私――神埼命はシンプルな生き方を心がけている。
人間という存在は、物質としては炭素ユニットに過ぎないが、その心的な作用は複雑だ。
例えば立場。
例えば地位。
例えば縁故。
例えば本能。
例えば性癖。
例えば格律。
例えば感性。
様々な要因が重なり、行動の因果連鎖が起こる。行動の定量的な推測は、たとえ高度なAIであっても完全に予想することはできず、常に一定以上のバッファが必要になるだろう。
別に誰だってそうだろうが、他人の行動というのは
したがって、他人との接触は常にリスクになる。
このようなリスクに対処するためには、どのような生存戦略が一番適しているだろうか。私が採用しているシンプルな戦略は、人間を定義づけるということだ。色分けをして、白か黒か最初から判別してしまえばいい。
つまり、
――敵か、そうでないか。
小杉さんは、洗濯場の向こう側からやってきた。
ここは、両側が商品棚にふさがれていて、後方にはバックヤードに続く通路しかない。執務室にはいま誰もいないから、必然的に自分の部屋に戻るためには、小杉さんがいる通路側を通るのが最短になる。
執務室をいったん経由するという方法もあるが、それはきわめて不自然な後退であり、その行動自体が、彼を避けているという評価をされてしまう。
わずか数メートル横を通り過ぎた方がいいか。
しかし、小杉さんの視線を見たときに、その距離感はリスクであると感じた。
いずれにしろ、私は「なんの用ですか」と聞いている。ボールは向こう側にある。投げ返されるのか。無視するのか。しかし、何かしらの会話と交渉を相手は望んでいるとみるべきだろう。
「あのさ……命ちゃんは緋色ちゃんの知り合い、なんだよね?」
小杉さんが確認するように聞いてきた。
「そうですよ」
べつに否定することでもない。
緋色先輩が、なぜか女の子になっていたとか、そういう奇妙な状況ではあるものの、それは今回の主題ではないだろう。
「君は、緋色ちゃんのお姉さんなの?」
「お姉さん……」
緋色先輩に、お姉ちゃんと言われる場面を想像する。
めっちゃイイ……。
あの庇護本能を刺激しまくる小さな身体で、『命お姉ちゃん』とか言われたら数秒で撃沈してしまう。ギューってしがみついてきて、お姉ちゃんボクにかまってとか言ってきたら、もうだめだ。無限にかまってしまいそう。
「命ちゃん?」
「あ……、そうですね。お姉さんというのとはちょっと違いますが、小さな頃からの知り合いですよ」
「ふうん。そうなんだ」
小杉さんは小さく口の中でもごもごと呟いている。
何を考えているかわからない。この人は特に予想がつかない人だと思う。他の人に比べて、合理的でありすぎるのだろう。
私と同じタイプだから、よくわかる。
つまるところ、単純な同属嫌悪である可能性もあるのだ。
慎重になりすぎなのかもしれない。
そう思って、できるだけ軽い声を出す。
「いいですか? 洗濯が終わったんで、お部屋に帰りたいんですけど」
「ああ……、べつにいいんだけどね」
淡々と。
「こんなことは言いたくないんだけど」
地面を見ながら、彼は言う。
こんなこと言いたくない? それは『世間』がこう言ってるからという、私の血縁の言い分とまったく同じだ。
頭の中に冷たい焔がぶっ刺さったような感覚に、自然、彼を睨みつけるような視線になる。一瞬、そうならないようにコントロールしなければという自省の念が湧いたが――、
「君たちはコミュニティに負担をかけすぎていると思わないかな……」
言い放たれた言葉に、そんなのは一ミクロンも配合すべきではないと考え直した。
「どういう、意味ですか?」
「君が庇護しているといっていい緋色ちゃんだけど、小学生の女の子ができることは限られるよね。そして緋色ちゃんが連れてきたエミちゃんなんか自分のことすらできないじゃないか」
「だから?」
「保護者じゃないの? 君は」
「保護者でもいいですよ。だから何が言いたいんです?」
肩をすくめるような動作。
猫背でひょろ長い彼がそのような動作をすると、大きく動いて見えた。
丸められた身体から頭だけがこちらを向く。
ねばつくような視線と目が合う。
「子どもの責任は親の責任だよ。それぐらいはわかるよね。君は親じゃないけど、こんな状況だ。緋色ちゃんやエミちゃんの行く末は君次第ってことになる」
「私なりに精一杯守るつもりです」
そう――どんな姿であれ、緋色先輩は私の味方だ。
ずっと昔から、ずっとずっと昔から。
複雑すぎた中学、高校時代からずっと変わらない、私にとっての真理に近い。
「どうやって守るのかな。いや、別に君が何もしていないというつもりはないよ。怪我している足で、料理や洗濯とか、君なりの精一杯をやってきたことは、理解しているつもりだ」
いまやすっかり根暗の擬態を投げ捨てて、有害な正義を彼は語っている。
「貢献が足りないって言いたいんですか」
「わかってるじゃないか」
敵――。
私の中で、小杉は敵になった。
すでに、冷静に戦力分析をしている。もしも、無理やり迫ってきたらどうするべきだろうか。横にあるバラ売りされている釘を投げつける?
