からっぽ。
からっぽだった。
ボクの中に人間の悪意が流れ込んできて。
その黒いモヤのようなものが逆流した。
憎悪が形になった。
だから、いまは誰も憎んでいない。
それがよいことなのかはわからない。
人間という種族に対する攻撃性は、からっぽになることでガス抜きされた。
けれど――。
憎悪というのは、他人と自分を分けるシールドのようなものでもあると思う。憎悪がなくなってしまったボクは細胞壁を失ったセルのように心もとない。
宇宙空間に裸身をさらしているようなものだから。
ひとり――たったひとりで宇宙空間をさまよう。
孤独の円盤。
「先輩……先輩!」
気づくと命ちゃんの顔が見えた。
「ここは?」
「まだ、ホームセンターの中です」
ボクは気絶していたみたいだ。命ちゃんに膝枕されていた。
身を起こして周りを見渡すと、ここが命ちゃんの部屋だとわかった。
どうして――?
そんなふうに思いもするけど、なんとなく事態は把握していた。
飯田さん。いい人だったのに。死んじゃった。
たちまちのうちに、ボクの中に喪失感が広がる。
出会ってからまだ一ヶ月も経ってないけど、ボクは飯田さんを受け入れかけていた。隣に住んでもいいかなって思ってたくらいには好きだった。
なのに死んでしまった。
自然と奥歯を噛み締めることになる。無意識に拳に力が入る。自分の身体がまるで自分のものでないようにコントロールできない。
「先輩……。私……ごめんなさい」
命ちゃんに抱きしめられた。
なぜ謝るんだろう。べつに命ちゃんは悪いことをしていない。
強いて言えば――。
「私、他人が怖くて……先輩以外の人を受け入れることができませんでした」
そう――、ただそれだけだ。
そして、それは別に悪いことじゃない。
孤独であることが罪なら、ボクは大罪を犯していることになる。
「命ちゃん……」
「先輩がこんなに傷つくなんて思わなくて、私、たぶんこうなるだろうなって予測していたのに、すべて放置してきました」
「もういいよ……命ちゃん」
「姫野さんも飯田さんも死ぬことはなかった……エミちゃんだって」
「そんなのはわからないじゃないか。君はボクよりずっと頭がいいけれど、人間が思い通りに動くなんて運次第なんだし」
「そうですね。それはそうかもしれません。でも、私は努力すらしませんでした。姫野さんや飯田さんが死んでも、べつにそれでも、かまわないって思っていたんです」
「君が誰を受け入れて誰を受け入れないかは、君の自由だから」
「でも、先輩は……努力しようとしていたのに!」
「うん」ボクはうなずいた。「失敗しちゃったけどね」
「だから――、だから謝りたかったんです」
「やっぱり、命ちゃんが謝ることではないように思うけどな。命ちゃんがボクのことをいろいろと考えてくれることはありがたいけど、君が誰かを選択する自由があるように、ボクにもボクなりの自由があるわけだし」
「それはわかってます。でも、私は先輩のことも手伝わなかったことになります。さっきまで先輩は、目を開けていても、意識はここではないどこかに行ってしまったみたいになっていたんですよ! 私が傷つけたせいだって思ったんです」
「ボクはどこにも行かないから」
ボクはポンポンと命ちゃんの頭をなでた。
この子は一見クールだけど、一皮向けば豆腐メンタルだからなぁ。
ボクより弱いんじゃないだろうか。
泣きはらしている命ちゃんを見ていると、お兄ちゃんとして奮起しなければならないと強く思う。
強く強く思う。
ボクはまだ人間を信じているから。
「先輩……それと……」
言いよどむ命ちゃん。
ボクは既に察している。このホームセンターで、いったいなにが起こったのか。意識はなくても無意識はあった。
ゾンビは集合的なボクの無意識そのものだから。
なにがあったか、なんとなくはわかる。
「恭治くんが撃たれたんだね」
「はい……」
「ボクを助けるために撃たれたみたい。飯田さんが殺されたショックで自分の殻に閉じこもっていたボクを恭治くんは引っ張り上げてくれたんだ」
そのあと、背負われていたのをうっすら覚えている。
白いシャツがイチゴジャムを塗りたくったように真っ赤に染まっていて、おぼつかない足取りで、命ちゃんのもとまでたどり着いた。
それから、恭治くんがどこに向かったかはわからない。
ボクの無意識は、完全に大門さんをターゲットにしていたから、恭治くんがゾンビに襲われる心配はないとは思うけど、あの傷だと助からない。
きっと……もう。
「命ちゃん。もうこのホームセンターにはボクたちしかいないよ。だからいっしょに行こう。今度は間違えないように」
「はい」
ボクたちは手をつないだ。
小学生くらいの時、命ちゃんはまだ小さくてボクと雄大のあとをよくついてきていた。
なにもないところでつまずいて泣いちゃったからボクは手をつないでお家に帰ったことを覚えている。
あのときのような――。
少しだけ照れくさかったけれど、それ以上に守るという気持ちが強かった小学生の頃を思い出す。
でも、あのときとは身長が逆転しちゃってるけどね!
