あさおん・オブ・ザ・デッド   作:夢野ベル子

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ハザードレベル101

 今日は何の配信をしようかな。

 

 そんなことを考えながら町役場の中を歩いているときだった。

 

 ボクは脳内でいろいろと妄想しながら――想像しながら歩いていたから、視線は右斜め上のほうを向いていた。そんなわけで前のほうでなにが起こってるか知りようもなかったんだけど。

 

 なにやら喧騒が聞こえてきた。

 

 玄関ホールのほうで、探索班のひとり湯崎さんと、なにかといろいろと文句をつけてくる辺田さんがまた言い争っていた。

 

 このふたりって犬猿の仲だよね。

 

 年齢的には辺田さんのほうが若く、金髪に染めたピアスとかつけてる、なんといえばいいか、往時であれば『ウェーイ』とか言ってそうな感じの人。DQNではないと信じたい。

 

 湯崎さんはダンサーでもやってたのかな。すごい筋肉をしている細マッチョ。

 

 体格的には湯崎さんのほうがしなやかな筋肉質って感じで強そうだけど、負けん気というか、我の強さでは辺田さんのほうが一枚も二枚も上手って感じ。

 

 いい年した大人どうしがって思ったりもするけれど、大学生になってもボクの精神年齢なんて小学生の頃からそんなに変わってない気もするし、少しばかり年齢が上でもそうなのかなぁと思う。

 

「いい加減にしろよオマエ。なにもしてないくせに」

 

 湯崎さんが辺田さんの肩のあたりをドンと手のひらで押し出した。

 

 よろける辺田さん。すぐに睨み返す。

 

 対する湯崎さんも辺田さんを睨みつけている。

 こういうの知ってる。

 不良同士がやってるらしいメンチ切ってるってやつだ。

 剣呑な雰囲気。

 

 なにを言い争ってるのかは前段部分を知らないからなんともいえない。

 

 けど、湯崎さんには探索班をやっているという実績がある。ボクがいないときから、ゾンビをかいくぐってみんなのために活動してきた湯崎さんだから、辺田さんに対しては何もしてこなかったくせにという反発心があるように思えた。それをいっちゃうと、町のみんなもそうなんだけどね。

 

 まあ、互いに犯人扱いしたりされたりした仲だからしょうがないんだろうけど、剣呑さを周りに広げるのはやめたほうがいいんじゃないかな。

 

 ほら。

 周りのみんなは遠巻きに見ている感じで、どちらかといえば関わりたくないみたいだ。

 

 そりゃそうだろう、と思う。

 

 いまはようやくゾンビテロ犯が捕まって落ち着きを取り戻しつつある時期だ。

 できれば、このまま穏便にいきたいはず。

 

 ふたりとも顔を歪ませて、襟首をつかみあい、いまにも殴り合いの喧嘩を始めそうな様子。

 

 周りに町長やゲンさんはいないな。

 

 ぼっちさんは――いた。けど、未宇ちゃんを後ろに隠して遠めに見てる感じ。積極的に関わろうという気はないみたい。喧嘩しているふたりに割って入るのも勇気がいるんだろうと思う。余計に関係がこじれてもって思うしね。

 

 ついでに言えば、命ちゃんは常にボクの隣にいるけど、基本的に男の人には近づかないのです。

 ボクも未宇ちゃんを守護るぼっちさんみたいに隠れてようかな。

 

 ……ダメですか。そうですか。

 

 なんというか視線だけで期待感がわかる。

 

 ボクが出て行けばひとまず丸くは収まるだろうしね。

 

 みんな仲良くしてほしいし、一肌脱ぎますか。

 

「どうしたの?」

 

 ボクは何も知らない小学生のような感じで聞いてみた。

 

「ヒロちゃん」

 

 両方の声が重なる。

 

「こいつが悪いんだよ」

 

 また重なる。

 

 あんたたち実は仲良しなんじゃない?

