町役場の人たちに罪はないけれど――。
あえて言うのなら、世の中は何もしない人が多いというのが特徴であり、そのなにもしないというのが罪だ。
多数派は世界を変えようとはしない。個としては。
それは革命家にもならなければテロリストにもならないという意味ではいいことかもしれないけれども、自分がコントロールできる範囲を本当に小さくしてしまって、あまり社会を変えようとはしない。
そんなの面倒くさいし、自分は自分の人生を生きるのに忙しいから。
なにが言いたいかというと、嫌なことはあまりしたくないっていう当然のこと。
嫌なことっていろいろあると思う。
例えば、他人のお世話をするとか――。
そういうのが好きな人もいるけど、多数派はむしろ自分がお世話をされたいのであって、誰かのお世話をするっていうのは、なんとなく誰かに搾取されているようで嫌だ、なんて考えるのが普通なんじゃないかな。
かくいうボクもマナさんに毎食ご飯作ってもらったり、命ちゃんに配信のための準備をしてもらったりと、いろいろ助けてもらってる面は多い。
だから、人のことはいえない。魂が貧しいのかもしれない。誰かのために何かをするのは喜びでもあるけれども、自分が不当に消費されていくようで疲れもする。ボクはゾンビだ。根本のところでは本当に他人は存在するのかなんて考えている。
――久我春人さん。
あのゾンビテロを起こした主犯の人だけど、拘束していた彼のお世話するというのも、基本的にはみんなやりたくないことだった。刑吏でも法務官でもない普通の人がテロリストの拘束にかかわるというのは多大なストレスだったんだ。
それが理由。
それが、ボクの目の前で未宇ちゃんが首元に果物包丁を突きつけられている理由だ。久我さんは小柄な未宇ちゃんを右腕でからめとるようにしている。左手には怜悧な刃物が握られていて、細くて白い首元に吸いつくように重ねられており、未宇ちゃんは少し震えていた。
ボクのせいだった。ボクがあのとき久我さんをゾンビにしていれば、みんなのストレスがかかることもなかった。
辺田さんがトイレとか食事とか、人間として当然必要なお世話をかってでたとして、断られることがなかったのは、突き詰めるとボクの行為の結果だった。ボクが久我さんを何もしないゾンビにしておけば、こんなことにはならなかった。
大きく広いホールの中心で、久我さんと辺田さんと未宇ちゃん。
まるでそこだけバリアが張られたみたいにみんな距離を置いている。
久我さんと辺田さんの距離は近く、辺田さんは何がおもしろいのかわからないけれども、猿面のような奇妙なほどゆがんだ顔になっていた。
笑っているような喜びを抑えきれないような、そんな表情だ。
誰が見ても、辺田さんが解放したに違いない状況。
なぜ久我さんを解放したのかはわからない。ただ推測されるのは、ヒイロウイルスをわけてほしいということをいったときに断ったからかもしれない。
対する久我さんの顔は、ボクをにらみつけたものの思ったよりも冷静だ。
激情に駆られている様子はなく、冷たいプロの顔。だからこそ下手にうごけない。
いや、それよりも。
ボクが一番動けなかった理由は。
ボクがショックをうけていた理由は。
――そんな状況をまるで関係ない世界の出来事みたいにスマホで撮影している人がいたからだ。
こころの中がざわつく。
久我さんや辺田さんに対するものというより、みんなに対する怒りだ。
ゾンビみたいに魂が死んでいる。未宇ちゃんがあんなに震えてるのに。
「みんな、撮影するのやめて」
ボクは抑え目の声をだした。こんな低い声がでるなんてボク自身も知らなかったよ。
撮影していた人たちは慌てて、スマホを下げる。
下げない人もいた。超能力を使って、前方に落とした。その人はスマホを拾おうとして輪のなかから飛び出ることになる。周りの視線が突き刺さり、その人は小さくなりながら、スマホを拾ってそのまま輪の中に戻った。
