君に好きだといいたくて   作:stright

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今回も過去最長を更新。

年内に投稿するといっておきながら、一週間以上オーバーしてしまい申し訳ありませんでした。

感想、評価、誤字報告、お気に入り登録本当にありがとうございます。3話投稿後、UAなどもすごく伸びて日間ランキングにも一時載ることができました。凄く嬉しかったです。感謝しかありません。

それでは、最終話もどうかお付き合いお願いします。


君に好きだといいたくて

 どさり。何かの落ちる音が聞こえた。目に映る小泉さんの手に鞄があることから、恐らくは俺が手に持っていた学生鞄を落としたのだろう。しかし俺はそれを拾うことができなかった。身に走る衝撃から拾うことができなかったというのが正しいか。それほどの威力を彼女の一言は秘めていた。

 

 小泉さんが転校する。

 

 一瞬俺は、小泉さんが何を言っているのかわからなかった。

 ……いや、脳がその言葉を理解することを拒んだのかもしれない。それほどに彼女の発した言葉は、俺にとってはどうしても受け入れがたくて、聞きたくなかった言葉だった。

 嘘でしょう。冗談だよね。頭の中を様々な言葉が駆け巡る。だがその言葉を俺が発することはなかった。こちらに向ける彼女の真剣な顔が、容赦なく今の言葉が本当のことであるということを伝えてきたからだ。

 笑みを浮かべようとした自身の顔が引きつっていくのが分かる。手も小刻みに震えていた。そんな俺を見て小泉さんは、僅かに目を細めどこか申し訳なさそうにしながらも、決して目をそらすことなく真摯にこちらを見つめてきた。その姿がより一層、これが避けようのないものであるということを、俺に突き付けていた。

 

「父の新たな転勤が決まりました。場所は東京です」

「転勤は、私の高校の入学手続きを終えてから決まったことでした。そのため当初私と母はここに残るという話だったのですが、父の転勤が短期のものではなく長期に渡るものとなったこともあって、私たちも一緒に引っ越すことになったのです」

「それに伴い都内からこの場所に通うのは難しいということになりました。……そのため少し前に都内にある私立高校の編入試験を受けることになったのです。先日、合格通知が届きました。転入手続きも既に終えています」

 

 伝えるのが遅くなってすいませんでした、と小泉さんは淡々と事実を告げ、最後にこちらに向けて頭を下げた。どこか現実感のない夢見心地な感覚に陥りながら、俺はその話を聞いていた。俺は頭を下げる彼女に声をかけることができずに、ただ茫然と見ていることしかできなかった――――。

 

 

 

 

 

 

 ふらふらした状態のまま彼女と言葉少なく別れる。家までの道を一人で歩く。家に着き、店の支度をする父を振り切って階段を駆け上がり自室に飛び込む。荒くなった息を整えることができずに、自室の扉を背にしてずるずると座り込んだ。心はぐちゃぐちゃで、頭の中では何度も彼女の言葉がリピートされていた。

 小泉さんの転校という事実は、俺にとってどうしても認めたくないものだった。不意打ちで告げられた言葉は身に染み込むことはなく、俺の心の中で暴れまわっていた。座り込んで呆けていると、頬に何かが伝っているのがわかった。手を伸ばして頬を触る。すると触った指先は濡れていた。俺は気づかないうちに涙を流していたらしい。

 

「うあ、あああ」

 

 それを自覚すると、もう抑えきれなかった。目頭が熱くなり、涙がぽろぽろとこぼれだす。嗚咽が漏れ、駄々をこねる子どものように泣き出してしまった。

 いつかは訪れると思っていた。だがそれはもっと先のことであると、そう思っていた。俺がラーメンを作って、彼女が食べる。彼女がラーメンを食べて笑顔になり、それを傍で見守る。一緒に同じ高校に通いながらそんな日常をこれからも過ごしていけると、そう思い込んでいた。

 だがそれは単なる思い込みに過ぎなかった。母が亡くなった時のように、今回も心構えなんてできていなかった。現実は、いつだって非情に“それ”をつきつけていく。

 内に渦巻くその感情を整理できずに、俺はしばらくの間、涙を流し続けていた。

 

 数刻が経ち、涙が止まってから起き上がる。ふと窓を見るとすでに日が落ちていた。

 

「店に、いかないと」

 

 ぼんやりとした意識の中、クローゼットから店の制服を取り出して着替える。いつもなら素早くできる着替えをなんども手間取りながら終え、店に向かった。

 厨房に顔を出すと、父の姿が見えた。近寄ると俺の気配に気づいたのか、父がこちらを振り向いた。

 

「翔か。どうした。遅かったじゃ、ない、か」

 

 俺を見て驚いたような顔をする父。どうしたのだろうか。珍しい表情にそんなことを思っていると、父は近くのバイトの人に声をかけてから俺の腕をつかんできた。

 

「ちょっと来い。翔」

「……」

 

 抵抗することなく腕をひかれ、二人で二階へと上がっていく。店はどうするのか、仕事をしないと等の考えが浮かぶが、それを口に出す気力はなくされるがままになっていた。

 リビングに着くと父は俺に席に着くように言った。言われた通りに腰を下ろすと向かいの席に父も座り、手を前で組んでこちらを窺うようにみてからゆっくりと口を開いた。

 

「何かあったのか」

「……別に、何も」

「嘘をつくな。そんな顔をして、何もないわけがないだろう」

 

 父に差し出された手鏡を受け取り、自身の顔を見る。そこには頬に涙の跡を残した憔悴している少年の顔が映されていた。

 ああ、これは確かに心配されてもおかしくないなとどこか他人事のように思っていると、父はいつになく真剣な顔で俺を見つめていた。父に視線を移し、頭の中にある言葉を整理することのないまま、俺は言葉を紡いでいった。

 支離滅裂になってしまっていた言葉は、要領も得ずきっとわかりづらかったであろう。だが父は俺が話を終えるまで口を挟むことなく、こちらが落ち着くのを待つかのように黙って聞き続けてくれた。

 俺が息を荒げながらも話を終えると、父は顔をわずかに伏せて間をとった。静かな沈黙が流れ、高ぶっていた心が少しずつ落ち着いていく。俺が落ち着いてきたのを感じたのか、父は伏せていた顔を上げると、穏やかな口調で話しかけてきた。そこに浮かんでいた表情はとても優しくて、温かかった。

 

「翔は、小泉さんがいなくなってしまうことが悲しいんだな」

「……うん」

「そうか」

 

 父の問いかけに是と答える。父はそんな俺を見て一つ頷くと、

 

「なら、落ち込んでいる場合じゃないだろう」

 

 そう、切り出してきた。

 

「え……」

 

 その言葉にあっけをとられ思わず父を仰ぎ見る。父はどこまでも穏やかな表情で、そして真摯な瞳で俺を見つめていた。

 

「翔にとって今回の出来事がどれほどショックであったのかということは、今のお前の顔と、今までのお前を傍で見守ってきた俺だからよくわかる」

 

