あさおん・オブ・ザ・デッド   作:夢野ベル子

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間が空いたので簡易あらすじ。

主人公 雄大に会いに福岡へ。
途中、生首少女を見つける。
生首少女あらため春日居嘉穂は誰かに殺され食べられたっぽい。
お姉ちゃんを探しに福岡県庁へ。
お姉ちゃんなぜかメイド姿で発見。
お姉ちゃん嘉穂の記憶がないと聞き、当時の状況を語る。←いまここ


ハザードレベル149

 両親が死んだとき――、野愛と嘉穂はふたりきりの姉妹になってしまった。

 

 当時、野愛は18歳。嘉穂にいたっては11歳。

 

 直葬といわれる葬式すらない火葬によって、まっしろい骨になってしまったふたりを見たとき、野愛は嘉穂とつないだ手を強く握った。

 

 炎はなにもかも焼き尽くし、取り出された骨はカサカサに乾燥していて軽い。

 

 その存在感の軽さが、両親がいなくなったことを嫌でも認識させた。

 

 嘉穂が涙をこらえて野愛を見ている。

 

――守らなくてはならない。

 

 という想いと同時に、重さも感じた。

 子育てすらしたことのない自分が、嘉穂を育てきれるかと思ったからだ。

 

 しかし、遠縁の親戚に引き取られる選択もあったものの、ふたりの人間を面倒みきれるほどの縁もない。孤児が入る施設もあるにはあるが、野愛のほうはさっさと独立するように求められるだろう。

 

 つまり、姉妹が――この世でふたりきりの姉妹が――離れ離れにならないためには、野愛が働いて育てるという選択しかなかった。

 

 大学は辞めた。なんの支援もしてくれない名ばかりの後見人の代わりに働き口を求めた。

 

 慣れない仕事に、自分なりの夢や未来を消費していく感覚。

 

 それが妹と暮らすための代償だった。

 

 嘉穂はもともと天真爛漫で明るい性格だったが、ますますよく笑うようになった。

 

 アニメを見たり、そのアニメのキャラの口調を真似ているのも、その一環。

 

 つまりは、野愛に嫌われないための"媚び"なのだろう。

 道化を演じているのである。もちろん生来の気質もあるだろうが。

 

 今もそうだ。

 

 ゾンビが溢れる極限の状況にあってなお、嘉穂は死を恐れている様子はない。

 

「お姉ちゃん。ご近所のネコおばさんが食べられてるでありますよ!」

 

 いつもと変わらない調子で言う嘉穂。それなりに焦っているような口調ではあるが、いつものアニメ声で、アニメキャラの調子で言われると、現実とのギャップが生じる。

 

 見ると、近所の野良猫にエサをやっているネコおばさんが、道端でゾンビに食べられていた。

 

 手にはエサやりのためのコンビニ袋が握られていて、あたりにネコのエサがちらばっている。

 そこにどこからともなくエサを食べにきたネコが群がっていた。

 しゃがれた声でしゃべり、枯れ木のような腕でネコをかわいがっていたネコおばさんからは、どこにそれだけためこんでいたのかというほどに、血があふれ、地面を赤く染めていた。

 

 ネコはネコおばさんを見向きもせず、ゾンビもまたネコを見向きもしない。

 ついでにいえば、野愛たちのことも今は見ていないようだ。

 

「いまのうちに通るであります!」

 

「ちょっと待ちなさい!」

 

 先行するように嘉穂が行く。横幅ほんの数メートルしかない細い道だったが、お食事に夢中なゾンビは気づかない。幸いなことにごく近くにエンカウントしたのはその一回だけだった。

 

 駅に近づくにつれて、道幅は大きくなる。ここらはビジネス街だから深夜の人通りは通常少ない。しかし――、いまはどこに潜んでいたのかというほどに人が波のように押し寄せていた。きっと、ホテルにいた人たちが逃げ込んでいるのだろう。あるいは、野愛たちのように周辺の地域から逃げ惑っている人たちがいるのかもしれない。

 