 

 とりあえず、ボクは少し迷って、辺田さんに先に話を聞くことにした。

 

 ボクって、どちらかといえば探索犯の人たちと仲が良いように思われてるだろうから、探索犯の肩をもったって思われないようにね。

 

 すこしは空気が読めるようになったボクなのです。

 

「ゲンさんのことだよ」と辺田さん。「いくらなんでもおかしいだろ」

 

 んぅ。正解。

 

 ゲンさんが『カエレ』の文字を書いたことは、無事にみんなで考えたカヴァーストーリーで、小学生並の言い訳をして、ふたをしてしまったことだけど、実際にはボクに対する拒絶感みたいなのもあったのは確かだ。

 

 町役場のみんなの前で言い訳するときには、ゲンさんは隣にいた。

 実際にいる人物としてみんなの前に姿をだしていたからね。

 

 配信のときみたいに謎のジャパニーズ忍者が、ジュデッカの暗躍を感じ取って警告のためにあの文字を書いたんだっていう線には無理がある。

 

 ボクができるのは――。

 

「それで?」

 

 無知な子どもを演じること。

 

「それでって……いいのかよ。ヒロちゃん」

 

「うん。いいよ」

 

 ボクは断言した。仮にゲンさんがどのような動機であの言葉を書いたにしろ。

 被害者であるボクが同意していればおおよそのことはOKという理論だ。

 辺田さんは二の句が告げない。

 辺田さんの理論はボクのためを思ってのものだからね。本人から否定されてしまったら何もいえなくなる。

 

「こいつは抽選に落ちたから、そういうことを言ってるだけだよ」と湯崎さんは怒りの声。

 

 仲間であるゲンさんを貶められたというのが喧嘩の原因か。

 

 ちなみに、抽選っていうのはボクが広げた町役場の外の家に住むことを指す。リソース的にすべての人間が役場の外に行くほどの広がりはなくて、電気も水もまだごく少量を配分していくしかない状況だ。公平を期すためには抽選という方法しかなかった。原始的な紙のクジをひくって方法だけどね。だいたい300人くらいいるなかの半分くらいは町役場周辺の家に住む権利を与えられた。半分くらいは居残りだ。その居残り組のひとりが辺田さんで、それが不満じゃないかといってるんだ。

 

「ちげーよ。やっぱり探索班のやつらは自分の都合のいいようにやってるじゃねーか。まだ子どものヒロちゃんを騙して好き勝手やってんだろ!」

 

「あのー。ボクってわりと自由な意思でいろいろ決めてるつもりなんだけど」

 

「それもそういうふうに誘導されてるんだよ」

 

 誘導ね。

 

 むしろボクみたいなボスゾンビのほうが、みんなの意思を好き勝手に誘導してるかもしれないのに、辺田さんは逆のことを言ってる。

 

 すこしおかしいなって思ってしまった。

 

「まあ誘導というか摩擦というか。人間いっしょに暮らしているとストレス溜まるものだと思うよ。ボクだって本当のところはお家に引きこもってただ配信だけしときたいくらいだし」

 

 ヒロ友たちと仲良し空間でワチャワチャしときたい。

 リアルでの交流はいろいろと雑多なノイズが混ざるからなぁ。

 面倒くさいの一言に尽きる。

 

「そんなこといわないでくれよ!」

 

 辺田さんが焦った声をだしている。

 湯崎さんも。あるいは周りにいるみんなも焦っていた。

 

 そりゃそうだよな。

 

 ボクがこれ以上協力しないって言っちゃったら、ゆでがえるみたいに、ここで餓死するか。無理やり外にでかけていってゾンビサバイバルに突入だ。

 

「ごめん。いいすぎたよ。ちゃんと協力はするから安心して。でも誰かに誘導とか洗脳とかされているわけじゃないって、これでわかったでしょ」

 

「お、おう」

 

「じゃあ、喧嘩もしないでね」

 

「わかったよ。ヒロちゃんがそう言うなら……でも、みんな待ってるんだよ」

 

「え、なにを?」

 

「もっと豊かな暮らしを、つーかさ。安心できる暮らしをさ」

 

「うん。わかった。そうなるようにがんばるね」

 

 そのスピード感覚は、ピンクちゃんのママをして――複雑な計算式を用いて『間に合わない』とのことだったけれども、人間の感性において妥協できる範囲をいま模索しているところ。