 だがな、と父は懐かしむように、噛み締めるように言葉を続けていった。

 

「それは、翔らしくない」

「俺、らしい……?」

「そうだ」

 

 よく聞け、と父は言った。

 

「俺はお前が今まで慣れないことに四苦八苦しながらも、とことん頑張ってきたことを知っている」

 

 俺の知っている息子は、中華翔という男はこういう男なのだと。

 

「彼女のことを大切に思うからこそ、体を張って立ち向かうことができる強い男になったということも知っている」

 

 声を張っているというわけではないのに、それはどこか力強く、誇らしげで。

 

「そんな男がこのまま塞ぎこんで何もしないわけがない。必ずすぐに立ち上がって、自分に今、何ができるのかを考えるはずだ」

 

 そこには揺るぎない信頼と期待が込められていた。長い年月を共に過ごしてきた家族だからこそある父親としての息子への無償の信頼。

 

「そうだろう?」

「——うん。そうだね」

 

 目が覚めた思いだった。そうだ。うじうじと悩んでいる場合じゃない。時間は限られているのだ。俺が小泉さんにしてあげたいこと、伝えたいことを成し遂げるにはどうしたらいいのか。それを考えて動き出さなければならない。

 父は俺よりもずっと俺のことを理解し、期待してくれていた。6年前のあの日。家族だからわかるのだと、武骨な手で頭を撫でてくれた時のように。

 

「父さん」

「ん?」

「ありがとう」

「……もう悩みは晴れたのか」

「うん」

「そうか」

「俺、しばらく店に出れないかも」

「気にするな。何とかするさ。お前は自分のやるべきことをやれ」

「——ありがとう」

 

 父に再度礼を言って、立ち上がる。そんな俺を父は満足げに見ていた。俺は胸の内から湧き上がる衝動に身を任せて、自室に飛び込むと引き出しにしまっていたレシピノートを取り出した。

 ぱらぱらとノートをめくり、目的のページを探し出す。他のレシピのスクラップとは異なり、比較的古いこのノートは他のどれよりも使い込まれていた。

 ノートに記載されたレシピはまだ一度も店で出したことのないものだった。研究する中でも手ごたえのあった調理法や調合などをまとめたもの。ダシやかえし、麺、香味料、その他にもラーメンに必要な手順や工程が事細かに記述されていた。

 これは俺が6年前から構想し続けてきた、研鑽の全てを込めて作り上げてきた一品が書き込まれたもの。彼女が初めて来たあの日に誓った“おいしいラーメンを作る”ために作成してきたものだった。

 現在の完成度は8割超。高校を卒業するころには完成させる予定だったそれを持ち出し、棚から他のレシピがまとめられたファイルもいくつか取り出してキッチンに向かう。

 自室から出るとすでに一階に降りた後だったようで、父の姿は見えなかった。頭の中で父にもう一度感謝してから、テーブルの上でレシピを開く。広げられたいくつものレシピの中から今必要だと感じられたものを抜き出す。厳選したレシピを見返し、頭の中でこれからすることを取捨選択していく。

 ある程度方針を固めると早速作業に取り組む。材料を棚から取り出し、思いついた限りの手順を試していく。すべては“おいしいラーメン”を完成させるために。

 俺は自分のふがいなさに腹が立っていた。小泉さんがギリギリになってから転校のことを告げたのは、ひとえに彼女も別れを惜しんでくれていたからだろう。少し考えれば、律義な彼女が何も言わずにいなくなるという不義理なことをするはずがないという事ぐらいわかったはずだ。そんな彼女の迷いに気付かずにいた独りよがりな嘆きで、すべてを不意にすることなどあってはならない。俺にできるのは、俺の今までの成長を彼女に見せること。それが小泉さんに今の俺ができる唯一の贈り物なのだ。

 小泉さんが旅立つのは今日から1週間後。それまでにやることはたくさんある。父に背中を押されなければ動けなかったというのが何とも格好つかないが、それをひっくるめて自分らしいのかもしれないなと、心の片隅で思いながらひたすら実験を繰り返していったのだった。

 

 

 

 

 

 

 それからの1週間は正に時間との戦いだった。そもそもがあと3年の月日をかけてじっくりと完成させるつもりだったものである。時間は圧倒的に足りなかった。

 だが時間を言い訳にして、ラーメンのクオリティを下げる訳にはいかない。俺は学校を休み、寝る間も惜しんで研究に没頭した。

 訳を知る父はただ一言頑張れよとだけ言って応援してくれた。父に報いるためにも生半可なものを出すわけにはいかない。俺は一層気合を入れて作業に取り組んだ。

 人間死ぬ気で必死にやればなんとかなるものだ。途中で何度も挫けそうになりながらも、9割方完成にこぎつけることができた。

 完成までの見通しができた俺は、小泉さんが転校する2日前の朝、いつもの通学路で彼女が来るのを待っていた。彼女の性格からしてもラーメンが関わっていなければ転校するからと言って、学校をさぼるということはしないだろう。確信をもって待っていると、やはり彼女は現れた。だがその様子はどこかおかしかった。

 普段通り気品のある姿だが、顔は俯きがちで眉尻はやや下がっており、どこか元気がなさそうに見える。綺麗な金の髪も僅かにその輝きが薄れていて、彼女の調子の悪さを表しているようだった。俺は何度か深呼吸をしてから、意を決して彼女に声をかけた。

 

「小泉さん」

「え……? あ、中華くんですか……?」

 

 彼女はゆっくりと顔を上げると思わぬ人にあったといわんばかりに俺の名を呟いた。その声はどこか遠慮がちで覇気がなく、いつもの彼女らしくなかった。そんな彼女の様子を見て怯むも、憶すことなくストレートに用件だけを伝える。

 

「君に大切な用事があるんだ」

「私に……?」

「うん。だから、引っ越しの日に少し時間をもらいたいんだ」

「……今更、何の用だというのですか」

「え?」

「何も言わずにいきなり学校に来なくなったと思ったら、今度は用があるから時間が取れないかなんて、少々勝手すぎるのではないですか」

 

 小泉さんはその端正な顔を歪めて、先程とは一転変わって強く責めるような口調でそう言った。

 確かに俺は小泉さんの都合を考えていなかった。事情を考えればわかるようにこの転校は彼女の本意ではないのだ。当然不安もあっただろう。戸惑いもあっただろう。教えてくれるのが遅くなったことを考えても、あの時点でまだ彼女も転校を自分自身で消化できていなかったのかもしれない。それでも俺に対しては自らの口で転校するということを伝えてくれたのだ。自惚れでなければ、彼女の中で一番の友人である俺に対しての礼儀として。

 そんな俺が転校を告げた翌日から学校に来なくなったのは彼女の目にどう映ったのだろうか。推測に過ぎないが、もし俺だったら嫌われたのではないかということを考えてしまうかもしれない。小泉さんは一見何事にも動じない、豪胆な人のように見えるが、まだ15の少女である。その心情はまだ幼く、そして繊細だった。

