あさおん・オブ・ザ・デッド   作:夢野ベル子

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ハザードレベル43

「恵美ちゃん?」

 

 まちがいなく恵美ちゃんの声が聞こえた。

 絶叫に近かった。危急を知らせる声だともいえる。

 

「どうしたんでしょう?」

 

「わかんないけど、マナさんはここでじっとしててね」

 

「わかりました」

 

 普段おっとりしているマナさんも少し焦燥の顔をしている。

 そうすると不思議なことにボクの心臓も早鐘を打つ。

 嫌な予感――。 

 

 この家の中にゾンビの気配はしない。

 だから、『お兄ちゃん』の意味がもしも恭治くんのことを指しているのであれば、本当の死体になって、生きていないということが考えられる。

 

 そして――もう一つは。

 お兄ちゃん助けて! という意味の場合だ。

 

 ボクはマナさんに選んでもらったかわいらしいウエストポーチの中から無骨な拳銃を取り出した。

 

 ちっちゃいボクにはお似合いのデリンジャーという銃だ。デリンジャーの発祥は護身にある。必要以上に殺傷能力がなく、さりとて銃は銃だから威嚇としての効果は高い。

 

 銃を装備したのは、いままでの経験からとっさに必要なのかなと考えたから。

 

 思い起こせば人間との邂逅で多いのは、ボクの姿格好から侮られることが多いということだ。なにしろ見た目が小学生女児だからね。そりゃあなんとでもなると思っちゃうよ。

 

 反撃されないとなれば、人は増長する。

 

 あえて言えば、逆勘違い系ってやつかな。ボクってわりと人間よりも強いと思うんだけど、見た目は弱そうだし。そうなると交渉もうまくいかないというか。パワーバランスが崩れやすいのだと思う。

 

 銃はいいかもね。抑止力として……。

 あまり好きじゃない考え方だけど。

 

 恵美ちゃんの声が聞こえたのは二階だった。

 ボクは階段を静かにかけあがり、いったんそこで身をかがめる。

 

「静かにしろよ」

 

 と、野太い声が聞こえた。

 わずかに身じろぐような気配がする。恵美ちゃんが抵抗しているのかもしれない。最初の声以外はくぐもったような音しか聞こえてこない。

 

 二階にあがると、細い廊下が続いていて、全部で五つくらいの部屋が左右に散らばっている。声が聞こえた方向からわかる。

 

 半開きになっているドアからは、恵美ちゃんの気配がする。

 

 ボクは息を殺した。

 

 わずかに重力を操って音をたてずに歩く。

 横目に映るドアにトイレの文字が見えた。金持ちって二階にトイレがあるんだ、と場違いなことを考えながら進む。

 

 部屋の前に着いた。

 少し呼吸を整える。

 中に人間がいるのはまちがいない。ボクにとってはゾンビなんかよりもよっぽど危険な相手。もちろん、すぐにそうやって敵認定するのは問題があるけれど、だからといって油断していい理由にはならない。

 

 ボク単体だったらわりとなんとかなるとは思うんだけど。

 ゾンビになったばかりの恵美ちゃんはまだそんなに力も強くないだろうし、大人の力には敵わないだろう。

 

 だから慎重に行動する必要があった。

 

「ゾンビが寄ってきちまうだろ……静かにしてくれ」

 

 そして、ドアからこっそりと部屋の様子をうかがう。

 

 見ると、そこには高校生くらいの男の子と、小さな女の子がいた。

 

 年の頃はひとりは18歳くらいで、まだ大学生にはなってないみたいな感じ。もうひとりはボクと同じくらいの女の子。恵美ちゃんと同じくらいの年齢だ。

 ちょうど、恭治くんと恵美ちゃんと同じくらいの年頃だといえる。

 

 なぜかふたりとも室内なのに白い安全ヘルメットをかぶっていた。

 高校生らしいブレザーに、女の子のほうは女児用セーラー服。

 涙を目に浮かべながら事態を見つめていて、小さなウサギのように思えた。

 

 そのうちの高校生くらいの男が恵美ちゃんを羽交い絞めにして、口元を押さえていた。

 恵美ちゃんは涙目になって、足をじたばたさせている。

 

