11話後あたりの時期で「友達以上恋人未満の関係から先に進めなくてモダモダするじゅんなななちゃん」を妄想しました。
華恋ちゃんが少し登場します

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【じゅんななな】『私の』なんて言えないの

 触れることはできるのに、

 掴むことはできるのに、

 あなたが私を求めてくれるから、

 私はあなたに伝えられない。

 あなたの頬に触れる指先から

 皮膚に想いが滲んでいって、

 いつか脳に回ればいいのにと

 何度思ったかわからない。

 だから私は、あなたに触れるのをやめない。

 どんなにしつこく感じても、あなたの想いを拒まない。

 夏の太陽のように燃え滾るこの胸の熱を、

 冬空の星のように煌めきだすあなたへの想いを、

 子犬のようなあなたよりずっとわがままな私を、

 どうか好きでいさせて。

 だって、この想いは全部あなたのものなのよ。

 私が、あなたに伝えたい全部なの。

 けれど、これらは全て私のエゴ。

 恋でも愛でもなく、全ては私のエゴだから。

 私は愚かな私を許せない、最も愚かな人間だから、

 私は、愛すべき人であるあなたを――

 

 

 

 

 一年ぶりに秋の気配が訪れた十月某日、日曜日。

 朝目覚めてすぐに、私はいつもより身体が軽いことに気がついた。

 昨日、テレビの予報を見て慌てて出した毛布のおかげで快眠できたのだろうか。

 その絶大な効果を伝えようと、眠気眼でいつものように腕を上げる。

 私の顔の、本の数センチ前。

 手を伸ばすと、そこには何もいなかった。

 着地点を失った右手は頼りなくフラフラと宙を舞い、音もなくシーツに落ちる。

「なな!?」

 初夏辺りから確かに毎朝存在していたものの名を呼ぶ。

 慌ててベッド脇の眼鏡を手に取り、起き上がってキョロキョロと辺りを見渡す。

 部屋の入り口、クローゼット、自分の机、ななの机――そして、ななのベッド。

 私はそこで、自身の身体が軽い理由に気がついた。

 

 

 友達以上、恋人未満。

 私と大場ななの関係を表すにはその言葉が適している。

 親友とはまた違ったベクトルの、友達よりもずっと深くて大きな関係。人前では気兼ねなく話せる親友として振る舞い、二人きりの時は盛んにスキンシップをとり、夜は一緒のベッドで寝る生活。その生活が数ヶ月ぶりに途切れ、ななさえ一緒に寝ていなければ身体が軽いことに気がついた私は、軽く首を回した。

 考えてみれば当然の話だ。

 自分よりも十センチ程度大きな人物が、大木にしがみつくように抱きついた状態で毎晩過ごしていたのだから、身体に負担がかからないわけがないのだ。

 ずっと昔に存在した、抱きつくオモチャが突然変異で大きくなったもの。それが深夜の大場ななだ。

 そんな私の慢性的な肩凝りの原因、もとい大型犬はというと、掛け布団を抱いて丸めて、自身のベッドでうずくまるように眠っていた。何度も寝返りを打ったのか、掛け布団からはみ出した黄色い髪の毛がボサボサと乱れている。

「なんだ。いるじゃない」

 ホッと一息つくと、自分の息がいつもより冷たかった。

 一日で季節が大きく変わったせいか、体調がよくなったせいか、胸にチクリと空いたほんの僅かな大きさの穴のせいか、私にはわからなかった。

「……顔、見たいな」

 言い終わるより先に身体は自然と立ち上がっていた。立ち上がり際、思い出したように時計を見る。休みにしては早朝だが、いつも起きている時間だった。

「なな、起きて」

 口に出してみると自分の声が思ったより大きく感じ、ハッと口をつぐむ。

「起きてるよ」

 丸まった掛け布団の奥から、くぐもった声がした。

「起きてた。ずっと起きてたよ純那ちゃん」

 いつもは伸びのよい高音で返事するのに。電池が切れかけの懐中電灯のように、声にハリがない。普段と違う環境だから眠れなかったのだろうか。

『なんで今日は私の布団に入らなかったの』と尋ねようと口を開いたが、野暮だからと本来真っ先にするべきだった挨拶を口に出す。

「おはよう」

「……おはよ」

 相変わらず、眠そうな声を上げるなな。季節の変わり目だからか、単純に眠いのかもしれないと思った。

「なな。……今日は起きないの?」

「うん」

「そう。珍しいのね」

 机の椅子を引き出し、座る。

 目的は、昨晩ななと話していて読みたくなった、シェイクスピア作『ハムレット』の文庫本だ。パラパラとめくって開いたのは第三幕一場。デンマーク王子ハムレットの、最も有名な独白シーンだった。

『生きるのか、生きないのか、問題はそこだ(※)』

『なまじ理性があるばかりに臆病風につきまとわれ、いさぎよいもとの決意もあとかたもなく、青ざめた迷いの色にぬりこめられ、のるかそるか、あとにはひけぬ決断さえ、思いみだれてみすみす目標を見うしない、身うごきならぬこのありさま(※)』

 まるで、今の私みたいだ。

 

 

