あさおん・オブ・ザ・デッド   作:夢野ベル子

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ハザードレベル150

 バスセンタービルは窓が広くとられていて、陽光をとりいれるようになっている。

 地下から一階に上ると、ちょうど朝日が入りこみ野愛たちの顔を照らし出した。

 

「いつのまにか朝になっていたのでありますな」

 

 嘉穂がまぶしそうにしている。

 まだまだ元気そうで、さすが高校生の体力だ。

 ただ、精神的疲労は蓄積されている。

 ゾンビがはびこる世界を駆け抜けて疲れないはずがない。

 おそらくは野愛たちを励まそうとしているのだろう。

 

――これからどうなっていくのか。

 

 ビルの中は、外の喧噪とはべつに静穏だった。

 時折、聞こえてくるゾンビのうなり声以外は、ほとんど何も聞こえない。

 窓から下を覗いてみると、タクシー降り場あたりからゾンビがわらわらと群がっており、駅ビルは囲まれていた。野愛たちはほとんどなにも考えずに、ゾンビから逃れるようにして上へ登っていく。

 

 電気は誰かが通したのか、いつのまにかエスカレーターが起動している。

 自動出荷されるように上へ。

 

「一階から外に出るのは難しそうね」

 

 駅ビルは二階部分にビル間をつなぐ巨大な通路がせりだしている。いわばテラスのような構造になっているのだが、テラスというにはいささか巨大だ。通路幅は7メートル程度はある。駅前の広場部分からエスカレーターを使って上るようになっているのだが、いまは大物の家具などで簡易的なバリケードを作って、ゾンビの侵入を防いでいるようだ。

 

 野愛がふと不思議に思ったのは、そんな駅ビル間をつなぐテラスにも無造作にバリケードが作られていることだった。

 

――駅ビル間の連絡通路をふさいでいるのは何故?

 

 繰り返すが、博多の駅ビルはおよそ三つの建造物が一つになっている。

 そのいずれも巨大なテナントの複合体であるといえるのだが、あえてそれらを分断している意味がわからない。

 

 そんな疑問もそこそこに、3、40代くらいだろうか。頭の中央部分が禿げあがったサラリーマン風の男が5階に上がったところで近づいてきた。後ろには2、3人の男がついてきている。

 

「おう。若いねーちゃんとにーちゃん、どこから入ってきたんや」

 

 関西風の言葉をしゃべる男だった。

 

「地下からです」と野愛が代表して述べた。

 

 わずかに恐怖があったことも確かだ。

 女性としての自然な恐怖。

 男たちは話しかけてきた禿げたおっさん以外、みんなおのおの武器を持っていた。

 顔つきは、ゾンビ禍であることもあって悲壮のひとこと。

 声が震えそうになるのを必死に隠した。

 

「バリケードがあったやろ」

 

「上のほうが開いていたので」

 

「なるほどな……。まあええやろ」

 

 ざっと、野愛たちに視線を這わせる。

 

 使えると思ったのか、それとも勇也がいたから、ここで暴力沙汰になると自分たちも不利益を被ると思ったのかもしれない。

 

 勇也は高校生にしては鍛えているし、高身長である。

 

「まだ若いのに、あんたらえらいがんばったな。わいは難波ちゅーもんや。昨日、博多に大阪から出張してきてな。なんの因果か、いまここを取り仕切らせてもらっとる」

 

 取り仕切るという言い方にひっかかりを覚えた。

 まだ、ゾンビ禍が起こって6時間かそこらしか経ってない。

 それなのにここの駅ビルを取り仕切るというのはどういうことだろうか。

 

「ああ、勘違いしたらあかんで、取り仕切る言うても、べつにあんたらをどうにかしてしまおうとか、そないなことは考えてへん。ゾンビどもから身を守るために、一致団結しようっちゅう腹や」

 

「警察の方はいらっしゃらないのですか」

 

「おらへんなぁ。駅前駐在所のおまわりさんなら、ゾンビに食われとったで」

 

「そうなのですか……」

 

 野愛は聞いていて変な気分になった。ゾンビに警察。まったく意味のない組み合わせ。

 ただ、緊急事態が起こったとき、ぼんやりと警官や行政の人間が取り仕切るものだと思っていた。目の前の難波という人間は、ただのサラリーマン。つまりは商売人にしか見えなかったのである。

 

「まあこんなところでつったっとってもあれや。そこのコーヒーショップで休憩したらええやろ」

 

