君に好きだといいたくて   作:stright

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ギリギリセーフ?今回も過去最長を更新。長いなあ。

お気に入り登録、評価、感想ありがとうございます。とても励みになります。

今回は急展開な部分、暴力的な部分も少しあるのでお気を付けください。

タグ増やした方がいいかな。






 カンカンに焼いた中華鍋で油を熱する。そして油が跳ねる前に刻み葱と1㎝ほどの大きさに切った焼き豚をいれ、それら木べらで軽く炒める。

 ジュージューと音を立てて焼かれていくそれらを見て、火が通ったのを確認してから木べらを置き、溶き卵と硬めに炊いておいた米を素早く投入。用意しておいたお玉を取り出し具と卵、米をよく混ぜて、ごうごうと強火で熱せられた鍋を振るう。

 以前は中華鍋を持つことだけでも苦労したものだが、今ではこうして重く大きい中華鍋を片手で振るうことができるようになっていた。日々の鍛錬の成果である。勿論長い時間振り続けるのはいまだに難しいけれど。

 現在、俺は中学2年生になっていた。小学4年のあの頃から努力に努力を重ねた俺は、5年生の中頃になるくらいには、餃子以外の店のメニューを作れるようになり、調理を任されることも多くなっていった。しかしこうしたチャーハンのような腕力が必要になるものに関しては別である。そういったものに関しては危ないからという理由で調理を任されず、父が行うという形になっていた。

 それを子どもながらに悔しく感じた俺は、自分を鍛えることを始めた。確かに俺が求めていたのはラーメンを作ることであったが、男である以上力に憧れを持たないわけではない。俺だって重い中華鍋を軽々と振るって、おお~って言われたい。

 それに腕っぷしが良いことは男として自慢になる。好きな女の子に自分のかっこいい姿を見せたい。そんな風に考えるのは思春期の男としては当然の反応だった。今では服の下に隠された細いが引き締まっている筋肉が自分のちょっとした自慢となっている。見せる予定は悲しいことながらないが。

 額に汗がにじむのを感じながら、中華鍋をテーブルの上にある敷板に置く。それから炒めたチャーハンを丸みのある茶碗にいれて軽くお玉で押し付け、それに上から皿を乗せてひっくり返す。そして軽く粉末バジルをかければ、ほかほかと湯気を立てる黄金色のチャーハンの完成だ。

 完成した料理を前に満足げに一息つく。そしてすぐにそのアツアツのチャーハンと昨晩から準備しておいた中華スープ、父特製の餃子をお盆の上に並べる。そしてお盆を片手に厨房から出ると、そこには以前とは比べ物にならないほどのお客で店が埋め尽くされていた。

 がやがやと騒がしい店の中を歩き、目的の場所へと向かう。途中途中で顔なじみの常連の人たちに声をかけられながらも、笑顔でそれに対応して、料理を運ぶ。

 

「お待たせいたしました。チャーハンセットでございます」

「お。待ってたよー。どうもどうも」

「いえいえ。ごゆっくりどうぞ」

「ありがとねー」

 

 一礼してその場を離れると、今度は同じく厨房から出てきたらしい父がこちらを手招きしている姿が見えた。客にぶつからないように配慮しながら父のもとへ向かう。そしてすぐそばに近づくと、父は声を潜めながらこちらに話しかけてきた。

 

「翔よ。こっちはもういいから準備を始めていいぞ」

「大丈夫? 親父。今日は結構混んでるけど」

「大丈夫だ。何とかする。それより今日はあの子が来る日だろう。そっちのほうが大事だ。この店のためにも——何よりも愛する息子の将来のためにもな」

「やめろって。……わかった、ありがとう。こっちは頼むわ」

 

 にやにやと笑いながらおうと答える父を小突いてから、足早に厨房へ向かおうとすると、からからと戸が開く音が聞こえた。音の聞こえた方に目戦を移す。するとそこには4年たったことでますますその美しさに磨きがかかった美少女――小泉さんが立っていた。

 きょろきょろと店内を見渡し、こちらが自分を見ていることに気付いたのか、いつかのように彼女はこちらの姿を見つけると軽く会釈を返してくれた。

 それに軽く手を振り、俺は笑顔で彼女のもとへ向かう。出会った当初は傍に近づくだけで緊張し、うまく言葉が出せなくなるくらいであったが、今となっては心臓の鼓動は早まるものの、ある程度自分で緊張をコントロールできるようになった。それだけ長い間彼女との縁を途切れさせないでおくことのできた自分を誇らしく思う反面、4年たった今でもこれだけ緊張している自分に対し呆れにも似た感情が湧き出してくる。

 

(まあでも、しょうがないか)

 

 あの日彼女に出会ってから現在に至るまで、自分の中の熱が収まることはなく、むしろどんどん大きくなっていくのを俺は感じていた。

 彼女と過ごし、彼女のことを知っていく中でもっと彼女のことが好きになったし、彼女の笑顔をもっと見たいと思うようになった。自分でも馬鹿みたいに思えるくらい、俺は彼女に惚れていた。

 しかし俺はその感情を外に出したことはなかった。今の彼女との関係は心地よくて、それを崩してしまうことが怖かったからだ。俺がこの気持ちを彼女に伝えることで彼女がいなくなってしまうことを想像するだけで、涙が出そうになった。女々しいのはわかっているが、元来俺は小心者である。今の関係を維持することだけで現在の俺は精一杯だった。とんだビビりである。

 少し自己嫌悪に陥りながらも、小泉さんの前に立つ。すると彼女はいつもの無表情のままこちらを見上げ、その小さくて艶のある口を開いた。

 

「こんばんは。中華くん」

「こんばんは。いらっしゃいませ、小泉さん。いつもありがとう」

「いえ。私としてもラーメンを食べることができるのは嬉しいので。むしろこちらこそ感謝しています。ありがとうございます」

 

 彼女の律義な姿に思わず苦笑する。そう。今となっては彼女はこの店の常連客となっていた。大体週に1回のペースで彼女はここに訪れている。それというのも俺がお願いした結果の表れだ。

 きっかけは4年前のある日父に言われて他の店のラーメンの味の偵察に行ったことだった。店に向かった俺は何の因果か偶然同じ店にラーメンを食べに来ていた小泉さんと鉢合わせた。なし崩し的に一緒にラーメンを食べると、待っている間に彼女はその店のラーメンに関する知識を披露してくれた。何も知らなかった俺は彼女の持つ知識に感心しきりで、彼女もどこか得意げにしていたのをよく覚えている。

