本当にそれだけです
『いつか二人で星を見たいね』
何気なく呟いたねがいが、私達を星空の下へ導いたの。
萩窪駅連絡橋から見える空は都心で見るそれよりずっと広い。
線路沿いに道路が真っすぐ伸び、快晴日には遠くまで続く青を見渡せる。
決して絶景とは呼べないけれど、日常よりも広い景色を見ると良くも悪くも気分が変化するのは、人間の本能なんだと思う。
今日の気分はブルー。いや、グレーかもしれない。
だって、私達の頭上を真っ黒な雲がすっぽりと覆っていたから。
空が曇ると風景の彩度やコントラストが低くなって、元々そんなにカラフルじゃない街をさらに寂しくさせてしまう。この街は好きだけど、やっぱり視界に映るものがカラフルなほうが気分は明るくなる。……ような気がする。
「天気予報では、晴れだったのに」
独り言のように呟くと、純那ちゃんは「ちょっと待って」と買い物袋代わりのトートを開いた。
純那ちゃん――星見純那ちゃんは、頑張りやさんな私の友達だ。舞台少女の仲間、ルームメイトといろんな呼び方があるけれど、たぶん今一番近いのは「親友」という言葉だと思う。
だけど私は、友愛を超えるくらいに純那ちゃんのことが大好きだった。その感情をなんと呼ぶのかは最近までわからなかったけど、ざっくり言うと『恋』に近いものらしいということまではわかるようになった。
いつから好きになっていたのかはわからない。
何がきっかけで好きになったのかはわからない。
けれど、恋をしたと一度自覚してしまえば、あとは一層燃え上がるばかり。どうにも止められなくなって、なんにも悲しくないのに胸が締め付けられて、わけもわからずにベッドで泣いちゃって。純那ちゃんはそんな情けない私を見ても優しく抱きしめて慰めてくれるばかりで、そのたびにますます好きになっちゃう。いつしか私は積極的な行動に出るようになっていて、今回のお出かけ――買い物デートもその行動の一貫だった。
『人は、恋をしてはじめて、すべての子供らしさから脱皮する』
どこかの小説家が言っていた、恋に関する名言。
私は、もう少し大人に、魅力的になって、はじめての恋を実らせたい。
一方、私の初恋の相手はというと、今日は肌寒いのか白いTシャツの上にざっくりとしたオーバーサイズの白ニットカーディガンを羽織っていた。珍しく紺のデニムを履いているのは、今朝机の上にあった大量の付箋が貼られたファッション雑誌の影響かもしれない。足元の薄茶色のコンバーススニーカーも普段履かないタイプのものだから、本当にたくさん勉強して、オシャレに試行錯誤しているのかもしれない。
誰と一緒にその服を買いに行ったのかは、怖くて絶対に聞けないけれど。
「あるわよ。二本」
連絡橋の階段の踊り場まで歩くと、純那ちゃんは空色の折り畳み傘を私に差し出した。黒縁メガネの奥から覗くエメラルドの瞳が真っ直ぐ私を捉えて、照れくさくなって傘へと目線を逸らす。ああ、もう。ここで目を逸らしたらだめなのに!
とはいうものの、「雨」「傘」「好きな人」「二人きり」とくればお決まりのアレがあるわけで。
「一本が、いいな」
声、震えてないかな?
足の指をニジニジと動かして落ち着かない気持ちを紛らわせようとしても、やっぱり鼓動は暴れるばっかりで。
「……少し、濡れるわよ?」
「うん、それがいいの」
流石、純那ちゃん。傘を受け取っていそいそと連絡橋の下まで降り、二人で身体を寄せ合って傘を開く。頭上はきれいな青で染まり、僅かな太陽光を透かすと、まるで雲ひとつない青空の下にいるみたいだった。
「きれい」
「そ、そう? 普通の傘だけど……」
「純那ちゃんっぽい色。好きだなあ」
なんでもない会話をするフリをして、ちょっぴり純那ちゃん側に傘を寄せる。
こういうの、一度やってみたかったんだよね。寮に着くまでの約十分間で私の肩だけが濡れて、それを見た純那ちゃんがキュンとときめく……完璧なシチュエーション!