 これは危険だ……。

 

 恵美ちゃんではなく男性のほうが。

 

 恵美ちゃんに噛まれたら漏れなくゾンビ化するからね。とはいえ、小杉さんにやったみたいに心を殺そうとしなければ、ヒイロウイルス感染者は単に力が強くなって、ゾンビに襲われないという特性を得るだけだ。

 

 そしてボクに逆らえなくなる――わけだけど。

 ボクとしてはまったく見知らぬ人をヒイロゾンビにしたくはない。

 

「恵美ちゃんから離れて」

 

 ボクはできるだけ驚かさないように柔らかく言った。

 銃口は恵美ちゃんを羽交い絞めにしている方の男に向けた。

 正確には――腕のあたり。

 

「女の子がまたきやがった」

 

「え?」と女の子。

 

「なんだ。銃……か? 本物か?」と高校生男子。

 

「本物だよ。ゆっくり離れて」

 

 高校生男子は、恵美ちゃんからそっと手を離した。

 恵美ちゃんが泣きながらボクに抱きついてくる。

 

「緋色ちゃん……っ」

 

 雛鳥みたいな感覚。守護らねばという決意を固く抱く。マナさんの気持ちが少しわかっちゃった。

 

「まあそれはそれとして……。こんにちわ。ボクは緋色っていうんだけど、おふたりはどんな関係で?」

 

 ふたりは顔を見合わせた。

 

「オレは五十嵐喜代徳。水鏡高校の三年。こいつはオレの弟で五十嵐新太だ」

 

「新太です」

 

 え?

 

 弟……なの?

 

 スカート履いてるんだけど。しかも、めちゃくちゃ似合ってるんだけど。

 いわゆる性別不詳の男の娘って感じかな。

 スカートを握ってもじもじしてるのがなんかかわいらしいんだけど。

 弟なんだよね?

 

 新太ちゃんはじろじろとボクを見ていた。

 しげしげと観察されている気がする。

 顔とか足とか、目はあわせてないんだけど、なんだか見られてる感じ。

 アメリカかどこかのルールでは女の子を五秒以上直視したらセクハラになるんじゃなかったっけ。

 なんだろう。この子もロリコンじゃないよね?

 小学生くらいの見た目だし、その年齢の子がボクくらいの小学生を好きになったとしてもロリコンとはいえないかもしれないけど――。

 いちおうの性別が男らしいので、少し警戒してしまう。

 

「あの……」

 

「はい?」

 

「もしかして終末配信者のヒーローちゃんだよね?」

 

「え?」

 

 ドッキーン。

 

 いつのまにか視聴者の数は五千人くらいになってたけど、佐賀県内にボクの視聴者さんがいるなんて。うそだろ。うわー。うわー。

 

 はわわわ。はわわわわわわ。

 

 どうしたらいいんだろう。

 

 ぼっちさんのときは、ボクのほうから能動的に出かけていったから心の準備ができてたんだけど、こんな偶発的な遭遇だと、準備もなにもない。

 

 顔が熱くなってくる。

 

「ブイチューバーのヒロちゃんだよね? ボク、ファンです」

 

 まっすぐな言葉だった。曇ったり淀んだりするところのない気持ちのよい一言。挨拶は魔法だという言葉があるけれど、魔法みたいにボクの心臓がわしづかみにされる。

 

 ファンとの偶発的遭遇。

 好きですっていってもらえたに等しい状況。

 うれしい。とてもうれしい。ボクってちょろすぎるのかもしれないけれど、誰かに好きって言ってもらえたらうれしくなるのは自然でしょ!

 

 視聴者様が見てる!

