校舎の内部はエアコンもついてないのに、暗い影が斜めに走っていて、少しだけヒンヤリしていた。
廊下の幅は四メートルはあるね。ボクが通っていた小学校は幅が一メートルくらいしかない極狭の廊下だったのに、学校によってずいぶん違うようだ。
これくらい広ければ、ゾンビと行き交うことになっても、そこまで圧迫感はない。
「ねえ。飯田さん。しっかり見てよぉ」
飯田さんはまんまるな巨体をちぢこませて、ひぃひぃ言いながらボクについてきている。顔をそらしてゾンビを見ようともしない。
「ひぃ……ころ……殺される」
「大丈夫ですって、ほらこうやって引っ張っても大丈夫だし」
ボクはそこらにいたボクより小さなゾンビちゃん(小学一年生)の手を引いて、そのまま飯田さんの身体にピタっとくっつけた。
「ひ、ひぇ」
まるで虫をくっつけられた少女みたいな声だ。
少女はボクだけど……。
「飯田さん。思ったよりもゾンビ避けスプレーが効いているみたいだよ」
「わかってる……。頭ではわかっているんだが、どうにも怖いんだよ」
「そんなに怖がってたらゾンビ捕獲なんてできないと思うんだけど……」
「それは……、そうだな。確かに」
ぶつぶつとなにやらつぶやいていたかと思うと、ようやく決心がついたのか、ゾンビを真正面から捉えることにしたようだ。
飯田さんが目を血走らせて、ゾンビ少女を見る。見る。見る。
「みた……みたぞ。私の趣味ではないが」
「高学年は二階か三階かな」
階段にはゾンビが少しだけ溜まっていた。やっぱりゾンビって階段登るの遅いんだね。下のほうで溜まっていたので、ほんのちょっとだけトンと背中を押して、ボクはゾンビを脇に追いやった。
二階に上がると、プレートには三年、四年と書かれてある。
日がよく当たるせいか、電気がついていなくても十分まぶしい。もしかしたら、バリケードのひとつでもあるかなと思ったけれど、そんなことはなかった。
みんな、元気に死んでいる。
教室をひとつひとつ確認していく。スライド式のドアは小学生でも空けやすいようになっているけれど、さすがに夜間は閉まるはず。つまり、ドアが開いてなければ、中にゾンビはいないはずだ。
けれど予想に反して閉まっていた教室の中にはゾンビが数体固まっていた。綺麗に並べられていたはずの机は、ゾンビが無造作に動いたせいか、ぐちゃぐちゃになっている。
地面に座りこんでいてなにかしている。
えーっと?
うーんと?
ああ、お食事中でしたか。
小学三年生くらいと思しきゾンビが、フライドチキンみたいな感じで喰らいついているのは、大人の女性の腕だった。
はみだした骨がピンク色にテラリと光り、おいしそうにむしゃぶりついている。
おそらく先生だったのだろう、その女の人は体中を引き裂かれてほとんど原型が残っていなかった。
ゾンビ同士のとりあい。無表情に機械的にポリポリと指先を食べ続けるもの。大食いの子もいるらしく、完全に骨になったものをそれでもなおガリガリと食べ続けているゾンビもいた。ほかにも玩具のように腸をこねこねして無邪気な感じに遊んでいたりと、とんでもなくグロい。
「にげこんだ先で追い詰められたというのは鍵がかかってるのが変だし……、噛まれた人がゾンビを誘いこんで、類が及ばないように閉めたとかかな」
「う……」
飯田さんは口元を押さえて何かを我慢している。
吐いたらもう置いて帰っちゃおうかな……。
「えっと一応聞きますけど、この中にはお目当ての子はいますか?」
ブンブンと首を横に振る飯田さん。
まあそうだよね……。
教室のドアは案外開いているところが多かった。
ボクはそろりとスライドドアを開ける。
ゾンビはやっぱり中にいることが多く、最初に見たグロ教室とは違い、みんな教室の中を思い思いにうろついている。
なかには行儀よく椅子に座っている子もいたりと様々だ。
教壇には女の先生が立っていた。
まだ20代の若い先生だと思うけれど、残念ながら顔の半分が食いちぎられていて、赤黒いお肉が覗かせている。
その先生は、アーアーいいながら、ゾンビ小学生たちに何かを語りかけていた。
ボクがドアを開けたことで、一瞬こちらのほうを向いたけど、すぐに興味を失ったかのように元の動きに戻る。
ボクはそっ閉じした。
「まあ、ドアを開けるまでもなく、ここから覗き見れるわけですし、どうぞ」
