あさおん・オブ・ザ・デッド   作:夢野ベル子

17 / 155
ハザードレベル16

 ホームセンターに来てから数日が経過していた。

 

「でさー。雄大聞いてよ。命ちゃん、ボクが着替えてるのにわざわざ部屋の中に入ってくるんだよ。おかしいでしょ」

 

「小学生くらいの時はよくそうしてたよな。たぶん、緋色のことを頼りにしてるんじゃないか」

 

 ボクは雄大に電話をかけている。

 命ちゃんの無事を聞いて、当然、雄大は喜んだ。

 かわいい妹分なのは雄大にとっても同じで、最初から気にかけてたからな。

 ボクといっしょにいると聞いて、安心した面もあるんだと思う。

 客観的には頼りないことこの上ないボクだけれども、でも雄大はボクのことを信頼してくれているんだ。

 

 それがたまらなくうれしい。うれしい! うれしい~~~~~~っ!

 雄大って本当に心が大きいやつだな。

 そんな雄大はいま南下しつつあるみたいだけど、まだ北海道内みたい。

 

「命のこと、守ってやってくれよな」

 

「なにその死亡フラグみたいなの。危なくなる前にボクに電話してよね」

 

「お。オレがゾンビに囲まれたら、緋色がどうにかしてくれるのか」

 

「うん。なんでもするよ……。ボクにできることなら」

 

「ん。いま、なんでもするって」

 

「え? なに? 吹雪いててよく聞こえない」

 

「ごほんごほん。なんでもない。おまえさ、なんか命よりも声かわいくねえか。そのスマホが壊れているかと思えば、命の声はそのまんまだったし。どういうトリックだよ」

 

「え、そうかな。気のせいだよ。きっと佐賀ランドの暑い気候と北海道の寒い気候が対消滅してメドローアなんだと思うよ」

 

「わけわかんねーけど、そういうことにしとくか……。じゃあまたな」

 

「うん♪」

 

 いけないいけない。なぜか幼女っぽく語尾に音符をつけてたぞ。

 声がはねまくってて、まるで恋する幼女のようだった。

 でも、雄大にはボクが女の子になっているって言えてないんだよな。命ちゃんにはスマホを貸して、雄大と連絡をとってもらったけど、言わないでおいてくれるようにお願いしてしまった。

 

 なぜと言われてもよくわからない。

 たぶん、自分の口から言うのが怖かったんだ。

 

 徹底的変化――。

 そう言っても過言ではないほど、ボクの身体は細胞ひとつとっても前とは異なる。ボク自身でさえも、ボクがボクであると同定できない。

 

 もちろん、記憶の連続性とかはあるんだけどさ。

 でも、推定ゾンビだしね……。

 キスもできない身体なわけだし……。

 はぁ。

 

 まあいい。気を取り直して今日も一日がんばるぞい。

 

 

 

 ☆=

 

 

 

「今日はスーパーに遠征に行こうと思う」

 

 大門さんがいよいよ告げた。

 飯田さんの身体に緊張が走る。お守りは長い紐をつけて首からペンダントのようにさげてもらっている。

 

「今日は――、飯田くんの動きをみたい。なので、オレと恭治くん、この三人で向かいたい。小杉は留守を頼む。女性陣を守ってくれ」

 

「はい」「わかりました」「わかりました」

 

 恭治くんと飯田さん、そしてワンテンポ遅れて小杉さんが声を出す。飯田さんはゾンビ避け効果を知っているけれど、やっぱり怖いのか、声が若干震えていた。

 

「まず、武器だが隠密製の高い消音ピストルを三丁用意した。いざと言うときのために、ショットガンとマシンガンも車に積んではいるが、緊急時以外は使うなよ」

 

 ガンアクションとかでよく使うような腰巻きをあたふたと腰に巻く。胴まわりが大きいせいで苦労していたみたいだけど、飛行機のシートベルトのようにかなり調整が利く様だ。

 恭治くんが手伝って、なんとか装着。

 その中に消音ピストルを入れた。なんだか筒みたいな装置が先っぽのところについていて、かなり銃身が長くなっている。たぶんその装置で音を殺すんだろう。潜入もののゲームとかだったら、わりと定番のシャルダンファってやつじゃないかな。より一般的な言い方をすれば、サプレッサーという言い方のほうがわかりやすいか。

 

 ズシリとした重みに飯田さんの手が少し震えているみたいだった。

 

「弾がなくなったらどうするんです?」

 