☆=
ホームセンターの中は、コミケの会場並みに混雑していた。
当然、ボクがいる以上、襲われる危険はないわけだけど、パーテーションで区切られた空間は思った以上に狭く、ボクはモーセのようにゾンビの海をかきわけて進まなくてはならなかった。
ゆれて、もまれて、ごっちゃになる。
まるで満員電車並のゾンビ密度。
みんな、後の人のことを考えないで、あとからあとからホームセンター内に侵入したから、そういうことになっているのだろうと思う。
もう襲ってもいい人はいないけど、祭りの後みたいに興奮量が保全されていて、まだみんな解散しないみたい。ゾンビがそんなことを思うわけもないけどね。ただの物理現象と同じ。
おかげで外まではほんのちょっとしか距離がないのに、ものすごく時間がかかる。ゾンビを操って、壁際まで追いやっても、人の波というのはなかなか掻き分けられない。
これだけゾンビが多いと、いまごろ大門さんの筋肉まみれの肉体は、なのはの同人誌みたいに完売状態だろう。徹底的に滅ぼすとあのときは思っちゃったからなぁ。さすがに肉片ひとつも残ってないと、ゾンビにもなれないよ。
「縁日の時みたいですね」
ぽつりと命ちゃんが言った。
「そういえばそんなこともあったね……」
命ちゃんが中学に上がったばかりの頃だったと思うんだけど、地元で結構大きな縁日があって、それが最後っていうんで大勢の人がきたんだ。
ボクはそのとき思春期真っ盛り。命ちゃんはかわいい妹分とはいえ、女の子と手をつなぐなんて恥ずかしくて、いつもは手をつないで縁日に行ってたのに、そのときだけは――、無意識に、一瞬だけ、ちょっとだけ……手を離しちゃったんだ。そして、命ちゃんは人波にさらわれてしまった。
ボクは後悔した。
ちっぽけなプライドなんかのために命ちゃんを離してしまったことを死ぬほど後悔した。雄大はいっしょになって探してくれたけど、見つかったのは最後の花火が打ち上げ終わった後だった。
「でも……見つけてくれました」
「うん。でもいっしょに花火見たかったな」
最後の花火。
もう二度と打ちあがらない花火。
最後の縁日。
失った時間は戻らないし、過去の選択は取り消せない。
「先輩――」
「なに命ちゃん?」
ボクは振り向いた。
命ちゃんは軽く笑んでいて、その場から動かない。
「もしも……先輩が、私のことを少しでも想ってくれるなら……」
「えっと……? どうしたの?」
「もしも私を選んでくれるなら……」
「命ちゃん?」
「今度はもっと早く――」
え? なんで……。
と、思うより早く。
「見つけてくださいね」
命ちゃんと手が離れた。
周りの大人ゾンビより圧倒的に身長が足りないボクは、雑踏の中に飲み込まれてしまった命ちゃんを見つけられない。
――どうして?