 難波は男たちになにやら指示して解散させ、自分は野愛たちを連れ立って、コーヒーショップの中に入った。店内はコーヒーに似た茶色い光で淡く色づけされている。

 

「ブラックでええか。店員じゃないからわからへんねん」

 

「はい。ありがとうございます」

 

 四人がけテーブルの片側に嘉穂と野愛が、反対側の奥に勇也が座った。

 難波はコーヒーを入れてトレイに載せて持ってきた。

 

 湯気たつコーヒーを一飲みすると、わずかだが精神が落ち着いた。

 日常の香り。

 もう二度と戻らないかもしれない日常というフレーズに、わずかに胸がしめつけられる。

 センチメンタルすぎる郷愁の念。

 

「あんさんらは、このあとどうなると思うとる?」

 

 互いに軽い自己紹介を終えたあと、難波が聞いてきた。

 

「どうなるとは?」

 

「簡単に言えば、ゾンビ禍が収まるかどうかや」

 

「わかりません」と野愛は正直に述べた。

 

 わずか数時間前に始まったゾンビハザードのことなど、なにもわかっていないに等しい。

 しかし、暗い予想はできる。

 どこへと知れない逃避行。あてどない旅路。人間同士のいざこざ。

 いろんな言葉がひしめきあったが、大方ろくな未来はないだろうという予想がなりたつ。

 

「わいが思うに、あいつらはたいしたことあらへん。足は遅いし、考える頭もない。力だけはごっつ強いがそれだけや。いつかは自衛隊あたりに駆逐されるやろ」

 

 自信たっぷりに言う難波に、野愛はそういうものだろうかと疑問を抱く。

 確かに、難波の言うとおりゾンビは足が遅く、考える頭もない。ただ、将来はどうなるかわからない。すでにゾンビという化け物が生まれてしまった。いままでそんなものは存在しなかったのだ。どうしてこれから先も同じように推移するなんて言えるのだろうか。

 

「まあ、あいつらがいきなり走り出したり、武器を使い始めたりするかもわからへん。ただ、そんなことを考えとっても無駄や。いまある現実から推測するのが人間の力やで」

 

「難波さんはどのようにお考えなのですか?」

 

「せやなぁ。簡単に言えば、篭城するんが一番やろ」

 

「篭城?」

 

「せや。自衛隊に救助されるまで、引きこもり作戦でいくんや」

 

「ここには何人くらいの人がいるんですか」

 

「お、ねえーちゃん。頭いいな。食料とかのこと考えとったろ」

 

「ええまあ……」

 

 食料や水、電気。情報をとりこぼさないためのネット環境。

 いずれも引きこもるためには必要なもの。

 しかし、人間の数が多くなれば、消費量も比例加算されていく。

 

「50人くらいやな。まあ切り詰めれば一か月くらいは持つやろ」

 

 多いか少ないかと言えば、微妙なところだった。

 

「この駅ビル全体でですか?」

 

「ちゃうで。このバスセンタービルに限っての話やな。あっちはあっちでコミュニティを作ってるはずや。詳細はわからへんが、たぶん2、300人くらいはおるやろ」

 

「なぜ――」

 

「なぜ合流しないかやろ? まあ言うてみたら、陣取りゲームみたいなもんやからなぁ。人間、引きこもるにしても、できるだけいい環境でいたいやろ。向こうは向こうでそう思っとるし、こっちはこっちでそう思っとる。それだけのことや」

 

 連絡通路のバリケードの意味がわかった。

 あれは陣をわけるための国境だったのだ。

 

「でも、ゾンビ禍が収まると思っているんなら、協力したほうがいいんじゃないですか」

 

 勇也が聞いた。

 

「そのとおりやとは思うんや。けど、あんさんらも見たやろ。あいつら人間に火をかけよったで。そんなやつらと協力したいかちゅー話や」

 

 日がのぼりきらないうち。

 駅ビル前の広場では何人もの人間が黒ずんだ灰になった。

 太陽のように明るい火がたち昇るさまは、駅ビルから容易に観察できただろう。

 追い詰められた人間たちはなんでもするという証左だった。

 

「まあ……それは」と勇也は言葉をにごした。

 

「幸いなことに、ここはメインビルから物理的に離れとる。地下と二階の連絡通路を塞げば容易には侵入できんはずやで」

 

「メインビルの連中とは付き合わないってことですか?」と野愛。

 

「付き合わないとは言うてへん。べつに戦争してるわけではないんやから、なんらかの交渉はできるやろ。無理強いしてこない限りはこっちも争う必要はないしな」

 

