さんは燈子先輩の前で私の唇を奪った。私もそれに答えた。だって、沙弥香さんがそうしろって言ってるように思ったから。
七海先輩は言葉を失っていた。その後、私は沙弥香さんに手を引かれて、その場から去っていった。
その日以来、七海先輩は生徒会に顔を出さなくなった。
それからずっと、私と七海先輩は顔を合わせることなく学校を卒業し、私と沙弥香さんは同じ大学に進学した。だって、沙弥香さんがそうしろって言ったから。
私が沙弥香さんを沙弥香さんって呼ぶようになったのもその頃かな。だって、そうしろって言われたから。
それから三年、私達は同じ部屋で暮らし、毎日のように体を交じらわせている。
沙弥香さんと体を重ねているときが、一番落ち着く。沙弥香さんと一つになれる気がするから。それに、気持ちいいし。
「……どうしたの、侑」
沙弥香さんが物思いにふける私に後ろから聞く。
私は振り返って答える。
「なんでもないですよ、沙弥香さん」
「……そう」
そう言うと、沙弥香さんはベッドから降り、裸のまま寝室から出ていった。きっとシャワーを浴びるのだろう。だいたい、シャワーを浴びるのは沙弥香さんからだから。
……あの日忘れた気持ちの名前は、今でも思い出せないし、心に空いた穴は今でも塞がらない。
でも、私はそれでいいと思っている。だって、今のままならずっと沙弥香さんと一緒にいられるから。
沙弥香さんが、私に命令してくれるから。
きっと私が元に戻れば、沙弥香さんは私の元から去ってしまうだろう。だって分かるんだもん。沙弥香さんは、私が忘れた気持ちを、私には抱いていないって。まあ、なんとなくだけど。
きっと私はこれからもその気持ちの名前を思い出すことはないし、思い出したくもない。そして、誰からもその気持ちを与えられることはないだろう。
でも、それでいい。今は、それで。
私はこの暗澹としたアタラクシアに浸かり続けるのだ。
いつかすべてが壊れる、その日まで。