命ちゃんはゾンビに襲われないように設定しているけれど、縁日の時のような、言い知れない不安感で押しつぶされそうになる。
ボクは焦りながら、ゾンビの波を掻き分ける。
どうして手を離したんだろう。
右の手のひらにわずかに残るぬくもりに、どうしてという疑問を反芻する。
――どうして?
ボクはその場で跳躍し、適当なゾンビさんの肩に片足を乗せた。
少しだけよろめくが、ボクの体重は軽い。満員電車で固定されているように、ゾンビの身体もゾンビ同士で固定しあってるから動かない。
でも見えない。
命ちゃんは周りのゾンビよりも身長が低かった。
まだ高校生の女の子なんだ。
ボクの中では小学校の頃から変わらない庇護の対象。
ボクが守らなきゃいけないんだ。
「どけよ!」
ゾンビたちを壁にぴったりと引っつかせボクは無理やり道を作った。
ようやく、それで人がひとり通れるくらいの細い道ができる。
そして――、その道の向こう側、わずか十数メートル先に彼女の姿が見えた。
命ちゃんの手を引き、化け物のような顔つきでゾンビの道を逆走する彼女。
ボクが見たのは――、
「……生きてたんだ。姫野さん」
身体のあちこちが紅く染まった姫野さんの姿だった。
☆=
パーテーションの迷路を抜けた先。
袋小路で彼女は止まった。命ちゃんはブレザーごしにがっしりと腕をつかまれ動くことができない。
姫野さんは、デッドエンドに到達したのを悟ると、傍目からもわかるような大きなため息をつき、それからボクのほうをくるりと振り向いた。
怨みの目。
その瞳には間違いなく意思の光が灯っている。
ボクはなにか怨まれることをしただろうか。
姫野さんの心に寄り添えなかったといえば、それまでだけど。
そんなので怨まれたら、普通に生きていくことさえできない。
「姫野さん……あの……命ちゃんを離してください」
「……いやよ」
「どうしてです?」
「どうして? どうしてですって……。見なさいよ。この身体を、ゾンビにいたるところ噛まれて、綺麗なところが無いくらい。私は間違いなく感染しているわ」
そりゃそうでしょうねと言える雰囲気ではなかった。
あの時とは違い、今の姫野さんはまちがいなく感染している。
塀の向こう側で姫野さんがどうなったのかは誰も確認していない。間違いなく襲われたのは確実だったから。死んでいるはずだったから。
あるいは、肉片ひとつ残らなくて当然なくらい周りはゾンビで満ちていた。
けど、ここにいる。姫野さんは生きてここに立っている。
半死半生ながらゾンビになっていない。
姫野さんが食い殺されなかったのはなぜか。その理由はボクにもよくわからない。
ただ推測すれば、ボクはあのとき初めのうちはゾンビに襲わせないように考えていた。その直後に大門さんによるゾンビ避けスプレーが嘘だったことが発覚し、すぐに通常モードに切り替えたわけだけど、ここでゾンビへの命令に混乱が生じたのかもしれない。
姫野さんがいま感染していてそれでもゾンビになっていないのも、もしかすると、ボクが抑制しているからなのか――?