 

 つまりは――ヒイロゾンビの扱いについて。

 

 そこさえ確定しまえば、ピンクちゃん経由で間に合わせるだろうし、ボクが考えなくてもよくなっている。あとから聞いたことだけど、これって命ちゃんとピンクちゃんの話し合いがあったみたい。話し合いというか談合というか。まあそんな感じで。

 

 ボクにはない思考と発想で、事態が伸張していくのは少し怖くもあったけれど、ピンクちゃんも命ちゃんも一歩踏み出したってことなんだろう。

 

 ボクとしては後輩であり妹分である命ちゃんがボクの手を離れていくようで寂しくもありうれしくもありって感じです。この子ってボクにべったりちゃんだからな。物理的に離れていたときはそうでもなかったんだけど、ゾンビハザードが起こってからは特にそう。

 

 全体的にいえば、ボクは命ちゃんの成長が好ましくあるのです。

 

「先輩はむしろ幼女に退化……」

 

 うるちゃい!

 

 ま、そんなわけでゾンビ的な話は、町役場以外は少し荷を降ろすことにしたのです。

 

「まってくれよ。ヒロちゃん」

 

「んー?」

 

 まだなにかあるの?

 

「オレがヒロちゃんに感染したいっていったら、オレもヒイロゾンビになれるのか?」

 

 驚いた。

 

 初めてだった。

 

 ボクに対して明確に自分の意志でヒイロゾンビになりたいって言ってきた人は、辺田さんが初めてだ。

 ピンクちゃんも態度ではヒイロゾンビになってもいいってタイプだったけど、すこし毛色が異なる。辺田さんの場合は、単純に外に行きたいんだろうか。

 

 人間のこころはわからない。

 他人のこころはわからない。

 

 だから、少し興奮気味な血走った瞳を覗いてみてもなにを考えているかわからない。

 

「えっと。他のみんなとも相談してみないといけないかなぁ?」

 

 玉虫色の回答です。ここにはピンクちゃんもマナさんもいないしね。

 

 なにしろ、ヒイロゾンビが好き勝手に増えまくったら、人間との折り合いをつけるのが難しくなる。ピンクちゃんとか、わりと過激で、ヒイロゾンビが多数派になっちゃったら逆に何もいえなくなるよといってたけど、それで本当にいいんだろうか。

 

 ピンクちゃんや命ちゃんが配信することになってから、ボクはどんどん力が増していっている。

 

 ヤバイくらいの速度でレベルアップしているのを感じる。

 

 ピンク理論によれば、ボクの力ってヒイロゾンビの人気の累積みたいだしね。ソレが本当かどうかはわからないけれど、確かに配信を始めてから加速度的にボクの力が増しているのは事実だ。最初は基盤であるゾンビの数が増えたことによるレベルアップ。そして、ボクの人気度によるパワーアップ。

 

 もしもみんながヒイロゾンビになったら?

 わからないけど――。ボクって普通に宇宙遊泳とかできそう。

 

 それはそれで楽しそうではあるけれども、なんといえばいいか。貯金通帳に知らない間にどんどんお金が溜まっていくのを眺めているみたいで、小心者のボクはびびっちゃうんです。

 

「例えばさ」ちょっと間を置いてボクは言う。「ヒイロゾンビを識別するための何かを身につけるとかさ。なんか無いと危なくない?」

 

「オレからしたらなにをそんなに怖がってるのかって話だけどな。ほとんど見た目人間だろ」

 

「そういう考え方の人もいるし、そうじゃない考え方の人もいるし。いろいろだよ」

 

 そういろいろ。

 テロをおこしたり落書きしたり、ボクの寝ているベッドにもぐりこんできたりといろいろだ。

 

「ともかく――ボクひとりで勝手には決められないな」

 

 そういう段階を通り過ぎている、というか。

 

「なんだよ。結局、出し渋りかよ……」

 

 と、辺田さんは納得していない様子。ボクはみんなの前で、本人にその気があるんならヒイロゾンビにしてもいいよ的なことも言ってるからな。

 