「難波さんは交渉役になると?」

 

「まあ、これでも商売人しとるからな。交渉事は得意なつもりや」

 

「相手が暴力をふるってきたら?」

 

「無抵抗というわけにもいかんやろ。家族を守るためには戦うで」

 

「家族?」

 

「せや。こうして出会えたのもなにかの縁やろ。一時的にとはいえ、わいらは運命を共有する仲間や。つまり、家族ちゅーことや」

 

「ゾンビ映画では、疑似的な家族が作られるでありますな」

 

 と、嘉穂がここで初めて声を出した。

 

 実のところ案外人見知りなところもある嘉穂が、なにかしらに共鳴したのだろう。

 

 たとえば家族という単語とか。

 

「せやで。嘉穂ちゃんの言うとおりや」

 

 しかし、そうはならなかった。

 

 

 

 ★=

 

 

 

 バスターミナルビルに避難して、10日ほど経過した。

 その間、50人の人間たちとの交流はほとんどなかった。

 まだ気分的には一時的に避難しているという感覚だったからだ。

 もしも十分な時間と備蓄があれば、彼らとの間に仲間意識が芽生えたかもしれない。

 しかし、世の中の様相が少しずつ明らかになるにつれて、皆の心の中に焦りが生まれていた。

 

『世界中の3割ぐらいはゾンビになったらしい』

 

『噛まれるだけではなく、死ねばゾンビになるらしい』

 

『自衛隊は関東に集結してるらしい』

 

『じゃあ九州は見捨てられたのかよ』

 

『どこかに美少女ゾンビがあらわれてさっそうとゾンビハザードを解決してくれないかな』

 

『おまえ夢見すぎwwwww』

 

 少しずつみんなの顔つきが暗くなっていく。

 

 この頃、勇也は難波となにやら話していることが多い。

 その勇也に、野愛たちは呼ばれた。

 

「食料調達班を結成することになりました」

 

「引きこもり作戦じゃなかったの?」

 

「難波さんの目論見ははずれたということです」

 

 勇也は眉にしわを寄せていた。

 握った拳には力こもっている。

 こめられた感情が恐怖なのか不安なのか、それとも怒りなのか。

 あるいはどれでもないのか。

 

「食料、あまりなかったでありますからな」と嘉穂は言った。

 

 確かに駅ビルの中でもひときわ小さなバスターミナルビルは、食料という点でみれば、最も備蓄が少なかった。

 

「ああ……、難波さんも頭を抱えていたよ。まさか自衛隊が関東圏だけ守ろうとするなんてな」

 

「あの噂、本当だったでありますか」

 

「本当らしいよ」

 

「九州には来ないのかしら」と野愛は聞く。

 

「首都を制圧し終わったら来るんじゃないですか。いつになるかわかりませんけど」

 

「なにも外で食料を調達しなくても……」

 

 野愛は少し口を開いて、また閉じた。

 すぐ近くには、おそらく食料をたんまりためこんでいる駅のメインビルがある。

 いまからでも50名の参入を申し込むというのはできないのだろうかと思ったのだ。

 しかし、できるならとっくの昔にやっているだろう。

 それをしないというのは、それなりの理由があるはずだ。

 

「メインビルに合流するのは難しそうです」

 

「なぜでありますか」と黙っている野愛の代わりに嘉穂が聞いた。

 

「あそこのメインビルだけど、いまは二派にわかれてるらしい。おあつらえ向きの名前だけど、西村と東ってやつがトップを張って、互いに自分こそがトップだといい始めたみたいだ。ここが無理やり参入されなかったのもそうやって争ってるからだってさ」

 

「内紛でありますか」

 

「ああ……」とうなずいて続ける。「自陣にここを引き込めれば強いんだろうけどさ。どっちが引き込んだかで、相手にとっては不利になるだろ。だから、お互いにらみあってる状態なのさ」

 

「でありましたら、こちらを売り込むチャンスでもあります」

 

「まあそうなんだろうけど、売り込んだあとで、もしも売り込んだ先が負けてしまったらっていうのがあるんだろうな」

 

「いまのうちにどちらかに参入したほうがいいと思うでありますが……、風見鶏は嫌われるであります。外様大名になってしまうであります」

 

「まあ確かに今のうちに西でも東でもいいから仲間になっていたほうがいいかもな」

 

「長引きそうなのでありますか。その内紛」

 

「ああ、メインビルの中って、建物的には一つだけど、店舗的にはふたつに分かれてるだろ。そこのメインシャッターを下ろして、互いに交流を断ってるらしい」

 