「全世界におまえの悪行を広めるチャンスだったんだがな」
「未宇ちゃんを離してよ」
「それはできないな。おまえの念動力は強い。こいつを離した瞬間にオレはお前にくびり殺されるだろう」
いまの状態で拘束はできるかをボクは考える。
念動力の射程には入ってるけど、ナイフを完全に固定できるかはわからない。
念動といっても本質的にはヒイロウイルスの浸透力だからね。ゾンビではない死にかけでもない人間にはヒイロウイルスに対する抵抗力がある。例えば周りの空気とかを伝って力を行使することはできるけれども、それには微妙なたわみのようなものが発生する。
コンマのズレ。
それだけでプロは十分ということか。
「妙な力を感じたら、すぐにこいつを殺す。ゾンビにもならないよう脳髄まで達するように殺す。首元からナイフを突き入れて、上方までえぐりこむように刺殺する。おまえの腐った頭でも理解したか?」
「理解はしたよ」ボクは手のひらをプラプラさせる。「それでわざわざボクを待っていたのはどういうこと?」
そう。たぶん久我さんはボクが帰還するのを待っていた。
ボクがゾンビ解放区をつくる作業時間はだいたい9時から3時の時間帯だ。今日も9時にみんなと合流して、それからたぶん辺田さんが動いたんだろうから、ただ逃げるだけなら十分に時間があったはずなんだ。
久我さんは少しだけ逡巡したあと、比較的ゆっくりとした口調で話し始めた。
「彗星が降り注いだ夜から、世界に溢れた動画をおまえは知っているか?」
「ゾンビの動画でしょ」
ボクだってそれぐらいは知っている。
ボクがあさおんした後に、ちらほらとネットをあさっていた頃。
世界に溢れているのはゾンビ動画だった。もちろん、ボクの配信動画のことじゃない。
お食事中のゾンビとか、ゾンビが人を襲うシーンとか、ゾンビに噛まれた人がゆっくりゾンビになっていく動画、解剖する動画、戦車が人の形をしたものを踏み潰していく動画。
ゴアシーンのカタマリ。
18歳未満は見ちゃいけないような、そんな映像のオンパレードだった。
「そうだ。あんな醜悪な生き物はなかった。頭を切り飛ばしてもその頭がうごめいている。火炎放射で焼き殺しても炭になるまで動き続ける。隊員はストレスで精神失調をきたしたものだって多数いる」
「それで?」
「ゾンビは醜悪な存在だということを人が忘れてしまったのは、おまえのせいだ」
「配信動画のこといってるの?」
「そうだ。人は臭いものに蓋をしたがる。隣に人を食い殺す怪物がいて、いつ殺されるかわからないという現実に耐えられない。だから――、おまえという偽りの希望にすがった」
いつのまにか、ボクの動画が上位ランキングを席巻しまくってたからな。
でも、ゴアシーン満載の普通のゾンビ動画とか見たいの?
中にはそういうのが好きな人もいるだろうけどさ。
多数派はたぶん、ほんわかしたコメディよりの動画が好きなんだと思うよ。
「偽りの希望にならないように、ボク自身は、みんなが安心して暮らせるようになればいいと思ってるよ。久我さんは信じてくれないかもしれないけど」
「信じられるか。おまえがその気だったのなら、もっと早くにゾンビをどうにかできていたはずだ。それがなぜ頭のネジがゆるんだ配信動画をすることになる?」
「モルモットになる可能性もあったし、みんなを助けたいというのはボクがモルモットにならない限りでということだったからね。普通に解剖とかされたくないでしょ?」
「そのせいで何億人死んだと思っている」
「わからないけど、みんなの犠牲にはなりたくないよ」
「少なくともオレの知る限りでは関東でのゾンビを排除するだけで二万人ほどは犠牲になっている。その英雄的行為もオマエのわけのわからないお花畑な配信に塗りつぶされてしまう!」
久我さんが怒ってるのは、二つ。
ボクが遅れたことに対する怒り。
