大門さんたちが帰ってきた。
ボクもいましがたの命ちゃんの愛してます宣言で火照ったほっぺたを冷まそうと元気な顔で出迎えたんだけど、なぜか飯田さんはこれ以上ないほどに落ちこんでいた。
顔色は悪く、ボクと一瞬目があったんだけど、すぐに伏せてしまう。
――どうしたんだろう?
そう思っていると、大門さんはみんなを招集した。
緊急会議らしい。
「非常に喜ばしい報告と残念な報告の両方がある。どちらから聞きたい?」
大門さんは誰にというわけではなく、居残り組のボクたちをみまわして言った。
こんなときに、自分のことを参謀とかのたまっていた小杉さんは前に出ようとしない。
たぶん、発言をすると揚げ足をとられるとか、責任が発生するとかそういうことを考えているのだと思う。
こういう時は、なんの影響もないボクが言った方が速い。
「残念なほうから聞きたいです」
「ふむ……、実をいうと、喜ばしいこと残念なことはいずれも同じことなんだがな。この飯田くんにはゾンビに襲われないという特性があるらしい」
な、なんだってー!!
なんと衝撃の事実!
って、速攻バレテーラ。
なんでバレてるの? 飯田さん。しっかりしてよ!
ボクは自然と飯田さんをジト目で見た。
ボクに見られていると感じたのか、飯田さんは青い顔をさらに青くして、身を縮ませている。
飯田さんがゾンビ避けできるという点については、ボクのことはバラしていないみたい。飯田さんの能力として、ゾンビ避けしているのか、それともゾンビ避けスプレーの存在まで伝えているのかは不明だ。飯田さんの特性といっているから、伝えてない可能性が高いが。
いずれにしろ、ゾンビ避けができるという事実自体は、コミュニティにとって悪くないことだ。だって、そういう人がひとりでもいれば食糧調達もたやすくなるわけだし、ゾンビに襲われる危険自体がグッと減る。
だから、喜ばしいことと評したんだろう。
ただ、残念なこととも評しているのは、そのことを意図的に伝えなかったことに他ならない。
大門さんの視線はその意味で厳しいものがあるけれども、今後のことを考えれば、飯田さんを完全に無碍にするわけにもいかず、曖昧さが残る結果となったといったところか。
周りのみんなの表情を見てみる。
小杉さんは、あまり表情にでていない。合理的に考えれば、飯田さんを食糧調達係に任命してしまえば、コミュニティ全体の安全性は高まり、ひいては自分の安全率も高まるとか、考えてそう。
姫野さんはやや怒りの方向。黙っていたということが単純に怒りの原因みたい。
命ちゃんは――ん。なぜか視線があったら微笑まれた。
単純にどうでもいいって感じか?
発音なしで唇が動く。
「だ・い・す・き」
って、ぶれないな命ちゃん。
ボクのこと以外をわりと意識的に切り捨てるからなこの子。
命ちゃんらしい超合理的な思考だけど、その思考の偏りって逆に不合理じゃないだろうか。
最後に――、恭治くんは少し申し訳なさそうにしていた。
どういうことなんだろう。
「恭治くん。そのときの状況を説明してくれるか」
大門さんが優しく問いかけると、
「はい」
恭治くんは、静かに語り始めた。
★=
自分はついていると思っている。
こんな世界になっても、妹は生きてるし、オレも生きている。
大門さんに出会えたのは本当にラッキーだったんだろうし、エミが、飯田さんに保護されていたのも本当に奇跡みたいなものだったのだろうと思う。
最初は、ゾンビ化したエミの身体に無理やり触っているのだと思って、飯田さんのことがロリコンペドネクロフィリアの変態野郎に見えたんだが、緋色ちゃんの話を聞いてると、勘違いだったと気づいた。
エミは生きていた。
けれど、誰が赤の他人の世話をしたいのだと思うのだろう。
エミの今の状態を、世の中の倫理とか常識とかの、今の世の中だったら包装紙ごとゴミ箱につっこまれているような修飾を取っ払って言うのなら
――障害児
であるとしか言いようが無いのは明らかだった。
その対比でいえば、ゾンビなんか、うーうー唸るだけの障害者だし、自分の意見もなにも言えないのは、認知症患者のようなもんだと思う。
認知症患者だからといって、障害者だからといって、その人たちが死ぬべきであるなんて非情なことを考えているわけじゃない。ただ、そいつらが弱者であるのも事実で、弱者は自分が死にゆく状況に至るということにすら、何も言えないんだ。
エミもほとんどしゃべることができなくなっていた。
よくわからないけど、腹立たしかった。
どこのだれか知らないけれど、もしも神様ってやつがいたとしたら、この世の中を、よくもまあ面白くもない壊し方をしたもんだなと思った。
今の世の中は、まちがいなく弱い者から死んでいってる世界だ。
重篤な患者は、高度な治療が受けられないだろうし、要介護者は介護が受けられずに人知れず死んでいってるだろう。
自分の親の頭を金属バットで砕いたときに、それは仕方のないことだと思っていた。