考えながらも応答する。そうやって時間を稼ぐしかない。
「どうやって貢献しろって言いたいんです」
「わからないかな。姫野さんだってしていることだよ……」
「大門さんは、そういうことに関して、無理を強いるような人ではないでしょう。あの『仕事』は姫野さんが自分でやりたいと言ったからやってるだけです」
そう、これは小杉の独断だろう。
なぜなら、大門さんがいないときを狙って、わざわざ言ってきてるからだ。
もしかすると、姫野さんがそういうことをし始めたのも、小杉が何かそそのかしたのかもしれない。
「そういう言い方はよくないんじゃないかな。大門さんはここのコミュニティのリーダーだから、いろいろと大きな決断をしなければならない。瑣末なことは、僕みたいな参謀がやらないとね」
瑣末ときたか。
よりにもよって、乙女の貞操を瑣末と――。
「こんなときだし――、コミュニティの存続のためには、みんなが一丸とならなくちゃいけないと思うんだよ」
「一丸と、ね……」
だから、身も心もひとつになろうって?
むしろ直球で、『性欲をもてあましているんで相手をしてくれ』と依頼されたほうがマシだと思った。
小杉の言い分はどこまでも独りよがりだが、どこまでも他人のせいにしている。社会のせいにしている。社会がそういうから。そういう世相だから。
だから、乙女の貞操など捨ててしまうのが正しい。
そう言いたいらしい。
その粘着質的な論理構成が、気持ち悪いことこの上ない。
一歩。ゆっくりとした歩調で、小杉が前に出る。
私も一歩後退する。
足を怪我している私は、すぐに追いつかれてしまうだろう。
でも、生理的な嫌悪感から、いますぐにでも逃げたがっている。
「あなたとは一秒もいっしょにいたくありません」
「考えなおしてくれないかな……。一応、言っておくけど、このホームセンターの店長は僕なんだよ」
取り澄ました口調で言う小杉に、私はあきれていた。
ここは僕んだぞって?
僕の温情で住まわしてやってるんだからいうこと聞けって?
あまりにもバカさ加減に、自分もつられて頭が悪くなってくる気がする。
「こんな世界になったのに。所有権を主張するつもりですか?」
「そんなことは言ってない。ただ、人間らしくありたいと思ってるなら、周りのことをもっと考えたほうがいい。他人のことをね……」
「おことわりします」
「ただ飯喰らいを二人も抱えてるのに、悪いと思わないのかな?」
「ふ……ふふふ」
よりにもよって、あの緋色先輩を――、そして物言えぬ辛い目にあったエミちゃんを、ただ飯喰らい扱い。
あまりにも稚拙で独りよがりな表現に、逆に笑えてきた。
「なにがおかしい」
「いや……、いままでのやり取りは全部冗談だったということにしてあげようと思いまして――」
小杉のタガははずれかかっていたが、いまだ肉体的にどうこうしようという気配はない。あくまで、自発的に身体を提供させようとしている。
この倫理も法律も崩壊した世界においての最後の一線。
それを――、踏み越えたら、人として終わりだ。
だから、その最後の機会を私は提供した。
小杉はまた一歩近づく。
「冗談……なんかじゃない。こんな……、クソみたいな世界になっても、僕は大門さんにもこのホームセンターを拠出した! 食糧だって分け与えた! みんなが住む場所を提供している! 君は――、君はズルいじゃないか!」
襲われる――。
と思った瞬間。
「どうしたの?」
緋色先輩のノンビリした声が聞こえた。
☆=
殺意――。
ボク自身が襲われかけたときですら抱かなかった、高濃度の黒いかたまりのような感情が、内面から湧きあがって来るのを感じる。
殺してしまおうか。
ほんの、わずかな刺激で、動作で、そちらに傾くほどに感情のバランスがとれていない。小杉さんの背中が、この視界に入れてはいけないもののように感じる。
キタナイ肉のかたまりが、なにやらわめいている。
命ちゃんが自分の恐怖心を押し殺しているのを感じる。
振り返った小杉さんの顔は、よくわからない激情でむちゃくちゃに歪み、暗いホームセンター内で、不気味な怪物のように見えた。
でも。
まだ――、そう、まだ命ちゃんが対話している。
最後まで言葉を交わそうとしている状況であるならば、最後の一線を、小杉さんはまだ踏み越えていないと、判断すべきだろう。
言葉を交わそうとする限りは。
その言葉がいくら正義という仮面をまとまった悪意であったとしても。
有害な正しさを精液のように顔に塗りたくられたとしても――。
「どうしたの?」
ボクはあえて間延びした声を出した。