 ラーメンを食べ終えて店を後にした俺は、すぐに頭を下げて必死に彼女にラーメンについて教えてほしいと頼み込んだ。うちの店に関する知識しかなかった俺にとって、彼女の持つ知識は宝の山である。彼女においしいラーメンを食べてもらいたい俺としては、その彼女に教えを乞うことに抵抗がなかったわけではなかったが、それを振り切ってでも教えてもらいたいと思えるほどには彼女の解説はわかりやすかった。

 頭を下げる俺に対し最初は困惑しながらも、どこか呆れた声で彼女は了承してくれた。それからは月に1度、基本的には定休日である第3日曜日に一緒にラーメン探索に向かうようになり、ともにラーメンを食べながら小泉さんの解説を聞くということをするようになった。長期休みなどを利用してラーメン散策の旅に出たこともある。詳細は省くが北は北海道、南は沖縄まで様々なところに行ったとだけ言っておこう。

 それに加えて勿論個人的な研究も続けた。気になったラーメンの店は必ずチェックし、思いついた発想はとことん試した。そうして研究を重ねていくうちに楽しくなってきた俺は、どんどん新しい創作ラーメンを作るようになっていった。そのせいもあり初めのうちは月に一度その成果を振舞うという約束だったが、月に2回、月に3回とその回数も増えていった。それに彼女は毎回快く付き合ってくれた。

 何度か心配して無理に付き合わなくてもいいよと小泉さんに言ったのだが、問題ありませんとその度に返された。その返答を聞いてやる気を出した俺は、小泉さんのためにもと、どんどんラーメン作りに没頭するようになったのだった。

 

「あはは、じゃあお互いさまということで一つどうかな」

「はい。わかりました」

「うん、ありがとう。それじゃ席に案内するね。一名様ごあんなーい」

 

 お願いしますと呟く彼女を時折常連の客にからかわれながらも連れていく。ちらりと彼女の方を見てみると、彼女は特に動じた様子もなく、その美しい顔に変化は見られなかった。それに肩を落としつつ、彼女をいつもの指定席に案内する。

 小泉さんを案内したその席は、彼女が初めて来店した際に案内したカウンターの席だ。この4年の間、彼女が来てくれた際にはいつもこの席に来てもらっている。いつも念入りにきれいにしているその席に、彼女は気品ある所作で腰かけた。

 席に着くと彼女はおもむろにカバンからどこか見覚えのある赤いリボンを取り出し、その長く美しい金の髪を頭の後ろで縛りポニーテールにした。それに思わず笑みがこぼれると、彼女は怪訝そうな顔をしながらこちらに問いかけてきた。

 

「どうしたんですか。にやにやとして」

「いや? そのリボン使ってくれてるんだなって思って」

「……使わないのももったいないですから。有効活用しているだけです」

「そっか。ありがとう」

「……いえ」

 

 そういって照れたように少し目をそらす小泉さん。その姿にまた嬉しくなって笑みを溢す。

 少し前、日ごろの感謝の気持ちを込めて贈ったプレゼントのリボン。彼女の紅の瞳とその黄金の髪に映えるだろうと思って選んだ品。見立て通りとてもよく似合っている。あの時ラーメン以外の贈り物に彼女は少し戸惑いを表しながらも、拒否することはなく受け取ってくれた。

 小泉さんは今、それをこうして目の前で付けてくれている。先程もそうであったが、こうした律義なところが数多くある彼女の良さのひとつである。そんな姿を見ることで俺はますます彼女のことが好きになるのであった。

 そんな風に笑っていると、彼女は少し居心地が悪く感じたのか誤魔化すように咳払いをしてから、どこか急かすように話しかけてきた。

 

「んん。それはいいので、そろそろお願いしてもいいですか」

「はい。わかりました。少々お待ちください!」

 

 笑顔で彼女から注文を受け取り厨房へ向かう。この4年で何度も交わしたやり取り。それに心を躍らせつつ、あらかじめ準備しておいた材料を手早く取り出し調理を始める。

 手慣れた手つきでタレを器に流し、ダシと混ぜ合わせてスープを作る。ほかほかと湯気を上げるスープにすぐさま硬めに茹で上げたストレート麺を盛つける。そして今回の一番の目玉であるあるものを表面に乗せていく。トッピングとして煮卵と長ネギ・青ネギ・煎りゴマを適量加えて完成だ。

 完成した品をお盆に乗せて、小泉さんのもとへ向かう。厨房から出ると一瞬店内が静まり返るのを感じた。周囲から視線を向けられているのがよくわかる。いつものことだ。そんな周りからの視線を感じながらもラーメンを運び、小泉さんに差し出した。

 

「お待たせいたしました。小泉さん」

「ありがとうございます。……ワンタンメン、ですか」

「その通り!今回作ったのは、特製ワンタンメンだよ」

 

 そう。先程ラーメンの上に乗せたのは父監修のもと何度も失敗しながら作り出した特製ワンタンである。この店の長所の一つである餃子とラーメンを組み合わせた作品だ。

 これまで様々なラーメンを作ってきたが、何気にこうした組み合わせをとることは少なく、この間コンビニに並べられたカップ麺のラベルを見て、そういえばまだやってないなと思いついた品である。

 今回ワンタンメンを作るのを決めた時から父に師事してもらったのだが、「ワンタンも餃子の一種。餃子を作るとなったら手加減はできないぞ」と父は目の色を変え、今までで一番厳しく熱が込もった指導を受けることになった。何度か泣きそうになった。

 それでも何とか及第点をもらい、試行錯誤しながら日々作り上げてきた特製スープに合うように材料を組み合わせた。ポイントは豚ではなく鶏の挽肉を使った点である。鶏がらベースのダシを扱ううちのラーメンに合う形を追求した結果だ。

 惜しむらくはワンタンの基本を身に着けることに時間を使い、あまり香辛料の組み合わせの研究はできなかったことだが、満足できるレベルにはなんとか達することができたと感じたため今回は良しとした。

 目の前に置かれたラーメンを小泉さんはじっと見つめ、それからおもむろに箸立てから箸を取り出し手を合わせると瞳を閉じる。彼女のラーメンを食べる際に行う儀式だ。それを俺は傍らで笑顔のまま見守っていた。

