あさおん・オブ・ザ・デッド   作:夢野ベル子

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ハザードレベル108

「感染させられる!」

 

 恐怖にひきつった表情で町長室に乱入してきたのは、ぼっちさんだった。

 息もたえだえといった感じで、いまにも倒れこみそうだ。

 

「どうしたの。ぼっちさん。感染させられるって何に?」

 

 当然。ここ町役場内で感染といったら、ノーマルゾンビじゃない。

 まだゾンビルームはあるけど、厳重な封印がされていて、そこから移動した様子はない。

 ボクのゾンビソナーで捉えられるのは、ヒイロゾンビだけ。

 

 そう――、感染といったらヒイロゾンビ。

 

「僕は……僕は違うんだ。違う。違うんだ!」

 

 狼狽しきったぼっちさん。

 冷蔵庫の中に入ったみたいに、全身がブルブルと震えている。

 なにが違うのかはわからない。

 でも、ヒイロゾンビに襲われたとしか思えない状況に、ボクは緊張の面持ちで聞いた。

 

「誰かに襲われたの?」

 

 考えられるのは――昨日の15名。

 信者を増やそうとして無理やり人を襲ってるという状況が考えられた。

 

 でも――すぐに違うとわかった。

 ゾンビソナーで見る限り、15名の信者さんは昨日から固まったままだ。特に動きは見られない。15名が残り半数をヒイロゾンビにしているのかなとも思ったけど、そういうわけでもないらしい。

 

 ヒイロゾンビが人を襲う動機といったら信者を増やすというのが強い動機に思えるけど。

 

 それ以外に動機ってあるのかな。

 

 でもホワイダニットも、もうそろそろ卒業してもよい頃合だろう。

 

 どんな動機であれ、その犯行は完遂させられることはない。

 

「落ち着いて。誰が襲ってきてもボクが撃退するから大丈夫だよ」

 

 ヒイロゾンビはボクには原理的に勝てないからね。

 ボクに勝てるとしたら"人間"しかいない。

 ここに逃げこんだ時点で、ぼっちさんの安全は保証されている。

 

「ヒロちゃん信じてほしい!」

 

 必死の形相だ。

 

「うん。ぼっちさんのこと信じるよ?」

 

 正直、何をどう信じればいいのかはわからなかったけど、そう語りかけるほかない。

 

「僕は……僕は……ロリコンじゃない!」

 

「ん?」

 

「僕はロリコンじゃないんだ!」

 

「そう、なの?」

 

 よくわからない。

 ぼっちさんの言っていることと、「感染」というキーワードがなぜつながるのか。

 でも、その疑問は数秒後に氷解することとなる。

 

 町長室の重いドアがゆっくりと開かれていく。

 

 ホラーの演出みたいに、少しずつ。

 

 そして顕わになる小柄な影。おっきめなヘッドホンを装備して、胸元にはポメラニアン。

 

 出会ったときと同じく、足癖悪く細い足で、ドアを開けたみたい。

 

 そこにいたのは、杵島未宇ちゃんだった。

 

 ボクとほぼ見た目年齢が同じ。

 十歳くらいの眠たげな表情の物静かな女の子。

 

 生まれつきなのか耳が聞こえなかったんだけど、いまはヒイロゾンビになって聴力が回復している。そして、耳が聞こえるようになる前は探索班に属していた。ぼっちさんと仲がよかった。ぼっちさんが唯一手話ができて、意思疎通ができていたみたいだから。

 

 つまり、ぼっちさんと浅からぬ仲。

 

 つまり、ヒイロゾンビ。

 

 つまり、十歳の女の子。

 

 つまり、完全なロリータだった。いや幼女なのかな。どっちでもいいけど。

 

 ぼっちさんが、逃げるように後ずさる。町長の机にぶつかりそれ以上後退ができない。

 

「ぼっち。キスしよ。わたしと家族になって」

 

 戦慄すべき言葉とともに、未宇ちゃんはほっそりとした足を町長室へと踏み入れた。

 

 

 

 ★=

 

 

 

 あらためて言うことでもないけれども、僕の名前はぼっち。

 もう町役場ではみんなの前で言ってる名前だし、ニックネームとして広く周知されている。

 

 僕が凡人のくせに、それなりに名前を知られているのは、僕が探索班だからだろう。

 

 探索班としてゾンビが危険だったときから町の外にで繰り出した人はわずか四人しかおらず、僕と湯崎さんとゲンさん、そして未宇ちゃんだ。ヒロちゃんがいないときから、町の外に出ていた。危険極まりない探索班だけれども運よく誰も欠けることなくここまでやってこれた。