 彼女の気持ちにまで考えが及んでいなかったことに胸が痛む。同時にそんな風に思ってもらえるような存在になれていたことに不謹慎ながら嬉しく思った。俺の今までの努力は間違っていなかったのだと。俺だけの一方的な思いだけではなかったのだということが嬉しくてしょうがなかった。

 こちらを睨むように見る小泉さんに深く深く頭を下げる。俺の精一杯の謝意を込めて。

 

「ごめん、小泉さん。本当にごめんなさい」

「……」

「何度謝っても足りないかもしれない。君のことも考えずに本当に悪いことをしたと思ってる。でも、必要なことだったんだ」

「先ほど言っていた、大切な用事というものに関係があるのですか」

「うん」

 

 頭を上げてくださいという彼女の言葉で頭を上げる。小泉さんを見るとそこにはいつも通りの凛とした彼女の姿があった。その瞳にはこちらの真意を窺うような、疑問の色が浮かんでいた。

 

「それは貴方が学校を休んででもしなくてはならなかったことなのですね」

「うん」

「そうですか。なら、構いません。許します」

「信じて、くれるんだ」

「何年の付き合いだと思っているのですか。……それに、真剣な顔をしているときの貴方が嘘をついたことなど、これまで一度もありませんでしたから」

 

 疑う必要などありません。そういって彼女は俺から顔を背けた。その顔はほんのりと赤くなっていた。

 彼女のその言葉に俺は喜びが隠し切れなかった。俺が小泉さんと過ごしてきたこの6年間は無駄ではなかったのだと実感できたから。自然と顔には笑みが浮かび、気持ちは高揚していった。

 そんな笑顔の俺の様子に気付いた小泉さんは、咳払いをして顔を引き締めるとこちらに向き直った。

 

「んん。――話を戻しますが、その大切な用事というのはどうしても必要なことなのですか」

「……うん。俺にとっては、とても」

「そうですか。わかりました。私は午後にはここを発つ予定なので、それ以前でしたら」

「本当⁉」

「はい」

 

 彼女の返答に胸をなでおろす。断られなかったことに安堵の息を吐く。過剰に喜びを表す俺を見て呆れたように首をかしげる小泉さん。そこには既に険悪な雰囲気などなく、いつもの、普段通りの俺たちの姿があった。

 その後学校へ向かう小泉さんと別れて、店に戻った。すぐさま二階に上がって決意を新たに作業に戻る。約束の日は、すぐそこに迫っている。時間を無駄にするわけにはいかない。自分の掲げた理想へとたどり着くために、できることは全部やる。すべては最高の一品を彼女に届けるために。

 試行錯誤を繰り返し、何度も何度も失敗しながら、折れそうになる心を奮い立たせて、研究に没頭した。9割方完成しているといっても、それはあくまで9割。100パーセントではないのである。その残りの1割を埋めることがどれだけ難しいのかは身をもって知っていた。本来ならあと二日では到底完成などできないのだということも、わかっていた。

 だがそれは諦める理由にはならない。言い訳をして逃げることはもうしない。俺は自分にできる全身全霊をもって立ち向かう。必要なのは、ただそれだけだった。

 そして、遂にその日は訪れたのだった。

 

 

 

 

 

 

 これまでの日々を振り返った俺は涙をぬぐい、目の前の空になった丼を見つめた。

 なんとか、間に合った。

 自分のこれまでを全て詰め込んだ最高傑作。俺の覚悟の証。これ以上の品など今の俺には作れないと断言できる。試食したことで妥協せずに研鑽し続けた成果、納得できるだけのものを作り上げることができたと確信できた。後は、改めて覚悟を決めるだけだ。

 リビングのカーテンを開く。するとすでに朝日が昇っていた。強い日差しに思わず目を細める。強く輝く太陽を見ていると、段々と実感がわいてきた。内に湧く高揚感と緊張、少しの不安。胸に手を当てて、それらの渦巻く感情を落ち着けていく。

 今日は、約束の日だ。

 

 洗面所で顔を洗い、僅かに生えていた髭を剃って、歯を磨く。それから自室に戻って久方ぶりに調理着へ着替え最低限身だしなみを整える。リビングに戻り、簡単に朝食の準備を終え、父の分をラップでくるんでテーブルに置いておく。食事を済ませると、キッチンに置いておいたラーメンの下ごしらえをもって、一階の厨房へ降り下準備を始めた。

 支度を終えて店内に入ると、人気のない店はとても静かだった。今日は父に無理を言って店内を貸し切りにしてもらった。小泉さんとの転校前の最後の邂逅。それを二人きりでさせてほしいという俺の願いを父は快く了承してくれた。本当に父には頼り切ってばかりだ。いつか必ず恩返ししたいといけないな。そんなことを思いながら、箒と塵取りを取り出して掃除を始める。小泉さんが来るまでに綺麗にしておきたい。ここを旅立つ彼女に綺麗な店で最後に迎えたいから。

 テーブルとカウンターを布巾で隅々まで拭き、掃除用具を片付ける。時計を見ると約束の時間はすぐそこまで迫っていた。いつかのように奥の席に座って彼女が来るのを待つ。緊張はしていたが、不思議と心は凪のように落ち着いていた。覚悟が決まっているからだろうか。気持ちはとても穏やかだった。

 チクタクチクタクと時計の針の音が響く。俺はその音を聞きながら目をつむり、彼女との軌跡を思い返した。

 本当にいろいろなことがあった。小泉さんとのラーメンをめぐる思い出は、無数にあった。そのどれもが楽しくて仕方のない日々だった。

 父との関係も変わった。嫌っていた父と、今はこんな関係になっているということをあの頃の俺は想像することもできなかっただろう。俺にとっての父は今では尊敬してやまない、最高の父親である。

 そしてまさか自分がこんなにも一途だなんて思いもしなかった。彼女の傍にいて彼女の様々な姿を見てきたというのに、思いが薄れることなく燃え上がっていくのだから、分からないものだ。彼女のおかげで俺は、自分でも知らなかった自分の姿を知ることができた。

 これもすべて、小泉さんのおかげである。

 俺は小泉さんに何をしてあげられていただろうか。いつも貰ってばかりで、何をしていたわけでもない俺に付き合ってくれていた彼女はどんな気持ちだったのだろうか。少しでも楽しかったと思ってくれていたのなら、とても嬉しい。

 今日の出来事で、俺と小泉さんの関係は変わる。彼女が転校することもそうだが、これから俺がすることは、少なくとも今までの関係のままではいられなくなるのは間違いないことだ。彼女のことを思うならやめておいた方がいいのかもしれない。完全なる俺の独りよがり。しかしこの一歩は俺にとって前に進むための大切な一歩だった。

 戸を叩く音が聞こえて、思考の海から戻る。ハッと時計を見ると時刻は11時。時計の針は約束の時間を指していて、ドキリと心臓が跳ねた。

 椅子から立ち上がり、扉へと向かう。戸に映る人影は、間違いなく約束の人であることを示していた。乾く唇を舌で湿らせて深呼吸。気持ちを落ち着けて、ゆっくりと扉に手をかけた。