 

 な、なにか答えなきゃ。

 

「あ、ありがとうございましゅ」

 

 噛んだ。

 

 

 

☆=

 

 

 

「ふむふむ。ご主人様のファンですか~~。それは御目が高い」

 

 マナさんがご主人様呼びするのが、なんだか恥ずかしい。

 ボクは下手すると親子ほどに年が離れてるお姉さんに、ご主人様呼びさせてる痛い子みたいじゃないか。

 

「このご時勢に世界がまだ終わってないんだなと思うと、なんだか安心するんですよね」と新太ちゃん。新太くんって呼んだほうがいいんだろうか。謎だ。

 

 容貌はめちゃくちゃかわいらしい女の子なのに、わりと、こうなんというか達観してる観があるな。

 

「なるほどなるほど……。ご主人様の容貌は世界で一番かわいらしいですからね。攻撃性を欠片も感じさせないという意味で安心感を抱くのは当然だと思います~~。あとで恵美ちゃんの赤ランドセルをきちんときっちり装備してもらいたい♪ 無限に記録に残したいです」

 

 しないけどね……。

 

 実のところマナさんはボクが何かそういう両手が塞がれないのないかなって聞いたら、最初に新品の赤ランドセルをうれしそうに持ってきて装備させようとした経緯がある。ウエストポーチはいわゆる補欠だったんだよね。

 

 赤備えなご主人様が最強すぎるとか、意味がわかんないし、ゾンビだらけの世界を赤ランドセル背負って闊歩する小学生とかもっと意味がわからない。

 

 そういったわけで、赤ランは絶対拒否です。

 

「ボク、みんなしてガヤガヤしているのが好きなんですよね」

 

 と新太ちゃん。

 

「わかりみが深い。みんなご主人様の作り出すヌクモリティ空間に抱かれてしまえばいいと思います♪ みんなIQひくひくでゾンビになっちゃえばいいと思います」

 

 なんかその言い方だと、ボクのIQもひくひくみたいだよね!?

 

「この子はアイドルかなにかやってんのか?」とお兄さん。

 

「あ、そうなんだよ。ゾンビハザードが起こったあとに唯一現われた新人バーチャルユーチューバーとして有名なんだ」

 

「ばあちゃん? まだ若いだろうが」

 

「お兄ちゃん……」

 

 バーチャルユーチューバーはオタ向けコンテンツなのは確かです。

 

 とはいえ、門戸は常に解放されてますよ!

 

 男も女も高齢者も赤ちゃんも関係ありません。みんなファンになっちゃえという心境です。

 

 貪欲なヒロちゃんです。

 

 そんなわけで――。

 

 みんなして、いったん部屋の中に集まったわけです。

 

 ここはどうやら恭治くんのお部屋らしい。

 

 よく見ると、男の子の部屋って感じがどことなくしているし、恵美ちゃんもだからその部屋に帰ってきてるかもしれないって思ったんだろう。

 

 残念ながら恭治くんはいなかった。

 

 そして、五十嵐さんと新太ちゃんのふたりはゾンビに追われながらも偶然この家に逃げこんできたらしい。

 

「デケェ家だから、食糧もあるかと思ったんだ」

 

「どうせ死ぬなら一度くらいはいい家で暮らしてみたいって、お兄ちゃん言ってたじゃない」

 

「誰だってそうだろう。ゾンビになるくらいなら、その前に自分のこころに素直になるって言ったのはお前のほうだろうが」

 

「しょうがないよ。なにかがまちがって――男に生まれてきたんだし。ボクはわりとかわいいほうだし」

 

「どうせ親も先生もゾンビになっちまったしな……いいんじゃないか?」

 

「うん。そうだね」

 

 しんみりしてしまった。

 しかし、それ以上に悲痛の表情なのが恵美ちゃんだ。

 

 さっきから体育座りをしていて、一言もしゃべっていない。

 

「恵美ちゃん。恭治くんは帰ってきてないけど、また探すから。見つけ出すまで諦めないから元気だして」

 

「そうじゃないの」

 

 恵美ちゃんは首を振った。

 

「なにか気になることでもあるの?」

 

「私……嫌な子だって思って」

 

「うん?」

 

「五十嵐さんも新太ちゃんも悪くないのに。お兄ちゃんの部屋を使ってるのを見て、やだなって思ったの。だって、ここはお兄ちゃんの部屋なのに! わたしのお家なのにって!」

 

「そういうことか……」

 

 所有という概念は、この世界では綻びかけている。

 