 

 それなりにみんなから感謝されてもいるんだろうと思う。

 

 もちろん、まだ小学生の未宇ちゃんに危険なことはさせられなかったから、未宇ちゃんは名誉会員みたいなものだ。実際には安全圏内での雑用が彼女の仕事。

 

 それもやむをえない事情があった。

 

 町役場のなかで唯一手話ができて、未宇ちゃんと意思疎通できるのは僕だけだったからだ。未宇ちゃんは町役場に逃げこんできたときに、おそらく家族を失っている。このご時勢だ。家族を失った人というのは珍しくもないことだけど。ただ、十歳の女の子が独り身になっているというのはそれなりに珍しい。

 

 あのゾンビが出現した夜。時間は深夜帯で、にわかに騒がしくなってきたときに避難した人たちは――親や子がゾンビになってない限りは、子どもの手を引いて避難したに違いないからだ。

 

 つまり、町役場にいる小さな子どもはほとんどは親とセットになっている。

 片親になっているパターンが多いけど。

 

 子どもがひとりで町役場まで来たというのは奇跡的なパターンなんだ。まず避難所として設定されていた小学校ルートに進んだ人は全滅している。感染者がたぶん紛れ込んでいたからだろう。ゾンビ映画とかではお決まりのパターンというやつで、小学校ルートに進んだ人たちは運が悪かったとしかいいようがない。町役場に限らず、避難所は大なり小なり同じような感じで、ほとんどが全滅してしまった。

 

 わりと安全だったのが、むしろひとりでアパートにじっとしている方だったんだから笑えない。避難所が避難所になってなかったんだ。もちろん、これは結果論。あとからわかったことであり、未来視ができない人の身ではわかりようもない。

 

 町役場はたまたま。運がよく。感染が広がることもなく、避難所としての機能を失わずに済んだ。そこに集まるまでに多大な犠牲がでたのだろうけれども……。

 

 そんなわけで、未宇ちゃんの保護者になれるのは、偶然の産物だけど僕しかいなかったんだ。

 

 厳密に言えば――、僕が町役場に来る前は、未宇ちゃんはどこにも所属していなかった。

 

 僕が後からやってきて、未宇ちゃんはひとりぼっちで寂しそうに、所在無く部屋の片隅にうずくまっていたというのが正しい。町の子どもたちはお母さんやお父さんといっしょにいて、わずかながらも孤独ではないというのに。

 

 想像を絶するほどに孤独な彼女の様子に、僕はいたたまれない気持ちになってしまった。

 

 僕と同じだったからだ。

 

 ヒロちゃんが来るまでの間、ひとり部屋で、餓死するまで、誰とも会話せず、ただ朽ち果てるのを待つだけの日々だった。

 

 いやそれ以前に、僕は中学、高校と肉体的ないじめではないけれども、みんなに精神的な意味で揶揄されていたから。魔法少女が活躍するアニメを見ていたというそれだけの理由で「ロリコン」と後ろ指をさされてきてから。

 

 これこそまさに事案なんじゃと思いつつも、ゾンビがはびこる世界で事案もクソもないなという思いで、僕は、未宇ちゃんに「どうしたの?」と語りかけた。

 

 大きな瞳が僕を捉えていた。じっと沈黙したまま。おとなしい子なのかなと思って、僕も黙ったままだった。

 

 やがて――。

 

 未宇ちゃんは小さなお耳をそっと指差して、ふるふると首を振った。

 すぐにこれは耳が聞こえないんだなと察して、僕は手話を始めた。

 

『こんにちわ』

 

 それが始まりだった。

 

 

 

 ★=

 

 

 

 最近、未宇ちゃんは音楽をよく聴いている。

 

 眠たげな表情で、いつもこことは違うどこかの世界に精神を飛ばしているかのような彼女だけれども、いまアクセスしているのは音の世界。彼女の小さな頭には不釣合いな大きめなヘッドホンを装着されていて、いろんな音楽を聴いてるようだ。

 

 特にお気に入りなのは、僕が好きだといったボンジョビ。

 特にお気に入りなのが『禁じられた愛』という曲。

 

 べつに禁じられた愛だからといって、ロリコンの恋愛についての曲ではないけれども。

 僕が近くにいるときはよく聴いてるようだ。ガチガチのロックなんだけどな。

 

 小さな身体を揺らしながら、よく部屋の隅に座り、対面にいる僕をじーっと見つめてくる。

 体育座り。小柄な身体。眠たげで表情に乏しい。

 けれど、ほとんど使ったことのない声帯は澄んだ声を紡ぐ。

 