小杉さんと命ちゃんの会話内容は全部聞こえていたけれど、あえてだ。
人間の怒り、激情、緊張は、実をいうと十秒程度しか持たない。
ボクが、ゆっくりと、時間をたっぷりかけて「どうしたの?」と問えば、それに答える間に、時間は経過する。
小杉さんが、「あ、いや……なんでも」と、小さな声になるのは早かった。
「ふうん。そう……、あ、命ちゃん。エミちゃんがすごいんだよ。来て!」
ボクは命ちゃんの手を引っ張って、子どもムーブ全開で、洗濯場を後にする。
命ちゃんの手が震えていた。
あとで殺そう。
ボクはそう判断するのでした。
☆=
エミちゃんのお部屋。
「ほら。エミちゃん。もう一回言って。ね。ね」
「ヒ……イ……ロ……チャ……ン」
「うおおお。すごいよ。エミちゃんありがとう! もう好き! 大好き!」
ギュっと小学生女児に抱きついてしまうボク。
元大学生の男です。
「ウ……ウー」
ちょっとはしゃぎすぎたかな。
エミちゃんが嫌そうな顔になったので、少し自重しようと思う。
同じ部屋にいる命ちゃんはさっきから一言もしゃべっていない。
傷心モードに入っている命ちゃんにボクはなんて声をかけるべきだろうか。
「緋色先輩」
話しかけてきたのは意外にも命ちゃんのほうだった。
「なにかな」
「緋色先輩は先ほどのやりとりをどこまで聞いていたんですか」
「そうだね……。わりと全部?」
「そうですか……」
沈黙。
自分の殻に閉じこもってしまうと、何を考えているのかわからない。
でも、おそらく、命ちゃんは命ちゃんなりに、何かを考えて答えを出そうとしているのだと思う。
「先輩がどう思ってるかわかりませんが――」
「うん」
「私の中で、小杉豹太は敵として認識されました」
「そうなんだー。へー」
軽い応答をするボク。
ボクにとってもかなり敵よりだけどね。ボクって、なんといったらいいか、命ちゃんみたいに敵とか味方とか、あまり考えないんだよね。わざわざ人と会話するときにこいつは敵だとか考えないよ。面倒くさい。
「先輩はゾンビについてどうお考えですか?」
いきなり話が飛ぶなぁ。
この子って超天才児だから、話の余禄である『接続詞』とかがいらない子なんだよね。
それは勝手におのおのが補完すればいいって考えみたいで。
だから、命ちゃんの言葉って、いわゆる凡人に合わせたサービス精神溢れるものなんだと思う。
そのサービス精神もいまはそんな余裕がないってところなのかな。
それにしてもゾンビねぇ。
「ゾンビは機械みたいだよね。自分の思考とか心とか、そういうものがない存在に思えるよ」
「先輩は、他人の思考や心があるってどうやって判断しているんですか?」
「えっとどうやってかな。うーん。そういう反応というか、人間っぽさでわかるんじゃないかな」
「先輩はチューリングテストって知ってますか?」
「知ってるよ」
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チューリングテスト
チューリングさんという人が考え出したテスト。密室の中に、コンピュータか人間か、どちらかが入っている。通常言語のやりとりにおいて、外の人間はコンピュータか人間かを判断することになる。このテストに合格できれば、人間と同じ知性あるいは心があるかというとそういうわけではなく、単純に人間に近しい振る舞いができるという判断テストに過ぎない。
==================================
「心はチューリングテストでは測れません。先輩のいうような人間っぽさでは心があるかどうかは証明不可能です」
「まあそうだよね」
「つまり、他者が心を持っているか、心を持っておらず人間っぽい振る舞いをするだけのゾンビなのかは、見分ける術はないということになります」
「仮に人間っぽい振る舞いをするゾンビがいればそうかもね」
「先輩はクオリアを信じていますか?」
クオリアというのは、意識や心のことだ。
命ちゃんの問いかけは、他者という存在を信じているのかという問いかけのように思えた。
ボクの答えは決まってる。
「ボクはクオリアを信じているよ」
でも、ちょっと考えたのは。
――ゾンビにもクオリアがあるって信じるべきなのかな。
ってこと。
ボクは誰のクオリアも確かめる術はない。
人間であっても。ゾンビであっても。
そこにクオリアがあるのかはわからない。
ボクの一方的な所感によって、勝手に心のあるなしを決めているに過ぎない。
だから、ゾンビにも――心があるかもしれないね。
そういうことがいいたいの?