 問題は食料やそのほかの避難物資だろう。とりあえずゾンビに襲われない堅牢な建物なら、そこらのビジネスビルでもいい。しかし、食料に乏しいそれらのビルでは、いつまで避難していいかわからない状況で篭城するのは好ましい選択とはいえない。

 

 博多駅からすぐ近くにある公的施設は博多区役所だが、こちらのほうは建物自体が小さい。おそらく収容人数的に言っても、50名かそこらしか入れられないだろう。食料の問題もある。

 

 よって、博多駅を――正確には博多駅に立ち並ぶ駅ビルを避難場所としたのは英断だった。

 

 ただし、ゾンビハザードでなければ。

 

 

 

 ★=

 

 

 

「人多いでありますな。コミケのようであります」

 

 野愛が見る限り、嘉穂はわずかばかり興奮しているように思えた。

 本当だったらそこに行きたかったが、貧乏暮らしの自分たちにはいかんともしがたい状況。

 だから――という接続詞が適切かわからないが。

 疑似的にもコミケのような雰囲気に、嘉穂はわずかばかり興奮しているのだろう。

 台風のときに意味もなくはしゃぐ子どものような心持ちというべきか。

 

「はぐれないように手をつなぎましょう」

 

 どこか行きそうな嘉穂の様子に、不安に思った野愛はそんな提案をした。

 

「はいであります!」

 

 昔のように、握った手が温かい。

 思った以上に安心する自分に驚く。

 きっと――、支えていると思っていた自分が、思った以上に嘉穂に支えられているからだ。

 

 駅ビルは、正面からみて、左側にバスセンタービル、正面にふたつのビルが合体しているようなメイン。そして右にひとつある。いずれも、食料品も売っていたりするので、数百人を数日持たせる程度は可能だろう。

 

 ただし――、集まった人間は数千を越えていた。

 完全なキャパシティオーバーだった。

 

 ずっと向こう。ビル内に入るところでいざこざが起きている。

 

「だからもう入らねえって言ってるだろ!」

 

 男が怒号を発していた。

 

「うるせえ。こっちはゾンビから死ぬ気で逃げてきたんだぞ。どこに行けっていうんだよ!」

 

 どうやら入った側が棒きれのようなものを持って数人でバリケードを作って、中に入らせないようにしているらしい。剣呑な雰囲気。体験したことはないが、まさしく戦争だ。

 

「なんかヤバげな雰囲気であります」

 

「そうね」

 

 野愛たちは、人だかりのちょうど中間あたりにいる。

 身動きがあまりとれる状況ではない。

 

「きゃあああああ!」

 

 突如、集団の中から、ひときわ甲高い声が響いた。

 喧噪の中であっても死を賭した声は、妙に耳朶をうつものだ。

 ゾンビに噛まれていた男が発症し、ゾンビになって近くにいた女に噛みついたのだ。

 パニックが広がり、人々はゾンビから距離をとるように逃げ惑う。

 無秩序の軌道。どちらに逃げればよいかもわからず、唯一の逃げ道である駅ビルへと殺到した。

 しかし、人のバリケードで完全にふさいでいるため中には入れない。

 ハリネズミのように棒状のものを突き出している。

 

「嘉穂。地下にいったん逃げましょう」

 

「わかったであります」

 

 ちょうど近くに地下街に入る階段があった。

 嵐のように人が押し合いするなかを、にじり寄るようにしてふたりは進む。

 そちらのほうにも人が逃げ込んでいるようで、なかなか進めない。

 地下からも駅ビル内には入れるが、この様子だと、同じく封鎖されているだろう。

 

 地下へ入るか入らないかのところで、駅ビルの門のあたりが騒がしくなった。

 

「即席の火炎瓶だ。これ以上、入ろうとすれば燃やすぞ!」

 

「うるせえ。入れ入れ。はやくしないとゾンビが来るぞ! 入れ!」

 

「やめろ押すな!」

 

 そして、膨らみきった緊張は、燃える人のカタチとなって結実した。

 遠目から、踊り狂うような人影を嘉穂は見た。

 それはちょうど紙に書いた〇と棒線だけでできた棒人形のように、ひどく現実感の薄い情景のように思えた。

 