「へたしたら戦争でありますか」

 

「そうだな。そうなりそうだよ。だから、こっちはこっちで食料を調達しなきゃならない」

 

 要するに、二派のどちらかが勝つにしろ負けるにしろ。

 こちらの存在感を一定程度保ためには、自前で食料調達するのが望ましいということだ。

 

「食料を調達するにしろ、なにか安全な方法は考えているの?」と野愛は聞いた。

 

 嘉穂がうずうずしていて、自分も食料調達班になると言い出しかねなかったので、とっさに聞いたかたちだ。勇也は自嘲気味に笑った。

 

「電気がきていなければ電線を伝ってとかも考えられたんですけどね。いちおう、ここの地下にあるバスを魔改造して、スーパーマーケットに突っ込むという作戦を考えています」

 

 結局はゾンビの中に突貫するのと変わりない。

 安全とはとてもいえない作戦だった。

 

 沈黙が落ちた。

 

 このような内部事情を教えてくれるのは、勇也が野愛たちとの距離を他の人間より近くに感じてくれているからだろう。勇也と嘉穂の中は、野愛が見る限りでは悪くなさそうだ。

 

 恋愛感情といえるほど甘いものではない。

 しかし、まったくの無縁というほどでもない。

 やはり難波が言うような疑似的な家族関係なのかもしれない。

 嘉穂がそういう関係を望んだからということもあるだろう。

 

「那珂川氏、気をつけるであります」

 

 しかし、三日後に食料を調達しにいった面々は、勇也とごく少数の男たちを除き、ほとんど帰ってこなかった。

 

 

 

 ★=

 

 

 

「せやから頼むで。ほんま。野愛ちゃん。このとおりや」

 

 拝み倒してくる難波の姿に、野愛は静かな怒りを燃やしていた。

 つい先ほど、難波に呼ばれ聞かされた話は、なんのことはない西村とかいう二派のうちの一派のトップのところに、先行して嘉穂とともに行ってくれないかというものだった。

 

 意味がわからなかったのでよく聞くと、難波は驚くべきことを言いだした。

 

――手つけ金。

 

 のようなものだというのだ。

 

 バスターミナルビル内の戦力は先の食料調達の際に壊滅的ダメージを受けたといえる。

 図らずも人数が減ったことにより食料の減少量も抑えられることになったが、根本的な解決にはいたっていない。

 

 そして――、残るは年のいった50代、60代の男性、女性ばかり。

 老人ホームに入るほどではないが、サバイバルには向かない人間ばかりが残ってしまった。

 メインビルの連中からすれば、価値のない人間たちとして切り捨てられてしまう可能性がある。

 

 だから、見目麗しい若い女性であるふたり。

 野愛と嘉穂を手つけとして、この集団全体の価値を認めさせる。

 

 それが難波の考えた生き残る術だった。

 

「わたしたちを売るつもりですか」

 

 どこまでも冷淡になっていく視線。

 

「売るとかそんなことやあらへん。聞くところによると、あっちの秩序も崩壊してるわけやない。協力してゾンビに対抗しようってだけや」

 

「家族じゃなかったのですか?」

 

「家族や。いまでもそう思うとる。だから、家族の頼みやと思うて。頼むで」

 

「嘉穂はまだ高校生ですよ」

 

「いかがわしいことをさせるとか、そんなことにはならへんから」

 

 難波の口先だけの言葉に、野愛はイライラしてきた。

 調子のいい商売人らしい無責任な言葉。

 リーダーとしての考えなのかもしれないが、野愛だけならまだしも高校生になったばかりの嘉穂もまとめて売るという考えに賛同できるはずもない。

 

「わたしたちを先んじて送るという考え方に納得できません」

 

「納得できるとかできないとか、そんな段階じゃあらへんのや」

 

「おことわりいたします」

 

 野愛は立ち上がり踵を返す。

 難波が焦ったような声を出した。

 

「待ってや。野愛ちゃん。もう向こうには打診してあるんや。いまさらはいやめましただと、相手も納得せえへん。へたすっと戦争が起こるで」

 

「それはあなたの責任でしょう」

 

「わいだけの責任やあらへん。みんなの責任や。食料調達班がきちんと食料を調達しとったら、こんなこと考えんでもよかったんや」

 

 犠牲になった食料調達班へのあんまりと言えばあんまりな責任転嫁に、野愛は血圧が急激にあがり、めまいがおこりそうになった。

 

 直接的な暴力をふるうわけではなかったが、難波という男の評価は地の底まで下落した。

 