 飯田さんが怯えたように確認する。

 

「ゾンビに接近するのは愚の骨頂だが、確かに接近戦用の武器も必要だな。それについては、伝統的な武器を使う」

 

 丸太かなって思ったら違った。

 よくある鉄パイプを斜めに切り落とした簡易的な槍だ。

 

 これならもし壊れてもいくらでも作れるというところが強みなんだろうと思う。

 

 恭治くんの場合は、鉄製のバットも使ってるみたいだけど、ゾンビの頭をぶったたきまくってるせいか、少し曲がっているような気がする。

 

「本来なら銃の練習もさせてやりたいところだが、あいにく弾がもったいない。飯田くんも使いどころは考えてくれ」

 

「わかりました」

 

 外は、いつのまにやらゾンビが溢れていた。

 

 ちょっと精神的に疲れてたら、すぐにコントロールからはずれちゃうから精進しないとね。まあこれはずっとゾンビがいない状態を続けるのも不自然だったからちょうどいいんだと思う。

 

 ゾンビは溢れているといっても、びっしり壁にくっつくほどの多さではなかった。

 

 二箇所のバリケードにはゾンビ数匹程度かたまっている。それぐらいだ。子どものように腕を前につき伸ばして、車の天井部分をバンバン叩いている。登りたいみたいだけど、どうあがいてもゾンビには無理だ。

 

 大門さんも恭治くんも慌てていないから、これくらいなら余裕があるんだろう。

 

「表のバリケードのところに溜まっているゾンビはどうするんですか?」

 

 と、ボクは聞いた。

 

「おびき寄せ作戦を使おう」

 

==================================

おびき寄せ戦法

 

映画『ゾンビ』においては、ショッピングセンターの透明な強化ガラスの前でわざと音を出して、ゾンビをおびき寄せる場面がある。ゾンビは人間の出す音や姿におびき出される本能を持つため、一般的には罠を見破れずひきつけられる。もちろんおびき寄せる方は、バリケードなどで安全を確保した上でなければ危険である。

 

==================================

 

 ボクたちは、車のバリケードの前で、ヒャッハーしていた。

 料理とかで使うお玉で、フライパンを叩く命ちゃん。

 車をバンバン叩く恭治くん。その場で手を打ち鳴らす飯田さん。

 姫野さんはやる気がなさそうに後ろのほうで腕を組んでいた。小杉さんも今日は外出ではないので、やる気がないみたい。

 

 あ。小杉さんがボクに近づいてきて、なにやら手渡した。

 なにこれ?

 

「防犯ブザー。君に似合ってると思って……」

 

 自分で使えばいいんじゃないでしょうか。

 と思ったものの、確かにボクには似合ってるもしれない。

 卵型をしたそれは、青いストラップがついている。そこを引っ張れば、かなり大きな音がする。

 ゾンビをおびき寄せるには最適だけど、ちょっと大仰じゃないかなと思ったりもする。どうなんだろう。

 

 まあ、いいか。

 ボクが鳴らす分には、ゾンビをコントロールしてそこそこの集まり具合にすればいいだけだし、危険はないだろう。

 

 と――、ボクはストラップを引っ張った。

 

 PRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRR。

 

 すぐに響き渡る大音量。

 けっこうビックリするけど、銃声の音よりははるかに小さいし、耳が悪くなるほどではない。でも、小さな敷地内には十分すぎるほど広がるし、ゾンビがどんどん正面のバリケードに集まってきた。

 

「よし、いまのうちに行くぞ」

 

 脚立のあたりからゾンビの姿がいなくなったのを確認して、大門さんが声をあげる。恭治くんと飯田さんが続いた。

 すぐ傍の道路わきに停めてあったミニバンに乗り込んでいく。

 走り去っていくミニバンがゾンビの一匹を跳ね飛ばした。何匹もかたまったら車両自体が固定されてしまって危険だけど、数匹程度じゃ、かなりの質量と速度を持つ車両を止められるわけもない。

 

 車が走りさったあと、ボクは防音ベルに再びストラップを挿して音を止めた。

 小杉さんに返そうとしたけど、持っていていいと言われたので、ひとまずはポケットの中に入れておいた。

 

「スーパーってこのあたりのやつはとりつくしたんじゃなかったの?」

 

 命ちゃんに聞いた。

 

「私は外に行ってないのでわかりませんが、飯田さんが戦力になるか知りたいんじゃないですか?」

 