寮についた頃に『なな……私を守ってくれたのね。本当にありがとう』なんて照れくさそうに笑ってくれたら、逆に私が心臓発作で死んでしまいそう……
……あれ? それってだめじゃない?
さらに浮かんだ疑問がもう一つ。
私がこれだけニヤニヤしそうになっているのなら、純那ちゃんはいったいどんな顔をしているんだろう?
落ち着かなさそうにモジモジしてくれてたらいいなあ。
顔が少し赤くなってたら脈アリなのかなあ。
嬉しそうに腕を組んでくれたり……はさすがにないか。
こっそりと顔色を窺うと、純那ちゃんは不満そうな顔で傘を持っている私の手を握った。
えっ、何?
待って、ハンドクリーム塗り直してない!
いや、そこじゃなくて、なんで手を握ったの?
「な、何?」
「やっぱり、私が持つ」
純那ちゃんの表情は真剣そのものだった。あまりにも純那ちゃんらしい答えに、から笑いしか出てこない。もう、急にドキドキさせないでよ。
「私が傘を忘れたんだから、これくらいさせて」
「でも……」
「それに、純那ちゃんが持ったら、私の頭につっかえちゃうよ?」
純那ちゃんは雨降らしの雲みたいなため息をついた。
「……今度から、十センチくらいのヒールを履こうかしら」
純那ちゃんはピョコンと背伸びした。
正直、嬉しかった。確かに、背伸びすれば私の目線より少し下くらいで、並んで傘を持つことくらいはできるかもしれない。けれど、本人が選んだのならともかく、私だけのために純那ちゃんにヒールを履かせるのはなんか違う気がする。
「なら、私も同じくらいのヒール履こうっと」
だから、私も同じように背伸びした。元と同じ身長差に戻ってしまえば、純那ちゃんがオシャレ以外に高いヒールを履くことはなくなるから。
「それじゃあ、オシャレ以外に意味がないじゃない」
純那ちゃんはわざとらしく呆れた素振りを見せた。
「そうだね。だから」
傘から染み出した青に染まった私達のからだ。くっつけて、ほんの少し色の温度を上げてみる。
「……近い」
「純那ちゃんが濡れちゃうから。でも、私も濡れたくないの」
「言い訳でしょ」
「言い訳じゃないよ。建前だよ」
純那ちゃんは照れくさそうに「そうね」と笑うと、さらに身を寄せてくれた。
線路沿いの道を少し歩くと、左側に「すずらん通り」と書かれたアーチが見える。
すずらん通り――萩窪すずらん通り商店街は文字通り地元の飲食店や商店が集まっている通りで、駅から私達の寮に帰るときはここを通るのが最短ルートになる。八十以上の店やオフィスが点在しているので基本的になんでも揃っている――というわけでもなく、晩御飯に使えそうな店は一つだけ存在する青果店くらいだと思う。飲食店はたくさんあるけど、お金がかかるし、純那ちゃんの胃袋に収めるのはできるだけ私が作った愛情いっぱいの料理であってほしいから、あまり気は進まない。
それでもそれなりの頻度で通る道だから愛着はあるわけで、いつもどおりに斜め左に曲がろうとすると純那ちゃんが服の袖を引っ張った。
「道幅が狭いから、こっちから行きましょう?」
そう言って指さしたのは、通行人がいなくて歩道の幅が広い直進方向。でも、少し遠回りになる道だった。
「商店街を通ったほうが近いよ?」
純那ちゃんは言葉を詰まらせた。私、なにかまずいことを言ったかな?