そして、自衛隊の仲間の献身的な自己犠牲が、ボクのちゃらんぽらんな動画に負けているという思いこみだろう。
べつに自衛隊の人たちがゾンビと身を粉にして戦ったことが悪いことじゃないんだけど、ボクを信じてる人にとってみれば、自衛隊はゾンビを動かなくなるまで破壊した殺人者ということになってしまう。
そんな遡及的な判断は無理なんだけど――。
多数派は『ゾンビは人間に戻せるのに』って思ってしまってる。
本当は違うのに、書き込みは無邪気に邪気がある。『自衛隊ってバカだよなー』みたいな書き込みをいくつも見かけた。
それは違うとボクは思う。
人間が人間を無私で守るという行為がバカなわけがない。
「ボクは自衛隊の人たちもえらいと思ってるよ。作文も書いたし……。自衛隊の人たちがゾンビをあのとき殺しちゃったとしても、しょうがない面はあると思う。正当防衛とかそういう概念で正当化するのは可能なんじゃないかな?」
「正当防衛が許されるのなら――、いまオマエを殺してもオレは正義というわけだ」
「そのときとは事情が違うよ。ボクは久我さんに対して侵害する行為はしていないし――、そりゃ少し拘束はさせてもらったけど、ゾンビテロを先に起こしたのはそっちでしょ」
「貴様が先にゾンビハザードという特大のテロ行為をしたからだ」
だからといってゾンビテロを起こすというのは、やはり矛盾しているように思うけどな。
言っても無駄だろうけど。
「ボクはゾンビハザードを引き起こしてはいないよ。あれはたぶん事故。誰の意思も関係ないと思う。ボクというイレギュラーが生まれたのもたぶん事故というかガチャというかそんな感じなんだろうけど」
いまだにあさおんした理由は不明だからな。
ボクがボクである理由がわからないように、たぶんわからないままだろう。
「信じられるはずがない」
「でも、ボクが未宇ちゃんを殺さないでほしいと願うのは信じてるんだよね?」
「信者を増やすためにな。オマエはどうせ人を裏切る。自分かわいさにこいつを見捨てるだろうさ。そのあとにオレも殺されるのだろうが、それはたいしたことじゃない。二万人の英霊達の列に加わるだけのことだ」
あー。そういう思考なわけね。
自分の命も何もかも巻きこんで、ただ敵だと認定した存在を殺すことを願っている。
破滅的思考。
爆弾テロみたいなものだ。
でも――、どうしたらいいんだろう。
この状況を打破するためには、なにかしらの動きが必要だ。
「未宇ちゃんを解放してくれるなら、久我さんは元の場所に帰ってもいいよ」
「それこそ信じられるか。おい、オレの装備をもってこい」
久我さんが声を張り上げる。
拘束したときに取り上げた銃だろう。あまり大きなものは隠せないからか短銃だったけど、果物ナイフよりは圧倒的に殺傷力がある。
誰も動かない。当然だ。多数派は動かないのが特徴だから。
久我さんはいらついていた。
「こいつがどうなってもいいのか?」
「えっと……ぼっちさん持ってきてあげてくれる?」
周りには町長や探索班のみんなも当然いたけれども、ボクが指名したのはぼっちさんだった。
事態の推移的には銃は渡さないほうがいいかもしれないけれども、このままだと未宇ちゃんの身が危ない。
ぼっちさんは未宇ちゃんに慕われてるから、ぼっちさんもまた未宇ちゃんをかわいがっている。
ボクと未宇ちゃんを天秤にかけて、一瞬、よくわからない変な顔になったけど、ぼっちさんは葛井町長から町長室の机の鍵を受け取って、久我さんの装備をとりに走った。
「辺田に渡せ」
ナイフを未宇ちゃんに突きつけたまま、久我さんは言った。
隙はない。
「辺田さん。どうして」
ぼっちさんは泣きそうな声で言った。
辺田さんは笑ったままだった。
「わからねえよな。上級国民様はよ」
ぼっちさんはそれ以上なにも言わなかった。なにを言っても無駄だと悟ったのだろう。
辺田さんは銃を眺めすがめつした。
「使い方はわかるか」