 

 

 ★=

 

 

 

 地下に入ると、それなりに広い空間に出る。

 

 問題はどこに向かうかだ。ここからは駅ビルに向かう道と地上へ出る道、そして地下鉄がある。

 もしかしたら緊急時なので、地下鉄や列車も深夜でも動かすのかもしれないが、逆に人がそちらのほうにも逃げ込んでいるため、動かせないということも考えられる。

 

 人々は自分たちがどこへ向かうべきなのか考えてもおらず、なんとなくの人の流れにのって、どこぞへ向かっているだけの状態だった。

 

「うわあああ。ゾンビだ!」

 

 誰かがそんなふうに叫んだ。

 人といっしょにいることで、安心感を得ていた者たちも一斉に飛び上がった。

 まるでコントのようだ。

 

 ゆっくりと近づいてくるゾンビたち。

 押しのけて前に逃げようとする後列の人。

 しかし、前からもゾンビがやってきてすぐに混乱に極みに陥った。

 

 進むべきか戻るべきか。野愛は逡巡する。

 

「お姉ちゃん! こっちであります」

 

 いつもは付き従っているだけの嘉穂がこのときは主体的に動いた。

 そこは地下鉄の改札口横にある駅員室だった。

 普段、駅員がいるときは見向きもしない駅員室。

 ほとんどの人間は導かれるままに地下鉄のほうか、外に出て行こうとしている。

 本当にそちらに立てこもるのが正しい選択なのか考えた。

 扉はしまっていないのか。逃げ遅れることにならないのか。

 一瞬の迷いが死につながる。

 

「窓が開いているであります」

 

 気づかなかった。よく見ると、窓がわずかに開いている。

 中に人がいるのかもしれない。

 人が燃えた情景を見たあとだと、判断に迷う。

 ゾンビだけでなく人も恐ろしい怪物へとなり果ててるかもしれないのだ。

 迷いは当然だった。

 ただ――、いつもは唯々諾々と従っている嘉穂が野愛に意見したのだ。

 野愛は覚悟を決め、駅員室の窓へと歩みを進め、するりと中へ侵入した。

 

 後続の嘉穂がさりげに窓を閉める。

 窓が開いてなければ後続の人間に窓を破壊される危険もあるが、ゾンビから逃げつつ窓を破壊するというのは、それもまた危険だ。外から丸見えなので、野愛はしゃがみ歩きで進む。

 

「泥棒さんになった気分でありますな~」

 

 のんきな声が後ろから聞こえた。

 駅員室の中には、さらに奥まったところに一部屋ある。

 そちらのドアを開けようとする。が、そちらは閉まっていた。

 

「中に人がおりますな。あけてくださるとうれしいのでありますが」

 

 ゾンビの群れが、駅員室のそばを通り過ぎている。

 幸いにもかがんでいた野愛たちにはきづいていないが、時間の問題かもしれない。

 

「あけなさい。この部屋にゾンビがきたら、あなたたちも危険になるわ」

 

 永遠とも思える時間の経過の後、しぶしぶドアは開かれた。

 

 

 

 ★=

 

 

 

 中は数人の人影が見えた。

 小学校低学年くらいの男の子とその母親と思われる30代女性の二人組。

 中年くらいのスーツを着たサラリーマン。

 高校生くらいのスポーツ刈りの男子。

 

 みな、疲れた顔をしている。

 ドアを開けてくれたのは高校生の男の子のようだ。

 中は事務机が四つほど置かれており、綺麗に整理されている。

 

「春日井……?」

 

「ん。那珂川氏でありますか」

 

 どうやら、嘉穂の知り合いらしかった。

 外の喧騒は続いており、自己紹介をするような場合じゃない。

 

「同じ高校に通ってるのであります」

 

「そう」

 

 それだけ言って、ふたりは部屋の中にあった椅子に腰かけた。

 