 

「いただきます」

 

 そう言って小泉さんは一礼し、その瞳を力強く開くとラーメンに取り掛かった。いつものどこか儚げな雰囲気とは対照的に、今の彼女は戦う戦乙女のような雰囲気を醸し出している。

 ここ数年彼女の傍にいて分かったことだが、ことラーメンのことになると彼女は人が一変する。普段はあまり話さないが、ラーメンに関する事柄に対しては饒舌になるし、普段は潜めている親しみやすさが全面に押し出されてくるのだ。また彼女はその可憐な姿からは想像できないほどの健啖家である。彼女に自覚はなさそうではあったが。その姿に初めはあっけにとられたものの、そのギャップがまたたまらなく良いと俺は感じた(そのことを友達に話してみると理解できないものを見るような目で見られた。なんでだ)。

 そして何よりもラーメンが関わっているときの小泉さんはとても楽しそうである。普段はそっけないことも多いが、それ故にその姿が際立って見える。いつまでも見ていたいと思えるくらいには、その時の小泉さんは魅力的だった。

 店内から彼女を見る視線を感じる。ごくりと唾を飲み込む声が聞こえた。無理もないかもしれない。小泉さんは本当においしそうにラーメンを食べる。見る者を魅了するその姿は、必然的に周りの食欲を誘うのだ。

 少し遠くの席にいる客がラーメンを注文する声が聞こえた。すると追従するかのように、ラーメンの注文が殺到する。それにあたふたと対応する父と最近雇い始めたバイトの方の忙しそうな姿が横目で確認できた。

 こういった光景も、今では風物詩のようなものだ。何故なら彼女が店の常連となってから、この店は以前より繁盛するようになったからだ。原因は言うまでもなく小泉さんである。

 あれは小学6年に上がる前のことだったか。それまで彼女が来るときは客が少ないことが多かったのだが、その時は珍しく席が埋まり気味でいつもより客が多かった。そこに小泉さんがやってきて、いつものように研究の成果を彼女に御馳走していたのだが、ラーメンを幸せそうに食べる小泉さんの姿を見て、食欲をそそられた客がラーメンをどんどん注文するようになっていった。

 そんな感じのことが何度か続き、俺の努力の成果もあり評価が良くなっていたラーメンのことも合わさって、口コミから店のことが伝わり、近所だけでなく少し遠くの場所からも客が集まるようになっていった。客が集まり始めたことに親父は嬉しい悲鳴を上げていた。

 そんな知らずの間に店の救世主となっていた小泉さんの姿を見つめる。すると彼女はすでにスープへととりかかっていた。

 あっという間の出来事だった。ちょっと目を離した隙にこれである。もっとその姿を見ていたかったのだが。それを少し残念に思いつつ、彼女が食べ終えるのを待つ。器から口が離れると隠されていた、まさに花開いたような笑顔の彼女の姿がそこにあった。

 何回見ても飽きない可憐で美しい笑顔だ。普段の無表情な感じも好きだが、やはり一番はこの顔をした小泉さんである。そしてそれを作り出したのが俺のラーメンであること、それがとても誇らしい。この笑顔が見られることが何よりも報われた気持ちになる。だから俺はこの瞬間がたまらなく好きだ。

 喜びをかみしめて震えていると、彼女は縛っていた髪をほどき、ストレッチャーに入った水をコップに入れて飲んでいた。

 水を一杯飲み、一息つく小泉さん。その顔はラーメンを食べた喜びからか僅かに緩んでいた。しばらくの間彼女はそうやって余韻に浸っていた。

 1分後。正気に戻った小泉さんは佇まいを直し、こちらに向き直った。

 判定の時間である。いつも食べ終わった後に小泉さんにはラーメンの批評をしてもらっている。彼女の持つ膨大なラーメンに関する知識から下される評価は的確で、とても参考になるからだ。たまに心が折れそうになるくらいのことを言われる時もあるが、その度にラーメンに関して妥協を示さない格好いい彼女の姿を見ると復活する。そして彼女の呆れたような顔を見るまでがワンセットだ。

 彼女には俺のラーメンに関しては常に厳しめの評価をお願いしているので、毎回とても緊張する。バクバクと跳ねる心臓の音が聞こえた。もう何回も行ってきたことだというのに、いまだに慣れない。そんな様子の俺をしり目に、彼女は言葉を確かめるように目を閉じながら数度頷く。そして考えがまとまったのか目を開け、ゆっくりと口を開いた。

 

「悪くないですね」

 

 おお~、という声が聞こえる。かくいう俺もとても安心していた。この言葉が最初に出るということは、感触は悪くなかったということだ。

 彼女は物事をはっきりと言う質なので、オブラートに包むということはあまりしない。そのためダメなときはダメ、良い時は良いとストレートに伝えてくれる。だからこそ初めの一言で粗方の印象が分かるのである。悪くないという評価ということは、今回はアタリだということだ。本当に良かった。

 彼女は胸に手を当てて安堵する俺を一瞥すると、今度は器に視線を移し批評を始めた。

 

「このワンタンメンの特徴としては――――」

 

 そうやっていつものように美しい声によって紡がれる解説を、その一句一言を聞き逃さないよう姿勢を正して彼女に向き直った。

 懐から常備するようになったメモ帳とペンと取り出し、彼女が上げていくポイントをメモする。良かった点、悪かった点、改善点、彼女なりの考察などなど。彼女のラーメンへの造詣の深さから導き出される意見にはいつも驚かされるばかりだ。

 挙げられてくるものを頭に刻みながら、時には質問、意見を交えて議論をしていく。段々とヒートアップしていき、時折声を荒げながらもいくつもの意見を交わしあった。周囲の人たちは「また始まった……」と微笑ましいものを見るような目をした後、自分たちの食事へ戻っていった。

 店の中が閑散としてきたころに父に声をかけられて議論を終える。お互いに息を整えて礼を言い、席を立つ小泉さんを店の外まで見送る。彼女の姿が見えなくなったのを確認してから、店の手伝いに戻った。