「ああ、わかるぜ。映画とかでなんべんも見てるからな」
ガチャリとスライドさせて、銃口がこちらを向いた。
黒い。虚空が目の前に迫っている。
死が、黒々とした口を開けて迫ってるような気がした。
命ちゃんが前に出るような気配を感じて、ボクは命ちゃんの足を止めた。
死にたくはない。
そんなの当然だ。だけど、ボクが力を行使したら――たぶん久我さんは未宇ちゃんを躊躇なく殺す。どうする。どうすれば。
「殺せ!」
久我さんの怒号が銃声のようにホールに響いた。
☆=
とっさに目をつむってしまったけれど、なんの衝撃もこなかった。
おかしいなと思って、恐る恐る目を開けてみると、辺田さんはいつもどおりヘラヘラと笑っている。
「なにをやってる? 怖気づいたか」
久我さんが急かすような声をあげた。
「いや、冷静に考えて殺人とかおかしいだろ。おまえイカれてるよ」
「なんだと?」
「べつにヒロちゃんのことは嫌いじゃないしな」
ふぅむ。
なんともいえないこの気持ち。
でも、ボクを殺すという動機が辺田さんにはなかったらしい。
「何を言っているんだ。おまえ、こいつが殺されてもいいのか」
未宇ちゃんへのナイフをひけらかす。
しかし、辺田さんは一瞥すると興味がなさそうに、ボクのほうを向いた。
「べつに。どうだっていいよ。それよりヒロちゃん」
「あ、はい」
すたすたとこちらに近づいてくる辺田さん。
ズモっと迫る身長は、ボクよりもずっと高くて見上げる形になる。
辺田さんはボクと視線をあわせたまま目の前で膝を曲げた。
これで身長が同じくらいになる。そして言う。
「オレをヒイロゾンビにしてくれよ」
それが、辺田さんの成し遂げたいこと。
犯行動機だったらしい。
久我さんは怒り心頭といった様子だが、逆にボクに対する気が逸れている。
だったら、感染させてしまうのもありか。
ヒイロゾンビになってしまったら、ボクの強烈なコントロールが可能になる。
「いいよ」
久我さんが混乱からたちなおる前に、ボクは――。
爪で辺田さんの首のあたりを切り裂いた。
感染確認完了。
「やった。これでオレも――英雄に」
なんかアへ顔というのかな。陶酔しているみたいだけど。
自分のためだけに動く人が英雄になれるわけもないと思うんだけど。
まあ助けられたほうは、助けたほうがどう思っていようと感謝の気持ちはあるかもしれないけどね。
「何をしている辺田ぁ!」
地獄の底から響いてくるような声だった。
「そんなに怒るなよ。久我さんよぉ。そもそもあんたの計画には無理があるんだよ」
「あ?」
「ここにいるやつらは、ほとんどは血のつながりもない他人だ。究極、他人が死のうが生きようが関係ねえ。要するに身寄りのない十歳の子どもが死のうがどうだっていいんだよ」
それは違うと思う。
だって、ぼっちさんのさっきの表情は、心の底から未宇ちゃんの心配をしていた。
手のひらを震えるくらい握り締めていた。
友人どうしで仲良しな子たちもいる。ゾンビに噛まれたから助けてくださいって、年下に見えるボクにすがって、透明な涙を流していた。
血のつながりがないから、他人のために自分を犠牲にできないってわけじゃないと思う。
でも、未宇ちゃんが浮いていたというのも事実だ。耳の聞こえない未宇ちゃんは、もう少し小さな子どもたちといっしょには遊ばない。探索班とほとんど行動をともにしていた。
人のいないところにぽつんといたから、久我さんに捕まったのかもしれない。
「クソがっ。辺田、銃をそいつに投げろ。自殺しろ緋色!」
むちゃくちゃ言ってる。
辺田さんの『実は絆なんて無いですよ』宣言は、わりと効いたらしい。
ボクが未宇ちゃんを見捨てても、それはやむをえないものとして処理されると思ったからだろう。実情は違うかもしれないけれど、この町の人と本気でつきあっていない久我さんには判別のしようがない。
だって、久我さんにとっては、この町のみんなは敵だったから。