人間を襲わないということを拡大解釈すれば、ゾンビウイルスが人間の心的領域を侵すことも禁じていることになる。
「……気づいたら、私はひとりだったわ」
姫野さんは命ちゃんを羽交い絞めにしながら言った。
「なにを?」
「コミュニティを追い出され、ゾンビに追い立てられ、みんなが私を笑うの。汚いゾンビどもの手に触れられ、歯を突き立てられ、いいように弄繰りまわされて、私自身も汚らしく死んでいく。それで男どもが選ぶのはいつだって――、純真で無垢な綺麗で若い子なのよ」
姫野さんは頭をブンブンと振った。
何かを追い払うかのような仕草。
彼女は錯乱しているのかもしれない。
「姫野さん……そんなことやめて治療しよう」
もしかしたらの可能性だけど、ボクはゾンビウイルスを抑制できるのだとすれば、姫野さんを治療することができるかもしれない。
「そんな戯言。聞きたくない! おまえは単に大好きなお姉ちゃんが感染するかもしれないから――私に感染させられるかもしれないから、耳触りのいい言葉を並べ立ててるだけだ!」
「……」
治療できる可能性はある。
けれど、姫野さんは耳を貸そうとしない。
命ちゃんは苦しそうに顔をしかめている。
頭一つ分身長の高い姫野さんに理性の吹き飛んだ力で羽交い絞めにされているんだ。苦しいに決まっている。
いくらボクが超人的なスピードをもっていても、この距離を一瞬でジャンプして詰めきれるはずもない。なぜなら、姫野さんと命ちゃんの柔らかな首筋は、ほんのわずかな間隙しかないのだから。
「ボクが代わりになるよ。それで姫野さんの気が済むなら」
ボクはしおらしく言った。
「詐欺師が……。あんたは……ゾンビなんだろう!」
ボクは目を見開いた。
いままでのところ、ボクがゾンビであることを告げて生きているのは命ちゃんだけだ。それにしたって、黙っておく選択もあったかもしれないくらい。他の人にいたっては、ボク自身がゾンビだと気づかれるようなヘマはしていないはずだ。
でも、姫野さんの血走った瞳を見たときに気づいた。
姫野さんが気づいたのは、ボクが安全牌を切ったというその一点のみだろう。
息荒く、手負いの、いまにも死にそうな状態だからこそ、ボクがボクのことしか考えてないことを見抜いた。
気が触れたような思考だからこそ、真実にたどり着けた。
そんな感じなのかもしれない。
「姫野さん……ごめんね」
「な、なにを……」
「ボクは確かにゾンビかもしれないんだけどね。自分でもよくわからないんだ。ただ、姫野さんの言うとおりボクは命ちゃんさえ助かればいいって思っちゃった。だから、ごめんなさい」
そう。
縁日の時の花火。
エミちゃんの死。
飯田さんがボクを守って死んだこと。
そんな後悔を二度としたくなくて、ボクは姫野さんを無意識に切り捨ててしまった。
それは、悪いことではないと思う。
人は限りのある存在だから。
ボクはゾンビじゃなくて人なのだから。
誰も彼も救えるとは思ってない。
でも、切り捨てられた人にとってはどうなんだろう。
惨めで、哀しくて、孤独で、寂しくて。
誰かを道連れにしたいと思うほどには――、最悪な出来事なのだろう。
「姫野さん。ボクは自分がゾンビなのかは正直わからないんだけど、ゾンビを操る不思議な力を持っているのは確かだよ。だから、姫野さんのことも治療できるかもしれない」
「仮にそれが本当だったとしても、あんた達が私を見捨てたのは変わらない」
「悪かったと思ってます。姫野さんのことはよく知らなかったし、ボクは人見知りだから、最初から人に優しくするっていうのはできなかったんだ」
「おまえがゾンビを操ってるのが本当なら、あのとき私を襲ったのはあんたということになる。おまえは自分が思っている以上に残酷な化け物だよ」
「……まあそうかもね。でもあの時はゾンビの動きを通常モードにしていただけで、ボクが操って殺そうとしたわけじゃないよ」