「音が楽しい」

 

 と、未宇ちゃんは言う。

 

 生まれたときから音が聞こえる常人には預かり知らぬところだけれども、未宇ちゃんにとっては生まれてはじめて音というものに触れたんだ。

 

 その感動は筆舌に尽くしがたいに違いない。

 

 あるいは――ヒイロゾンビ。

 彼女はテロにまきこまれて、ヒイロゾンビになってしまった。

 人間のままである僕には預かり知れない感覚があるのかもしれない。

 

 たとえばヒロちゃんとのつながりとか。人とのつながりとか。そういうものを感じているのかもしれない。

 

 音が聞こえない未宇ちゃんは、他人を天使であると表現していた。

 違う世界に住んでいて、違う通信を交し合っているからというのがその理由らしい。

 ひとりぼっちの世界。

 

 いま、未宇ちゃんは音が聞こえている。僕としては小さくてかわいらしい未宇ちゃんのほうが天使っぽいなと思うんだけど、ようやく、天使が地上に舞い降りてきたのだともいえるのかもしれない。

 

 孤独であろうとした僕としては矛盾しているかもしれないけれど、未宇ちゃんが"人間"になろうとしているのは好ましいことだと思う。

 

 ヒイロゾンビになって聴覚が回復したとしてもすぐに話せるようになったわけではなかった。

 

 手話を覚えるのと同じく、自分や他者が発している音が、どの言葉に対応するのかを覚えていかなくてはならなかったからだ。

 

 僕は最初に幼稚園児が使うような、ひらがな表を用いて、ひとつひとつの言葉を指差して発声した。

 

「あいうえお」

 

「ぁーぃーぅーぇーお?」

 

 こんな感じだった。

 

「ぁーぃ……あーぃ」

 

 未宇ちゃんがじーっと僕を見つめながら、『あ』と『い』の間を往復してたのはなぜなのか。

 

 そのときの僕は気づかなかった。

 

 小説の読み聞かせも、音を覚えるのに非常に効果的だった。未宇ちゃんが選んできた小説を僕が隣で読み聞かせるという感じだ。

 

 内容は年上の先生に恋をする小学生という、かなりきわどいやつだった。最近の小学生って進んでいるなと思ったけれど、小学生の女の子は僕にとっては未知の生物って感じで、そういうものなのだろうと飲みこむしかなかった。探索班には女の子がいなかったし、基本的に対人が苦手な僕が探索班以外の誰かに、そのあたりの機微を聞けるはずもない。

 

 結果として生じたのは――、

 

「メスガキ。オレの言うことが聞けないのか」

 

 オレ様系の先生が、小学生の主人公を顎クイする展開だった。

 

 あろうことか、先生は女の子をメスガキ呼びである。県教委あたりに怒られそうな展開だ。その前にPTAで禁止されるか。

 不幸なことに県教委もPTAもなくなってしまったこの世界では、僕は未宇ちゃんに言われるまま、怪しい小説を読み上げるほかない。

 

 やがて、未宇ちゃんの言語スキルが上がってきて、未宇ちゃんはメスガキちゃんの台詞を読むようになる。

 

「せんせ。好き。キスして」

 

 舌ったらずで甘い声を出すメスガキ――じゃなかった未宇ちゃん。

 もちろん、音を覚えたての彼女に他意はないはずだ。

 でも、隣にちょこんと座る未宇ちゃんが甘い吐息を吐いて、なぜかうるんだ瞳で僕を見てくると、心臓がドキンと跳ねたような気がした。

 

「まったく、生意気なメスガキだな。わからせてやる」

 

 あえて僕は宣言するが――、僕はロリコンではない。そういうふうに人から言われたことはあるが、あれは悪意があるレッテルであり、僕は小さい女の子に性的興奮を覚えるような変態じゃない。ただ、小さな女の子が僕を慕ってくれるのは、やはりうれしいものだ。オレ様系ではないけれども、僕がいちおうのところ目指していたのはそういう道だったから。大学というモラトリアムな時間を使って、僕は僕のような境遇を生み出す環境をぶっ壊したかったから。

 

 つまり、先生になりたかったから。

 

 ただ、僕は甘く見ていた。

 未宇ちゃんのゴーイング・マイ・ウェイっぷりを。

 女子小学生の本当の恐ろしさを。

 もう数ヶ月もほとんどいっしょに過ごしているのに、気づきもしなかったんだ。

 

 

 

 ★=

 

 

 

 きっかけはやっぱり昨日の出来事。

 

 魔瑠魔瑠教の人たちがたくさんヒイロゾンビになって、おそらく未宇ちゃんは『いいんだ』と思ってしまった。

 