敵と仲良くしようという道理はないから。
未宇ちゃんは建前上救出を願われているにすぎないとなる。
「なあ、久我さんよ。さっさとここから脱出しようぜ。ここで死んだら元も子もねえだろ。脱出できれば再起が可能だし、そっちのほうがいいだろ。オレとしてもここで町のやつらと暮らすのはうんざりだからよ」
ふぅん。つまり、辺田さんはヒイロゾンビになりつつ外に行きたかったのか。
だから、久我さんを利用した。
久我さんとしても、この状況では未宇ちゃんを殺したとしても、その後にボクに殺されるのだったら犬死だ。
事態は動いた。
「車を用意しろ」
事実上の敗北宣言だった。
ホールの中をゾゾゾと這うようにして集団が動く。
湯崎さんがしかめっ面で、辺田さんに車のキーを放った。
「へ。そんなに睨むなよ」
「オマエには人のこころはないのか」
「べつに人を殺したわけでもないんだしいいだろ。これからゾンビどもから日本を救うんだからよ。数ヵ月後にはオレに感謝する人間のほうが多くなるぜ。いままでお疲れさん」
ポンと湯崎さんの肩を叩き、辺田さんは運転席に乗りこむ。
このままだと未宇ちゃんが連れ去られちゃう。
でも、久我さんはやっぱり一部の隙もない。ボクが力を行使したら首元からナイフの刺さる姿を幻視できる。
ヒイロゾンビになった辺田さんの位置関係はわかるから、空中からこっそり追跡するか。
いつかは、未宇ちゃんの身体が離れたときを狙って、一気に――。
「すまない。未宇」
え、と思ったときには隣にゲンさんが立っていた。
パンという少し前にも聞いたことのある撃発音が響き、未宇ちゃんの胸は真っ赤に染まった。
わけがわからない。
どうして?
どうして、ゲンさんが未宇ちゃんを撃つの?
苦しそうな表情をしているゲンさん。
あ、わかった。
わかってしまった。
ゲンさんは万全を期したんだ。どことも知れない場所に連れ去られてしまい、もしかしたらむごたらしく殺されるかもしれない状況よりも――。
先ほどの辺田さんの言葉を身をもって証明する。
つまり、未宇ちゃんに人質としての価値がないと思わせることによって、逆に確実な安全マージンを選択した。
結果、死ぬことになるけれども。
頭を撃ち抜かれない限り、未宇ちゃんはヒイロゾンビとしてよみがえる。
つまり――、ボクを信じてくれたから。
でも、文字通りの意味で死ぬほど痛いだろう。ゲンさんは未宇ちゃんに嫌われてしまうかもしれない。お孫さんを撃ち殺したといっていたゲンさんも、きっとこころは痛い。
ずるりと体中の力が抜けて、壊れた人形のように未宇ちゃんは崩れた。
瞳からは光彩が失われ、崩れた拍子にナイフで首元が軽く切り裂かれ、地面には赤く染まった血液が垂れて伸張していく。
「イカれてるぜ。あんたら」と辺田さんがエンジンを噴かす。
久我さんは一瞬呆然としていたけれど、すぐに車にすべりこんだ。
車はあっという間に走り去った。
いまはどうでもいい。
未宇ちゃんは死んでいた。即死に近い状況だったのだろう。不幸中の幸いなのは、辺田さんのいうような人間の価値を毀損するような物言いを聞かれてなかったこと。
ボクは手のひらを切り裂いて、血を与えた。
「すごい傷がみるみる回復してる」「奇跡だ」「緋色ちゃん様ぁ……我らをお救いください」
だれかがそんなことを無責任に無邪気に言う。
未宇ちゃんは時計が巻き戻るように、胸の傷が修復された。ついでに首元のナイフの傷も治った。
「ハローワールド。痛かったね。もう大丈夫だよ」
たぶん、ヒイロウイルスの力によって耳も聞こえてるはずだ。
でも、完全に耳が聞こえない状態だったのなら、突然新たな感覚が湧いたようなものだ。
その意味内容を理解するには時間がかかるだろう。
「あうぇあおあ……ぇんし……」
すっと指を指した先に、ゲンさんが自分の頭に銃をつきつけてる光景があった。
わけ――。
わかんない!