「そんなの信じられるか!」
「ねえ。姫野さん。過去のことはひとまず置いておいてさ。早く治療したほうがいいんじゃないかな。そのままだと姫野さんはゾンビになっちゃうよ。ボクの力だって完全にゾンビになってしまった人を戻すより生きている人間を治療するほうが楽だと思うし、今は自分の身体のことを心配したほうがいいと思うよ」
「確かにね……」
「うん」
「あんたが言うとおり、私に残された時間は少ないみたい。さっきから意識がグチャグチャになって、よくわからない虫が脳みその中をうごめいているみたいに感じるんだ。私が私じゃなくなっていく! ああ……いやだ。いやだ」
「だから、治療しようよ……ね?」
「私は……おまえが……お前達が信じられない。だって……、だって、誰も助けてくれなかったじゃない。私をひとりぼっちにしないでよ!」
言葉が通じなかった。
同じ日本語を話しているはずなのに、どこまでも心の距離は遠く。
姫野さんのクオリアは幾千万光年も離れているように感じる。
ボクの発信が悪いのか。
それとも彼女の受信が悪いのか。
そういうことを考えてしまう時点で、人間的にダメなのか。
いっそ、ゾンビになってしまえば完璧に操れるのに。
というふうに考えちゃう時点でダメダメなんだろうけど。
「ゾンビになるのはイヤ。あんな虫みたいな何も考えないモノになるのはイヤ。死にたくない。生きていたい。誰か……誰か……助けてよ」
「いい加減に……してもらえませんか」
苦しそうに顔を歪めながら命ちゃんが声を出す。
「聞いていれば、あれもイヤ。これもイヤ。緋色先輩が治療してあげるって言ってるのに、それは信じられない。ひとりぼっちで死ぬのが怖いから誰かを道連れにする。あなたのやってることはただの自分勝手ですよ」
「そうよ。そんなのわかってるわ! でも……、誰もわかってくれなかった」
「わかりました」
そんな声がはっきり聞こえた。
命ちゃんは――、
誰よりも怖がりなくせに、誰よりも勇猛果敢で、
誰よりも計算高いくせに、誰よりも向こう見ずで、
誰よりも寂しがりやなくせに、誰よりも孤高を望み、
誰よりも人間嫌いなくせに、誰よりも人間のことが好きで、
愛に厳しく、愛に飢えている、そんな子だ。
そして――、
いつだってボクを驚かせるのが上手い。
「噛んでいただいて結構です」
「は?」
「あなたがひとりでゾンビになるのがイヤだというのなら、私もなってあげますよ。どうぞ首でも腕でも好きにしてください。その代わり――、緋色先輩の言葉を信じてあげてください。先輩は本気であなたを助けたがってます」
「命ちゃん! ボクはゾンビから治療できるかもって言ったけど、絶対じゃないんだよ!」
「だからこそですよ。だからこそ、私はシンプルに生きたいんです。シンプルに二度同じ間違いは繰り返さない。先輩が人に歩み寄るというのなら、私はそれを助けます。私が他人を信じきれないせいで先輩が傷ついたなら、すぐさまそれを修正して私は人を信じます! それが私、神埼命の生き方です!」
「……私は本気よ。そんなお涙頂戴の寸劇でやめるとでも思ったの?」
「いいえ。というか、どちらでもいいんです。私は先輩を信じていますから」
「あんたはゾンビを信じるの!?」
「ゾンビだろうとそうでなかろうと、私は先輩を信じてます」
なにを言ってるんだろうこの子は。
ボクはそんなにたいした存在じゃない。
命ちゃんがボクのことを妄信するのは勝手だけど、でもそれはひどく重い信頼だった。
他人の心がわからないボクにとっては、いくら命ちゃんの言葉だって、完璧に百パーセント信頼できるものじゃないんだ。
この子は本気で打算ひとつなくゾンビになってもいいと考えている。
そんなのはダメだ。
「ぁ……ぁ……ん。うん……そんなのはダメ」
いくつもの光景がフラッシュバックした。
いくつもの後悔が頭の中を駆け抜けた。