 モノを所有するというのは資本主義世界においては絶対の法則なわけだけど、その資本主義自体が壊れかけている今では、誰かが所有するというのは事実上の占有状態以外にありえない。

 

 この家はボクのものなんて言葉はもう意味がない。

 

 そのことは恵美ちゃんもわかってはいるのだろう。

 

 だけど、恵美ちゃんもこの家に対する思い入れがあるのだろうし、そこに勝手に侵入されているのが嫌だったのだと思う。

 

 むしろ、そういうことを素直に吐露してくれるところが、たまらなくかわいらしい。小学生らしい清らかな思考をしている。

 

「くっそかわいいですね。ご主人様」

 

「うん。そうだね」

 

 とりあえず泣き止むまで頭を撫でてみた。

 

 さらさらの黒髪はなんだか撫でがいがあって、高級シルクを触るときみたいに気持ちいい。ボクも結構撫でられているけど、その心理がわかった感じ。

 

「なんだかすまねぇな」

 

 五十嵐さんはおずおずと言った。

 

「いえ、おふたりは悪くないですよ。恵美ちゃんは感情の行く場をなくしちゃったんだと思います」

 

 それに――。

 

 正直なところ、恵美ちゃんもわかってるとは思うけれども――。

 恵美ちゃんには亡くなった両親の遺体を見せたくない。

 

 恭治くんを見つけるためにこの家に来たのはいいけれど、ボクがもしも恭治くんたちにもっと早く逢えていれば、恭治くんは両親を殺さずに済んだかもしれないんだ。

 

 現実はご都合主義のように上手くはいかない。

 死は――『どうしようもない現実』の代表づらしてやってくる。

 

 ボクは恵美ちゃんには怨まれたくなかった。

 

 だから、恵美ちゃんにはこの家ではなく、ボクの住んでいるアパートで兄妹仲良く暮らしてほしかった。

 

「ご主人様。おふたりにはどうしていただきます?」

 

「そうだね。やっぱり町役場かなぁ」

 

 今のところ近場で、人がたくさん住んでて安全そうなところってそこくらいしか知らない。

 

「ちょっと待ってくれ。ゾンビはどうするつもりなんだ? この家にたどり着くまでに、何回か死にかけたぞ。正直、女子供でどうにかできるとは思えないし……あまり迷惑はかけたくない」

 

「それは、なんとかなるよ。ボクってゾンビに襲われないスプレーを開発したからね」

 

「なん……だと」

 

 いや、その驚き方はちょっと……。

 

 ウエストポーチから取り出したのは、いつもの消臭スプレーだ。

 

「これでゾンビに襲われなくして、役場まで安全に送り届けます」

 

「ガチで、ヒーローちゃんはヒーローちゃんなんだね」

 

 新太ちゃんがひとりで勝手に納得してるけど、ボクとしても打算の気持ちが強いんだ。なぜって、恵美ちゃんはこの家がまた誰も住んでない状態になれば納得してくれるだろうし、ふたりももっと安全な場所にいけるなら文句はでないだろう。

 

 ついでに役場のキャパ的にもトラックに食糧満載でいけばとりあえずのところは問題ないと思う。

 

「こんなこともあろうかと~~」

 

 マナさん曰く、いつか脱出するときのためとか、いざというときのために食糧などの生活用品満載トラックはいくつか用意しているらしい。

 

 マナさんって段取りつけるの上手いよね。

 

 そんなわけで、話がまとまるのは早かった。

 

 

 

 ☆=

 

 

 

 とある道路のなんでもないところで、軽自動車からトラックに乗り換え、ボクたちはみんな役場の近くまで来ていた。

 

「おまえたちは来ないのか?」

 

 五十嵐さんがそんなことを言ってくれた。

 

「ヒーローちゃんたちも来ればいいのに」

 

 新太ちゃんも名残惜しそうだ。

 

 ただ、ボクとしては人間との距離感はとても難しい。

 

 ホームセンターのときは、自壊といってもいいけれど、その発端となったのはゾンビ避けスプレーのせいだし。

 

 ボクってトラブルメーカー気質があるのかもしれない。

 

 だからさ――。

 