「私は苛烈なんだと思います。優しい緋色先輩とは全然違って……、敵には心がないと思っています。いろいろなことを天文学的な数理式を走らせただけの、合理的な機械と同じです」
だから――と続ける。
「小杉は私にとってゾンビと同じです」
「なるほど……、じゃあボクもゾンビかな」
「緋色先輩はゾンビじゃありません!」
命ちゃんは泣いているみたいだった。
「つまり、合理的な命ちゃんは不合理にも主観において区別しているの?」
「そうですね……、私はそうしています」
命ちゃんはまっすぐな瞳でボクを見ていた。
「先輩――、誰かを選ぶってことは誰かを選ばないってことです。誰かを愛するってことは別の誰かを愛さないってことです」
うーん。女子高生から愛を語られると気恥ずかしいな。
でも言ってることはわりとシビアな世界観だ。
命ちゃんの中では、白と黒、敵と味方、そして――。
愛する人とそうでない人がはっきりと区別がついているんだろうな。
それはそれで綺麗な世界観だと思うんだけど、ボクとしては極論すぎるという気がしないでもない。
ボクって、女の子か男の子かも曖昧だし、ゾンビか人間かすら曖昧だ。
そんな灰色の存在が、はっきりと原色で峻別された世界をサバイブできるかといわれると怪しいものがある。
エミちゃんを挟んで、巨大ベッドの両端にいるボクと命ちゃん。
そして、命ちゃんがベッドの上を膝で移動し、ボクのほうに近づいてくる。
あの、エミちゃんがすごい見てるんですけど。
あ、そんなの関係ありませんか。はい。
「先輩……、私、先輩のこと愛してますからね」
「ふ、ふにゅう……そ、そんな真正面で言われると、すごくドキドキするんですけど。それに今のボク、まごうことなき女の子なんですけど」
「女とか男とか関係ないです。私は先輩を選んでいるんです! とっくの昔から。できれば……、先輩にも私を選んでもらいたいです」
これはケジメ案件では?
☆=
結局、答えがでないまま、ボクは逃亡することを選んだ。
使わせていただいたのはエミちゃんの身体です。
これは――ケジメ案件では? いやマジで。
エミちゃんがトイレに行きたそうにしてるって理由で無理やり部屋を脱出したボク。残念そうな顔でボクを見送った命ちゃん。
これはケジメ案件では!?
「トイレ……ダイジョウブ……ダヨ……」
「あ、うん。知ってた」
エミちゃんが非難っぽい目で見つめてくる。
これって生爪剥いでごめんなさいするべきなのではないだろうか。
なんというか最低だ。
――愛してます。
ああああああ、頭がフットーしそうだよおおおお。
「ヒイロチャン……ダイジョウブ?」
大丈夫じゃありませんっ!
エミちゃんをお部屋に帰す。ロープはかなり緩めにしておいた。もう言葉も話せるし、ゾンビだと思われることはないだろう。そう思いたい。
命ちゃんは自分の部屋に帰ったみたいだ。小杉さんとは別の場所にいるみたいだし、とりあえず今は大丈夫だろう。
あとは飯田さんたちが帰るのを待つだけかな。
いろいろとあったホームセンター内だけど、そんなときでも、ボクは別の場所にあるボクの一部を感じていた。
飯田さんに渡したボクの血液入りお守り。
主観的にはレーダーサイトみたいに、ゾンビがどこにいるのかわかり、かつボクの血液が別の光点として表示されている感じだ。
人間的な感覚じゃないんで、多少曖昧なところもあるけれど、ボクの近くにいるゾンビに、ボクの血液を持っている人間を襲わせない程度のコントロールはできる。
いまは帰りつつあるみたいだね。
スピードから、時速がわかるし、特に問題なさそうな感じ。
まあ小杉さんも大門さんが帰ってきたら無茶なことはしないだろうし、命ちゃんにはあとでちゃんと考えて答えをだそう。恭治くんはエミちゃんが話せるってわかればうれしがるだろうな。
うん、世の中平和だ。なんとかなるよ。絶対大丈夫だよ。
そんなふうに考えていた時期がボクにもありました。
明日から、また一週間に一度くらいの投稿ペースになりそうです。
はやいところあらすじ詐欺をなくしたいんですけど、今のペースだとこれが限界。