曇天に月がかかり始めたころ。
オレ――久我春人は、共犯者であるゾイを見下ろしていた。
赤い豪奢なソファに座り、オレの胸元に武骨な木組みの手をぴたりと吸いつけるゾイ。
クルーザーの一室は光もつけず、青白い反射光で照らされている。
ゾイは齢にして10を超えたほど。
オレの妹とさほど変わらない。
年を考えれば、そこに誘惑めいた意味合いはなさそうだが、彼女の混濁した瞳は当の昔になにかをあきらめているように思えた。最貧困国で性を売っている少女と変わりない。
「どういうつもりだ。第一王女」
イラついた声色でオレは聞く。
「怒っているのか。私は本気だぞ。この部屋にお前様と私しかいないのは、わが祖国がそうなってもよいと思っているからだ。私がお前様に犯されようが、仲睦まじく夫婦のように暮らそうがどうでもいいと思っている。だからこそ、この部屋には誰も立ち入らない」
「王女としての権力だろう」
「そうじゃないさ」ゾイは目を伏せた。「私と話ができるのはお前様にとっても悪いことではないだろう。明日に向けての情報共有だ」
確かに共犯者が必要だった。
これは言うまでもないことだろう。
現在、小山内によって警護されている"いんとれぴっど"は虫の侵入も許さない厳戒態勢だ。もしも、オレがひとりでのこのことでかけていったところで、あっけなく捕まって終わりだ。
たとえ、顔を変え、名前を変えたところで結果は変わらないだろう。
ただし――、それはオレが異物であり、ウイルスであるからだ。
検疫をすり抜けるトロイの木馬であれば、素通りすることは可能だろう。
ジュデッカの意向に沿い、小国の姫君と引き合わされたことは、夜月緋色に復讐を誓ったオレにとって僥倖ではある。
ジュデッカの諜報力はいまだ失われていない。
小山内が、二人一組のみ乗船可能というルールを決めたことは、すぐに知れたことである。
そして、人間は自ら制定したルールが絶対だと思いこむ癖がある。
この場合は二人一組。
このルールを守っている限り。やつらは侵入に気づけない。
「なあお前様」ゾイは蛇のようにぬめらかに言う。「私はお前様のことをそれなりには知っている。しかし、お前様は私のことを何も知らないだろう」
「作戦の決行に支障がなければ何も問題はない」
「支障がない? わたしのコレがなければ何もできんのにか?」
ゾイが見せつけてくるのは、義手だ。
その中身は爆弾の素。セムテックスと呼ばれる超小型爆弾だ。ダミー情報としてTNTを盗んだという情報を流したようだが、検知器にひっかからない最新式らしい。
少量だが仕掛ける場所によっては、船を沈めることも可能だろう。
妖艶のまなざし。
愛おしそうに木組みの指を生身のほうの指で触るゾイ。
「我々の目的はお偉いさんがたを全滅させることだ。夜月緋色を排除することではない」
「第一目標は夜月緋色を排除することだろう! やつがいる限り、際限なくヒイロゾンビは増え続けるんだぞ」
「フフフ。すでにそこからして情報共有できておらんじゃないか。いいか。ジュデッカの目標は――ヒイロゾンビによる人類救済策を愚策だと思わせることだ。トップどもがあらかた死ねば、夜月緋色に対する意見も変わる」
「希望的観測だな」
「絶望的観測だよ。お前様」
ゾイはかすかに笑っていた。
いいだろう。話を聞いてやろう。
たかだか10かそこらのガキがなぜこんなにも絶望しているのか聞いてやる。
「ようやく話を聞く気になったか」
ゾイは嫌な笑みを浮かべた。
「好きにしろ。どうせ時間はたっぷりある」
夜は長く、明日は遠い。
「たいした話ではないさ。どこにでも転がってるようなありふれた不幸。ただ――、話をする前にひとつだけ訂正しておこう」
「訂正?」
「わたしは第一王女ではない」
★=
私には姉様がいた。
姉さまはわたしと五歳ほど年が離れていて、国中から慕われていた。
姉さまはだれにでも優しく、誰よりも美しく、まるで公国の祖である"聖女"の再来だといわれた。
聖女は慈愛の指先で人々を癒してまわったとされる。まあよくあるおとぎ話だが、そういった建国と宗教の起源はどこの国でもあるものだろう。