 閉店後、店を締め翌日の仕込みを終え、俺の作ったまかないを父と食べた後厨房で習慣となった反省会兼研究会を始めた。

 メモを読みながら先日作ったワンタンメンのレシピに改良点を書き加える。赤い文字があふれていくレシピに顔を引きつられながら、青ペンで考察を書いていく。

 ある程度書いた後、棚から今まで作ってきたラーメンのレシピが収められているファイルを取り出してその中に入れようとすると、既にファイルの中はいっぱいになっていた。

 代わりのファイルを探すが見当たらない。少し前にまとめて買ってきたはずなのだが、どうやらいつの間にか全て使い切ってしまっていたようだ。

 

「新しいのをまた買ってこないとな……」

 

 明日帰りに買って来るかなー、とひとり呟き厨房の電気を消し二階にある実家に上がる。自室から着替えを取り出して風呂へ向かい体を簡単に洗うと部屋に戻る。そして早々に布団に入り、今日のことを振り返りながら目を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 次の日。ジリジリと鳴る目覚まし時計の音を聞いて目が覚める。自室のカーテンを開けるとまだ薄暗い空が見えた。

 一度背伸びをして窓から離れクローゼットからジャージを取り出して着替える。ストレッチをして体をほぐした後、手足にウエイトバンドを取り付け表へ出る。この時間だとまだ外の空気は冷たくひんやりとしていた。それに僅かに身を震わせてから、軽く屈伸をして走り出す。

 火照る体に冷えた空気が心地よい。初めは緩めに徐々にペースを速め、最後にはトップスピードに近い速さで走る。

 初めた当初は辛いだけだったこのランニングも、日課となった現在ではこの風を切る感覚が楽しく感じてきた。大分速いペースで走れるようにもなっており、やりがいも感じている。以前体育の授業で部活にも入っていないのに速いなと先生に褒められたこともあった。素直に嬉しかった。

 ランニングを終え玄関に用意してあるタオルで汗を拭いた後、シャワーを浴び制服に着替える。それから朝食の準備に入った。

 朝のランニングが日課となってからは、料理の練習も兼ねて俺が朝食を用意することになった。早々と支度を済ませ、父が目を覚ますまで昨日のレシピを取り出して復習をする。

 1時間後、香辛料の調合を試作しているとたんたんと階段を下りてくる音が聞こえた。すぐに目の前のドアが開き、案の定父の姿がそこにあった。

 

「おはよう、翔」

「おはよう、親父。朝食の支度はできてるよ」

「おう。わかった。いつもすまんな」

「いいって」

 

 軽く手を振って返事をし、テーブルの上に広げていたものを片付ける。そして準備しておいた朝食を並べて席に着く。対面に座る父とともに手を合わせていただきますと唱えた後、黙々と朝食を食べ始める。

 10分少々で互いに食べ終え、流しに食器を置き部屋へ戻る。机の脇に置いたエナメルバッグを肩にかけ、玄関へ向かう。途中で食器を洗う父に声をかけ、玄関に飾ってある母の写真にいってきますと言ってから家を出た。

 見慣れた町の風景の中のんびりと学校へ向かう。少し早い時間に出たからか、周りに同じ制服の生徒は見当たらない。しばらくぼんやりと辺りを見渡しながら歩いていると、少し前に見慣れた金の髪を揺らしながら歩く小泉さんの姿を見つけた。少し速足で彼女の傍に近づいて声をかける。すると彼女はゆっくりと振り返った。

 

「おはよう、小泉さん」

「おはようございます、中華くん。相変わらず早いですね」

「小泉さんこそ。どうしたの? こんな早くに」

「はい。今日は順番的に授業で指される可能性があるので、課題の見直しも兼ねて復習をしようかと思いまして」

「なるほど。……ところで小泉さん、ものは相談なんだけど」

「お断りします」

「まだ何も言ってないよ!」

 

 即答である。愕然とする俺をちらりと見て、彼女は呆れたようにため息をつく。それから

 

「貴方のことですから、どうせ課題を見せてほしいとでも言うつもりだったのでしょう」

「う」

「課題というのは自分の力でやるものです。そもそも提出期日まで時間はあったのですから、終わっていないのはあなたの自業自得でしょう。私が見せる義理はありません」

「うう……」

 

 ド正論である。返す言葉もなく、肩を落とし落ち込む俺。ラーメンの研究をするようになってから、没頭すると学校の宿題などのことをよく忘れるようになった。だからこそ俺はこうやって朝早めに学校に行き宿題をすることを習慣づけるようになったのだが、いかんせん元の頭の作りが良くないせいか俺の成績はそこまで良くはない。そのためギリギリ終わらずに時間切れということが往々にしてあった。

 今回も例にもれずギリギリである。しかも今小泉さんが言った課題は俺の苦手な数学のものである。終わる気がしない。絶望的な気分に浸っていると、小泉さんはちらりと俺のほう見て

 

「課題を見せることはできません。……ですが」

「?」

「ですが、貴方が自力でやってから分からない部分を教える、ということであればかまいません」

「ほんとに!?」

 

 嬉しくなって小泉さんの方へ顔を向けると、彼女は視線を反対側へとそらしていた。照れているのか、目を合わせようとはしてくれない。それでも彼女の優しさに胸が温かくなるのを感じた。朝からとてもいい気分である。今日はいい一日になりそうだ。

 それから小泉さんと一緒に学校へ向かう。交わす言葉は多くはなかったけれどとても満ち足りた気持ちになれた。昇降口につき、下駄箱へ近づく。下駄箱の戸を開き靴を入れ、上履きを取り出す。上履きを履いてから視線を上げると、下駄箱を開けたまま立ち止まっている小泉さんの姿があった。

 

「どうしたの? 小泉さん」

「中華くん」

 

 俺の名前を呼びこちらを振り返る小泉さん。その手元には、何やら白い封筒があった。まさかあれは。

 

「もしかしてラブレター? 久しぶりだね」

「はい。久しぶりです。最近はなかったのですが」

「一時期は凄かったよねー。毎日のようにもらってたし」

「ええ」

 

 あれは大変でした……と疲れたようにつぶやく彼女。その姿に乾いた笑いが漏れる。中学に入ってからの彼女を知っているからこそ、その苦労が浮かばれる。

 小学校の頃は遠巻きに見られるだけだった小泉さんは、中学に入ってからは打って変わったようにモテだした。当然であるがその天使のように綺麗な容姿に加えて、神秘的な雰囲気を持つ彼女は、町中に入れば10人が10人振り返るであろう美少女である。俺たちの通っていた小学校だけでなく、付近の別の小学校からも人が集まる中学校において、入学当初から小泉さんは注目の的だった。