 辺田さんの不満もわからなくはないというか。ウソついたことになっちゃうかな。

 

「ごめんね。みんなで決めてから――」

 

「オマエをヒイロゾンビにするとか、ありえねーから期待すんなよ」

 

 って、湯崎さん。そういうふうに煽るからぁ。

 

「湯崎てめえ!」

 

「なんだよ。オマエは自分のことしか考えてないだけだろ。まだ希少価値のあるヒイロウイルスを使って一儲けしようとかそんなくだらないことを考えてるんじゃないか?」

 

 湯崎さんの決めつけ。

 そして、辺田さんがワナワナと震えている。

 

「お前達、上のやつらこそヒイロウイルスを国に高く売りつけようとしてるんだろ! だから出し渋ってんじゃないか」

 

「てめえがどんなに喚こうが、誰もおまえのことなんか聞かねえよ」

 

 ドンと辺田さんを押す湯崎さん。

 よろめいて倒れそうになって――、ボクは超能力で支えた。

 湯崎さんのやり方とか言い方も悪いと思ったから。

 起き上がりこぼしみたいによろけた姿勢から回復する辺田さん。

 

「ちっ」

 

 でも、辺田さんにとってはボクも敵側だったのかな。

 そのまま、そそくさと集団の中に帰っていった。

 

 

 

 ★=

 

 

 

 湯崎の野郎許せねえ。クソがっ!

 ゴミ箱をヘコますほど蹴りつけても、腹の虫はおさまらねえ。

 

 べつにヒロちゃんが悪いってわけじゃねーのはわかってる。

 だけど、あいつら上級国民さまは下級国民のことを何もわかっちゃいねえ。

 

 ヒロちゃんだってわかってるわけじゃない。

 ゾンビのうなり声が遠くに聞こえるとき、オレはあの夜を思い出す。

 

 あのゾンビが溢れた夜を。

 

 勤め先のしがない新聞社で配達の仕事をしていたオレは、その日も――朝早く、早朝というか深夜といってもいい時間帯に作業をしていた。

 

 オレは22歳。高校を卒業してからすぐに働くように親にいわれて、どうにかこうにか見つけ出したのが今の仕事だった。

 

 親はろくでもねえクソ。

 生活保護を受けていて、オレに『手足の一本でも失えば2万円くらい障害加算もらえるから腕一本失ってこい』とかいうクソオブクソだ。

 

 オレもクソ。高校までは奨学金でなんとかなったが、半分くらいは親が金をむしりとるためだけの方法だったらしい。クソから生まれるのはクソしかない。頭もよくなかったから、当然といえば当然の流れ。

 

 さっさと仕事を見つけて、一人暮らしを始めて、親とは絶縁した。

 

 いつかビッグになってやるなんて夢もなく、単にその日を凌ぐだけの毎日。

 

 同じ職場にはそろそろ初老にもなろうかという50歳の同僚がいて、そいつは時々、新聞を誤配しては社長にヘコヘコと頭を下げている。気の弱いやつだった。オレのことも『辺田さん』と呼んでヘコヘコしていた。周りの人間全員に頭を下げていた。

 

 ああはなりたくねえなと思った。

 けど、十中八九そうなるだろう。

 オレも30年後はああなるに違いない。

 

 そいつはある日、新聞を配達する原付で人を轢いてしまって、残りわずかな人生を刑務所の中で過ごすことになった。

 

 轢かれたほうは、いわゆる上級国民のお坊ちゃまで、親がいっそう奮起したらしい。そいつが絶対にしそうにない飲酒運転をしたことになっていて、危険運転致死ということで厳罰が課されることになった。いや、もしかしたら本当に飲んでたのかもしれない。そいつは世の中のストレスを一身に浴びているようにも思ったから。

 

 ともかく――、長時間労働をさせているんじゃないかとか、そういう難癖をつけられて新聞社自体に対する風当たりも強くなった。上級国民さまの圧力なのかもしれねえが、オレにはわかりようもない。

 

 ただ、笑えるのはそんな新聞社に人手が集まるはずもなく、ひとりあたりの仕事量はどんどん増えている。本当にブラック企業になっちまったんだ。逃げ出していってる従業員も多い。オレも深夜近くから出勤して深夜近くまで働いている。いつ休んでいるんだ。わからねえ。

 

 そいつの力なく笑う顔が思い出される。

 

 むしょうに腹立たしい。

 どうして世の中はこんなに不公平なんだ?