 つまり、彼女は彼女なりに自制していたのだろうと思う。

 そのタガがはずれてしまった。

 

「ぼっち」

 

 探索班に与えられた十畳ほどの室内で。

 ゲンさんも湯崎さんもどこかに行っていていない時間。

 

 狙い済ましたように未宇ちゃんが言葉を発した。

 無音に近かったのもあり、未宇ちゃんの声はよく通った。

 

「ん?」と僕は短く聞く。

 

「愛は感染する」

 

 ポエマーだなと思った。

 かといって、その思考にはバカにするような感情は含まれていない。

 むしろ、その知的水準に驚きを隠せない。

 人と隔絶した世界に暮らしてきた彼女は、詩的感性が優れているのかもしれない。

 

 そう思ったのもつかの間。

 未宇ちゃんが何を言ったのかを考える。

 

 愛は感染する?

 気づいたら未宇ちゃんは立ち上がり、僕が座っている対面のほうへ近づいていた。

 さすがに小学生といえ、あぐらの状態の僕より、立ったままの未宇ちゃんのほうが高い。

 見下ろされる形になって、僕は「どうしたの?」ともう一度聞いた。

 

「愛はゾンビと同じ」

 

「どういうことかな」

 

「愛は感染したいと思う。同じになりたいと思う」

 

「じゃあ、憎悪はアンチウイルスなのかな」

 

「そうかも」

 

「太宰先生にでも聞いたのかな?」

 

 この町役場で先生役をやっている高校生。太宰こころちゃん。彼女はかなりの本マニアだ。そういうような表現に長けているように思い、彼女からそういうふうな話を聞いたのかもしれないと思ったんだ。

 

「違う」

 

 未宇ちゃんから出てきたのは否定の言葉。

 

「なにか小説でそんな表現でもあったの? その……すごく難しい言葉を使うね」

 

「本は好き。でも違う」

 

 僕が小学生の頃は、そんな高等なものは読んでなかった。

 せいぜいがドリトル先生くらいだ。あとは漫画ばかり。

 

 女の子の成長は早いっていうけれど、十歳の女の子の言葉としては天才といえるレベルだ。

 ヒロちゃんにしろピンクちゃんにしろ、ここでは天才児が多いから気づかなかったけれど、未宇ちゃんも天才なのかもしれない。

 

 教え子の輝かんばかりの能力に、僕はにわかにうれしくなって、口角があがってしまう。

 よく考えたら、僕は未宇ちゃんに言葉を教えた『先生』みたいな感覚なのかもしれない。

 教え子がどんどん成長していく。

 にじみでるような嬉しさ。

 

「未宇ちゃんが自分で考えたの?」

 

 それも首を振って否定した。

 いったいどういうことだろう。

 

「昨日。いっぱい愛が広がった」

 

「愛って……ヒロちゃんのこと?」

 

 というか、たぶんヒイロウイルスのことだろう。

 

 確かにゾンビは感染させたいもの。ゾンビは他者を同じくしようとする。同化融合しようとする。愛も同じで、究極的には、他者とひとつになりたいってことだ。

 

 未宇ちゃんは『見た』といっているんだ。

 音のない世界にいた彼女にとっては、視界情報はほとんどすべてといってよく、あの真っ赤にコンクリートを染める様子は、それはそれは鮮烈に目に焼きついたことだろう。

 

 愛が広がるという表現に引っかかりを覚えはするものの。

 

「わたしもぼっちも、ひとりきり」

 

「まあ――、大学に通ってきた頃の僕はそうだったかもね」

 

「でも、我慢しなくてもいい」

 

 我慢?

 

 と、世の大きなお兄さんなら羨むかもしれない出来事が起こった。

 僕は未宇ちゃんに抱きすくめられていたんだ。当然、座っている僕と立った状態の未宇ちゃんの身長差から導かれる情景は、小学生の女の子にバブみというかなんというか胸のあたりで抱きすくめられてる大人という図である。

 

「み、未宇ちゃん。それはヤバイって!」

 

 僕は慌ててふりほどいた。いまの姿を誰かに見られたら、ロリコンのそしりは免れないだろう。

 未宇ちゃんは、不満げにほっぺたを膨らませている。

 そんな積極的な子じゃなかったはずだ。

 

「ひとりはいや」

 

「まあ誰だってそうだろうと思うけど」

 

「家族ほしい」

 

「そりゃあね……」

 