「あ、ああ、わかったよ」
飯田さんを前に押し出し、確認してもらう。
「いちおう、その……キープで」
「はいはい」
もうボクの態度もかなり投げやりだ。
そんな感じで、六年生の教室まで全部見てまわった。
「どうですか?」
「うーん。けっして悪くないんだが、こう心臓をわしづかみにされるような可愛い子はいなかったな」
「もう、これ以上はいないと思うんだけど」
屋上への扉は閉まっていたし、ゾンビのいる気配はない。
あとは体育館だけど、こちらには数体いるみたい。
だけど、教室の中だけでも結構な数を見てまわったし、いまさらって感じだ。
「あの、どうします?」
と、ボクは確認をする。もし、ここにお目当てのゾンビ小学生がいないのであれば、もう他の小学校を探すしかない。ちょっと遠出になるけどないわけじゃないからね。ボクはもう面倒くさくなってきてるけど。
「うーん。もうちょっと見てまわってもいいかな」
「はいはい」
飯田さんがもう一度教室の中を物色する。
ボクは物憂げな表情で、生暖かくその様子を伺っていた。
どうして――、こんなに必死なんだろうな。
どうせ、みんな死ぬのに。
あれ?
んん?
どうして、いまボクは死ぬって考えたのかな。
ボクには飯田さんを殺そうという意思はない。
もちろん、いますぐにでもゾンビへの攻撃停止命令を解けば、飯田さんは噛まれて一巻の終わりだけど。
死ぬ?
まあ――、人間はいつか死ぬ。
それはまちがいないけれど……。
自分の中に湧いた思考にうまいぐあいに言葉を当てはめることができない。
まあいっか。
ボクはゾンビのように思考停止することを選んだ。
しばらくうろついていると、飯田さんは諦めたように頭を振った。
「だめだな。帰ろうか」
「うーん。わかりました――、じゃあ、給食施設に向かいましょうか」
そこならもしかしたら食料品が残っているかもしれないという判断だ。
視線を転じて、掲示板に目を走らせる。
マップか何かがあれば面倒くさくなかっただろうけど、そもそも給食施設があるとすればだいたいは一階だろうし、すぐにわかるだろう。
それでふと気づく。
かすかな――反応。
視線が向いたわずかな先には、掃除用具入れかなにかのロッカーが置いてあって、そこからほんのわずかな気配がした。
なんでそんなところから、なんて疑問が湧くが、気にしていてもしょうがない。
ボクはすぐにロッカーを開けた。
「うおっ……お、おう、女の子だ」
飯田さんが驚いたような声を出している。
ボクはなかにゾンビがいるのがわかっていたからビックリという意味での驚きはしなかったけれど……、少なからず驚いたのは、その女の子が正統派の日本人美少女だったからだ。
年の頃は12歳くらい。
品の良い制服のような洋服を着ていて、その上から夏だというのに厚手のカーディガンを羽織っている。
見た目はいいところのお嬢さんという感じ。
髪型はパッツンとしていて、濡れたような淡く光る闇色の髪。そして同じく黒曜石のような瞳が遠く宇宙の果てを見つめるように、こちらを見返してきている。
外傷はない。
ボクは女の子の身体を観察した。足もおなかにも特に傷はない。でも、夜着でもないから、この子はゾンビに襲われた確率が高い。
あ、少しカーディガンが破れている。
脱がせてみると、上手い具合にというべきなのか、不幸にというべきなのか、手首のあたりにほんの少しだけ歯形がついていた。
「あれ?」
でも、ギリギリ貫通する程度だったせいか、赤黒い跡はなく、その華奢な身体にはほんの少しだけ押し込まれたような痕しかついてなかった。
(かさぶたみたいになってる?)
ゾンビも自動修復機能がついているんだ。生命の神秘というか死体の神秘というか、奇妙な感動を覚えながら、ボクは脱がせていたカーディガンをまた着せていく。
自然と密着する感じになる。顔がわずか三十センチほどの距離。身長も近いからかな。この子なら、たぶん――飯田さんも満足するだろう。
それぐらい、恐ろしいほどに均整がとれている。
ゾンビだけど美少女オーラがすごい。
「あ。もうちょっと待ってね。ちゃんと着せるから」
問われているわけでもないのに、ボクはその女の子に声をかけ、
それから――
不意に。
目があった。
あ……れ?