 からからからという音とともに扉は開き、見えた先には私服のラフな格好をした小泉さんが立っていた。

 

「いらっしゃい、小泉さん」

「はい。中華くん」

 

 この数年の間何度も繰り返したやり取り。それを終えてから彼女を店内へ迎い入れる。お互いに言葉は少なく、彼女も黙って俺についてきた。いつものカウンターの席へ彼女を案内する。彼女は慣れた所作で席に座った。

 

「……」

「……」

 

 無言のまま数秒見つめあう。小泉さんは話を切り出すのを待つかのように、静かにその紅の瞳で俺を見ていた。

 

「話をする前にさ。小泉さんに見てもらいたいものがあるんだ」

「見てもらいたいもの、ですか?」

「うん。だからさ、ちょっとここで待ってもらえるかな」

「構いませんが……」

「ありがとう」

 

 怪訝そうな顔をする小泉さんに断りを入れて、厨房へ向かう。あらかじめ準備をしていたこともあって、それほど時間をかけずに用意をすることができた。朝に調理をした通りに、自分のありったけの思いを込めて一つ一つの手順を丁寧にこなしていく。器でスープを合わせ、麺を湯切りして盛り付け、トッピングを飾り付けて、今朝作り上げた記憶通りの俺の”おいしいラーメン”が出来上がった。

 お盆にラーメンを乗せて、小泉さんのもとへ。厨房を出て目に入った小泉さんは背筋をピンと伸ばした、美しい姿勢のまま俺を待ってくれていた。彼女のそんな姿もこれからはあまり見られなくなるのだと思うと、とても寂しい気持ちになった。

 そんな心情を表に出すことはせずに、顔には自分にできる精一杯の笑顔を浮かべて、小泉さんに話しかけた。

 

「お待たせしました。小泉さん」

「いえ。平気です。……それが、見せたいものですか?」

「前々から構想は練ってたんだけどね。あの時点ではまだ完成していなかったから、君がこの街を去る前に間に合って本当に良かったよ」

「これを、私に?」

「うん。君に食べてほしいんだ。俺の、今までの全部をのっけたこのラーメンを」

 

 呆然と目の前に置かれたラーメンを見る小泉さん。少しの間彼女はそのまま固まっていたが、しばらくすると動き出してつぶさにラーメンの観察を始めた。その様子を俺は傍で固唾をのんで見守っていた。

 

「見た目はこの店の通常のラーメンと変わりはありませんね。ですが、香りには微かに違いが感じられます。通常のラーメンよりもどこか深みがある。スープもよくよく見れば、以前のものよりも透明感があるような気がしますね。ダシや香辛料を変えたのだということはわかりますが、それ以上は……」

「香辛料はいろいろな組み合わせを試して作り上げたオリジナルブレンドのものを使ってるんだ。ダシも温度とか材料の比率を細かく工夫して作ったものだから、香りやスープに変化が見られたのはそれらが原因かな」

「なるほど」

 

 俺の解説に納得するように頷くと、小泉さんはおもむろに箸をとった。いいですかと確認をとる小泉さんに黙って頷きを返すと、彼女は手を合わせて一礼し、ラーメンに取り掛かった。

 普段通りであればそのまま手を止めることなく食べ続ける小泉さんであったが、今回は違った。初めの一口を口にしてから彼女の動きが止まった。

 微動だにしない彼女の姿を不思議に思った俺は、こっそりと彼女の顔を覗き込むと、そこには驚きの表情があった。目を大きく見開いて、まるで信じられないものを見たかのように手元のラーメンを見ていた。

 

「これは……」

「ど、どうしたの小泉さん。口に合わなかった?」

 

 思わぬ彼女の反応に焦って、慌てる俺。そんな俺に彼女はふるふると首を振った後にぽつりと呟いた。

 

「逆です」

「え?」

「とても、おいしいです。今までに食べたどのラーメンよりも」

 

 感慨深げに小泉さんはそういった。その顔には今まで見たことのないほどに輝いた笑顔が浮かべられていた。その笑顔こそが俺が今まで見たいと思っていた、長年欲し続けてきたものだった。俺はついに成し遂げたのだ。

 そんな俺の心情を知らずに、小泉さんは止まっていた時計が動き出すかのように、緩慢な動きで器を手に取ると一口一口を味わうようにラーメンを食べていった。

 小泉さんは、いつもよりも時間をかけてラーメンを食べ終えた。彼女は空になった器を一度名残惜しそうに見た後に、満足そうに息を吐いた。

 

「御馳走様でした。中華くん」

「お粗末様でした。小泉さん。どうだった?」

「先程も言いましたが、とてもおいしかったです。ラーメンとしての全ての要素がマッチした素晴らしい一品でした」

「ありがとう。そういってもらえてとても嬉しいよ」

「いえ。こちらこそ素晴らしいものを食べさせていただきました。ありがとうございました。

 ただ、一つだけ気になったことがあります」

「ん? 何かな」

「このラーメンは、私がこれまで食べてきた貴方の作ったどのラーメンよりも洗練されていました。

 ……ですが、純粋な味であれば他の老舗の店で出されるものや、全国的に有名なチェーン店のものの方が良いと感じたはずです。貴方の努力はこの6年の間ずっと見てきましたが、それでも歳月では他のラーメン店には敵わないはずなのです」

 

 小泉さんが語っていることは、間違いなく正論だった。いくら俺が努力をしたところで、俺以上に長い月日の間研鑽を続けてきた人などいくらでもいる。全国各地の様々なラーメンを食べてきた小泉さんにとっては、俺が作ったラーメンなんて稚拙もいいところだっただろう。だからこそ彼女は疑問に思ったのだ。

 

「それでも私は、このラーメンが今まで食べてきたどのラーメンよりもおいしいと思いました。それはひとえにこのラーメンが私の好みを全て捉えていたからです。麺の硬さも太さも、スープの香りも濃さもその深みも。その全てが。“今”の私に」

 

 このラーメンを構成する全ての要素が、どこまでも彼女のために作られたようなものであることを。

 

「これではこのお店で提供するにはとがり過ぎてしまっています。私と近しい好みの人は別ですが、合わない方には賛否両論になってしまうでしょう。勿論、これ以上に特色を持ったラーメンなどいくらでもあります。ですが、このお店はどちらかというと大衆を対象とした店舗です。餃子のような付け合わせにできるものとは異なり、本来であれば主食となるラーメンは無難な、悪く言えば特徴のないものの方が都合がよいはずです。

 更に言えば、このラーメンは下拵えに相当時間をかけてしまうでしょう。あなたが言っていたように、一つ一つの行程に細かい作業が必要になってしまうために、素人ではたとえレシピがあったとしても作るのは困難なはずです。このままでは、貴方以外に作れる人はいなくなってしまう」

 