 そんなわけで、入学してから1週間もたたないうちに彼女にお近づきになりたい男子が殺到した。中には上級生で学校の人気者的な先輩もいて、いろいろ騒ぎにもなったものだ。

 そんな周りの様子を見て、当時の俺は彼女が誰かと付き合ってしまうのではないかと戦々恐々としていた。告白をしてきた中には俺よりもずっと格好いい先輩や同級生もいたからだ。毎日学校や店に来る彼女の様子が気になってしょうがなかった。

 でもそんな風におびえていた日々も長くは続かなかった。小泉さんがその全ての告白をすげなく断っていたからだ。お断りします、ときっぱりと断っているのを校舎裏で何度か見かけたこともある。

 以前彼女になぜ告白を断っているのかを聞いたことがあるが、答えは興味がありません、というものだった。安心する半分落ち込みもしたが、それはともあれである。当分小泉さんが誰とも付き合う気がないと知って安堵した俺は、段々といつも通りに彼女に接することができるようになったのだった。

 決定的であったのは1年の半ば、夏休みが明けたばかりの時だった。夏休みが終わってからの登校日初日。前日まで風邪をひいていた俺は珍しく登校するのが遅く、学校に到着するのが遅かった。走って何とか遅刻する前に滑り込もうとすると、教室の前に人だかりができていた。どこか既視感を覚える光景だなと思いながら教室の中に入ると、その原因がすぐに分かった。

 なんと小泉さんの頭がスキンヘッドになっていたのだ。その長く艶やかな髪が特徴だった彼女がいきなりスキンヘッドになった事実は学校中で話題となった。

 小泉さんの整っている容姿からかみっともなく感じられることはなかったが、違和感はバリバリである。のちに「小泉スキンヘッド事件」と名付けられたこれがあったことで、あれほど盛り上がっていた小泉さんに対する告白合戦も冷や水をかけられたかのように鎮静化し、一転してもしかしてやべーやつなのでは?という噂が広がっていった。

 ちなみにスキンヘッドにするに至った経緯を彼女から聞いてみると、頭部への不快感を少しでも減らして快適にラーメンを楽しむためというのが理由だそうだ。どこまでも彼女らしい理由に呆れを通り越して逆に感心してしまった。凄い。

 嬉しい役得もあった。髪が伸びていく過程で、今までロングしか見たことのなかった小泉さんのベリーショート、ショート、ボブ、ハーフなどの様々な髪形を見ることができたからだ。元々の長さに戻るのに最近までかかったが、その間の小泉さんの変化はとても見ていて楽しいものだった。そのことを友達に言ってみると「お前すげえな」と言われた。解せぬ。

 俺としてはスキンヘッドの小泉さんも尼さんみたいで可愛いななんて思ったりしたのだが、彼女としては伸び始めのジョリジョリ感が難点だからもうやりたくないのだそうだ。残念。

 とまあこんなことがあり、近頃はめっきりラブレターなどをもらっている姿は見かけていなかったところに今回のこれである。彼女なら断るということはわかっていたが、気になるものは気になる。俺は疲れた顔をしている小泉さんに視線を移すと問いかけた。

 

「なんて書いてあったの?」

「放課後校舎裏で待っています、だそうです。3年の先輩からですね。」

「行くの?」

「はい。来てほしいと書いてあるので」

 

 そう言って小泉さんは出していた手紙を封筒に入れて、カバンにしまった。何事もなかったかのように歩き出す彼女に慌ててついていく。その横顔には微塵も動揺は見られなかった。そんないつも通りの小泉さんの姿を見て俺は笑顔を浮かべ、肩を並べて一緒に教室へ向かっていった。

 そんなこんなで他の皆が来るまで教室で小泉さんに教えてもらいつつ何とか課題終え、学校が始まった。

 先生が話す内容を聞き逃すことがないように耳を澄まし、時折ノートにメモを取りながら真剣に授業を受けた。

 家ではラーメンの研究に時間を費やしたい俺は、その時間をひねり出すためにも授業はまじめに聞いていた。勉強は苦手ではあるが、おかげで大分集中力はついた気がする。暗記系の科目であればテスト前にさらっと復習をすればある程度の点数が取れるようになった。これもまじめに授業を聞いたおかげである。

 問題はそれ以外の科目である。前述したように俺は数学などの計算する科目が苦手で、授業中だけではなかなか理解が追い付けないことが多い。そして理解しきれていないまま定期テスト週間に入り毎回慌てている。

 大抵の場合は直前に小泉さんに泣きついて教えてもらっているのが現状だ。小泉さんの方も慣れたのかそれとも諦めの境地に達したのか、毎回頼み込む俺に対してこれ見よがしにため息をつきながらも教えてくれるようになった。本当にすみません。お世話になってます。

 神経を研ぎ澄まして授業を聞いていると、終わった後の脱力感が強い。近くの友達と話したり、トイレに行ったりしながら気分を変える。

 この時俺は小泉さんに話しかけに行くことはあまりしない。照れがあるのもあるが彼女の気質として、一人の方が気が楽というのがあるらしく、用がなければ頻繁に話しかけないでほしいといわれたからだ。残念ではあったが、彼女の気分を害したいわけではなかったので、釈然としないものは感じつつも納得した。

 そうして一日が流れ、放課後になった。部活に向かう友達に手を振り、教室を出ようとすると担任に声をかけられた。

 

「中華。ちょっといいか」

「なんですか先生」

「ああ。手伝ってほしいことがあってな。時間はあるか」

「そんなにかからなければ」

「そうか。良かった。……本当は委員長である冴木に頼みたかったんだが、生憎休みでな。資料室に明日体育館で使う資料があるんだが。それを運ぶのを手伝ってほしいんだ」

「かまいませんよ。わかりました」

「すまん! 助かる」

 

 そういってニカッと笑いながら礼を言う先生にとともに資料室へ向かう。うちの担任はフレンドリーで生徒間でも評判は良い。肝心の授業に関しては抽象的な説明も多く、伝わりにくい部分もあるのだが、そこはまだ若いということと彼の持つ人柄と教育に対する情熱の強さからかそこまで気にされていなかった。暑苦しい部分もあるが、そこも含めて信頼できるいい先生である。