「うーん。今はやめとくね」

 

「でも……。ゾンビ避けスプレーとかをもっと広めたら」

 

「新太よさないか。この子にも事情があるんだろう」

 

「なんだかもったいない感じがして……」

 

「ゾンビを避けることができるってのは強みだろうが、同時に人間どもがワラワラと寄ってくることもあるんだろ」

 

 ボクは意味深に微笑むのみ。

 

 核心としては、ボクがゾンビの親玉だってことだけどね。

 

「本当に残念だなぁ……。あの、今日のことって配信のときに言ってもいいですか?」

 

「うーん。ダメ!」

 

「ゾンビ避けできるとか、そういうんじゃなくて、生ヒロちゃんに逢ったってみんなに自慢したいな。こんなかわいい子に逢えたなんて、ボクすごくラッキーだし、誰かに知ってもらいたいよ」

 

「それもダメ……」

 

 赤面するボク。

 みんなに自慢されるとか、羞恥プレイそのものじゃん。

 配信は公平であるべきだと思うよ。

 幾人かは名前覚えたけどさ。

 

「なんで?」

 

「新太! おまえ、女の子相手に食い下がりすぎだぞ!」

 

「でも。こんなチャンスめったにないよ。きっと、ヒロちゃんは世が世なら売れまくってると思うけどな。今はゾンビだらけだから、視聴者五千人くらいだけど……。本来ならきっと十万人は越えてると思う」

 

「ありがと」

 

 褒められると素直にうれしいボクです。

 だが――男だ。

 

「あー、ヒロちゃんがすごくかわいいな。ボクもヒロちゃんみたいにかわいい女の子として生まれたかったなぁ」

 

「おまえも十分かわいいだろうが」

 

「お兄ちゃん、ありがとう。だからボクの自慢のお兄ちゃんなんだ。ボクのいいところをわかってくれる」

 

 クソほほえましいな。

 いかついお兄ちゃんはやっぱり弟に優しいし、女の子みたいな弟さんは兄のことを慕っている。

 性別は、そんなに重要じゃないみたい。

 とりあえず、ボクは新太ちゃんの手を握った。

 

「ボクのことを好きでいてくれてありがとう。えーっと、配信中には、ボクに逢ったこととかは別に言ってもいいよ」

 

「やったぜ!」

 

 見た目はマジで女の子なんだけど、このときばかりはちょっとだけ男の子っぽい感じでした。

 

「ご主人様が順調に小悪魔ムーブしてるようでなによりです」

 

「うっ」

 

 マナさんに指摘されてしまい、ボクはしばらく自問自答することになった。

 

 そんなに小悪魔してたかな。

 

 最後の別れ際にボクは聞いてみる。

 

「あのさ。この子――、恵美ちゃんのお兄さんが行方不明なんだけど、家の前に来たことない? 金髪のお兄さんみたいな高校生くらいの男の子なんだけど」

 

「あー……そうだな」

 

 五十嵐さんは少しだけ考えていた。

 

 そして本当に自然な感じで言うには、

 

「そいつは……『いっしょに帰ろう』って言ったんだろ。だったらひとりで勝手に帰るなんてことはないんじゃないか?」

 

 その言葉は、とてもシンプルな構成だった。

 

 複雑なことはなにひとつなく、とてつもなく単純。

 

 いっしょに。

 

 帰る。

 

 そうだよね。確かにそうだ。ひとりで先に帰るわけがないんだ。恵美ちゃんのことが大事で大事でたまらない恭治くんが勝手にひとりで帰るわけがない。

 

 ゾンビの意識は朦朧としているから、たぶん不意に近くにいた恵美ちゃんが消えたみたいな感じだったんだろうけど、そうなったら――。

 

「きっと意地でも探しまくるだろ」

 

 五十嵐さんは新太ちゃんの頭をポンとひとなでする。

 

「オレもそうする。誰だって、妹や弟がひとりで泣いてるかもしれないって思ったら、そうするさ。それが兄だからな」

 

 ボクはひとりっこだから、よくわからないけれど、五十嵐さんに体重を預けている新太ちゃんは信頼も根こそぎ預けてるみたいだった。

 