 それなのにこのラーメンを作った理由は何ですか。小泉さんは俺にそういった。

 俺が今まで彼女に作ってきたラーメンは、彼女の笑顔が見たいからという理由が根底にはあったが、それでもコンセプトは“この店で提供のできるラーメン”であった。工夫できるところは工夫していたが、そのどれもがたとえ素人であったとしてもレシピを見れば作ることができるものであり、複雑な行程を必要としないものだった。誰でも素早く作ることができ、シンプルなものであること。それがこの店における必要条件だった。

 加えるなら、店で提供する商品は材料を含めて採算に合ったものでなくてはならない。小泉さんのおかげである程度繁盛するようになったとはいえ、うちは小さい店だ。採算度外視のものを作って提供するわけにはいかない。そういった意味でも、俺の作った“おいしいラーメン”は店の商品として適しているとは言えなかった。

 彼女の疑問は、この6年間俺の研究に真剣に付き合ってくれていたからこそ出てきたものだった。彼女の瞳は真剣にこちらの真意を窺っていた。だからこそ俺も、その問いに真剣に応えた。

 

「そんなのは、決まってるよ」

「……」

「このラーメンは君のために作った、君だけに食べてもらいたいものだからさ」

「――えっ」

「君以外に、このラーメンを食べてもらう予定なんかない」

 

 彼女には遠回しな言い方は通用しない。ラーメンのこと以外に興味の薄い彼女は、直接的な言い方をしなければこちらの思いが届く可能性は限りなく低いのだ。俺は覚悟を決めて彼女に向き直った。

 俺の言葉に戸惑いを隠せない彼女の姿に苦笑しながらも、すぐに顔を引き締めて彼女を見つめた。

 

「今日ここに来てもらったのにはね、このラーメンのこともあったけど、君に伝えたいことがあったからなんだ」

「私に、ですか?」

「うん。今日この時じゃないと言えないと思ったから」

 

 俺の、想いを伝えるために。

 

「言いたいことは大きく分けると2つあるんだけど。聞いてもらえるかな」

「……はい。構いません。察するに、その話が今日の本題なのでしょうから」

「ありがとう」

 

 彼女に礼を言ってから俺は近くのテーブルにある椅子を一つ引き出して彼女の近くに置き、腰を下す。小泉さんも座った俺を対面にするように体の向きを変えた。

 

「まず一つ目はね。感謝を伝えたかったんだ」

「感謝を……?」

「うん。俺はね、小泉さん。以前はこの店のことが好きじゃなかったんだ」

 

 思い返すのは彼女と出会う前の自分。父のことを誤解して、好き勝手にふるまっていた自分のこと。

 

「小学生のころ家に帰ったら店の手伝いをさせられていた俺は、それがずっと不満でしょうがなかった。遊びたい盛りだったこともあるけど、その少し前に母さんが亡くなってね。親父もそれを忘れるためなのか仕事に没頭していて、初めのうちは凄く近寄りがたかったんだ。そんなだから家に帰るのが毎日苦痛で仕方なかった。帰ってもつまらないことばかりだったから」

 

 今よりもずっと子どもだった俺は、何も見えていなかった。

 

「今になって思えば、店の手伝いをさせていたのは親父なりに俺とコミュニケーションをとるためだったのかもしれないね。まあそれも親父の心の整理が付く前に始めたことだったみたいだから、うまくいかなかったけど」

 

 あの時君が現れなければ、もしかしたら決定的な亀裂が生まれていたかもしれない。

 

「あの頃は何をやっても噛み合わなくて、何もかもがうまくいってなかった。

 ――そんなときだったんだ、君がこの店にやってきたのは」

 

 驚いたような表情をしている小泉さんを見つめる。

 

「君が初めてこの店に来た時に交わした約束。あれがなかったら俺は親父とまともに話すこともなかったと思う。それだけじゃない。気づいていたかもしれないけど、俺は君に出会うまではラーメンはおろか他の料理だってまともに作ったことなんてなかった」

「やはりですか。自信満々に言っていた割には、初歩的な部分で躓いていましたから、まさかとは思いましたが」

「うん。そうなんだ。本当にごめんね。見栄を張って」

「構いません。あの時も言いましたが、あれはあれで悪くはなかったので」

 

 そう言った彼女を見て思わず頬をかく。彼女の様子に少し恐縮しながらも話を続ける。

 

「話を戻すけど、君が居なかったら俺は親父と仲直りなんてできなかった。それに今の俺にとって生き甲斐ともいえるラーメン作りにだって目を向けていなかったと思う。

 だから、ありがとう。俺にそのきっかけをくれて。俺にこの店のことを好きにさせてくれて、ありがとう」

「……身に覚えのないことで感謝されても、困るのですが」

 

 居心地悪そうに答える小泉さん。確かにそうかもしれない。彼女をきっかけにしているとはいえ、俺が勝手に気づいたことだ。彼女にしてみれば自分は何もしていないのに感謝されているのだ。それも話を聞く限りではそれなりに重い事情についてのものである。突然感謝していますなんて言われたところで実感など湧くはずもない。

 

「そうかもね。でも俺はほんとに感謝しているんだ。勝手な言い分かもしれないけど、どうしても君に伝えたいことだったから」

「……しょうがない人ですね。中華くんは」

 

 小泉さんは呆れたように呟いたが、その眼差しは優しかった。だがその眼はすぐに変わり、疑問の色を映していった。

 

「そうなると一つ疑問が残りますね」

「疑問?」

「ええ。あなたは今私のおかげでお父さんと仲直りできたり、ラーメン作りをしたりするようになったと言いました。貴方が言うからにはそれは事実なのでしょう。

 ですが、そもそも何故私にラーメンを食べてもらおうと考えたのですか?」

 

 それは俺の話の核心に迫る言葉だった。

 

「私と貴方は学校こそ同じであったものの、あの時点ではほぼ初対面と言っていい関係でした。話したことも私の記憶する限りではなかったはずです。貴方も確かそう言っていましたよね? 

 それなのに、そんなほとんど話したこともない相手に対して、どうしてあんなに必死に自分の作ったラーメンを食べてほしいなどど言ったのですか?」

 

 小泉さんは真っすぐにこちらを見ていた。嘘やごまかしを許さない視線は俺をとても緊張させたが、その視線から逃げる訳にはいかなかった。俺も小泉さんのことをしっかりと見据える。彼女も俺の雰囲気が変わったことに気付いたのか、佇まいを直して見つめてきた。

 

「……その理由はね、もう一つの方の話にも関係してくるんだ」

「そうなのですか?」

「うん。だからその説明はもう一つの話をしながらしてもいいかな」 

「そういうことなら」

「ありがとう」

 

 息を深く吸い、心を落ち着ける。それから小泉さんの手元にある、空になった丼に視線を移した。

 

「さっき君に言ったよね。そのラーメンは君以外に食べてもらう予定はないって」

「はい」

「それはね、このラーメンが真に君のために作ったものだからなんだ。今まで君に食べてもらった試作品や一緒に食べたラーメンに対する反応とかから、君の好みを分析して徹底的に研究したもの。君のためだけに作った、君専用のラーメン。だから、そもそも君以外の人に食べてもらう想定なんて一切していないんだ」