この国は『指』に聖性を感じる。
実際に姉さまの指先は美しく、桜色の染料を爪先に薄く塗り、俗物どもの頭を母親のように優しく撫でるのだ。
穢らわしいスラムに住んでいる少年にも、きらびやかな金品に囲まれている商人にも、実の娘に欲情する腐った豚にも、平等に分け隔てなくもたらされる慈雨のように。
陶酔しきった表情になる俗物ども。
やつらはきっと、姉様によからぬ感情を抱いていたに違いない。
いや――、それは私も同じだった。
恥ずかしながらというべきか、私は姉様に嫉妬していた。
完璧すぎる姉と、そのスペアにすぎない私。
聖女の再来とまで言われた姉様と、ただの凡人にすぎない私。
王宮での扱いもぞんざいなもので、私は姉様を怨んだこともあったのだ。
そんなとき――。
いつかのとき。なんのイベントも特別性もない日常の一コマのように。
姉さまの指先が私の頭に触れていた。
「ゾイ。哀しいことあった?」
どぎまぎし、卑小な我が身が限りなく恥ずかしく思え、わたしは「いえ」と小さく返すことしかできなかった。姉さまは微笑を浮かべ、私に視線を合わせる。
「不安なこと哀しいことがあったらなんでも言うのよ。私たちはたったふたりの姉妹なのだから」
たったふたりの姉妹といったのには理由があった。
血縁者がいないわけではない。親類がいないわけではない。
しかし家族であるために血は絶対の条件ではない。
・
・
・
父と呼ぶのも穢らわしいからあの男と言っておく。
あの男は、三年前に母様が身まかられたあと、タガがはずれたようだった。
わたしの国は女系国家なので、女のほうが権力を持つ。
つまりは、女王が統治する国なのだが、あの男は、それが気に食わなかったらしい。
いずれは女王になるであろう姉さまと、そのスペアである私が邪魔だったのだ。
姉さまが国政に関わるのは大人になる18歳からだとされた。まだ子どもである姉さまにできることは限られていたし、わたしはもっと何もできない。
その間に、あの男が女王の代理として国政を握るというのは、自然な流れだった。
摂政としての地位。
しかし、やがてあの男はその地位を永遠にしたいと考えるようになった。
国政に携わる幾人かの有力者もまた、野合し、あの男を盛り立てるようになる。
政治というのは不気味な蛇のようなものだ。
姉さまはそれに対抗しようとしていたようだが、優しい姉さまは、あの男を切り捨てることもまたできなかった。聖女のような心を持つ姉さまは、親が親であるというだけで、ただそれだけの理由で愛していた。
なあ、お前様。
愛は、枷よの。
人を殺すのは、愛よの。
だから、あのようなことが起こったのだろう。
魍魎が地にあふれた日に、事実上の王位簒奪があったのだ。
★=
雷雨が轟く夜だった。あと少しで寝る時間。
ベッドの上で横になりながらスマホのソシャゲをいじっていたけれど、もう飽きて放り投げてしまった。
ガチャゲーなんてするもんじゃない。最高レアは数億分の1とかいうゲームだけど、絶対に嘘だ。そんなレア度なんて存在するはずがない。
いつもなら、姉さまは私の部屋に来てくれる。10にもなって夜もひとりで眠れないのは恥ずかしかったけれど、お姉さまに撫でられると安心するからしかたない。
「姉さま遅いな」
最近忙しくなってきた姉さま。
政治のことを学び始め、学業に専念されながら、市井の人々にも分け隔てなく接している。
とてもお忙しい。
けれど、夜だけは。
このわずかな時間だけは、姉さまはわたしに、その貴重なお時間を使ってくれる。
わたしだけの姉さまになってくれる。
――姉さまが来てくれない。
使い慣れた毛布が手元にないかのような不安感。
窓をしたたかに雨がうちつけ、ときおり雷光が走る。
怖くなってきた。
姉さまを探しに行こう。
政務室だろうか。
長い石畳の廊下を歩いていると、慌ただしい怒号が聞こえてくる。
「化け物だ」「どっから湧いたんだ」「え、おまえ……なんで」「噛まれた」「こいつらなんなんだ」「どうなってるんだ」「警備を固めろ」
かかしのような影がゆらめき。
獣のようなうなり声が石壁に残響した。
なんなんだ?