 その先生とともに資料室から目的の資料を分担しながら運ぶ。一つ一つはそこまで大きくはなかったが、結構数があった。

 資料室から体育館までを何度も往復してやっと運び終える。大分時間が経ってしまったようだ。申し訳なさそうにする先生に、気にしなくていいですよと手を振ってから速足で昇降口に向かう。

 店の手伝いまでまだ時間はあるが、その前に文房具屋でファイルを買っておきたい。雑に上履きを押し込めて下駄箱から靴を取り出して履く。玄関を出ると、周りに先生がいないのを確認してから、裏口へ向かった。

 本来裏口から学校を出ることは禁じられているが、生徒間では急いでいるときなどに使うのは一種の共通認識となっている。俺も何度も利用している。この時も裏口を使ったのはたまたまだった。だが俺はいつ振り返ってもこの時の俺の判断を心底褒めてやりたいと思う。

 それは偶然だった。校舎裏に回り傾斜のある道の先にある門へ向かう途中、ふと横を見ると小泉さんの姿が見えた。そういえば今朝ラブレターをもらっていたなと思いだしていると、すぐ傍には小泉さんを呼び出したであろう先輩の姿が確認できた。

 体つきは遠目からもがっしりとしていて、引き締まっている。運動部の先輩なのだろうか。なんとなしにその光景を見ていると、小泉さんが頭を下げているのが見えた。恐らくいつものように告白を断っているのだろう。終わったか―、と再び門へ向かおうとすると、どこか様子がおかしいことに気が付いた。

 俯きがちにわなわなと身を震わせる先輩。その場から立ち去ろうとする小泉さんを引き留め話しかけている。小泉さんは二言三言かけられる言葉に首を横に振り、頭を下げて離れようとした。

 その瞬間先輩は俯いていた顔を上げると、勢いよく小泉さんの華奢で小さな手をつかむと強引に引き寄せた。

 彼女は驚いたように目を見開くとすぐさま顔をしかめて抵抗した。だが先輩の力が強かったのか、なかなか引きはがすことができない。とうとう先輩は彼女を近くの校舎の壁へ無理やり押し付けて、強引に迫ろうとしていた。

 それを見た瞬間、俺ははじかれたように飛び出していった。頭の中は真っ白になり無我夢中で走る。そこまで距離が離れていなかったこともあって、僅かな時間でたどり着くことができた。そして強く硬く右の拳を握りしめ

 

「な、にやってんだああああああああああああああ!!!」

 

 力の限り、ぶん殴った。

 ドカッと鈍い音が聞こえる。拳がジンジンと痛む。不意打ち気味に殴ったことで先輩は思いっきりぶっ飛んだ。地面に倒れこむ先輩の方には目もくれずに、俺はこちらを見て目を丸くしている小泉さんに話しかけた。

 

「大丈夫!? 小泉さん!」

「ち、中華くん。なんでここに」

「それはいいから! ほんとに大丈夫? 痛いところとかない?」

「え、ええ。大丈夫です。少し、掴まれていた手が痛いだけですから」

「本当に、本当?」

「はい。本当です」

「よかったっ……!」

 

 無事な彼女の姿を確認して安堵の息を吐く。そして今度は倒れている先輩の姿を見た。動き出す様子はない。どうやら気絶しているようだ。

 俺は再び息を吐くと彼女に向き直った。

 

「行って、小泉さん。先輩が起きる前に」

「で、ですが」

「ここにいたら危ない。後は俺が何とかするから」

「……わかりました。お願いします、中華くん」

 

 ペコリと頭を下げて逃げるように去っていく小泉さん。その体は僅かに震えていた。目の前であんなことがあったのだ。無理もない。この場に居続けては辛い思いをするだけだ。

 小泉さんの姿が見えなくなったのを確認してから先輩の方を見ると、彼は起き上がろうとしていた。意識が飛んでいたのは少しの間だけであったが、体はふらついていた。先輩は辺りを見渡した後、目の前にいる俺の姿を見てその顔を歪ませた。

 

「おい……。さっきの、やったのはてめえか」

「……そうですが」

「いてえな、くそっ。ふざけたことしやがって」

「ご自分の胸に聞いてみたらいかがでしょうか」

「んだと、てめえ。なめてんのか」

 

 そうやって凄んでくる先輩。だが俺も頭に血が上っていたからか、普段ならば怯んでいたであろうその姿にも動じずに、真っ向から向き合うことができた。

 

「あんたは自分が何をしようとしていたのか、わかっているのか」

「なんだよ」

「嫌がる彼女に無理やり迫るなんて、恥ずかしく思わないのか」

「……あの女が悪いんだよ。こっちがわざわざ手紙まで書いて下手に出てやってるっていうのに、お断りしますだの、結構ですだの言いやがって。生意気なんだよ」

 

 どこまでも自分は悪くないという姿勢で、先輩はそんなことをのたまった。それに頭が沸騰しそうになるのを何とか抑えて話を聞く。

 

「折角俺が付き合ってやろうって言ってんのに、断るなんざ100年早いんだよ。それなのにどこまでもなめた態度取りやがって……。だからわからせてやろうとしたんだよ。どっちが上なのかってことをな。それなのに、くそっ。余計なことしやがって」

「————」

 

 我慢の限界だった。短絡的なのは承知の上、理性はやめろと警鐘を鳴らしている。だがそれでも反省はおろか悪びれもしないその態度に怒りが抑えられなかった。

 気が付けば俺は、先輩を殴り飛ばしていた。先輩は今度はよろめきつつも倒れることはなく、反対に顔を真っ赤に染めて応戦してきた。先輩のアッパーを腹に受ける。息が止まり胃液が逆流しそうになるが、何とか堪える。そこから全体重をかけてタックルをして先輩をなぎ倒す。体にしがみつく俺を肘や拳を使って離そうとするが、俺はそれを何とか堪えた。そこからは泥沼の様相だった。

 お互いに顔も腫れ、ボロボロになったころに校舎から声がかかった。多分先生の声だ。先輩はそれを聞いて我に返ったかのように立ち上がると一目散に逃げだした。その姿を見て俺は最後にざまあみろと思いながら、薄れていく意識の中で誰かが近寄ってくるのを感じながらその意識を手放した。

 

 

 

 

 

 

 目が覚めると、真っ白い天井が見えた。薬品のにおいがする。視線を動かし辺りを探るとどうやら保健室の中にいることが分かった。そのままぼんやりと天井を眺めているとすぐ傍から声がかかった。