いままでゾンビなお姉さんやそのほかのゾンビとも目があったり、動きを視線で追いかけられたりしたことはあるけれど、そういうような偶発的なものではなく、明確な意思のようなものを感じた。
意識が……引っ張られる。
★=
その日は空が明るかったのを覚えている。
私は真夜中まで夜更かしして、家の屋上に天体望遠鏡を置いて、お兄ちゃんといっしょに、彗星がたなびく様子を見ていた。
空は青白く光っていて、ほうき星は尻尾のように長く伸びて、夜空に星の粒子が降りそそいでいるみたいだった。
私は、綺麗だなって思って。
こころの中が感動でいっぱいになって、もう六年生にもなるのに泣いてしまった。
だからかな。
おなかがいっぱいになったときに眠くなるみたいに、わたしはそのまま望遠鏡を覗きこんだまま、眠ってしまったんだ。
それが終わりの始まりとも知らずに。
「恵美……恵美……起きろ!」
遠くでサイレンの音が鳴っていた。
目が覚めると、私は自分のお部屋で寝かされていて、お兄ちゃんは焦ったように声をはりあげている。
「んん。どうしたの?」
「恵美。テロリストがたくさん近くで暴れてるらしい。いますぐ家を出なきゃならない。荷物を準備してくれるか?」
私はお兄ちゃんの言ってることの意味が理解できなかった。
テロリストなんて遠い外国の話で、私には関係のないことだと思っていたから。けれど、お兄ちゃんの額には目に見えるほどの汗が浮かんでいて、握りこぶしが震えているのが見て取れた。その必死な様子に、私はうなずかなくちゃいけないと思った。
すると、ほっとしたのか、お兄ちゃんは床においてあったバットを手にとって、部屋の外にでていく。そのとき、バットには部屋が暗くてよくわからなかったけれど――見慣れない黒い痕がついているように見えて、私は無意識に腕の筋肉に力が入るのを感じた。
サイレンの音が鳴り止まない。
どこか遠くから叫び声があがっている。
どうしよう。どうしよう。どうしよう。
何が起こったのかもわからないまま、私の中の不安が風船のように膨らんでいく。ともかく――、お兄ちゃんに言われたとおりにしなくちゃ。
だから私は言われたとおりに着替えて、最低限の着替えをリュックにつめた。お兄ちゃんは部屋の外で待っていた。
「恵美。できるだけ厚い服を着とけ」
「え、暑いよ」
「頼む」
必死の表情。いままで私をからかったりしながらも、優しかったお兄ちゃんは、このときばかりは余裕がない笑みを浮かべていた。私は冬用のカーディガンを羽織る。夏だし、少し汗ばんでしまうくらい暑い。
「ねえ……、お兄ちゃん。お母さんとお父さんは?」
廊下を出ると、お兄ちゃんは片手にバットを握り、もう片方の手で私の手を引いていく。
寝室には向かわない。お父さんとお母さんが寝ている部屋を横目に、お兄ちゃんは玄関に向かおうとする。
私は抵抗した。
「お兄ちゃん! お母さんとお父さんを置いていくの!?」
お兄ちゃんは私の言葉を無視して歩みを進める。
どうして? どうして聞こえないふりをするの。
玄関口は光が灯っていて、バットについた黒い痕が赤い血だと気づいた。
イッタイ誰ノ血ナンダロウ……。
心臓が痛いぐらいに鳴っている。お兄ちゃんは黙ったままだ。
「お兄ちゃん……」
「くるんだ。恵美……なぁ、頼むよ」
懇願するようなお兄ちゃんの声。
でも、そのとき――、ドンと寝室のドアを叩く音が聞こえた。
やっぱり、お母さんもお父さんも生きている。
そのときの私はそんなことを思って――、寝室に向かって駆け出す。お兄ちゃんが焦ったような声をあげたけど、今度、無視するのは私の番だった。
ガチャリ。
やけに重苦しい感じがして、ドアがゆっくりと開け放たれていく。
「ひっ……」
そして、月明かりに照らされた暗い部屋の中では、なにかよくわからないマネキン人形みたいなのが転がっていて、それが――誰のものなのかはっきりと理解してしまって、けれど心は理解したくなくて、私はその場で立ちすくんだ。
お母さんが死んでいた。
頭が割れて、中からクリーム色をしたぐちゃぐちゃとしたものが飛び出ている。