エミがゾンビに噛まれたときに、この世界にはオレたちを助けてくれる優しい人なんてどこにもいないと思った。
でも、そうじゃない人もまだいた。
他人のことを、ただ弱くて死んでいくだけの人を気に掛けることができる人がいた。
要するに、飯田さんはいい人らしい。
少々太り過ぎだと思うし、精神的には弱い部分もあるのだろうが、こんな世界になっても稀有なことに他人のことをよく考えている。
大門さんには野球部の顧問をしていた熊谷先生のような厳しさを感じていたが、飯田さんは単純に優しいのだと思う。
人には限界がないといって激励するのも優しさなら、
人には限界があるといって慰めるのも優しさだ。
今までオレが触れたことのない優しさだった。そんな飯田さんは今、大きな身体をせいいっぱい小さくして震えている。青ざめた顔と、まんまるい身体はさながらドラえもんのようであったし、エミがドラえもんのことを好きだったなと思って、久しぶりに笑った。
「飯田さん。そんなにおびえなくても大丈夫っすよ」
「ああ……、恭治くんはずいぶん外に慣れてるんだね」
「そうっすね。ゾンビも何体も倒してますし、経験値溜まってるんじゃないっすか」
「油断してくれるなよ」
大門さんが車を運転しながら言った。
もちろん、油断するつもりなんかない。ゾンビはトロくて一体ならたいして強くもないが、噛まれたり引っ掻かれたりすると感染する恐れがある。ウイルスか細菌かもわかっていないから、当然感染してしまうともうどうしようもない。
要するに、ゾンビは即死攻撃持ちだから、油断はイコール死だ。
油断するつもりはさらさらなかったが、ゾンビに慣れてきているというのも事実だ。そういうときが一番危ないとも思う。飯田さんは逆に緊張しすぎて危ないが、適度な緊張感というのがわりと難しい。
そういった意味では、今回のステージは、ちょうどいい難易度かもしれない。
出かける先のスーパーは既に制圧しているといっていい状態だ。一階部分は既に制圧し、入口部分のシャッターはおろしている。そこから侵入してくることはないだろう。
スーパーの近くで停車し、遠目からチラチラとスーパーの入口をうかがう。やはり、何匹かゾンビはいた。店内に入ろうとして、シャッターを叩いている。入口は二か所あるがどちらも破られた様子はない。
オレたちが入るのは裏口からだ。ゾンビに気づかれないようにこっそりと裏口のほうに回った。
スーパーの裏口は鉄製の重いドアだ。
鍵はかかってないが、ゾンビはノブをまわして開けるという知恵がない。あるいは偶然開けるということも考えられなくはないが、ゾンビは生前の行為にしたがってる節があるから、裏口にわざわざ来るようなゾンビも数が少ないんだ。
スーパーの中は電気がついていて明るい。
裏口の通路は幅数メートル、距離にして数十メートルほどで、両開きのドアを開けるとすぐに店内だ。地元の中で唯一といっていいスーパーなので、結構な人数が利用していたが、今は当然のことながら誰もいない。このスーパーは食品売り場コーナーの他、雑貨コーナーなど、わりと幅のある商品を取り扱っている。地元にそういう店がないから、ある程度需要にこたえる必要があったんだろうと思う。
まずは三人で食品売り場コーナーにまわった。
既になまものは怪しい感じ。野菜はまだいけそうだ。悪くなりそうなものから先に回収し、缶詰などの日持ちするものは後回しにする。もちろん、とれるときにとっておくべきだが、バックパックに詰めこむにしろ限界がある。
ゾンビはのろいが、さすがに重量のあるバックパックを持ったままだと危険なのも確かだ。生存率との折り合いを見て、考えなければならない。
飯田さんはそこらじゅうで倒れ伏しているゾンビを見て戦々恐々としていたが、それらが既に物言わぬ完全な死体に成り果てていると気づいて、ようやく心に余裕が生まれてきたようだ。
「ゾンビいないですね」
「まあ既に一回制圧しているからな。本当はこの死体も片づけておきたいところなのだが、その暇がない。人手も足りんのでな」
「なるほど」
大門さんが言うように、撃ち殺したゾンビの数は十数体はいる。実はこのスーパーはオレたちが来る前に一度誰かがいた形跡がある。おそらくは何人かそして何日か。どういう経緯をたどったかはわからないが、今はいない。それだけの話だ。もしかすると、オレたちが来ない間に、誰かがここを使ってるということも考えられたが、そうはなってないらしい。
「あの……食糧以外には持って帰らないんですか」
飯田さんが突然思いついたかのように声をあげた。
「ん。何か欲しいものでもあるのか」と大門さん。
「えっと……、こんなことを言うと変に思われるかもしれませんが、緋色ちゃんとエミちゃんのために持って帰りたいものがあるんです」
「エミの?」
ほぼ寝たきり状態のエミに必要なものなんてあるのだろうか。
まさかとは思うが、オムツとか?