「何故、そんなものを……?」

「君の笑顔が見たかったから」

「私の、笑顔」

「そう。初めて君がこの店に来た時に、ラーメンを食べて見せてくれた幸せそうな笑顔。それが見たくて、君を笑顔にしたくて、俺はラーメンを作り始めた」

 

 これから紡ぐ言葉は俺の原点。

 

「俺の作るラーメンで君を笑顔にする。そのために最高のラーメンを作る。それがあの日からの俺の目的だった」

 

 今もなお俺を惹きつけてやまない、心に刻み込まれたあの笑顔。

 

「君と過ごしていく内に何度も君の笑顔を見ることができた。ラーメンを食べる小泉さんの姿は、いつ見ても飽きなくて、俺もとても幸せな気持ちになれた。

 でもそれだけじゃ足りなかった。欲張りなのはわかっていたけど、君といればいるほど募っていく気持ちを抑えることはできなかった。

 だから、自分の中で目標を作ることにした」

「目標……?」

「うん。君が心底おいしいって言って、最高の笑顔を見せてくれるようなそんなラーメンを作ること。それができたらこの想いを伝えようって」

 

 あの日、初めて君を見た時から、抱き続けたその気持ちを。

 

「俺は秀でたものがあるわけじゃないし、別に天才というわけじゃなかったからやれることは限られてた。躓くことも多かったし、投げ出しそうになったこともあった。でもその度に君の笑顔に励まされた。そしてその目標があったからこそ、今日まで頑張ってこれた」

 

 眼前にいる小泉さんを見つめる。あの頃よりも綺麗に可憐に成長した君の姿を瞳に映し、俺のありったけの想いを込めて。

 

 

「すべては――――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「君に、好きだといいたくて」

                    

                              

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その言葉を告げた。

 

 沈黙が流れる。小泉さんの様子を窺うと、彼女は思いのほか落ち着いていた。

 俺の視線に気づいたのか小泉さんはどこか気まずそうに視線をそらした。その姿に苦笑がもれる。

 

「その様子だと、やっぱり気づいてたんだね。小泉さん。いつから?」

「もしかしたら、という程度でしたが。時期としては、初めの方から。貴方は私に対してずっと好意的でしたから」

「そうなんだ。まあ、特に隠していたわけではなかったしね」

 

 彼女の返答に納得する。あれだけあからさまだったら流石に気付くか。すると逆に疑問も残った。

 

「ならどうして俺に協力的だったの? 小泉さん、色恋沙汰はあまり好きじゃなかったよね」

「……貴方は私に迫ってくるわけではありませんでしたから。引くべきところは引いてくれていましたし、節度は守ってくれていました。ラーメンのことに関しても、貴方は手を抜くことなど一度もありませんでした」

 

 それに、と小泉さんは続けた。

 

「私が初めて貴方の作ったラーメンを食べた時に見せた涙は、本当に悔しそうでした。あの涙で貴方が真剣にラーメンを作ろうとしていることがよくわかりました。だからこそ私は、貴方に協力しようと思ったのです。

 ……まさかその理由が、私に対する好意が原因だったとは、その時は思ってもみませんでしたが」

「あはは」

 

 じとりとこちらを見る小泉さんに誤魔化すように笑いをこぼす。彼女はしばらくの間そうやって俺を睨んでいたが、やがて視線を逸らすと「はあ……」とため息を漏らした。

 

「なら軽蔑しちゃったかな。俺がラーメンを作っていた動機に」

「……人を突き動かす動機に不純かそうでないかなど関係ないと個人的には思っています。始まりはどうであれ、今の貴方にとってラーメンがそれだけのものでないことは見ていればわかりますから、多少失望こそすれ、軽蔑など絶対にしません」

「そっか。ありがとう」

「いえ」

 

 小泉さんはそういって口を閉ざし、目線で話の続きを促す。俺はそれに頷いて、続きを話し始めた。

 

「そんなわけで、俺がラーメンを作り続けてきたのは小泉さんに食べてもらいたかったのが大きな要因だったんだ。気づかないうちに楽しくなっていて、今では俺にとって人生で欠かせないものになっているものだから、不思議だけど」

 

 あの頃は本当に想いもしなかった。自分がこんな人間になるなんて。

 

「――今日君に告白したのは、別に付き合ってほしいからとかじゃないんだ。そもそもこの街を旅立つ君にこんなことを突然言ったって、迷惑にしかならないことはわかっていたし」

「そんなことは」

「それでも」

 

 食い気味に彼女の言葉を遮り、言葉を続ける。

 

「このまま君と別れるなんてことだけはしたくなかった。東京に引っ越すといったって、今の時代電車とかを使えば会おうと思えば会うことはできる。小泉さんのことだから、気が向いたときにうちにラーメンを食べに来るということもあったかもしれない

 だけど、それは今と同じような関係が続くわけじゃない。いつかこの店も俺も、過去に君が食べてきたラーメン屋と同じような存在になってしまう時が来る」

 

 だからこそ。

 

「君に覚えていてほしかったんだ。君がいたおかげでラーメンを作るようになった、君のことが大好きなラーメン屋の男がいたんだってことを」

 

 心の片隅で俺のことを覚えていてもらえるように。そんな自分のことだけしか考えていない理由。

 どこまでも独善的で、身勝手な俺の独白。それを聞いた小泉さんは、いつの間にか顔を伏せていた。その表情は髪に隠されていて窺うことはできない。

 やがて彼女は、膝の上に置いていた手を合わせると、ぽつりと囁いた。

 

「それが、私に告白した理由ですか」

「うん。ごめんね。俺の独りよがりに付き合わせて」

「謝るくらいなら、初めから告白なんてしないでください」

「ごめん」

「……貴方は変わりませんね。初めて会った時から、そうやって謝ってばかりいる」

「そうかな」

「そうですよ」

 

 いつかのようなやり取り。だが以前とは違って彼女は顔を伏せたままで、そこに笑顔はなかった。

 小泉さんはそれきり黙り込んでしまった。重い雰囲気とともに沈黙が流れる。彼女に目をやると、その体は微かに震えていた。

 そんな彼女の様子に胸が締め付けられるも、後悔だけはしなかった。今の言葉をなかったことにすることは、自分の持つ彼女への気持ちを嘘にすることになる。そんなことはできない。結果、蔑まれることになろうとも、俺は全てを受け止めるつもりだった。

 

「小泉さん」

「……」

 

 返事はない。構わず俺は続ける。

 

「今日は来てくれてありがとう。こんな忙しい時に、わざわざ呼んでごめん。いつも、君に迷惑をかけてばかりでごめん」

 

 俺はゆっくりと立ち上がる。彼女に反応はない。

 

「君に出会えて、本当に良かった」

 

 万感の思いを込めて彼女に告げる。寂しさを押し殺し、声音に出ないように。

 彼女に、動きはない。

 

 

「今まで本当にありがとう――、

 

 さようなら、小泉さん」

 

 