 はっきりと邪悪と言い切ってもよかった。

 

 出会ってから半月ほどで、野愛は難波と袂を分かった。

 

 とはいえ――。

 

 バスセンタービルを出ていくという選択には、野愛も相当な覚悟がいった。食料調達班が全滅に近い状況だったことからもわかるとおり、ゾンビの群れを追い抜いて、セーフティゾーンを見つけるというのは困難を極める。

 

 食料やインフラが整った施設を見つけるのも難しい。

 

 できることなら、なんらかの算段が欲しいところだが――。

 

 時間もまた足りない。

 

 メインビルとバスセンタービルとのバリケードは少しずつ撤去され始めているようなので、このままだといずれ編入されるのはまちがいないだろう。

 

 野愛と嘉穂が先にいこうが後にいこうが、いずれにしろ向こうの秩序と思想に飲みこまれてしまうのは、容易に想像できる。

 

 野愛が最初に相談したのは当然のように嘉穂だ。

 嘉穂はわかりやすく破顔した。

 

「お姉ちゃんについていくであります」

 

「メインビルに行くっていっても?」

 

「ついていくであります」

 

「ゾンビどもがうようよいる外に行くと言っても?」

 

「ついていくであります」

 

 野愛は嘉穂を抱きしめた。

 

「バカな子。少しは自分のことを優先しなさいな」

 

「お姉ちゃん。わたしはダメな子であります。お姉ちゃんからちっとも自立できないであります。それでも、お姉ちゃんはわたしを見捨てないでくれるでありますか?」

 

「当たり前でしょう」

 

 驚くべきことに――、そう驚くべきことでもないが、那珂川勇也もついてきた。

 難波のやり方には、さすがについていけなくなったらしい。

 密かに食料調達班が全滅したことに恨みをもっていたのかもしれない。

 ともあれ――。

 当初、バスセンタービルに入ったときと同様に、三人でまた抜け出した。

 

「比較的安全なのは、おそらく線路のほうです。この線路を伝って博多南まで歩きます」

 

「駅ビル以外のどこかの建物じゃダメなの?」

 

「人口密集地ですからね。博多から離れたほうが安全でしょう。できれば佐賀あたりまで行きたいですが、今度は距離が離れすぎています。徒歩で行ける距離としては博多南駅あたりが限界でしょう」

 

 勇也は食料調達班にいた経験から、安全な脱出路を知っていた。

 博多南線はわずか10分程度とはいえ、れっきとした新幹線が通る線路なのである。

 新幹線が通る線路は道路よりはるか天空を駆ける。

 つまり、ゾンビがいないものと思われた。

 

「駅ビルからは行けないわよね」

 

「幸い、連絡通路がギリギリ人が通れるくらいバリケードが撤去されていますんで、そこから駅構内をつっきります」

 

「ゾンビがいるんじゃない?」

 

 駅構内はメインビルとバスセンタービルのちょうど中間地点あたりに位置する。

 二派にわかれる前は、駅構内は捨て置かれたため、ゾンビが多少なりとも跋扈しているはずだ。

 

「そうかもしれません……けど、メインビルの連中が素直に通してくれるかはわかりません。もし、メインビル方面から抜け出すとなると賭けになります」

 

「つまり、是非もなしってことね」

 

 野愛の言葉に、勇也は静かにうなずいた。

 人としての尊厳か、身の安全か。選べるものではないけれど、しかし三人は選んだのだ。

 

 

 

 ★=

 

 

 

 博多駅の構内は何度も訪れたことがある。

 普段なら雑踏といっても差し支えないほどの人の密度。

 しかし、いまはまばらな姿。もちろん、ゾンビたち。

 

 ゾンビのほとんどは駅ビルへの侵入口にひしめきあっており、わざわざ人の気配のない駅構内にいるものはよほど、駅構内への行き来が習慣づけられた者たちだけだろう。

 

「これなら問題なさそうだな」

 

 勇也はほとんど一人ごとのように言った。

 リュックだけ背負った野愛たちと違い、勇也だけはバールのようなものを装備している。

 ゾンビものでは定番の武器なだけに、手にはしっくりと馴染んでいるようだ。

 

 今も、近づいてきたゾンビを一撃し、永久に黙らせた。

 

 三人は駅構内を駆け抜け、改札を通り、二階の新幹線口へ。

 二階はさらにゾンビが少なくなった。

 

 だから――といえるほどのことでもないかもしれない。

 

 ほんの少しの気のゆるみ。

 