「ふぅん。見た目どおり、戦闘力という意味ではそんなでもないと思うけど」

 

「いざというときに動けるかどうか。他人を助けようとするか。それとも自分の身を守ることを優先するか。そういった意味での行動パターンを見たいんだと思います」

 

「そっか」

 

「緋色先輩……緋色ちゃんとしてはどうですか?」

 

「飯田さんについて?」

 

「そうです。私は飯田さんに会ったばかりですし、緋色ちゃんの意見が聞きたいです」

 

「うーん。人が襲われているときにどういう動きをするかまではわからないかな。でも、自分に対する自己評価が低すぎるから、自分を守るという意識も薄いかもしれない」

 

「そうですか」

 

「あと、ロリコン」

 

「は?」

 

「あ、いや、ロリコンというか小さな女の子が好きっていうか。あ、大丈夫だよ。命ちゃんの年齢は対象外みたいだから。小学生の高学年くらいの女の子が好きなだけだからね」

 

「ほぉう……素敵な趣味をお持ちのようですね」

 

 その瞬間、命ちゃんの雰囲気が変わった。

 絶対零度の眼差しでボクを睨んでくる。

 正確にはボクを通して、今はここにいない飯田さんを。

 ヤバイ。

 なんだか知らないけれど、めちゃくちゃ怒ってるみたいだ。

 

「緋色先輩」

 

「はい」

 

「飯田さんに何か変なことされてませんよね」

 

「大丈夫だよ。ちょっと襲われかけたくらいだし」

 

「襲われかけた?」

 

「あ、違う。ぜんぜん違う。ボクのことをゾンビだと勘違いしてただけ」

 

「ふぅん。緋色先輩のことをゾンビだと思って襲うって、それってゾンビな小学生が好きってことですか」

 

「あー、うん。ちょっと違うような気がするような……」

 

 おかしいな。

 言葉を紡げば紡ぐほど、飯田さんの立場が悪くなっている気がする。

 命ちゃんの視線が突き刺さるようで痛い。

 

「緋色先輩は、自分がか弱い女の子になってるって自覚してください」

 

「うん。わかったよ。そうする」

 

 命ちゃんはボクのことが心配だったみたい。

 ボクとしても、男の人にいいようにされるのは嫌だし、そこは自覚しているつもりだ。

 

「ところで」氷のような言葉だった。「襲われかけたって、どこまで?」

 

「あの……べつにたいしたことじゃないんだよ?」

 

「どこまでです?」

 

「おへそ見られたかなー」

 

「へぇ……面白いですね。ほかには?」

 

「えっと……、足を舐められたかな。あ、違うかな。ちょびっと。ちょびっとだけだよ。ぜんぜん大丈夫だから」

 

「実に楽しそうなアトラクションですね」

 

「あはは。でもボクのことをゾンビだと思ってたみたいだし、悪気はなかったみたいなんだよ」

 

「舐められすぎです」

 

 え?

 

 と思ったら、命ちゃんは捕食者的な素早い動きで、ボクの背後に回りこんでいた。催眠術とか超スピードとか、そんな動きじゃなかった。

 ほっぺたのあたりに、生ぬるい感触。

 

 な、舐められ。

 

 ボク舐められちゃってる~~~~っ!!!

 

 この日。

 

 ボクは後輩の美少女に舐められてしまいました。

 

 物理的な意味で……。

 

「先輩って。無防備すぎるんですよね」

 

「あう。命ちゃん。やめてよ~~」

 

 ほっぺたのあたりに変な感触がして、心の奥底がざわざわする。

 

「そんな感じだと、この先どうなるかわかりませんよ。みんなギリギリのところで一線を保ってるんです。タガがはずれたらどうなるかわかりません」

 

「それはそうかもしれないけど……」

 

「私だって、タガがはずれたら、緋色先輩になにするかわかりません」

 

「ひえ……」

 

「ナニするかわかりません」

 

 なんで言い直したの?