このホームセンターに来てから、ボクはいろいろと失った。ボクがお気に入りだった子、ボクがほんのちょっとだけ好きになった人。少しだけ育まれた人間関係。
全部大事だったのに壊れてしまった。
もう、何も失いたくなかった。
だから――。
「姫野さん……。もしも命ちゃんを噛んだら、ボクはあなたを殺すよ」
ボクはまた間違える。
命ちゃんほど頭がよくもなく、心の中に愛がないから。
化け物らしく酷薄に。
ゾンビらしく無慈悲に。
せいぜい、人間はむごたらしく殺してしまおう。
「それがおまえの本性か!」
姫野さんは頭を命ちゃんに近づけ噛もうとした。
――あーあ。
やっぱり、人間なんてそんなもんじゃないか。
姫野さんなんて自分のことばかりで他人になにひとつ譲歩しないじゃないか。
「……もう、おまえはゾンビになっていいよ」
「あ。ぐっぐがああああああああああああ」
ゾンビウイルスを沈静化させることができるのであれば、当然、その逆の活性化もさせることができる。
エミちゃんの時のように心的領域を積極的に破壊すればいいだけのこと。
噛まれていない人間はゾンビウイルスの量が足りないから、いきなりゾンビにさせることはできないだろうけれども、噛まれて、多量のゾンビウイルスに汚染されている姫野さんであれば、瞬間的にゾンビにすることができる。ゾンビになってしまう。
そうすれば、ボクの所有物。
ボクの言うことにはなにひとつ逆らえないし、そもそも逆らうという意思が存在しなくなる。
そっちのほうが綺麗かもね。
「あぐがああ……いあ。ああ。あイヤ。死に。だぐ。抱かせてあげるから」
チラリと夢想するのは、ボクがもしも間違えずに選択していれば――。
例えば、命ちゃんの愛に打たれて、姫野さんがボクの治療を受けることを選択していれば、違った結果になったかもしれない。
ボクは間違えた。
姫野さんはゾンビになった。
でも、姫野さんだったものは、ボクの所有物のはずだったものは、ボクの命令を無視して、意味もなく、わけもなく、理由もなく、どうしてか、なぜかはまるきり全然これっぽちも理解できないんだけど。
命ちゃんの首筋に噛みついた――。
☆=
姫野さんだったモノには、すぐさま自分の首をねじ切るように命令した。
あのときどうしてボクの命令に逆らうことができたのかはわからない。
永遠に不明のままだろう。ただ、その憎悪こそが、最後の一線でゾンビになりきる前に、事を成しえたのかもしれない。
ぐちりぐちりと三回半くらい回転したところで、ゴキリと嫌な音がして、姫野さんの身体は停止した。
血の噴水というわけにはいかなかった。ねじ切れる前に神経の連絡線が途絶えたのだろう。姫野さんだったものは頭を破壊されたわけではないから、まだ視線でこちらを追っている。うらみがましい視線に思えるのはボクの心がそう感じているからだ。そう思いこむことにする。
うらんでくれていいよ。でも、そっちだって――ひどいことしたじゃん。
ボクは命ちゃんの傍に駆け寄った。
「先輩……」
「ごめんね。命ちゃん……。ボク、また失敗しちゃったみたい」
「大丈夫ですよ。私は……信じてますから。先輩のことを私を救ってくれるヒーローだって……だから」
ゾンビウイルスは生来的に欲しがりなのだと思う。
誰かとくっつきたくて。
誰かといっしょになりたくて。
たぶんゾンビウイルスと呼称しているソレは、孤独なのだと思う。
だから、仲間を増やしたいんだ。
その本能を抑えこむのは――。
ボクが操っても至難。
リモートコントロールでは、今のボクにはゾンビ化を止めるほどのレベルが足りない。ボクの理性とボクの無意識の戦いとも言える。
もっと直接的な摂取しか無理そうだ。
つまり、ヒイロウイルスの摂取しか。
ボクは人差し指の一部を噛み切ると命ちゃんの唇の中に差し入れた。
意識が混濁しているのか、命ちゃんはボクの指をおしゃぶりのように、ちゅぱちゅぱと吸っている。