 後ろを向いてそのまま歩き出そうとすると、カタリと音が聞こえた。振り返ると小泉さんは立ち上がっていた。

 

 

「小泉さん?」

「――」

 

 声をかけるが彼女は応えない。俺は彼女に向き直り、彼女の反応を待った。

 どれくらいたっただろうか。痛いくらいの沈黙が続き、やがて彼女は俯いていた顔を上げると、こちらを見据えていた。その瞳には、どこか決意が秘められていて――、

 

「中華くん」

「何? 小泉さん」

 

 

 

 

 

「私も、貴方が好きです。おそらく、貴方が思っているよりも、ずっと」

 

 

 

 

 

 紡がれた言葉は、俺の想像もしないものだった。

 

 

「――えっ」

 

 

 思わぬ言葉に頭の中が真っ白になる。小泉さんは呆然とする俺を見て、おかしなものを見たとばかりにくすりと笑う。

 

「どうしましたか。そんな顔をして」

「だって、あっと、ええ?」

「私が貴方のことを好きだと言ったことが、そんなにおかしいですか?」

「おかしいよ! だって俺は、君にいつも迷惑をかけてばかりで」

「そうですね。確かに私は貴方に振り回されてばかりでした」

「だったら」

「ですが」

 

 先程のやり取りの焼き増しのように、今度は彼女が強い口調で俺の言葉を遮る。

 

「ですが、私にとっては、それが楽しかったのです」

「楽し、かった?」

「はい」

 

 彼女はそう言って目を細めると、懐かしむように語り始めた。

 

「中華くんも知っての通り、この街にくる以前の私は、父が転勤族なのもあって引っ越しも多く一つの場所に留まっている期間があまり長くありませんでした。短い時には3か月程度で他の場所に越すということもありました。そんな生活をしていたことと私自身の性格もあって、私には同年代の友達がいませんでした」

 

 俺の知らない、ここにくる以前の彼女の話。

 

「初めのうちはそれを寂しく思う時もありました。ですが、たとえ友達ができたとしてもすぐに会えなくなってしまうことを理解してからは、友達を作ろうと思うことも無くなりました。早いうちにラーメンに出会っていたこともあって、むしろ父の転勤のおかげで各地のラーメンが食べられることに嬉しがっていたくらいです。

 それでも、心のどこかで友達が欲しいと思っていたのかもしれません。公園などで同年代の子たちが遊んでいる姿を見て、羨ましいと感じたこともないわけではありませんでしたから」

 

 近くの机に指を遊ぶように走らせる小泉さん。その横顔は寂しげだった。

 

「ここに来た当初も長い間滞在するとは思っていませんでした。私の容姿が日本人離れしていたこともあってか、転校当初は私に積極的に近づいてくる人はあまりいませんでしたし。ここでも特に人と深くかかわることなく、すぐ去っていくものだと、そう思っていたのです。結果的には現在に至るまで父の転勤も落ち着いていましたから、無用の心配ではありましたが」

 

 視線をこちらに移し彼女は俺を見つめた。

 

「そんな私にとって想定外だったのは、貴方の存在でした」

「俺の?」

「はい。ラーメンの存在が大きかったことは認めますが、それを差し引いたとしても小学生だった頃の私にとって貴方の存在は新鮮でした。妬み遠ざける訳でもなく、かといって馴れ馴れしくくっついてくるわけでもない。そんな貴方との距離感は居心地が良かった。思い返せば過去にも似たような人がいなかったわけではないと思いますが、その時幼い私は気づくことができませんでしたから」

 

 それは俺の知らない、彼女の軌跡。

 

「同じ時間を過ごし、同じものを食べ、他愛のない話をする。いつの間にか貴方の存在は、私が過ごす日常の中で当たり前の存在になっていました。貴方のラーメンに関する知識が深まってきてからは、私とラーメン談義をするようになりました。そういったことができる同年代の人も初めてで、色々な意見をぶつけ合えることが楽しかった。

 いつの間にか貴方は、私にとっての初めての友人となっていました」

 

 認めるのは癪でしたが。彼女は口をとがらせてそう言った。可愛らしいその仕草に、今まで見たことのない彼女の反応に目を奪われる。

 

「ですが私は貴方と友人関係ではあっても、それ以上の、異性として意識したことはあまりありませんでした。ラーメン巡りの旅などで同じ部屋で眠ることがあったりしても、それは変わりませんでした。貴方に対する私の認識はあくまで友人であり、そして同じラーメンを愛する同志だったのです。恐らく以前の私が貴方に告白されたとしても、すげなく断っていたと思います。

 ……私が貴方を意識し始めたのは、中学でのあの事件がきっかけでした」

「それは……」

 

 中学2年の時の暴力事件。彼女にとっては良い記憶とはいえず、思い出したくはない類のものだったはずのもの。彼女の口からこの話がされることは今まではなかった。

 

「正直あの事件の直後、男の人に関わることが少し怖くなっていました。貴方が先輩を殴ってから逃げ出したのも、半分は貴方が怖かったからなのです。冷静になって戻って傷だらけになった貴方を運ぶ時も、貴方が目覚めるまで待っていた時も、心配をしながらも、私は貴方のことを恐ろしく感じていた」

 

「それだけではありません。貴方と過ごし、貴方の性格を理解していながらも、他者のためにあそこまでできる貴方のことが不思議で仕方がなかった。貴方が私に好意を抱いていたのだとしても、先輩は貴方よりも体格が良く、気も強かった。貴方は、そんな相手に喧嘩を売ることができるようなことができるような人ではないと思っていました。

 しかし事実貴方は、先輩に立ち向かった。体をぼろぼろにして、最後には気を失うような怪我をしても、決して逃げることはなかった。

 ……私は、それが気になって仕方がなかった。私があの時あの場に残っていたのは、残れていたのはそれが理由でした」

 

「貴方に私のことが大切だからと言われた時、とても嬉しく感じました。そしてその時から私は貴方の顔をまともに見ることができなくなっていました。貴方を見ると顔が熱くなって、胸が高鳴って、恥ずかしくて。でもそんな私のことを知られたくなくて、顔に出さないようにするのに苦労しました。

 貴方はそんな私の様子に、全く気づく素振りもありませんでしたが」

 

 恨みがましそうな視線が向けられるが、俺は反応することができなかった。彼女が話したことが、俺にとっては予想もできないものばかりだったから。

 本来であれば喜ぶべきことなのだが、自分が告白した後だということ、彼女も同じ気持ちであるとは考えもしなかったこと等、あらゆる要因が絡まって頭の中がパニックになってしまい、なにも言葉を出せなかった。

 目を白黒して反応の鈍い俺に呆れたように笑う小泉さん。そんな彼女の姿にも戸惑いを隠せなかった。今目の前にいる小泉さんは、肩の荷を下ろしたように朗らかで明るかった。

 

「……貴方は卑怯です。私に告白をしておきながら、伝えるだけ伝えて、私の気持ちについては聞いてくれないのですから。そんなのは勝手すぎると思いませんか?」

「……ごめん」

「ダメです。許しません」

 