 

「おはようございます。中華くん」

 

 声の聞こえた方に目を向けると、窓から差し込む夕日にその美しい金の髪を照らされて、普段よりもより神秘的な雰囲気を醸し出している小泉さんがベットの脇の椅子に腰かけていた。

 

「天使か」

「? なんですか」

「なんでもありません」

 

 思わず口に出してしまった一言を誤魔化す。あはは、と笑っていると全身に鈍い痛みを感じて思わず顔をしかめた。

 俺の様子を見て小泉さんは普段はあまり見せない、どこかつらそうな顔をしていた。それが気になって声をかけると、彼女は首を振り、今の状況についての説明を始めた。

 一度はその場を後にした小泉さんだったが、心配になって少ししてから現場に戻ってきたこと。倒れた俺を見つけて先生と協力して保健室に連れてきたこと。保健の先生が処置をした後に家へと連絡をして、俺の父が学校に来るのを待っているということ。父が学校に来たら事情聴取をするということ。先輩に関しては粗方の目星はついているため明日呼び出しをするということ。

 それらのことを早口で教えてくれた後、小泉さんは口を閉じた。運んできてくれたことに礼を言っても、反応が返ってこない。それを不思議に思って、彼女を見つめると僅かに黙ってからゆっくりと語りかけてきた。

 

「どうして、あんなことをしたんですか」

「え?」

「どうしてあんなことをしたのかと聞いているんです」

 

 思わず体を上げて彼女の方を見る。鈍い痛みが走るが無視する。彼女は顔を伏せて髪でその顔が隠れていることもあって、どんな表情をしているのかわからなかったが、その声音はいつになく真剣だった。

 

「助けてくれたことには感謝しています。ですが、貴方がそこまでボロボロになる必要はなかったはずです。私と一緒に逃げていればよかったのですから」

「……」

「なのに、なんでわざわざその場に残って、先輩と大喧嘩したんですか。そんなことをしても貴方には何もならないはずです。それなのに」

 

 何故ですか、と問いかけてくる彼女の声は、何かを堪えるかのように震えていた。普段は毅然としている彼女の弱弱しいその姿を横目で見て、ベットに深く腰掛けた俺は、目を閉じて考えを頭の中で整理した。それからゆっくりと口を開いた。

 

「許せなかったんだ」

「え……」

「俺はさ、多分君が思っているよりも、小泉さんのこと凄く大切に思ってる」

 

 俺の言葉にあっけにとられる小泉さん。その姿に苦笑しつつ、話を進める。できるだけ真摯に、想いが伝わるように。

 

「この4年の間で、君のいろんな姿を見てきた」

 

 気品ある姿。堂々とした姿。照れた時にそっぽを向く姿。ラーメンを食べて幸せそうにする姿。

 

「いろいろな話をしてきた」

 

 どこのラーメンがおいしかったのか。どこが印象に残ったのか。最近のブームは何か。

 

「君と過ごしてきて、君のいろんなところが見れた。可愛かったところや少し変じゃないかと思ったところ。まじめなところやいつもラーメンに真剣なところ。君と関わってきたからこそ知れた、君の良いところがいっぱいあった」

 

 頭の中に小泉さんと過ごした数々の日々が思い返される。店でラーメンについて議論したり、ラーメン巡りで一緒にラーメンを食べたり、散策に出かけたり、様々なことがあった。

 

「君が自分で選んで自分で決めたことなら、口を出す権利は俺にはない。心から祝福する」

 

 たとえその相手が、自分ではなかったとしても。

 

「でも先輩はそうじゃなかった。強引だったし、君の意思は関係なかった。君のことを物か何かだと勘違いしてた。

 だから許せなかったんだ。どこまでも君のことを馬鹿にしている先輩の姿に」

 

 小泉さんはいつの間にかこっちを向いていた。

 ぼんやりとこちらを見る姿は普段からは考えられないくらい幼く見えた。それに少しおかしくなって笑う。すると小泉さんは少し顔を赤くしてそっぽを向いた。その姿に俺はまた笑みがこぼれた。

 

「だから、それが理由かな。……確かに暴力沙汰はやっちゃいけなかったけど」

「……そうです。ばかですよ、貴方は」

「うん」

「本当に、ばかです」

「ごめんね」

「……でも、ありがとうございました」

 

 そうやって彼女は笑顔を向けてくれた。少し涙を流していたからか目の周りは少し腫れていたけれど、とてもきれいな笑顔だった。俺も今の自分にできる精一杯の笑顔で返した。   

 夕日に染まる保健室の中、父が騒がしくやってくるまで俺たちはそうやって見つめあっていたのだった。

 それからの日々はあっという間に過ぎ去っていった。俺の起こした事件は放課後の人の少ない時間で目撃者も少なかったためそこまで大ごとにはならなかった。当事者である先輩は度々問題を起こしていた人だったらしく、小泉さんの証言もあり、俺の罰は謹慎2週間というものになった。

 事情があったとしても暴力事件である。しかも手を出したのは俺からなのだ。当然罰はそれなりのものとなる。相手の先輩に関しては1か月の謹慎で、大会参加は絶望的なのだから、軽いと言っては軽いのかもしれない。彼に関しては同情する気は全く起きなかったが。

 謹慎中は平和なものでむしろラーメンの研究に集中できる分、ラッキーだったかもしれない。店に出ることはできなかったが、厨房からでなければバレることはない。俺はラーメン研究に没頭していった。

 父は暴力事件に関して事情を聴いた後に、

 

「男にはやらなければならない時がある。翔にとってそれがその時だったんだろう。

勿論すぐに暴力に走ったことは褒められることじゃないが。

 ……でもよくやった。流石は俺の、俺たちの息子だ」

 

 そういって頭を撫でてくれた。年甲斐もなく泣きそうになった。こうやって締めるときは締める父は俺のことをしっかり見てくれている。父にはきっと一生勝てないような気がした、そんな一幕だった。

 小泉さんはというと事件後はいつにもまして店に来るようになった。謹慎中に関してはほぼ毎日のように来ていたかもしれない。授業で撮ったノートのコピーを持ってきてくれて、いつものようにラーメンを食べてから帰る。それの繰り返しだった。