 

 じゃあこんな職場、早く離れてしまえよと思うオレがいる一方で、クソな職場になれた自分は踏ん切りをつけることもできない。

 

 それに――。

 

「お疲れ様です。辺田さん」

 

「ああ、ありがとう葵ちゃん」

 

 部屋の隅にある物置台の上に取っ手つきのコーヒーカップが置かれた。

 

 お盆をもった白い腕がきれいに折りたたまれている。

 

 勤め先の社長の娘さんだった。まだ中学三年生で、人手不足で手の足りない職場の手伝いをしている。華奢な体つき。肩口にかかるくらいの髪。

 

 仕事場にいるせいか大人びている。

 だが、やはり年相応に幼い。

 

 オレの頭一つ分くらいは小さいが、子どものような大人のような微妙な年齢だ。

 

 瑞々しい肌が制服の脇から覗く。二時間ほど仕事を手伝ったあとは部活の朝練にそのまま出るらしい。何も持ってない俺からすれば、未来という時間を持っているだけで、葵のことが羨ましくもあり、他方でそういうやつも生きあがいているのだろうなと思うと胸の奥のつかえがとれるような気持ちがした。

 

 社長令嬢が貧乏にあえいでるというだけで、オレと同じステージにおりてきてるってだけで、スカッとした気分だったんだ。

 

 チラリと視線を這わせながら、俺はチラシを新聞の中に入れこむ。そろそろ朝刊を配る時間が近づいている。

 

 そして、その時はやってきた。

 

「あ……れ?」

 

 葵はその場でよろめいて、作業台のほうに手をついた。

 オレはいぶかしげに思い、「どうした?」と声をかける。

 葵はうろんげな瞳になって、空を見上げていた。

 オレも釣られて空を見上げる。新聞社の窓ガラスといっしょになった扉の向こう側には彗星が尾を引いていた。青白く光る帯がゆっくりと空を落ちてくる。

 

――世界が変わった。

 

 葵は無言のまま、すくっと立ち上がる。

 視線を地面に落としているから、髪の毛で隠れて表情が見えない。

 しかし、どことなく異常な雰囲気を感じて、オレは黙って葵を観察した。

 

「ヴああああっ……」

 

 普段出しそうにない声をあげ、葵はゆっくりと腕を突き出す。

 その茫洋としたまなざしはどことも知れないところを見つめ、しかしオレを標的として狙っていた。訳がわからず何の冗談だと声をあげかけて、その前に腕の辺りをつかまれた。

 

 ものすごい力だった。今になって思えばゾンビの怪力だったわけだが、そのときはそんなことはわかるはずもない。ただつかまれた痛みに反射的に押しのけて、葵はよろめいた。

 

 視線が腐っている。

 理知の飛んだにごった瞳を見れば、あいつらが人間じゃないってことは誰にでもすぐにわかる。狂った人間を識別できるのと同じことだ。

 

「どうしたんだよ。葵ちゃん?」

 

 会話は通じなかった。作業代の上にキレイに積まれた新聞の束は、葵ともみ合ううちに崩れた。

 中学生の小柄な体格だからなんとかなっているが、狂犬のように噛もうとしてくる姿に本能的な恐怖が湧いた。

 

「どうした?」

 

 奥の部屋から現れたのは、目に濃い隈を浮かべた社長だった。

 あの事件があってからずっと休んでおらず、いつ過労で倒れてもおかしくないくらい疲れている。フラフラの足取りで現れた社長を葵は簡単に補足することができた。

 

 押したおされ、社長の首筋からはベーコンみたいな肉が生産された。

 