 彼女はきっぱりとそういってから、右の人差し指を一つ立て俺に突き付けた。

 

「ですからやり直しを要求します」

「やり直し?」

「はい」

 

 その声はどこか楽しげに、愉快そうに弾んでいた。

 

 

「再び会った時に、貴方の気持ちを聞かせてください」

 

 

「それ、は」

 

 小泉さんは俺に突き付けていた手を下ろすと両手を後ろで組み、上目遣いでこちらを覗いてきた。

 

「貴方の自己満足に私は付き合ったのです。今度は私の言うことを聞いてくれても良いのではないですか?」

「何を言って」

「……貴方は私のことが好きではなかったのですか? あの言葉は嘘だったのですか?」

「違う! 本当だよ! 俺は小泉さん、君のことが――」

 

 続きは唇に当てられた白い指で遮られた。息を詰まらせ、あててきた当人を見る。彼女はゆっくりと首を振った。

 

「その続きは、次の機会に聞かせてください。今度も、とびっきりおいしいラーメンとともに。

 ……今以上のものを期待していますよ?」

 

 彼女は悪戯っぽく微笑んでいた。

 

「……うん。約束するよ。その時は俺にできる最高のラーメンを御馳走する」

「成長が見られなかったら、リテイクもありです」

「そうならないように頑張るよ」

「はい。頑張ってください」

 

 今度こそお互いに微笑みながら見つめあう。少しして彼女は俺に背を向けて、入口へと歩き出した。

 戸を開き小泉さんは一度振り向いてこちらを見て口を開いた。

 

 

 

「それではまた。中華くん。ごちそうさまでした」

「うん。お粗末様でした、小泉さん。

 ――またのご来店をお待ちしております」

 

 

 

 

 

 

 

 こうして俺たちは別れた。小泉さんは東京へと旅立ち、俺は高校とラーメンの研鑽の日々に戻っていった。

 彼女と別れてからの数日間は喪失感で胸がいっぱいだった。ふとした瞬間に彼女がいないことに気付いて、その度に気持ちが落ち込んでいった。

 だがそれも半月もたてば人間慣れるもので、だんだんと落ち着いていった。同時期に地元のローカルテレビでうちの店が取り上げられ、それなりに有名なラーメン雑誌に記事が載ったこともあって、一日に来店する数が激増した。それが原因で店がとても忙しくなった。考える暇もないとはこのことか。学校から帰ると店の仕事に追われ、店が終われば自身の研究に戻る。その繰り返しだった。

 学校でも集中して勉強に取り組んだ。ラーメンが原因で成績を落とすわけにはいかない。そんなことになれば小泉さんに顔向けができなくなる。高校を卒業したら、大学進学も視野に入れている。自分の視野を広げ、新しい視点を得て、もっとおいしいラーメンを作る。そして今の自分よりも良い自分になる。そのためにはより一層の努力が必要だった。

 高校では、入学してからすぐに休んだこともあってクラスに溶け込めるか心配になっていたが、同じ中学出身の友達何人かがフォローをしてくれていたらしく、ぎこちなさは当初はあったものの問題なく溶け込めた。彼らには後でうちの店のラーメンを奢った。

 父との関係も相変わらずで、今の店の状況にてんやわんやしながらも楽しそうにしていた。あの時の相談がきっかけとなったのか、お互いに遠慮なしに色々と意見を交わしながらも、充実した毎日を送っている。あの日の結果に関しては特に触れてこなかったが、俺の顔を見て何となくではあるが察したようだった。ただ一言「頑張ったな」といって肩を叩いただけ。父への尊敬度は日増しに上がってきている。

 そんな少し寂しくも充実した日々が過ぎていった。小泉さんからの連絡は特になかった。だが彼女はいつものようにどこかでラーメンを食べているということが想像できたため、心配をすることはなかった。俺からも連絡を取ることはなかった。次に声を聴くのは、約束を守る時だと決めていたから。

 そして彼女が街を去ってから、約三か月がたった頃。“その時”は訪れた――。

 

 がやがやと騒がしい店の中、様々な声が入り混じっていた。厨房にも届くそれらの声に少し焦りながらも、手は止めずに調理を続ける。寸胴鍋からダシを取り出し、返しを入れた器に素早く注いでいく。隣で茹でていた麺を湯切りして入れていき、手早くトッピングを乗せる。 

 客が増えてからは調理速度の向上が求められるようになった。数も結構な量が必要となる。結果俺と父だけでは手が回らなくなり、今ではバイトの人も増えた。指示を出しながら、並行して作業を行っていく。ホール担当に声をかけて料理を運んでもらい、次の調理へ移る。何とも忙しいが、やりがいはあった。

 忙しかった時間帯を超えると父から声がかかり、休憩に入った。店内を見渡すと確かに落ち着いていた。これなら安心だと一度二階の自室に戻ろとすると、戸が開く音が聞こえた。

 

「いらっしゃいませ。何名様で――」

「お久しぶりです。中華くん」

 

 鈴のように綺麗でよく通る声。みるとそこには三か月前よりも、どこか大人っぽくなった小泉さんの姿があった。彼女はその絹のように柔らかく、艶やかな髪をなびかせて俺に歩み寄る。その視線は優しく、その顔は微笑んでいた。

 

「いらっしゃいませ、小泉さん。久しぶりだね」

「相変わらずのようですね。壮健そうで何よりです」

「小泉さんこそ。元気そうでよかった」

 

 会話を交わしながら小泉さんを席へ案内する。その先は勿論いつものあの席。小泉さんのための特等席。

 優雅に、慣れた動作で小泉さんは腰かける。その何気ない仕草がたまらなく嬉しかった。

 

「お店、繁盛しているようですね。この間雑誌でも見かけましたよ」

「あはは。照れるなあ。でも、まだまだこれからだよ」

「満足はしていないって顔ですね」

「そりゃあね。俺にはまだまだ足りないものばかりだから」

 

 会話に花を咲かせる。だがそれも僅かな間だけだった。話もそこそこにお互いに口を閉じて見つめあった。

 離れてからの3か月お互いにどう過ごしてきたのか、いろいろ気になることはあったけど、それはひとまず置いておく。

 今は何よりもまず、しておかなければならないことがあったから。

 

 

 俺と小泉さんは、いつだってこうしてきたのだ。

 

 

 

「それでは中華くん。ラーメンをお願いします」

「はい。小泉さん。少々お待ちください!」

 

 

 

 大好きな君の笑顔を見るために、今日も頑張ろう。

 

 

 

 俺はきっと、これからもそのために生きていくのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




これにて完結です。長かった……。

最終話投稿後はちょくちょくこれまでの投稿を直していきながら、時間があればアフターなどを投稿するつもりです。時期は未定。

良かった、好きだといってもらえたのが心底嬉しかったです。それをモチベーションに何とか最後まで書き上げることができました。ありがとうございました。これもすべて読者の皆様のおかげです。

それではまた、次の作品で。お付き合いいただきありがとうございました!

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