先ほど前の静かな王宮内の様子から、尋常ではない気配が漂ってくる。
――なにかよくないことが起こってる気がする。
ぞわりとした。
部屋に戻ろうかとも一瞬考えたけれど、それ以上に姉さまの無事が気がかりだった。
何人かの人間が人のようで人でない者たちと格闘していた。
政務室。休憩室。娯楽室。応接室。どこにもいない。
最後に重苦しいドアを開けて入ったのは儀式室。
宗教的行為を行う際に使う、簡素な部屋だ。
部屋の中は、石畳の上に柔らかなベルベットが敷かれていて、ランプの間接照明で全体がぼんやりと照らされている。
聖香がたかれ、煙が充満しており目に染みた。
部屋の中心に姉さまはいた。傍らには僧服の男が5人。王宮の兵士が3人ほど立っている。
「姉さま!」
姉さまは応えず、視線をこちらに投げかけるのみだった。
「静かにせんか……ゾイ。貴様の大好きな姉さまは今、国のために必死になって祈っておるのだ」
ドアのすぐそばに立っていた巨躯が睥睨するように私を見た。
「なにを……父様」
「今から三時間ほど前、天から星が降り注ぎ、地に魍魎どもが湧いた」
「魍魎……」
「知性のない混濁した瞳。人肉を喰らう悪食。食われたものも同じく魍魎になる。さしづめゾンビといったところか」
「国民は!?」
「知らんよ」
「え?」
「兵は王宮に集めるように命令してある。今の段階で民を助けることなどできぬ」
「そんな……」
酷薄な王。
市井のみんなは、王に見放された。
「見放したわけではない。だからこそ、いま"聖女"は魍魎どもを打ち払うべく祈っておるのではないか」
「聖女!? 姉さまは聖女ではありません」
そのように思われていたけれど。
ただの優しい姉さまだ。
だいたい祈ることでどうにかなるものなのだろうか。
「我が国が興ったとき、国には魍魎どもがあふれ、人々は餓え、死肉すらあさるような有様であったという。そのとき、どこからともなく"聖女"が現れ、慈愛の指にて人々を救ったのだ。餓えることなく、誰ひとり不幸になることなく――な。国が艱難辛苦に見舞われるとき、"聖女"は現れる。そういうものなのだ」
「馬鹿な……」
「馬鹿とはなんだ。貴様は祖国の宗教すら信じきれぬのか」
「ゾンビがあふれる理由なんて、いくらでも科学的説明がつくはずです。例えば――そう。どこかの国のウイルス兵器とか。いまお父様がすべきなのは、祈ることではなく現実的な対処をすべきなのでは?」
「しておると言っている。だが足らんのだ」
「何が足りないのです」
「兵が足りぬ。弾が足りぬ。情報が足りぬ。足りぬ。足りぬ。なにもかも足りぬのだ」
頭を抱えて懊悩する王を見て、胃の裏側が冷たくなるのを感じた。
「しかし、ここで祈っていてもしかたないはずです。せめて、ここにいる方々だけでも現場に回すべきなのでは?」
「貴様に何がわかる小娘」
「王は現実逃避をしているだけです」
「黙れ! 世の中の仕組みをなにひとつわかっていない小娘がっ!」
耳のあたりに衝撃を感じた。
雷鳴と鈍痛が入り混じり、私は自分が殴り飛ばされたのだと知った。
わたしは茫然と座りこむ。
身体に痛みは感じていたし、脳が揺らされていたことも事実だ。
しかし、それ以上に、純粋な暴力というものに初めて触れた。
それが怖かった。
いやなことは続く。
儀式の部屋の重々しい扉が再び開かれて、慌ただしくやってきた男の人が、父様へとなにやら耳打ちした。それから布に包まれた何か小さなものを狂気をはらんだ目で検めた。
指――だった。
二本の青白い血の気の失われた指。
父様は笑う。
「あははっ。聖人ラ・ムルは魍魎に敗北したようだぞ! あのクソ野郎。政治にまで口出ししてきやがって、あっけない最期だったな!」
ラ・ムルは国の者なら誰でも知っている高僧だ。
母方の叔父にあたる人物で、私たち姉妹にも優しい方だった。
「こんなときまで政治ですか」
「うるさい。うるさい! 聖性も効かぬとなれば、もはや我々は滅びるしかないではないか。そんなこと認めん。認めんぞ!」