 赤い血がブシュっと噴出して、灰色の新聞を赤く染めていく。異常な光景に足が震えた。

 グチャグチャと異音が響く。時間が止まって、壊れたテープレコーダのように異音が繰り返される。やがて、音がやんだ。

 葵はようやく社長だったものから口を離した。ふりかえる。口元が赤く化粧がほどこされた顔。あどけない表情は無垢そのものといってよく、恐ろしいほどにキレイだった。オレはようやく再起動し、そこから逃げ出した。

 

 気づけば町役場にいた。

 

 

 

★=

 

 

 

 湯崎が言うように、希少価値というのはまちがっちゃいねえ。

 

 オレが考えるのは、いまヒイロゾンビになればヒーローに簡単になれるに違いないってことだ。例えば、ゾンビは生前の行動を繰り返す傾向にあるといわれている。葵もおそらく新聞社からそこまで離れていないだろう。もしかすると、あの新聞社の中にまだいるかもしれない。

 

 だったら――。オレが救ってやるなんてこともできるはずだ。

 葵はあのゾンビハザードが起こった日に勝手にゾンビになりやがった。

 

 つまり、ヒロちゃんの存在なんか知りようもない。

 それが、オレによってゾンビから回復したらどうだ?

 

 葵はオレに感謝するだろう。

 オレのものになるだろう。

 

 実に楽しい状況だ。

 そのうちにヒロちゃんの状況やヒイロゾンビについて知られてしまうだろうが、オレが助けたという事実は変わらない。

 

 それまでに調教してしまえばいい。

 

 口角がつりあがるのを抑え切れなかった。

 

 深い紺色をしたセーラー服を破いて、年相応の小ぶりな胸をもみしだく。

 

――オレとセックスしなければ、おまえはゾンビに戻るぞ。

 

 と脅しつけて、未成熟な果実を味わいつくしてやる。

 

 最初は嫌だ嫌だと拒絶するだろう。だが、ゾンビから戻したのはオレだ。オレだけがおまえを戻せたんだ。

 

 だから。

 

 オレのものにしてもいいよなぁ?

 

 白い肌が汗ばみ、よじるのを想像する。

 

 ……。

 

 役場にあるトイレの片隅で、オレはティッシュの中に欲望を吐き出した。

 

 賢者タイム。

 

 しばらく冷静な時間が続くが、やはり腹の底にある怒りは収まらない。

 

 オレたち下級国民はひとりあたり3平米もない狭苦しい空間に押し込められているのに、あいつらは自由に外にいける。

 

 ヒイロウイルスくらい、出し渋る必要ねーだろうが。出し渋らないと死ぬのかよ?

 金持ちや権力を持っているやつらはいつだってそうだ。

 

 持たざる者たちが苦しんでいるのをあざ笑っていやがる。

 

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 それが本当の公平ってやつだ。どうして町のやつらはそんなこともわからねえんだ。唯々諾々と上のやつらのいうことに逆らいもせず奴隷のように付き従うんだ?

 

 オレのように言いたいように言ったほうが世の中はよくなるだろう。

 

 オレのやってることは正義に適う行動だ。上級国民さまの独占と独善を防ぐ正しいおこないだ。

 

 だが、あいつらはゾンビの特効薬を簡単に配る気はさらさらねぇ。上級国民さまがたは、自分が有利になるようにしか状況をコントロールしない。ヒロちゃんはただの子どもだ。どうせ町の上のやつらにいいように使われているんだろう。

 

 ヒロちゃんが単独行動をすることはいままでに一回もないし、町役場内では誰かしらがいる。オレが頼みこんでも湯崎みたいに邪魔されるのがオチだ。

 

 どうする? どうやったらヒイロゾンビになれる? どうやったらオレはチート持ちのヒーローになれるんだ?

 

 いや――まてよ。

 

 いるじゃないか。ここにヒロちゃんと対立したやつが。あいつを利用すれば……。

 

 オレは便器の中にトイレットペーパーを投げ入れて、そいつのいる場所に向かった。

 

 言うまでも無い。

 

 いま拘束されているKとか呼ばれている自衛隊員のいる場所だ。




自分の執筆スピードの遅さに絶望的な気分になるな……。
次は早めに、できれば金曜くらいまでに更新します。
今章最後の事件はまあこんな感じです。

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