 謹慎が解け、学校に向かおうとすると通学路の先で小泉さんが待っていた。偶然らしいが、一緒に学校に行こうということらしい。恐らく謹慎明けで気まずいであろう俺のことを心配してのことだったのだろう。その気遣いがたまらなく嬉しくて、朝だというのに叫び声をあげてしまい、小泉さんに怒られた。すみません。

 教室に入ると遠巻きに見られる視線を感じた。当然だ。暴力事件を起こしたのだから。事情が事情で、表向きにはその理由を伏せているわけだが、噂というものは広がっていくものだ。仕方ない。そんな風に諦めていると、隣に座る友達に声をかけられた。

 なんでも謹慎になった先輩は日ごろから横暴な感じだったらしく、謹慎になったことに驚きはなかったのだが、普段見かけは穏やかな俺も謹慎になったことは誰もが疑問に思っていたらしい。噂は広がったが、あの日手伝いをした担任教師の声掛けもあって、結局みんな俺が事情なくそんなことをやるとは思えなかったらしく、相手の先輩のこともあり巻き込まれたと解釈してくれたらしい。

 それを聞いた俺は目頭が熱くなった。持つべきものは友達である。俺は心配してくれた友達に礼を言って、もう大丈夫であるということを伝えた。それを口火に遠巻きに見ていたクラスメイトも、心配の声をかけてくれた。とても嬉しくて、鼻声になりつつも、一人一人にお礼を言っていった。

 後日先輩は謹慎が解ける前に転校していったらしい。彼にとってこの謹慎はとても堪えたのだろう。言葉少なげに去っていったというのを後で先生から聞かされた。

 謹慎が解けてからは変わらぬ日々が続いていった。学校に行き、帰ったら店を手伝い、研究をしてから寝る。週末には小泉さんが来てラーメンを振舞う。そうしていくうちにあっという間に一年が経ち、3年生になった。その間に初めて小泉さんからバレンタインのチョコレートをもらうとかいろいろなイベントがあったのだが、そこはまたの機会にするとしよう。

 学年が変わってもすることは変わらず、あっという間に日々が過ぎていった。受験生ということもあって、夏休み付近からは周りの雰囲気も変わりピリピリとした緊張感が漂うようになった。

 俺もそれに触発されて勉強に取り組んだが、一人で勉強していても大して集中できなかった。授業を受けていた方が集中できるのだから、慣れというものは怖い。

 そんな俺を助けてくれたのは、やはり小泉さんだった。成績優秀な彼女は周りの空気にあてられることなくいつも通りだったのだが、勉強の進まない俺を見かねたらしく、付きっ切りで勉強を教えてくれた。流石に申し訳がなくて何度か断りを入れたのだが、

 

「なら、報酬としておいしいラーメンをお願いします」

 

といってギブアンドテイクだから気にするなと言わんばかりに、真剣に教えてくれた。彼女の決意の強さを知った俺は、彼女の頑張りに報いようと真剣に勉強に取り組んだ。

 そのおかげか夏休みが明けるころには、志望校の合格評定になんとか届くようになったのだった。それを小泉さんに報告すると、一言「そうですか」と言われただけだったが、口元がほころんでいるのが見え、喜んでくれていることが分かった。

 

「そういえば、小泉さんはどこ受けるの?」

「……貴方と同じ公立ですが、なにか」

「そうなんだ! 奇遇だね。嬉しいなあ」

「……」

 

 文化祭を終え、最後の期末テストを終えると冬休みに入った。そこからはひたすら過去問。例によって小泉さんと一緒に時には図書館や店の奥のテーブルを使って勉強した。

 受験当日。その朝はとても緊張したものだが、試験会場でいつも通りの小泉さんを見ていると緊張が解けていくのを感じた。いつになくベストコンディションで受けることができ、試験結果も上々だったように感じた。

 合格発表日。小泉さんと一緒に受験会場の掲示板を見に行った。発表の10分前に会場につき、その時を待つ。ドクンドクンなる心臓の音を聞きながら、ついにその時が訪れた。人ごみをかき分け掲示板の前に出て番号を探す。すると見慣れた番号を2つすぐに見つけることができた。合格だ。

 小泉さんのもとへ戻り、合格していたことを伝えると彼女も顔をほころばせていた。その顔を見て嬉しさが天元突破した俺は、小泉さんの両手を握ってぶんぶんと振った。彼女は驚いていたが、すぐに仕方ないなという目になって受け入れてくれた。恐らく彼女も嬉しかったのだろう。

 その日は店を貸し切りにしてどんちゃん騒ぎだった。といっても基本的には俺がラーメンを作り、小泉さんが食べるという繰り返しだったのだが、テンションの上がった父もいたことと他の高校に合格した友達とも集まっていたため、終始笑顔が絶えなかった。

 4月になり高校に進学した俺たちは、入学式の前に桜の木の下で写真を撮った。高校のブレザーを着た彼女はそれまでのセーラー服とはまた違った魅力を醸し出しており、初めて見たときは見惚れてしまった。彼女のあまり見ないでくださいという少し顔を赤らめた、照れたような声を聴いてますます惚れ込んでしまった。可愛すぎか。

 入学式の後はいつものように店に戻ってラーメン作りである。入学祝に彼女にとっておきのを振舞った。彼女の反応も悪くなく、この日は終始和やかだった。

 ここまでの毎日はとても楽しくて、幸せで、満ち足りていた。隣には君がいて、俺のラーメンを食べて、笑顔を見せてくれて、これ以上にないくらい満ち足りていた。

 

 

 けれど、幸せはそう長くは続かない。

 

 

 入学してから一週間がたったころ、彼女の様子がおかしいのに気が付いた。少し前からどこか上の空で考え込む姿が目立っていた。それが気になった俺は、その日の帰り道彼女に理由を尋ねてみた。

 彼女はためらうように視線をさまよわせると、どこか諦めたように肩を落とし、それから俺の眼を見て、はっきりとこう言った。

 

 

「私——転校するんです」

 

 

 桜舞う四月の帰り道。まだ冷たい風が吹き、俺たちの間を突き抜けていった。

 

 

 

 




全4回に収めようとした結果です。申し訳ない。

次回、最終回。年内には投稿予定です。

最終回を投稿した後には、別の形で空白期間のあまり語られていない部分や、本編アフターストーリーをいくつか投稿できたらと思っているので、その際にはどうかよろしくお願いします。

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