 こんな世界になった後。

 当然ながら、僕も未宇ちゃんも連絡くらいはとってみたし、ヒロちゃんが来たあとは、実のところ、未宇ちゃんの実家に行ってみたりもしたんだ。結果――、誰もいなかった。

 ゾンビになっているのか、それともどこか遠くに避難しているのかはわからないけれども、ともかく未宇ちゃんが悲愴な表情になっていたのは事実だ。

 

 僕の場合も同じ。

 そんなのはありふれていて――身寄りがいないなんてことは、誰にでも起こりうることだった。

 家に家族がいて、なにげない会話を交わしたり、ご飯をつくってくれたりする存在がいるということが、どれだけ貴重なことだったのかは、いまさらながら感じていることだ。

 

 だから――、未宇ちゃんの気持ちも理解できたとは言わないまでも、共感できるところはあった。未宇ちゃんはおそらく家族が欲しいのであって、特段、僕に対する恋愛感情はないのだろうと思う。あるいは分配比率の問題で、恋愛1に家族9とかそんな割合なんじゃないか。

 

「ぼっち。わたしのこと嫌い?」

 

「嫌いじゃないよ」

 

 そんなことがあるわけない。

 でも、そうやって迫ってくる未宇ちゃんは恐ろしい。

 

「ぼっちと結婚する。家族になる」

 

「未宇ちゃんにはまだ早いんじゃないかな」

 

「あいしてます」

 

「ひええ」

 

 弾丸のように迫ってくる唇に、僕はとっさに畳の上を転がった。

 ヒイロゾンビになってしまった未宇ちゃんの膂力は、おそらく常人の数倍程度はある。

 小柄な身体を活かしたフットワークは、とてつもなく素早い。

 まるで、彼女とお世話をしているポメラニアンの全力疾走並。いやそれ以上。

 転がると同時に、受身の要領で立ち上がったが、相対する未宇ちゃんはにじり寄ってきている。

 狭い室内がさらに狭く感じられた。

 

「ぼっち。痛くないよ?」

 

「いやそういうことじゃないんだ」

 

「ヒイロゾンビになるのが怖いの?」

 

「怖くはないけど」

 

 べつにヒイロゾンビになるのが怖いわけじゃない。

 ヒロちゃんは僕にとってのヒーローだし、普通に考えて、このゾンビが溢れる世界でゾンビ避けできるスキルが身につくのは悪くない選択だと思っている。

 ゾンビになるということも、ヒロちゃんと同じ種族になるんだと思えば特に嫌悪感も抱かなかった。

 

 じゃあ、なぜ未宇ちゃんを拒否しているかというと、野放図にヒイロゾンビが増える展開を、ヒロちゃん自身が望んでないからだ。

 

 僕はヒロちゃんのやってることを手伝いたいと思ってるし、ヒロちゃんの思考に沿いたいと考えている。命の恩人だから。それに――、僕は彼女のファンだからだ。ヒロちゃんを裏切りたくない。

 

「ヒロちゃんにキスしてもらったほうがうれしい?」

 

「……いやいやいやいや。そんなことないよ」

 

「ぼっち。いまちょっと考えた」

 

「ヒロちゃんは忙しいから、僕になんかかまってる暇はないと思うよ」

 

「ヒイロゾンビになるのは一瞬。天井の染みを数えてる間に終わる」

 

 小学生らしからぬ物言いに僕は心底怖くなった。

 にじりにじり。にじりにじり。未宇ちゃんはゆったりとした歩調で僕に寄ってくる。

 ボクシングの試合みたいに、僕は円を描くように逃げるが、最後にはコーナーに追い詰められてしまった。

 

「大丈夫。畳と女房は新しいほうが嬉しいって聞いた。わたしはまだ十歳。新しい。ぼっちも嬉しい。子どもは一姫二太郎がいい。庭付き一戸建てに住む。若奥様」

 

「誰に聞いたのかな」

 

「忘れた」

 

 ついに、僕は十歳の女の子に壁ドンされてしまった。

 

 ダメだ逃げられない。

 

 ジャジャと、音が漏れ聞こえてくる。会話ができるくらいの音量で、未宇ちゃんは音楽を聴いている。たぶん、ロック。たぶん、禁じられた愛。

 

「未宇ちゃん。音楽聴きながら人と話すのはお行儀が悪いよ」

 

「ん……」

 

 未宇ちゃんはヘッドホンを取り外して、あらためて僕に向き直る。

 

 そのわずかな隙。

 

 コンマ一秒のあいだに僕は逃げ出した。

 

 後ろも見ずに全力疾走だ。僕は小学生の女の子から逃げ出して、ヒロちゃんに助けを求めた。

 

 そして今に至る。




そっちじゃなかったのです。

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