 私はルームメイト――大場ななのことを好いている。友達としても、仲間としても、一人の女性としても、たぶん全ての意味でななのことを好いている。

 好きになったのがいつからだったかは思い出せない。

 けれど、毎日毎日共に過ごしている内に彼女に惹かれていくのは手に取るようにわかる。

 伸びのよい声、目覚めたときに一番に嗅ぐ身体の匂い、癖のある黄色い髪の毛、青緑の彼女の瞳。私よりずっと高い身長、いつもは大人のように振る舞っているのに、二人きりの時には子供のように甘えたがる。

 彼女の全てが私を虜にするような、まるで私の弱いところを全て知り尽くしているような。

 けれど、恋を自覚してからずっと、私はななに思いを伝えられていない。

 それなのに毎朝同じ布団に入って眠って、キスもせずに甘え合って、何もかも順序がグチャグチャになって、言うべきことを言うタイミングを失ってしまった。

 タイミングなんていつでもあったのに、私はずっと自分の心にそう言い聞かせている。

 私の今置かれている状況はまさに『のるかそるか、あとにはひけぬ決断さえ、思いみだれてみすみす目標を見うしない、身うごきならぬこのありさま』なのだった。

 

 

「よりによって、ここで読むのをやめていたなんてね」

「……昨日の、シェイクスピア?」

 乾いた笑いにななが反応する。振り向くと、青緑の瞳が子供のようにこちらを見つめていた。

「そうよ。一緒に読む?」

「文庫本は、一緒に読むには小さすぎるよ」

 ななは苦笑しつつも、起き上がる気配がない。いつもなら、どんなに小さな本でも喜んでひとつの椅子に座ってきたものなのに。

 しかし、文庫本を読んでいる時に声をかけられたことは少ないから、もっと大きな本を出せば――ハッと思い出し、机の端から両手でB5判の厚い本を持ち上げる。

 文庫本三冊分を軽々と超える厚さの本は、シェイクスピア全集。シェイクスピアが生前残した、彼の人生の集大成。

 ――日本語に翻訳されてはいるけど。

「ここに、シェイクスピア全集があるけど」

 一緒に読まない? までは言わなかった。恥ずかしくて言えなかった。

「文字が小さすぎて、ギュウギュウ詰まってるのは変わらないよ」

「……そう」

 開いていたシェイクスピア全集を元あった場所に戻し、もう一度ハムレットの文庫本に手をつける。思った通りのページ――111ページを開くために二度も通り過ぎてしまい、自らの動揺を悟る。

 ――なななら、喜んでくっついてくれると思ったのに。

 今日のななはどこかおかしい。しかし、それ以上に、ななの気まぐれな行動でモヤモヤを抱えている私自身に動揺していた。

「純那ちゃん」

 純那の動揺を知ってか知らずか、なながくぐもった声を上げる。なんでもない、いつものセリフ。

 しかし私はそこで、手の震えが止まっていることに気づいた。

 ――自分自身が行方不明になった時、名前を呼ばれるとこんなにも安心するんだ。

「……純那ちゃん?」

 フルフルと首を振った。これでは、まるで。

「ああ、ごめん。それで、どうしたの? ……なな」

 私がななに、甘えたくなっているみたいじゃない。

「やっぱり、昨晩も遠慮しないで一緒に寝ればよかった。そうすれば、もうちょっと楽になれてたかもしれないのに」

 私はハッとした。もっと前に気づけているべきだった。ななが、私と一緒に寝るのを『遠慮した』理由。あの丸まってクシャクシャになった掛け布団、本来は私だったんだ。私はいそいそと机の引き出しを開けた。

「水。持ってくるから待ってて」

「ああ、大丈夫だよ純那ちゃん。純那ちゃんが起きるより前に、一回飲んだんだ」

 私が錠剤を取り出すよりも先に、ななが恥ずかしそうに笑った。

「言ってくれれば、私が水を持ってきたのに」

「言えると思う?」

「……そうね。ごめん」

 でも、やれることはまだあるはず――再度引き出しに目を落とすと、紅茶のティーパックが余っていた。茶葉はカモミール。リラックスにはうってつけの香りだ。

「そうだ。カモミールティー、淹れようか?」

「そばに、……いや。お願い」

 私は二人分のマグカップを手に立ち上がった。

 

 

   *

 

 私の恋は熱病のように、やむことなく、

 病を糧にその思いは募るばかり、

 病を留める恋の思いを食い物にしては、

 気まぐれで病的な食欲を満たしている。

 

 恋の病の医者、理性は、

 処方箋を守らない私に腹を立て、

 私を見捨てた、それで絶望した私は、

 医術を拒む欲望は死だと知った。

 

 いまや治療も及ばず、理性もかなわず、

 絶え間ない不安で気も狂わんばかり。

 私の考えることや話すことは狂人のそれと同じ、

 脈絡もなく、虚しいたわごとに過ぎない。

 

 おまえを美しいと誓言し、輝くばかりだと思ったが、

 おまえは地獄のように暗く、夜の暗闇のようだ。

 

――ウィリアム・シェイクスピア ソネット集

  第147番『恋の病』より引用

 