ヒイロウイルスは、ボクの中核ともいえる存在。
下位のゾンビウイルスなんか簡単に駆逐してしまえる。
ただ、今回は小杉さんのときのように、命ちゃんを哲学的ゾンビにしてしまうわけにはいかない。
命ちゃんを物言わぬゾンビにしてしまうことには――、ボクの所有物にしてしまうことには、一種の抗いがたい魅力があったけれども、ボクはそれ以上に命ちゃんに生きていてほしかった。
ボクを信じてくれた命ちゃんを生かしたかった。
ボクは命ちゃんのクオリアを信じているから。
ボクは命ちゃんのクオリアが好きだから。
「先輩ついでにキスもぉ……」
「あのね。命ちゃん。シリアスな場面なんだよ。これ」
まあ、キスもついでにしておいた。
ヒイロウイルスは多量に摂取しておいたほうがいいからね。
でも人工呼吸みたいなものなので、ノーカンです。
ボクのファーストキスはそんなに簡単にはあげません。
★=
朝焼けが身体に染みるようだった。
「エミ……、お家に帰ろうな」
ホームセンターが遠く後ろに見える。
ここから家までは何キロあるだろう。
いつもは軽いエミの身体が、いまでは鉛でもかついでいるかのように重い。
当たり前だ。
人の命は鉛よりも重い。
当然に決まっている。
でも、オレは――。
たぶん、死ぬだろう。
いや、絶対に確実に死ぬだろう。
銃弾はいくつも身体の中を埋まっていたり、容赦なく風穴を開けたりしていたが、幸いなことに足と手だけは無事だった。
だから、エミを担いで、一応なりとも歩いていけている。
「最後はひどいことになっちまったけどさ……」
オレは嘆息まじりに言った。
「オレ、ヒーローになれたと思っていいよな……」
なあ。エミ。
お兄ちゃん、がんばったよな。
あのとき、小学校の校舎の中で逃げ惑うしかなかったオレが、今日はひとりの人間を救ったんだぜ。
お兄ちゃんはすごい、っていつも褒めてくれていたエミ。
今日もとびきりの特大ホームランを打った気分だ。
きっと――生きていたら、褒めてくれただろうな。
「ゾンビって生きてるのかな。だとしたら、オレとエミは生きてて、親父たちは死んでるから、天国でも会えそうにないかな。ゾンビは死んでるって考えたほうが……いいかな」
視界がどんどん暗くなっていく。
燃えるような暁が田んぼの色を急速に染め上げていく。
そんな光景も、もうほとんど見えなくなっていく。
気がかりなのは、エミのことだ。
こいつはオレが死んだら一人さまようことになるんだろうなと思うと、寂しい気持ちになる。
それはオレ自身もそうだ。
ゾンビになってしまったら、きっと親父みたいに母親をかみ殺すようになる。愛も心も失ってしまう。
だから、きっとゾンビになったら離れ離れになるだろう。
孤独のうちに、何年もさまよい歩くことになるだろう。
「……エミ。ごめんな。お兄ちゃん、エミのこと守ってやれなくて」
「イ イヨ……」
「エミ?」
振り返ると、エミは口を閉じていて、いつもと同じく沈黙を守っていた。
気のせい。死に際の幻想。
そんなものなのかもしれない。
でも――。
再び前を向いたとき首筋にヒヤリとした冷たい感覚がした。
それは要するにゾンビ避けスプレーの効果が切れただけの、ただの物理的現象なのかもしれなかったけれど、小さく、甘く、オレはエミに噛まれていた。
きっと――、オレをひとりにさせないために、噛んでくれたのだろう。
ひとりじゃないと励まされてるみたいだった。
涙が止まらなかった。泣きながら歩いた。
「エミ……ありがとうな」
そうしてオレたち二人きりの兄妹は、朝焼けに融かされながら帰途についた。
これにて、佐賀編は終了です。
次はすぐさま配信編へ? いけるのか。
いろいろと見直す必要がありそうな気配もしますが、
勢いも大事だしな。こういうのって……。
ともあれ、ここまで読んでいただきましてありがとうございました。