「ふ、二人で並んで歩くには道幅が狭いし? それに……ほ、ほら!」
さらに指さしたのは、線路のずっと向こう。
雨を降らす真っ黒な曇り空のずっと向こうに、突き抜けたような青空が見えた。
「晴れ間に向かって歩いたほうが、気分が明るくなりそうじゃない?」
『その笑顔のほうが、青空なんかよりも私の心を晴らしてくれるんだよ』
なんて恥ずかしげもなく言える日が、いつか私にも来るのかなあ?
「ななって」
「ん?」
「雨の日は、好き?」
左手を落ち着かなさそうにぶらぶらさせながら純那ちゃんが言った。
「んー、洗濯物が乾きにくいから、晴れの日よりは苦手かなあ」
「私も。嫌いではないけど、好きではないわね」
「それで、なんでそんな質問を?」
特に意味はないんだろうけど、なんとなく聞きたくなった。
「えっ? あ、ああ……なんでもないのよ。せっかく人がいないのに、傘のせいでななの右手が……そうじゃない! なんでもない! なんでもないからっ!」
「変な純那ちゃん」
でも、こうして二人で寄り添っていられる雨には、感謝してもしきれないな。
「と、とにかくっ! ななと見上げる空は、晴れている方が好きなのよ」
「私は、純那ちゃんと一緒なら、どんな天気でも幸せかなぁ」
その瞬間、純那ちゃんの歩みがピタリと止まった。慌てて戻って傘を差してあげると、恐怖とか、緊張とか、色々な感情をミキサーでかき回したあとに喜びをトッピングしたような表情で純那ちゃんはポツリと呟いた。
「……本当に?」
純那ちゃんの声は震えていた。
私は、心理学とかそういう人の気持ちを上手く表すものを勉強していないから、純那ちゃんが何を考えて言葉を発したのかよくわからない。けれど、この心臓の高鳴りが私の心にもう一度恋を刻み込んだことを証明していた。
心臓って、なんでひとつしかないんだろう。
もし心臓が二つあったとして、
かわりばんこに動いてくれれば、こんなにも息が苦しくならないのに。
片方がキュンと締め付けられても、なんでもないような表情ができるのに。
「本当だよ」
私の顔は、純那ちゃんへの好きで塗りつぶされてしまった。
純那ちゃんは一瞬驚いたような表情になって、また、私が泣いたときのように優しく笑って、抱きしめてくれた。
「なな――」
心臓の音に同期して、ガタン、ゴトン、と電車の音が聞こえる。
シャンプーの香りを嗅いだら目の前が真っ白になって、好きな人が濡れないように傘を差すので精一杯だった。
「ねえ、なな」
「なぁに?」
痛いくらいに、ギュウッと抱きしめられた。まるで、不安と戦ってるみたいに。
「次の休み、二人でデートしましょう?」
言い終わった瞬間、フッと私を包んでいた腕の力が抜けた。
ああ、純那ちゃんもずっと抱え込んでたんだ、って、私はやっと理解した。最近オシャレに気を使い始めたのも、誰かとこっそり買い物に行ったのも、全部、その『デート』のためだったんだって。
「どこに行くの?」
私の明るい声色を聞くと、純那ちゃんはゆっくりと身体を離した。
「プラネタリウム。前、星が見たいって言ってたから」
「素敵。デートみたい」
「デートよ」
「そうでした」
「ま、まあ……、本当は、本物の星空を見てみたかったんだけど。門限があるし、東京では見えるところが少ないから、行くにしても遠くになっちゃうし……」
だんだんと小さくなっていく純那ちゃん。
ううん、大丈夫だよ。最初から、本当に行けるなんて思ってなかった、小さな願いだったから。そんな小さな一人ぼっちの願いさえも、全部見つけて、真剣に向き合って拾い上げてくれる、そんなところが私は――
「いつか、行こうね」
「ええ。絶対に連れて行くわ」
曇りの向こうの青空は、私の心を晴らしたの。