 しばらくすると、喧騒が遠ざかり周りは静かになった。

 閉めきった部屋の中では外の様子はわからない。奥まった部屋だから窓の類もついていない。

 LED電球に照らされた、重苦しい沈黙だけが部屋の中に満ちている。

 時計が天井近くに掲げられており、数時間は経過していた。

 そろそろ夜明けの時間帯だ。

 

「なあ、誰か外の様子を見にいかないか」と中年の男性が言った。

 

 誰も何も言わない。

 憮然とした表情になった中年男性が続ける。

 

「ここには食料もなければトイレすらないんだぞ。立てこもるにしろ環境が最悪だ」

 

「だったら、あんたが見てくればいいでしょ」と30代女性。

 

「わたしは足が悪いんだ」

 

「最初ここに来た時、普通に歩いていたじゃない」

 

「膝が痛むんだよ」

 

「へえ。膝に矢でも受けたの?」

 

 バカにしたような視線に、中年男性は怒りの表情になる。

 

「うっせえババァ!」

 

「子どもがいるのよ。暴言吐かないで!」

 

「子どもがいたらなんなんだよ。それで全部が免罪符になるってんのか!」

 

「なるに決まってるじゃない。子どもは未来の希望なの。あんたどうせ子どもどころか彼女もできたことない中年童貞なんでしょう! さっさと外行って死になさいよ」

 

「うるせえ!」

 

 ついに中年男性が手をあげようとする。

 30代の女性と子どもは一瞬目を閉じて身を固くした。

 

「ちょ、ちょっと待ってください。暴力はまずいですよ」

 

 中年男性を止めたのは男子高校生だった。

 

「なんだよ。おまえら駅ビル前のアレみただろ。もう世界は変わっちまったんだよ!」

 

「ここで争っても誰も得しないじゃないですか」

 

 ビジネスマンらしく"得"という言葉に響くところがあったのか、男の勢いは衰えた。

 

 代わりに男の目に芽生えたのは自己保存欲求丸出しの交渉だ。

 

「じゃあ、あんたが探ってきてくれるのか」

 

 という言葉に、男の怯懦があらわれている。

 

 男子高校生は一瞬ひるんだものの、覚悟を決めたようにうなずいた。

 

「わかりました」

 

 狭い室内に、意思のこもった声が聞こえてきた。

 索敵を任せる相手ができたことで、中年男性と親子は明らかにほっとしているようだった。

 それは野愛も変わらない。

 妹を守るためには、誰かが危険を肩代わりしてくれるに越したことはない。

 最悪な思考だが、最悪な事態には、甘いことは言っていられない。

 

 しかし――。

 

「那珂川氏が行くなら、わたしもいっしょに様子を見てくるであります」

 

 嘉穂が突然、そんなことを言い出した。

 

「なにを言ってるの。彼が行ってくれるのなら、おとなしく待っていなさい」

 

「お姉ちゃん。ここでは否と言わせていただくであります」

 

「どうして、お姉ちゃんの言うことを聞いてくれないの」

 

 野愛は言いながら悲しくなってしまう。

 そんなことを言うために、いままで嘉穂の親代わりになってきたわけではない。

 悲しみが伝わったのか、嘉穂も一瞬悲しげな顔を見せた。

 しかし、それも一瞬のことで、すぐに元のように笑顔を浮かべた。

 

「大丈夫であります」

 

「春日井……正直助かる。だけど、お姉さんが言う通りなんじゃないか」

 

「那珂川氏も人がいいでありますなぁ」

 

「いや、オレは単に必要だと思ったから。避難路を確保するのは自分のためでもあるし」

 

「では、わたしも同じでありますな」

 

 にっこりと笑えば、うら若き乙女の笑顔には違いない。

 クラスでは浮いているといっていた嘉穂も、嫌われているわけではないのだろう。

 ただ、妹に危険なことをやらせて、自分はのうのうとこもっていることなんてできない。

 

「わたしも行く」

 

 野愛はすぐにそう言って、ふたりについていくことにした。

 

 

 

 ★=

 

 

 

 那珂川勇也はもともと陸上部に所属していたらしい。

 体力と――特に脚力には自信があるようだ。スポーツ刈りで文字通りスポーツマンなのだが、いわゆる三白眼で上向きにツンツンした頭のせいか、不良のように見られることもあるという。