 

「やだーっ!」

 

 命ちゃんが一番危険だと思いました。

 

 

 

 ☆=

 

 

 

 女子勢の仕事はわりと忙しい。

 

 家庭内の専業主婦の働きっぷりを給料に換算したら、案外サラリーマンと同じ程度は働いているという見解があったように思う。

 

 ボクは姫野さんとともに、料理を作っていた。

 お昼ご飯はミートソースを使ったスパゲティ。缶詰製品だけど、一度フライパンで暖めなおすと立派な手作りに早代わりする。

 

 ちなみに、命ちゃんのほうはみんなの服を洗濯している。

 洗濯は豪華にもドラム型の洗濯機を何台も利用している。乾かすのはさすがにゾンビがいる屋外は怖いので、屋内で除湿機を使ってするらしい。電気はいまのうちは使いまくりOKだから、三台くらい使って一気におこなってるみたい。

 

「緋色ちゃんって、学校の授業で料理とかしたことないの?」

 

「ふぇ。えっと、その……はい」

 

 なんだ。なにが悪かったんだ。

 

――スパゲティをあたためなおす。

 

 それだけでなんの違いがあるというのだろう。

 

「フライパンの持ち方とか、長箸の使い方とか、てんでなっちゃいないわ」

 

「えー。そうですか」

 

「そんなんじゃ、誰も振り向いてくれないわよ。女子力ひくひくすぎ」

 

「女子力ひくひく……」

 

 なぜだろう。ボクの中の何かがダメージを受けている。

 

「でも、た……大切なのは愛情だし」

 

「男が愛情だけで振り向いてくれると思ってるの?」

 

「う……」

 

 なぜか雄大の優しい笑顔が脳内に展開されてしまう。

 違う。違うよ。ボクは男だし。関係ないし。

 

「精進します……」

 

 ある意味、女子力マックスな姫野さんに、女の子レベル1のボクが敵うはずもない。頭を垂れて、敗北を告げるほかない。

 

「そう。じゃあ、あとはお願いね」

 

 出来上がったスパゲティの皿をボクに渡す姫野さん。

 

 エミちゃんのお世話はボクと命ちゃんと姫野さんの三人で当番になったけど、姫野さんとしてはあまり世話はしたくないようだ。

 

 少なくとも今のところはボクに任せたいらしい。

 

 とはいえ――、完全に放り投げているというわけでもなく、こうして料理とか洗濯とか、あるいは姫野さんしかしていない『仕事』とか、そういう意味では、彼女は彼女なりの精一杯をおこなっている。

 

 ボクとしても、エミちゃんのことは一番の気がかりであるし、ボクはエミちゃんの行く末がとても気になってもいるから、否やはない。

 

 お皿を受け取り、エミちゃんの部屋に向かった。

 

 

 

 ☆=

 

 

 

 エミちゃんは部屋の中でおとなしくしている。

 ほとんどベッドの上で、じっと寝たきり状態だ。ただ、時折思い出したかのように恭治くんのことを呼んだりする。

 

「うーん。だいぶん、食べるようになったかな?」

 

 正直なところ、スパゲティはかなり難易度が高い。

 姫野さんはそのあたりの女子力も高くて、あえてぶつ切りにしている。

 数センチほどに刻んでいるんだ。

 なんでと思ったけど、こうして実際にエミちゃんに食べさせる際にはよくわかる。長いままだと絶対に口元からこぼれる。

 だから、一口サイズがよかったんだ。

 

 気づかなかったなぁ――。

 

 これは優しさかな。

 それとも効率を求めてるだけなのかな。

 エミちゃんとはできる限り接触したくないと思っている姫野さんは、ごくごく普通の感性の持ち主だと思う。

 

 他人に共感するから、自分が痛いように相手が痛いと思って、優しくできる。

 他人に共感するから、自分が痛いように相手が痛いと思って、残酷になれる。

 実は、同じベクトル。

 

 だから、ボクは結果しかみない。

 少なくとも、ボクも命ちゃんもエミちゃんも困っていない。

 

「今のところはね」

 

「あ……」

 

「ん。どうしたのエミちゃん。お水飲みたい?」

 

「あ……り……が……と」

 

 びっくりした。

 エミちゃんが始めて感情を伝達したから。

 それも、ボクに対して、感謝の気持ちを。

 ボクには子どもがいないし、子どもを育てた覚えもないけれど、もしかすると、子どもがいちばん最初に言葉を発したときの親の気持ちって、こんな感じなのかもしれない。

 おなかの裏側あたりが、太陽で照らされたみたいにあったかくなって、いろんな人間のごちゃごちゃした感情が洗い流されていく感じがする。

 

 すごい。人間って、こんなにすごいんだ!