わけのわからないことを叫び始め、獣のように怒声を飛ばす父様。
口元はだらしなく歪み、笑みとも恐怖ともいえない色を浮かべている。
ああ――、この人は怖いんだなと思った。
父につき従っている者たちも、周りにいる兵士も、僧も。
誰一人たがわず、魍魎どもに恐怖している。
いずれ、自らも獣のように食べ散らかされ、魍魎となり徘徊することを恐れている。
聖人ラ・ムルの死は、また一つ、父のタガを外したようだ。
「そうだ……。お前の姉さまが本当に"聖女"かどうか試してみないか。いい考えだ。いい考えだ! そうだろう。おまえたちもそう思うだろう」
ゾクリとするような、あの魍魎と同じような目をした男。
わめきちらす乱痴気な言論が、どこか遠くに聞こえた。
「父様!」
姉さまが祈りを中断し、声を張り上げる。
「聖女よ。祈りをやめるな。それとも、貴様はただの偽者にすぎなかったのか」
実の娘に、ここまで冷淡な声が出せるものなのか。
まるで、モノに向けるような目。
「いひひ。まあいい。いまから試せば済むことだからな」
困惑の気配。僧も兵士も男の狂気にあてられている。
「いいか。この腐れた魍魎の『指』を聖女に食わせろ。真の聖女であれば、ひひっ、助かるだろう。魍魎にはならず、我々も助かるというわけだ。聖女でなければ、我々は死ぬっ。みんな死ぬ。ひひひっ」
壊れた理論。
狂った人倫。
しかし、それすらも政治の機微の中では存在を許されている。
いくつも伸びる指先が証明していた。
男たちは姉さまの身体を押さえこんでいた。
体が燃え上がるような怒りに、わたしは飛びこんだ。
「姉さまを離せ、下郎ども!」
「暴れるなゾイ。神聖な儀式の最中だぞ」
かつて父と呼んだ男に全身を押しつぶされて、呼吸すらままならない状況だったが、灼けるような怒りに、全身が燃えるようだった。
しかし――、身体はピクリとも動かない。
姉さまも齢15の小娘にすぎない。大の大人に寄ってたかって組み敷かれては、まともに身体を動かすことすらできない。
綺麗なお姉さまの身体を、ここぞとばかりに押さえこみ、獣欲を満足させようとする男ども。
ご辛抱くだされといいながら、四肢を、両の手、両の足をひとり一本といった体で抱く彼ら。
恭しさは、むしろ暴れまわる性的欲望を強調する媚態のようだ。
「いや! いやぁ! お父様やめさせてください! 死にたくない! 死にたくない!」
国中から聖女と崇められていた姉さまは、ただの小娘に過ぎず、無力な女こどもとして、命乞いをしていた。
父だった男から、聖人ラ・ムルの指先を格式ばった宗教行為として受け取る男。
身をよじり、涙でグチャグチャになった顔で、歯を折れんばかりに口元に力を入れる姉さま。
ああ、でも無意味だった。
無力だった。
仕事熱心な彼らが取り出してきたのは、何処かから持ち出してきたのは、奇妙なほど洗練された丸い割っかのような器具。
開口器。
口腔内に差し込み、口を強制的に開けたままにする道具だ。
最初は何をしているのかわからなかった。
きつく真一文字に結ばれた口元に、冷たい先端が差し込まれ、テコの原理でグイグイと裂開されていくのだ。
なけなしのプライドも、命も、恐怖も、すべて無意味だと言わんばかりに。
開かれ固定されていく。
齢15にすぎない乙女が、こぶし大の大きさで口を開いたまま固定される。
どんなにか恥ずかしかったことだろう。
いや、それは――まぎれもなく命の危機。
口を開かれたままのお姉さまは、それでも懇請の声をあげる。
私も口のきけない姉さまの代わりに、かつて父だった人間に乞い願った。
「あ、ああ……父様。どうか。どうかお考えなおしください。生意気な言動も直します。どうか、姉さまだけはとらないでください。わたしの唯一のお姉さまだけは。お願いします」
「無理だな。やつらの目を見てみろ。もはやワシの命令など関係ない。聖なるものを侵し、試してみなければもはや収まらんよ」
試す?