 新幹線改札口の横にある小さな、本当に小さな駅員室。

 そこに丸まるようにして座っていたゾンビに気づかなかった。

 

 あるいは、そのゾンビが、あの恐慌に染まり走り去った、あの中年男性でなければ、あるいは簡単に避けることができたかもしれない。

 

 つかまれたのは嘉穂。

 

 手をがっしりとつかまれ、驚愕に動くことができない。

 

 噛まれると思った一瞬、野愛は自らの腕を差し込んだ。

 

 肉の裂ける音が聞こえた。

 

 嘉穂が狂乱する。

 

 勇也がアニメのように「うおお」と叫ぶ。

 

 振り下ろされるバールのようなもの。

 

 数秒ののちに、沈黙。

 

 しかし、野愛は未来を失った。

 

 噛まれた腕からは血がにじんでいる。

 噛まれたものがどうなるかは、もはや知らない者はいない。

 例外なく――、ゾンビになる。

 だから。

 

「行きなさい」

 

 厳しく言うほかなかった。

 

「お姉ちゃん……」

 

 嘉穂は絶望にうちひしがれた顔になっていた。

 くりくりとした人好きのする顔は、いま涙をめいっぱい浮かべて、年齢以上に幼く見えた。

 

「ちょっと予定より早いけど、自立するときが来たのよ」

 

 腕を押さえながら野愛は言った。

 幸いにも、勇也がいる。後を任せるものがいるというのは悪くない。

 

「そういうわけで、あとのこと頼むわね」

 

「お姉ちゃんも一緒に来るであります」

 

「無理にきまってるでしょ。あと数時間もしないうちに、わたしはあいつらの仲間入りするわ。最後くらいひとりでいさせて」

 

「いやであります」

 

「いきなさい!」

 

 半ばしかりつけるようにして、嘉穂を行かせた。

 

 そうして、わたしはできれば誰の迷惑にもならないように、駅員室の中に入り内鍵を閉めた。

 

 そして、意識は闇へ落ちた。

 

 

 

 ☆=

 

 

 

「お姉ちゃん。ごめんであります……。ぜんぜん覚えてないであります」

 

 ぎゅうぎゅうと抱き合う姿はてぇてぇです。

 

 はい、ボクは緋色です。

 

 どうやら野愛さんの話を聞く限り、創作ってわけではないと思う。これだけ真に迫った話を即興でできるなら、神のごとき天才だよ。

 

 だから、野愛さんは犯人じゃない。

 嘉穂ちゃんを食べちゃったのは、この話を聞く限りでは一番アヤシイのは那珂川勇也って子?

 

 うーん、しかし――。

 

 野愛さんの話を聞く限り、8月15日以降は絶賛ゾンビ中だったわけだよね。

 正直、間があきすぎていて、誰が犯人かってさっぱりわからないままかな。

 

「あのー、そのあとはどういう経緯で復活したの?」

 

「それがその……」

 

 野愛さん、クールビューティなのに顔を赤らめる。

 

「ん?」

 

「実は、中眞様から見染められまして」

 

「見染める?」

 

「お恥ずかしながら」

 

 と、野愛さんが続ける。

 

 

 

 ★=

 

 

 

 野愛が次に意識を取り戻したとき。

 白髪まじりの男性が、自分の手を取っていた。

 野愛は小さな丸椅子に座り、男性は軽く膝をついている。

 まるで中世の騎士のようだ。

 

「起こしてしまいましたかな」

 

「ええと……」

 

 頭が回らない。

 実際に、これまでの間数か月。

 頭をまわしていなかったのだ。ゾンビであったので。

 それが急に回転しはじめるにいたり、自分がゾンビになったこと、思考力を停止させていたことを思い出した。なぜ、思考で来ているのかわからない。

 

 そのわけを知るのは、それから三分後のことだ。

 

「お恥ずかしながら――」

 

 男性は述べる。

 

「この年にもなりまして、ひとめ見た瞬間、あなたに恋をしたのです」

 

 真正面からの言葉だった。

 野愛はこの年になるまで恋愛らしい恋愛をしたことはない。

 嘉穂を育てるという使命が重く、それどころではなかったからだ。

 その優しい瞳と言葉に、一瞬で撃ちぬかれた。

 

「はうっ」

 

 かくして、ご主人様に恋する従順なメイドさんがひとり誕生したのである。




大阪弁は、わりと適当感があふれてます。
九州弁は、できるけど、あえて書いてません。
九州弁は創作には向かないのです。

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