 感動して鳥肌が立っちゃった。

 

「命ちゃん。ちょっと来て! エミちゃんがすごいんだよ!」

 

 ボクは命ちゃんの名前を呼んだ。

 でも、数秒待っても誰も来なかった。あれ? 変だね。

 今のボクの声って、ホームセンター内に十分響き渡ったと思うんだけど。

 いくら、隔離されている部屋の中とはいえ、パーテーションは天井まで開いているわけじゃない。

 つまり、上のほうは空間が開いているわけで、声をあげれば必然響き渡る。

 

 でも、誰も来ない。

 

 姫野さんは、エミちゃんのお世話を怖がってるから来ないとして、どうして命ちゃんは来ないんだろう。

 

 もしかして、お手洗い?

 とりあえず、ボクは扉を開けて外に出てみた。

 

 

 

 ☆=

 

 

 

 ボクはエミちゃんの部屋からそっと顔を出した。

 ホームセンターの中には、今ボクとエミちゃん以外には、小杉さんと、姫野さんと命ちゃんがいる。

 人間の位置関係はボクにはわからない。

 でも、ほとんど人外の域に達しつつある聴力は、なんとなくだけど、みんなの位置を掴んでいた。

 

「えっと……、こっちかな」

 

 命ちゃんの位置は、ちょうど執務室を抜けたバックヤードのあたり。

 いくつかある製品棚どうしに細長い紐を通して、洗濯干しをしているあたりだ。

 ふたりの会話を拾いながら、そちらに近づいていく。

 

 

 

 ★=

 

 

 

 私、神埼命は洗い終わった洗濯物を紐にかけていた。

 

 特に大変なのはシーツ。腕をピンと伸ばして、結構な高さに張ってある紐に、シーツをかぶせていくのはとても骨が折れる。

 

 それに比べれば、男もののパンツもシャツもべつにどうとも思わない。

 それは単なる物体に過ぎないから。

 

 昔のドイツの非道な実験で、誰かが言ったらしいが、人間は物質としてはせいぜい石鹸程度の役割しか果たせないらしい。

 

 私もそう思う。

 人間は物質としては、その程度の役割しか果たせない。

 人間が人間として価値があるのは、誰かのために生きることによってだと思う。

 

 つまり、物質としての人間ではなく、心とか、魂とか言われているものだ。

 

 人は心を誰かに捧げることによって、初めて人になれるんだろうと思う。

 

 それが私にとっては緋色先輩……、緋色お兄ちゃんだった。

 

 かわいらしくなってしまった緋色お兄ちゃんのことを思う。お兄ちゃんは女の子になってしまった。それでも、べつにかまわない。私はお兄ちゃんの物質に心惹かれたわけではないから。

 

 あ、でも今のお兄ちゃんなら、いろいろ蹂躙できるかもしれない。手足を縛って、どこかに閉じ込めておいて、一生飼いつづけるっていうのはどうだろう。光の届かない暗い部屋の中で、娯楽も何もないところに閉じこめ続けて気が狂いそうになったときに、私が手を差し伸べる。でも出してやらない。出してやらないけど、私だけがそのときだけは唯一の刺激だから、お兄ちゃんは閉じ込めた私のことが怖くてたまらないはずだけど、でもその恐怖の女王にすがるしかないの。いなくならないで命ちゃんってすがるように泣くの。ああ素敵だ。五ヵ年計画で着実に進めよう。雄兄ちゃんには絶対に渡さない。絶対に。絶対にだ!

 

「あの……、命ちゃん」

 

 突然、声をかけられた。

 その声が、小杉さんのものだと気づき、私は反射的に身を硬くした。

 その場で振り向くと、ひょろ長い男が立っていて、その視線が私の胸や顔を見まわしているのを感じる。蛇のはいずるような感覚。

 全身を放射能にさらしているような不気味な感覚に、ますます身体中の筋肉が硬くなっていくのを感じる。

 

 ひとつ、小さなため息。

 いや、ため息とさえいえないほどの小さな呼吸だ。

 

――男の視線が嫌。

 

 それは単なる感性だから。

 それを理由に拒絶はできない。

 ただ、どうしても抑えることのできない体性感覚。

 私は中学生の頃に、クラスの男にレイプされかけたことがある。

 

 それは当然のことながら小杉さんではない。いくら視線がいやらしく感じたとしても、ただそれだけで断罪する理由にはならない。

 

 男というカテゴリを、アナロジーとして展開すべきではない。

 私というカテゴリを、アノマリーとして展開すべきではない。

 

 だから聞いた。

 

「なんの用ですか?」

 

 と。

 

 私は自分の声が硬くなっているのを感じた。




ついに、サイド使いになってしまいました。
もう、めちゃくちゃだよ……。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。