 本人と話してみた限りは普通のようだ。

 わずかな時間で自己紹介を終えたあと、さっそく勇也を先頭に三人は移動を開始する。

 

 避難先として好ましいのはどこなのか。

 食料や電気、トイレなどの生活環境を考えると、駅ビルの中に侵入できるなら、それが一番だが、人にとって人は敵にも味方にもなりうる。

 今の状況で、無理に侵入しようとすれば、炎で踊り狂う羽目になりかねない。

 

「周りにはゾンビが数体いますが、こちらに気づいてはいないようです」

 

 年長者の野愛に対して、丁寧語で伝える勇也。

 対して、受け答えたのは嘉穂だ。

 

「ゲームとかだと、謎の感知能力で察したりするでありますが……」

 

「目と耳と鼻。どれがいいかは未知数ね。でも、今は実験しているときではないわ」

 

 と、野愛は冷静に分析した。

 内心では、じりじりと焼けてくるような焦燥感があるが、いまは無理に押さえつけている。

 

 ゾンビはまばらに存在するが、逃げ惑う人々の姿はいつのまにかいなくなっている。

 ゾンビの仲間入りしたか、それとも博多駅周辺は危険と見て散ったかは謎だ。

 いまならダッシュすれば簡単に駅員室から出られそうだ。

 

「ついてきてください」

 

 勇也の声に従い、野愛たちは駅員室の窓からふたたび外に出た。

 ゾンビたちがゆっくりと振り返り、こちらを視認する。

 先ほどと同じように、歩くスピードは極めて遅い。

 普通に人間が歩くスピードのほうが速いくらいだ。

 けれど、じっくりと近づいてくる亡者の姿は、生者にとっては本能的な恐怖を呼び起こすものだった。足をつかまれたわけでもないのに、体中の筋肉が硬直する感じがする。背骨のあたりから力が抜けていき、足元がすくんでいる。

 

 野愛はごくりと生唾を飲んだ。

 

――この時点では、夜月緋色様のような超常の存在はおりませんでした――

 

 なので、ゾンビの攻撃は即死に直結する。

 噛まれれば、いずれお仲間になるというのがゾンビのお約束だ。

 

「那珂川殿。武器は持たなくて大丈夫でありますか」

 

「できれば長い獲物がほしかったけど、あの部屋の中にはなかっただろ」

 

「確かにそうでありますな。今時モップもないとか困るであります」

 

 プラスチック製のモップではなく紙のシートを使い捨てていくタイプのやつはあったのだが、中身がスカスカなので使いようがない。

 

「あそこにいいのがありますですよ」

 

 嘉穂は周りをよく見ている。

 少しリーチが足りないが、重さ的には十分な消火器が壁に設置されてあった。

 

「重そうだな」

 

 陸上部所属。走るのが主体の勇也にとって、重いものを持つのは自然を忌避された。

 しかし、男の自分が持つべきと考え、やむなくそれを手にとった。

 

「わりと重いな」

 

 消火器の構造上、安全弁を抜かなければ噴霧されることはない。

 ただし、握りの部分を持ったとしても、本体部分を振り回すことを想定していないから、ゾンビと相対したときは投げつけるとか、そういう使い方しかできないかもしれない。

 

 野愛たちがいまいるところは博多の地下街である。

 電気がまだ通っていて、夜中であるが明るい。ゾンビは群れをなすほどにはおらず、しかしまったくいないわけでもない。野愛たちの姿を見ると、ゾンビたちはゆっくりとではあるが、にじりよってくる。

 

 いったん、ダッシュしてそいつらを振り切り、地上へとつながる階段のところで一息ついた。

 このまま階段を上がれば地上に行けるが、地上から駅ビルへの道はおそらく閉ざされているだろう。可能性があるとすれば最も小さなバスセンタービル。

 

 正面にあるメインビルと違い、こちらは収容人数としては少ない。面積もメインビルの半分もないだろう。メインのビルは二つの建物が合体している感じだが、バスセンタービルは独立している。