いや、緋色ちゃんがトイレには連れて行ってくれてるし、なぜか緋色ちゃんが手を引くときちんと立ち上がるから問題はないはず。わからないので困惑顔のまま続きを促す。
飯田さんはしばらく口をもごもごさせていたが、意を決したようにおずおずと切り出した。
「あの……、怒らないでくださいよ。ブラジャーです」
「は? いや、なんでここで?」
「誤解しないで聞いていただきたいんですが、小学生高学年は成長期です。個人差はありますけれども、芽吹く前の草花のように、実は膨らみかけのおっぱいというのは、スレて痛いものなんですよね」
「なんでそんなこと知ってるんだよ……」
「一般的な知識です」
「エミはそんなこと言ったような覚えはないですけどね」
「それはですね、きっと恥ずかしかったからですよ。思春期の女の子っていうのは、自分の体が変わっていくことに戸惑いを感じたりもするんですよ。ご兄妹とはいえ、異性にはなかなか言い出しづらいことでしょうし、今、こんな世の中だから、余計言いにくいこともあるんじゃないですか」
「確かにそうかもしれんな。姫野から前に生理用品を頼まれたことがある。言われるまで気づかなかったこちらの落ち度だが、それからは欲しいものをメモにしてもらってる。エミちゃんも緋色ちゃんもまだ小学生だし、なおさら言い出しにくいことはあるだろう。我慢させている面はあるだろうな」
大門さんが納得したようにうなずく。
「そうなんですよ。小学生くらいの女の子の胸は男のそれと同じように見えるんですけれども、全然違うんです。たとえ、まったく膨らんでいなくても、守り秘すべき花園です。スポーツブラでもいいから包ませてあげたいですね」
飯田さんはべつにロリコンではないだろうし、まさか小学生女児がブラをつけている姿に興奮するような変態でもないだろう。世の中にはストッキングに欲情する変態もいるが、飯田さんはいい人のはずだ。
しかし、オレの中にチラリとよくない疑念が湧いた。
それは黒い濛々とした煙のようにオレの心の中に広がって消せなかった。
それは、
――こいつ、ロリコンじゃね
という飯田さんの名誉にも関わるクソゴミみたいな疑念だ。
ありえねーだろ。だって40にもなって娘みたいな年齢の子どもに欲情するとか、生物としておかしくねーか? オレ自身にそういう趣味がないから、まったくもって想像できなかった。
だから、オレは慎重に質問することにした。
「なんで、ブラつけてないって知ってるんすか?」
「そりゃ……」言いよどむ飯田さん。「あの、言い方悪いけどエミちゃんの介護をしていたからね。少しは身体に触ってしまうからわかるよ」
「緋色ちゃんは?」
「あ……あ、その、あの子は無防備だからね。私たちも暑くなってシャツをパタパタすることがあるだろう。緋色ちゃんは私のことをパパか何かだと勘違いしているのか、そんなことを目の前でやるんだもの。よくないよとは言ったんだけどね」
「そうすか」
確かに、エミは要介護状態だし、どうやっても大人の力で身体に触らないといけない面もあるだろう。それに緋色ちゃんが無防備なのは確かにそのとおりだと感じる。男に対する態度がとても気安く、ほとんど警戒心というものを感じない。子どもらしい無邪気さなのかもしれない。
――いや。違うだろ。
オレは嫌な想像をする。緋色ちゃんも言ってはいないが、飯田さんに会う前は一人だったわけだ。オレと同じように、親とわかれここにいる。小学生がひとりで、親の庇護から離れてここにいるんだ。
せいいっぱいの愛想なのかもしれない。
飯田さんを親のように慕って、無防備な様を見せているのかもしれない。それがわざとだとすれば、とんだ小悪魔ぶりだが、たぶん、無意識だろうと思う。
無意識に――、誰かに守ってもらいたくて。
言いたいことも言えずに我慢しているのか。
だとすれば、その我慢を読み取った飯田さんは、すっかり父親らしいじゃないかと思った。
「飯田さんじゃないと普通気づかないっすよ」