神を試す。聖性を試すというのか。
どれだけはねつけようとしても、力が足りなかった。
力があれば、テレキネシスのように吹っ飛ばせる力があれば。
姉さまを助けられるのに。
「お……ぃ」
泣きはらした目で私を見つめ、私の名を呼ぶ姉さま。
馬乗りになった男が、姉さまの頬をつかみ、開けられた口の中に――。
直視できなかった。
「いああああああ"あ"あ"ぁ"ぁ"ぁ"」
人のモノとは思えぬほどの絶叫が響き。
男どもは、自分のしでかした行為に、かすかな罪悪感を覚えている。
結果として、現出したのは寂寥とした沈黙。
互いに目を合わせて、バツの悪そうな顔になり、しきりに自分は悪くないと言い聞かせながら、奴らはようやく姉さまの身体から飛びのいた。
姉さまは、すぐに口元に自分の手をやってがむしゃらに開口器をはずし二本の指を吐き出した。
ふと身体が軽くなっていることに気づく。
男が私の身体からどいていた。残忍な笑みを浮かべる男を一瞥し、私は姉さまに駆け寄った。
「姉さま。お身体は……」
顔を伏せている姉さまの表情はみえない。
けれど、嫌な予感はいや増すばかり。
あれが――感染性のものだったら――。
「姉さま。お顔をお見せください」
私はいつか姉さまがしてくれたように、指先で姉さまの髪をかきあげようとした。
気がつくと、世界は赤く。紅く。アカク。沈んでいた。
混濁した瞳が私を食料として見定め、私の指先はかつて姉さまだったモノに、姉さまの形をした魍魎にかみちぎられていていた。
「感染してるぞ!」「やっぱり聖女様でもダメだったんだ」「俺たち……死ぬしかないんだ」
ゆらりと立ち上がる姉さま。
指先がなくなった感覚に、よくない毒素が体の内側をせりあがってくるような感覚。
瞬間的に感じたのは、姉の身を案じることでもなく、男どもへの怒りでもなく、かつて肉親だった男への憎悪でもなく。
――自身の死。
死への恐怖。
死にたくないというなりふりかまわない想いだけだ。
「姉さま。いやだ。やめて。姉さま」
首元に姉さまの口が迫る。
「……ごみ虫が」
皮肉なことに、私の命を救ったのは、あの男だった。
あの男は、狂気を生への執着に塗り替えて、カトラスサーベルで、姉さまの美しい顔を一突きしたのだ。
姉さまは、死んだ。
「お前も死んだら、ワシが困るなぁ」
熱い。熱い。ああああっ。痛い。ぐじゃぐじゃになった思考で、男をにらみつける。
腕が切り飛ばされていた。
怒りと痛みで、もはや言葉にできないほど思考はイカれていたが、煮えたぎるほどの憎悪こそが、ゾンビ化することをまぬがれさせていた。
憎い。憎い……。殺してやる。
★=
しかし、結局のところ――。
私は無力な小娘にすぎなかった。あの男が私を殺さないのは、情けや親子としての感情ではなく、ただ利用価値があるからだ。
つまり、聖女信仰のある我が国においては、あの男にとって、女の子どもはいわば、赤ん坊のへその緒のようなもの。権力の紐帯なのだ。
姉さまが死んだあとの私は、部屋から一歩もでず、なにもせず、ただの傀儡であり続けた。
あの男が死ねと言えば死んだだろう。未練もなく、砕けたガラスのようなもの。
どうでもいい。
果てしなくすべてがどうでもいい。
案外、ゾンビは倒しやすく、それなりに自衛することも可能だと知ったのは、私にとっては関係のない世界の出来事。