光を失った瞳は、ずっと遠くを見ているようで、なにも映していない。
その視界は突然塞がれた。
すっと横から現れたのは、お父さんだった。
「おと……」
うさん。といおうとした。
いや違う。
それはもうお父さんじゃなかった。
優しくて、ときどき私がわがままをいってもなんでも聞いてくれるお父さんじゃなくなっていた。
お父さんだったモノは私をただの食べ物と見定めて襲いかかってきた。
私はその場で目をつぶり、すとんと腰をおとしてしまう。
「うおおおおおおおおああああ!」
横から駆け寄ってきたお兄ちゃんがバットをふりまわし、お父さんの形をしたそいつにヒットする。
首が変なふうに折れ曲がり、ごきごきと嫌な音を響かせながら、再びたちあがろうとするそいつ。
お兄ちゃんは叫びながら――泣きながら、そいつの脳天にバットを振り下ろした……。
★=
家の前では逃げ惑う人たちがいた。
大きな道路は車が何台も止まり、そのうち一台が街路樹に衝突したのか、火と煙を吹いている。
私はお兄ちゃんに引きずられるように走った。
どこをどう走ったのかは覚えていないけれど、気づくと見慣れた私が通う小学校の前に来ていた。
校門の前にはジャージ姿の体育の熊谷先生がいて、私たちを迎え入れてくれた。
「お前たち。無事か」
「はい……」
お兄ちゃんは力なく答える。
「はやく中に入れ。ここももう持たん」
揺らめくようにやつらが現われる。
何十にも何百人にも膨れ上がってる。たぶん、外に餌が溢れてるから、やつらもたくさん出てきてるんだ。
私とお兄ちゃんはすぐに校門の内側に入り、それを見届けた熊谷先生は、校門を閉めた。
「まって。まってくれー。オレも中に入れてくれ!!」
突然やつらの大群の中から、ひとりの男の人が飛び出してきた。痩せた大人の人だった。肩をかばうように走っていて、やつらとそんなに走るスピードが変わらない。
「いそげ!」
熊谷先生は叫び、再び扉を開け放つ。
ギリギリの距離。
やつらが迫り、男の人は必死に駆けている。波が押し寄せるみたいに四方八方からやつらが来て、男の人との距離をつめる。
このままじゃ捕まっちゃう。
熊谷先生が手に持った竹刀を突き出した。
やつらの先頭にいたソイツは、先生の突きを受けて後ろに吹っ飛んだ。
右手でかつぐようにして、なんとか校門の中に入り、お兄ちゃんと数人の大人たちで校門を急いで閉める。
「ふぅ……助かりました!」
その男の人は額の汗をぬぐい、それから力なく笑った。
「大丈夫か」
「ええ……痛みはそんなにありませんし」
「やつら、スライドさせる知能はないみたいだな……」
学校の校門は鉄製の重い作りをしていて、横にスライドさせて開けるようになっている。それなのにやつらは校門に向かって手を突き出すばかりで、横に開けるという発想がないらしかった。
「鍵を閉めたいところだが、あいつらが腕を伸ばしていると危険だな。ひとまずはこれで様子を見るしかあるまい」
そんなやりとりを聞きながら、お兄ちゃんのほうを見上げてみると、とても思いつめた顔をしていた。
私たちは体育館に集まった。人数は百人くらいかもしれない。クラスメイトも何人かいたけれど、家族といっしょにいたから、声をかけづらかった。
みんな、ここに来るまでに、何か大事なものを失くしてしまったのだろう。
不意に、心の中にぽっかりと穴が開いたような、そんな心もとない感覚がした。
周りから聞こえるすすり泣く声に釣られて、思い出さないようにしていたさっきのシーンが再生される。
お母さん……お父さん……。
「嫌あああああああああああああああああああ」
突然の絶叫が響き渡った。
見ると、体育館の隅にいた友達のユウちゃんが首元を、ユウちゃんのお父さんに食べられていた。
「いだああい。おとうさあん。やめでえええええ」
もがき続けるユウちゃん。
周りの大人は必死に引き剥がそうとするけれど、ユウちゃんの身体からは力が失われ、パタリと力なく垂れ下がる。
ユウちゃんのお父さんはさっきまでいっしょに逃げていたのになんで。
「感染しているんだ。ゾンビといっしょなんだ」
お兄ちゃんが独り言をつぶやく。ゾンビ? それって映画とかの?