 

 一応博多駅にはテラスというか、二階部分でつながっているのだが、建物内部でつながっているわけではない。

 

 バスセンタービルへの道は、一階と二階、そして地下から行ける。

 

「バスセンターはこっちでよかったんだよな」

 

 勇也が嘉穂に確認するように聞いた。

 

「まちがいないでありますよ」

 

 嘉穂はまるで買い物をするような軽い口調で答える。

 勇也との仲はさほど悪くなさそうだが、ゾンビの世界では嘉穂の口調はきわめて浮いている。

 このような調子で、空気を読まずにしゃべっていたのでは、クラスの中でもさぞや浮いていただろうと、野愛は思った。そして姉として心配になった。

 

「エレベーターから行く方法もあるでありますが、お勧めはしないであります」

 

「なんで?」と野愛は聞く。

 

「エレベーターを開けたさきにゾンビが大量にいてとかお約束にもほどがあるであります」

 

「そう」

 

 映画知識がどの程度の精度を持っているかはわからない。

 しかし、エレベーターでの移動は、嘉穂の言う通り危険だ。

 いや、危険というのなら、それはどこでも変わりはない。

 

 セーフティゾーンから抜け出して自由に動いている今は、裸身で宇宙を遊泳しているようなものだ。広い地下通路には、昼のときのような人々の喧噪はなく、さきほどまでの悲鳴もなく、ゾンビが静かにズリズリと歩く音しか聞こえない。

 

 あるいは、あるいは――自分の心臓の音。呼吸の音すら聞こえそうだった。

 

「まずいな」

 

 勇也が柱の陰からささやくように言った。

 

「どうしてでありますか」

 

 嘉穂も小さく柱から顔を出した。野愛も同じく。

 そこにはゾンビが数匹たむろしていた。バスセンタービルに侵入するための地下の入り口は、見ると、バリケードのようなもので覆われているらしい。

 

 完全にふさがれているわけではなく、椅子や机といったオブジェクトで無理やりバリケードを作ったという感じで、板状のものを使って完全にふさいだわけではないようだ。

 

 バスセンタービルへの侵入口は、縦長で5、6メートルほどはある。その上部まではバリケードでふさがれていないので、脚立か何かを使えば中に入れそうだ。

 

「しかし――問題があるな」

 

 ひとつはゾンビたちをどうするか。

 ひとつは中に無理やり入ると中の人間に顰蹙を買う恐れがある。

 ひとつは脚立をどこで仕入れるかだ。

 

「脚立でありましたら、駅員室にありましたでありますよ」

 

「そうか。いったん戻ろう」と勇也。

 

 慎重な足取りで三人は戻った。いつもなら五分もかからない距離だが、無限の時間のように感じた。たいした距離でもないのに、息がきれる。精神的消耗が激しい。

 

 駅員室の前には人だかりができていた。

 野愛は目を見張った。もちろん、人だかりなどではなかった。

 ゾンビの群れだ。

 

「あひゃひゃひゃひゃ」

 

 三人の前を横切るのは、先ほどの中年男性だ。

 狂気の声を出しつつ、膝の傷はなんだったのか、猛スピードで走り去っていく。

 首のあたりは浅黒く血で染まっており、おそらく噛まれたのだろう。

 

「死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死。死。死。死。しぃぃ~~~~!」

 

 救急車のドップラー効果のように走り去っていく姿を、三人は茫然と見送った。

 窓から見える駅員室の中はゾンビだらけになっている。あの親子はどうしただろうか。

 中で生きているのか死んでいるのか。それとも逃げ出したのか。いや、ゾンビは人間を襲う。あちらに集まっているということは、おそらく生きている。

 

「いずれにしろ手遅れだ」

 

 勇也が重々しく言った。

 

「脚立がないと困るでありますな」

 

 嘉穂はあっけらかんと言った。中の人間のことはあえて触れないのか。

 妹はサイコパスではない。単純に死を忌避しているのだろう。両親が死んで、誰かが死ぬのが怖くなったのだ。だから道化を演じている。

 