遠い日本という国で、なにやらゾンビ避けする方法が編み出されたなどという話も聞いた。
夜月緋色というまぎれもない"聖女"の存在。
聖女はただそうであるという理由だけで、そこに在ることが許されている。
ああ、もしも。
もしも、世界が――もう少し優しければ、姉さまは生きておられただろう。
ふと、スマホが震えていた。
ソシャゲをなにもしなくなったスマホは、ただの連絡手段になり果てていた。
知り合いも友人もいない私に連絡をかけてくるものはいない。
いたずらの類かとも思ったが――。
なにもない私が、これ以上失うものもあるはずがない。
瞳。
闇が広がっていた。
「こんにちは。ゾイ」
「あなたは誰?」
「わたしはジュディ……」
「ジュディ?」
「ねえ。あなた。指を失ったのね。かわいそう」
右手は空っぽ。心も空っぽ。そこに、すっと入り込んでくるような慈愛の声だった。
「指を失ったのは私が愚かだったから」
「そうね。猫だって抵抗するときに爪を立てるわ。あなたは爪をたてることすらできないのね」
「爪がほしい」
「そう。爪がほしいのね。いいわ。与えてあげる」
世界に引っかき傷を負わせてやる。
★=
「と、そういうわけで、ジュデッカ――いや、イスカリオテのジュディがやってることは、ただの口添えだ。ただ、ささやきかけているだけだ。汝の欲するところをなせとな」
「それで」オレは口角をあげた。「今の話を聞かせてオレの同情でもひこうっていうのか」
「そうではない。お前様よ」
闇が広がる目だった。
混濁した水色は、もしかするとゾンビウイルスの含有量が人よりも多いのかもしれない。
「私が――私たちがやろうとしていることは、世界を救うことではない。逆だ。むしろ世界を破壊しようとしているのだ。お前様は根が純朴な性質なのだろう。しかし、本当にこころの底で願っておるのは世界を壊し、運命を壊し、運命を操る神を殺すことではないか」
「オレはゾンビが憎いだけだ」
「本当にそうかな。妹が死に、怨んだのだろう、この世界を」
「怨んだのはゾンビであって人間じゃない。人間に全滅しろとは思っていない」
「ふふ。そうか。お前様はずいぶんとかわいらしい思考をしている。しかし冷静に考えろ。ヒイロウイルスは客観的に見れば、ゾンビを駆逐する聖性を帯びている。お前がゾンビを一匹残らず駆逐したいのなら、むしろヒイロウイルスが世界に広まるように心がけるべきだろう」
「違う。夜月緋色は悪魔だ。ヒイロウイルスに汚染されれば人は死ぬ。それを誰もわかっていないだけだ」
「ただの遊び好きの小学生にしか思えんがな。聖女などと呼ばれていた姉さまも、今思えば普通の人間だった。おまえは他者が自分の考えをわからないとみれば、その他者もゾンビだとみなして殺すのだろう」
「まちがっていないだろう?」
「間違っていないさ。ただ、その考えを
つまり――。
ゾイは遠くを見つめるように言った。
「同じだ」
そして続ける。
「似たものどうしだよ、お前様」
そして、
「私たちはヒトを怨んでいる。ヒトの絶滅を願っている」
不条理な世界が壊れることを願っている。
それが答えだった。
もう少し描写をネットリしたかったです(業深)
でも、読者が求めているのは、たぶん、いちゃいちゃてぇてぇ配信作品なのです。
たぶん……。