「あ、ははは。ですよねー。というわけで、スポブラ見繕ってきます!」
照れ臭かったのか飯田さんが駆け出す。
「危ないですよ!」
とオレは声をかけるのだが、飯田さんは止まらない。
大門さんのほうをチラリと見ると、首を動かして「行ってやれ」との答え、オレはうなずき、すぐに後を追った。
★=
下着コーナーがあるスーパーというのも珍しいだろう。
正確にはスーパーと雑貨売り場が合体しているのかもしれない。
もちろん、下着ともなると男としてはなかなか立ち入れない領域だが、売ってあるのはもっぱら子供用の超激安の品物のようだ。
そこではブラジャーがごっそりワゴンの中に無造作に入っている。
四方せいぜい一㎡程度の小さなワゴンだが、そこに身体ごと突っ込んでかき分けている様は、はっきり言って変態的所業に見えた。
「飯田さ……」
そこでオレは戦慄すべき事態に気づく。
ゾンビがいた。どこかに隠れていたのだろう。
もういくばくも距離がない。
「飯田さん!」
オレの声に飯田さんが反応する。
しかし、逆だ。ゾンビはオレとは逆の方向から来ている。もう間に合わない!
オレは銃を構えた。
撃ち殺せるか。オレもほとんど銃の練習はしていない。そんなに重くはないはずの銃が、ひどく重く思えて、銃身がブレた。
手が震えている。
飯田さんの巨体に阻まれて狙いが定まららない。
「ひえ」
飯田さんが銃におびえて、その場にしゃがみこんだ。
だめだ。逃げろ!
もはや声すら出せず、オレは飯田さんがゾンビに噛まれると思い――、その場で立ち尽くす。
しかし、驚くべきことが起こった。
ゾンビは巨体を震わす飯田さんを完全にスルーし、こちらにのっそりと歩いてきていたのだ。
オレはゆっくりと後退する。
得体の知れない事態に困惑している。
どうして、飯田さんは襲われない?
いや、オレは襲われようとしてるのか? いま目の前にいるゾンビはエミのように『半ゾンビ』で襲うつもりはないってことなのか?
いくつもの疑念が生じた。
が、やつの歩みは止まらない。
しまった!
気づくと、銃を掴まれていた。
クソ。離れない。
偶然だと思うが、ゾンビが握っているのは、銃のスライド部分だ。人間を襲うときの怪力でつかまれた銃身はスライドができない。つまり、弾が発射できない。
よしんば発射できたとて――。
揉み合いの状況ではゾンビの弱点である頭部を狙えない。
銃をつかんでいない方の腕が、オレの肩あたりに迫る。肉をえぐり、はらわたをつかみ出すほどの力で握られれば、待っているのは死だけだ。
数瞬の間、オレは動けない。
「う。あああああああああああああっ!」
ゾンビの後方から声があがった。不格好で無理やりな叫び声をはりあげている。
飯田さんがゾンビを後方から羽交い絞めにしていた。
オレはようやく我にかえり、銃を手から離す。
べつに銃じゃなくてもいい。ゾンビを殺すには頭部を一撃すればいいだけ。
手慣れた武器のほうが――手っ取りばやい。
バックパックの横に挿してあった、使い慣れたバットを握りしめ裂帛の気合いをこめて振り下ろす。
鈍く、痺れるような衝撃が手のひらに伝わり、
――おっと、常盤選手。これはいい当たりだ。ホームラン。ホームランです!
場違いなことを考えながら、もう一撃。
ゾンビは動かなくなった。
「ハァ……ハァ……どういう、ことですか」
飯田さんがいなければ死んでいたかもしれないという事実に――もっと言えば眼前に迫った死の恐怖に対して、オレは少なからず興奮していた。声色が八つ当たりのようになってしまっている。言うべきは「ありがとうございました」という言葉のはずだが、出てきたのは、非難するような声だった。
「どうして……黙ってたんですか」
飯田さんは、シルク製のスポブラを握りしめたまま、その場で土下座するみたいにくず折れた。
一週間に一回程度だけど、これくらいの時間までがんばれば一応書けるかな。
うん。みなさんのおかげです。