 そうなんだろうと思う。

 

「お兄ちゃんは私を探してくれてるのかなぁ……」

 

 恵美ちゃんはぽろぽろと泣いてしまった。

 

「ああ、そうに決まっている」

 

 優しく、でも力強く五十嵐さんは言った。

 

 お兄ちゃんは本当に強いな……。

 

 人間って、こんなにも強いのか。

 

 ボクはウエストポーチをちらりと見る。

 

――人の想いは銃なんかよりもずっと強い。

 

 ゾンビなんかよりもずっと強い。

 

 だから、ゾンビウイルスなんかに支配されずに、恭治くんも恵美ちゃんを探し続けてると思う。

 

 そうだよね。

 

 ボクたちは恭治くんを探していたけれど、そうじゃないんだ。

 

 恭治くんが恵美ちゃんを探しているというのが答えだったんだ。

 

 ふたりを見送ったあと、行く先は決まっていた。

 

 きっと、恭治くんはあそこにいる。

 

 

 

☆=

 

 

 

 死に絶えたかのような町並みをボクたちは進んだ。

 

 人の気配がまったくしない死の町並みは、ゾンビであるボクたちにとってはそれなりににぎやかだ。

 

 人の世のように熱はなく。

 死者というほどには冷めてもいない。

 

 そんな中間の曖昧で中途半端な生を生きているけれど、ボクも恵美ちゃんも少なくとも人を思いやる心を持っている。

 

 ついたのは恵美ちゃんが通ってる学校。

 

 あの、ゾンビだらけの小学校だ。

 

 恵美ちゃんはもう泣いていなかった。泣く暇があるくらいなら、恵美ちゃんは努力する人間だった。

 

 嘆き崩れるより、自分が追い求めたものを、本当にほしいものを手に入れるために意志を貫く人間だった。

 

 まだ小学生なのに。

 

 その凛とした眼差しは、たぶんどんな人間よりも決然としていてキレイだ。

 

 本当に人間はバカみたいにキレイだ。

 

 星のように一直線に降り注ぎ、気づいたらどこかに行ってしまう。泣きたくなるほど儚い。

 

 階段を上がる。

 

 沈黙が満ちた。

 

 確信というほどに確信があるわけではない。

 

 ボクには致命的なほどに他人の心を感じ取る能力がない。推測と計算と経験によって、ある程度の予測はできるけれども、他者が一息に理解し納得できるほどには――心というものを信じきれない。

 

 けれど恵美ちゃんは違った。

 

 恵美ちゃんはほのかに微笑んでいた。

 

 まだわずかに十と二年しか生きていないのに、予言者みたいに恭治くんがそこにいるという確信があるみたいだった。

 

 恵美ちゃんがいたロッカーに。

 

 果たして、扉は開け放たれた。シュレディンガーの猫のように不確定だった未来は確定した。恭治くんはそこにいた。

 

 なぜ、とか。どうやって、とか。

 

 そういう疑問が湧くけれども、きっと瑣末なことなんだろう。

 

 恭治くんは土気色をした身体で、瞳はどこを見つめているかもしれず、なんの意志も感じさせないほどにわけのわからない呻き声を上げていたが、そこにいたのは揺るがせない事実だった。

 

 恵美ちゃんがそこにいるかもしれないと思って待っていたのだろうか。

 ボクが横目に見ると、恵美ちゃんの肩は震えていた。

 全身が震える。

 

「お兄ちゃん……ただいまただいまただいまぁ」

 

 恵美ちゃんは恭治くんに抱きついた。

 

 ここは恵美ちゃんや恭治くんの家じゃないけど。

 

 恵美ちゃんの言葉はきっと正しいだろう。

 

 なぜなら、恭治くんはずっと恵美ちゃんと言葉を交わすのを待っていたのだろうし、恵美ちゃんはようやく自分の帰還を知らせることができたのだから。

 

 ただいまであってる。

 

 だったら、おかえりって言わせてあげたいよね。

 

 ハローワールド。ボクは恭治くんに問いかけた。

 




ハローワールドという言葉が気に入った作者でした。

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