乾いた音が響く直前、ボクは力を使って全力で銃を叩き落とす。
いやわかるけどね。
「べつに死ななくてもいいんじゃないかな」
「すまなかった。本当に……すまなかった。許してくれ」
天国のお孫さんに謝っているのか、ゲンさんが顔を覆って泣き崩れている。
未宇ちゃんはまだよみがえったばかりなせいか、ゾンビ映画のいもむしゾンビのように地面をはいずって、ゲンさんに抱きついた。
「ぁいじょぅぶ」
ゲンさんは赦されたくて泣いて、いまは赦されて泣いていた。
★=
「へ。うまくいかなかったな。久我さんよ」
辺田が車を走らせながら軽口を叩いている。
くだらない茶番劇だった。
夜月緋色の姿を確認したとき、それは完全に偶然の産物だった。自衛隊の各員は佐賀内の二十箇所ある町役場や市役所に派遣され、偶然にオレのところが当たりだった。
運命を感じたものだ。
こいつを殺すのはオレだと。
しかし、敵の力は巨大でありそう簡単には殺せない。
ヤツは人間を感染させる。その感染させたキャリアが力になるという。
配信動画にもなんらかの感染力があるんじゃないか?
人間を守るのは使命だ。
だから――ゾンビは殺されなければならない。
そうでなければ、死んでいった仲間が浮かばれない。
死んでいった人間が浮かばれない。
くず折れた先ほどの子ども。力なく事切れた命に、オレはいらだちを感じていた。
辺田の便器にこびりついたクソのような笑った顔がいらだたしい。
「そんなに怖い顔すんなよ。ここらはまだいいけど外はゾンビがいるだろ。俺が安全な場所まで送り届けてやっからよ」
まだ、ヤツがつくったセーフティゾーンの中だ。
安全で安心なクリーンな世界。
ゾンビのいない世界。
笑わせる。おまえ自身がゾンビだろうが。
「もういい」
「は?」
「もういいといったんだ」
オレは持っている果物ナイフを思いっきり辺田の腿に突き刺した。
「ぎゃっ」
痛みのあまり、辺田が飛びのく。
ハンドル操作を誤って、車はグルグルと回転し電柱にぶつかって止まった。
一足先に、車から脱出したオレは受身をとって軽やかに着地する。
辺田はそのまま車といっしょにドカン。車は炎上し、一度大きな爆発をしてスクラップになった。爆発するギリギリのところで脱出はできたようだが、それはそれで好都合。
ヒイロゾンビの戦闘力は未知数だ。
試しておく必要がある。なんの成果も得られないまま帰ってもお笑い草だしな。
目の前にいるゾンビは車から投げ出されて、コンタクトレンズを落とした人間のように、あたふたと地面をはいずっていた。
あちこちすり傷ができており、その傷も急速に再生している。
「あ、やめ、やめてくれ!」
「あ、人間様のように喋るなよ。ゾンビが」
地面に転がっていた銃を拾い撃つ。
あえて頭は狙わない。
足。
手。
腕。
腹。
心臓。
試すように撃っていく。
「あがっがが、やめ……やめてください」
身体中のあちこちに穴が開き、血を垂れ流しているのに意識ははっきりとしている。
ヒイロゾンビの耐久力はゾンビと同じ程度か。
目の前のゾンビは人間を装い、人間のように泣きはらした目をしていた。
こいつを殺すのは、客観的に見て良心が痛むだろう。
そもそも人間の形をして、人間を模して襲ってくるのがやつらの手口だ。
「おまえとは友人になれそうだったのにな……残念だよ。辺田」
這いずるようにして辺田だったモノが逃げようとする。
オレはゾンビの背中に足をかけ、それ以上逃げないようにした。
「ヒーローに……なりたかっただけなんだ。何かを……オレでも残せるって……」
「じゃあな」
「やめ――」
頭を撃ちぬき、ゾンビは完全に活動をやめた。
足でごろりと死体を転がし、完全に動かないかを確認する。
ヒイロゾンビは殺せる。オレはひとつ得た成果に満足した。
☆=
あ、辺田さんの霊圧が消えた?
これで町役場編は完結です。次章で終わりの予定です。