ざわつき始める館内。
ユウちゃんが――ゆらりと起き上がった。
「いくぞ。恵美。ここも危険だ」
「でも、どこにっ!」
外も危険。ここも危険。逃げる場所なんてどこにもない。
でも、それはお兄ちゃんも同じだったのかもしれない。
ともかく、ここじゃないどこかへ。
私とお兄ちゃんは騒ぎの中からいち早く逃げ出して校内に向かった。後ろからは既にやつらになってしまった幾人かが、体育館から現われる姿が見えた。
「あ、は、はははははは。なんだよそれ。マジでゾンビかよ」
あの熊谷先生に助けられた男の人が、狂気に爛々と瞳を輝かせ、狂い笑いながら、駆け出していく。
その先は――、校門だった。
男は地獄に引きずりこまれる亡者のように、校門から伸びるゾンビに捕まってしまったが、そのまま身体を倒すようにして、門を少しだけ開けた。
そこから先はゾンビの影に見えなくなってしまいよくわからなかった。
ただ、男の人は奇妙なほどに安心しきった表情をしていて、逆に不気味に思えた。
校内にゾンビが溢れる。
暗い校舎内では、走ってくる人、生きている人、ゾンビが入り混じり、誰が誰だかわからない。
怒号と悲鳴と唸り声が同時に上がり、息が切れた。
どうして――生きているんだろう。
どうして、生きているんだろう。
お父さんもお母さんも死んだのに。どうして私はまだ生きているんだろう。
酸素が足りなくて朦朧とする意識の中で、私はお兄ちゃんに手をひかれて走る。
走る――。
お兄ちゃんも私も危険から逃れるという本能に従って、上を目指すぐらいしか頭になかった。
走る――、
階段を駆け上がるときに筋肉が痙攣し、私は転んでしまった。
もう走れない。
お兄ちゃんは振り返り、絶望の表情になる。
私が立ち上がると、そこには友達のユウちゃんが虚ろな目で私を見ていて、こっちにおいでと誘っているようだった。
気づくと私は、ユウちゃんに噛まれていた。
カーディガンを通して、注射のときのような鋭い痛みが襲ってくる。
また、あのときみたいにお兄ちゃんがバットを振るった。ユウちゃんは頭蓋骨の形が変な風に曲がって、それから動かなくなった。
私も……、そうなっちゃうのかな。
破れたカーディガンを私は見つめる。
「お兄ちゃん……」
「いくぞ」
そのときのお兄ちゃんの表情は、まるでお母さんに叱られたときみたいに、変な風に歪んでいた。
廊下の暗がりの中から、ゾンビが迫ってきている。
屋上への扉は閉まってるはずだし、これ以上先はない。
もう、終わりだ。
なにもかも。
お兄ちゃんは廊下の真ん中あたりで止まって、膝をついた。
「恵美。このままじゃ……どっちも捕まっちまう。だからさ」
ああ……、そうなんだって思った。
お兄ちゃんは私を見捨てるほかなくて、でも見捨てるという明確な行為をすることができなくて、ロッカーに隠れているように言ったのだと思う。
「必ず迎えに来るから……だから、恵美、待っててくれ」
最後に聞いた言葉が、私には『許してくれ』といってるように聞こえた。
だから、私は精一杯の笑顔で。
笑みを浮かべて、送り出した。
暗闇に閉ざされた視界の中で、お兄ちゃんが必死に戦っている。生きようとしている。生きてほしいと思った。私のわがままかな。
腕の辺りからは冷たい感覚が立ち上ってきて、私の視界は徐々に暗くなっていく。あまり痛くはないのが救いかもしれない。こんなひとりぼっちの空間で死んでいくのが救いかもしれない。
ゾンビに食べられなくて――、人を食べなくてよかったと思うから。
早く配信したいです。超絶かわいい終末配信者として名を馳せたいです。