 野愛はそんな嘉穂の心情が痛いほど理解できる。

 

「わたしか那珂川くんのいずれかが肩車してあとから引き揚げる手でいきましょう。あるいはエレベーターにいちかばちか乗りこんでみるか」

 

 さきほど見たときは、エレベーターは幸いにも地下に降りてきていた。

 おそらく人間が生きていて中にいるなら、エレベーターは上げておき、なにかモノを挟んで扉が閉まらないようにして上層に固定しておくだろう。

 

 実際、エレベーターのところまで戻ってみると、すでに上層まで引き上げられていた。

 これで、あとはもう無理やり侵入するか、あるいは他の避難場所を探すかしかない。

 

「ゾンビはどうするでありますか」

 

「何かでおびきだせれば……」

 

「わかったであります」

 

 嘉穂が取り出したのはスマホだ。通信料を抑えるために日ごろから無料Wi-Fiにしか接続しない涙ぐましい努力の結晶体である。もちろん、中に入っているSIMは月額1500円の激安のもの。本体は中古品だ。

 

「それをどうする気」

 

「お姉ちゃん、このスマホに電話をかけるであります」

 

 それだけで嘉穂がなにをしたいのかわかった。

 スマホをおとりにする気だ。ゾンビは人の声と姿に敏感のようだ。音声を外部に出すようにすれば、おそらくゾンビをおびき寄せることができる。

 

「でもいいの? スマホ……」

 

「どうせ、このあとスマホは使えなくなるでありますから、お姉ちゃんが万が一のためにもっていればそれでいいであります」

 

「そう」

 

 作戦を迷ってる暇はなかった。

 ゾンビはゆっくりな動きだが、視認した人間はしつこく追ってくる。

 背後には近づいてくるゾンビがいるのだ。

 

 嘉穂は柱の陰からすべらかな床にスマホを放った。

 回転させて、カーリングのように床をすべっていくスマホ。

 もちろん、すでに通話済み。

 

 野愛はスマホを掌で覆いながら叫んだ。

 

「こっちよ」

 

 ゾンビどもは首を奇妙な角度に曲げて、スマホを追いかけるように散っていく。

 

「いまだ」

 

 バリケードからゾンビがいなくなったのを見計らい。

 勇也は消火器をそこらにおいてかがんだ。体重の軽い嘉穂が先でもよかったが、しかし嘉穂には引き上げる力もない。

 事前に覚悟はしている。野愛は靴のまま――スニーカーを履いてきてよかった――勇也の肩に乗った。乱雑に積まれただけのバリケードの上に乗っているかたちになるので身体中が痛い。

 

 今度は嘉穂の番だった。同じく勇也が土台となり、嘉穂が靴のまま乗る。

 嘉穂はセーラー服だったので、少しばかり恥ずかしそうにしていた。

 

「スカートの中は覗かないでほしいであります」

 

「そんなこと言ってる場合じゃないだろ」

 

 そのとおりだった。ゾンビはすぐにデコイに気づき、こちらの姿を視認して近づいてきている。

 

「嘉穂。手をのばしなさい」

 

 なんとか引き上げることができた。

 

 あとは勇也だけだ。

 

 嘉穂に身体を押さえてもらい、野愛はせいいっぱい身体を伸ばす。

 手が届きそうで届かないギリギリの距離。

 迫るゾンビ。時間からして間に合いそうにない。

 

「クソっ」

 

 勇也はいったん手を伸ばすのをやめて、地面に置いていた消火器を手にとった。安全ピンを引き抜き噴射する。

 

 ゾンビどもは一瞬ひるんだ。というよりも、おそらく人間の姿が見えなくなり立ちすくんだのだろう。勇也はチャンスとばかりに手を伸ばした。

 

 それでなんとか、バスセンタービルに入ることができたのだった。




帰ってきました。
うーん。あと一回ぐらいで回想は終わるかな。
ちょっと長い感じなんで、ダイジェストっぽく終わろ。
この作品はいったいどこに向かっているのだろう……。
わりとそんなことを思う今日このごろでした。
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