 

 

 休日の廊下はシンとしていた。季節の変わり目で皆眠いのか、物音一つしない。

 誰から隠れるわけでもなくソロソロと階段を降り、キッチンへと向かう。

「誰もいないキッチン、か」

 当然といえば当然だが、電灯を点けてみても、私ががキッチンに立つときにほとんど一緒にいるはずの誰かがいない。

「やかん、どこだったかしら」

 棚を手当たり次第に開けてみても、誰よりもこのキッチンのことを知り尽くしている誰かがいない。

 あるはずのものが、そこにない。

 いるはずの人が、そこにいない。

 普段何気なく過ごしている日常では気づけない、些細な違い。

 失ったわけでもないのに、込み上げてくる切なさ。

 いつも通りの場所になながいないだけで、私が寂しがっている?

「ななのこと、子供だなんて言ってられないわね……」

 ようやくやかんを見つけ、水を入れてコンロに火を入れる。それだけの作業に、体感で三分はかかってしまった。

「ああ、もう……。こんなんじゃ私、一人じゃなにもできないんじゃないかしら」

 たった一人の少女がいない、ほんの数分のできごと。もしかすると、ななが関わると弱いのかもしれない。私はため息をついた。

 大場ななは、私と二人きりの時には甘えん坊だが、友人達の前では「お母さん」のままでいる。時折見せる子どものような動作すらも、何か彼女の計算に含まれているような振る舞いを見せる。私はそんなななのことを好いていたし、友人達も彼女のことを好いていた。

 しかしある日、私はななに真実を打ち明けられた。彼女がとある方法により何度も同じ一年間を過ごしていること、彼女が守りたかったのは過去の煌めきだったこと。私が思っているより子供のような少女であったこと。そしてそんな彼女もまた、進化を止めない舞台少女であったこと。私は、ななの数多くの一面に触れることで、彼女に惹かれていった。

――いや、もしかすると、最初から。

「なな。私は、あなたを――」

 ボウボウ燃えるコンロの火は、まるで私の心のようだった。

 

 

「ばなな……おはよう……」

 突然の声に振り返ると、赤茶髪の少女が眠そうに目を擦っていた。ななとはまた違った形のツーサイドアップにくわえ、王冠型の髪留めが特徴的な彼女は、愛城華恋。私の同級生であり、舞台少女の仲間であり、ライバルであり――友達かどうかはまだわからないが、仲はそこまで悪くないと思っている。

「華恋。珍しく早いのね」

 振り向き際に乱れた眼鏡の位置を直すと、華恋は驚いたように目をぱちくりと開けた。

「あれ、じゅんじゅんだったんだ」

「ななじゃなくて、悪かったわね」

 雑になり過ぎない程度に悪態をつくと、華恋は困ったように頭を掻いた。

「ああ、……間違えちゃった、ごめん」

 華恋はボサボサと乱れた髪を手ぐしで直し始めた。目の前の彼女は、ななの前では手櫛すら入れないのかと驚いたが、私は声を抑えた。

「別にいいわよ。それで、この時間にあなたが起きているってことは――」

 グギュルルル。想像以上の音がなり、思わず私もお腹を押さえる。それでも、音が鳴ったのは華恋のお腹からだった。

「やっぱり」

「えへへ、お腹空いちゃって。そういえば、ばななは?」

「寝てるわ」

「珍しいね。いつもは朝ごはんの準備してるのに」

 体調を崩している、と正直に言ったら、目の前の少女はきっと大騒ぎするに違いない。

 優しいが、一度走り出すと制御不能になるその性格はななの看病――といっても病気ではないのだが、少なくとも世話には向かないと私は思った。それに、今のななを独り占めしておきたいし――。

「昨日、ななと二人で遅くまで話をしてて。おかげで私も眠くて眠くて……」

 あくびのふりを見せると、華恋は脚を崩して後ろで手を組んだ。その動作が何を指しているのか、彼女は何を思ったのか。

「そうなんだ……へえ……夜遅くまで、二人で、ねえ……?」

 華恋がいやらしく笑った瞬間、ピィイイイイと、やかんから水の沸騰音が鳴った。

「ご、誤解を招くような言い方をしないでっ!」

「お湯、沸いたよ?」

「分かってるわよ! もう、本当にデリカシーがないんだから……」

 長々と文句を垂れながらマグカップに湯を注ぐ。ほのかに香る甘酸っぱさのなかに、辛さを含んだ芳醇な香り。日常の鬱憤から自分を今生きている現実に引き戻すような香りが純那の鼻腔をくすぐった。

 カモミールの花言葉は「逆境に耐える」とはよく言ったものだ。

 身を固くして耐えるよりも、肩の力を抜いた方が優れたパフォーマンスを生むという、いかにも西洋らしい理屈。しかし以前の私にはそれが足りなかったのかもしれないと、私を引き戻した張本人をもう一度見る。

「その紅茶、リンゴみたいな香りだね」

 ――私は、この子に負けてから。強くなったのかしら、弱くなったのかしら?

「あげないわよ。すっごく貴重なんだから」

 といっても、これは近所スーパーで売っている安いカモミールティーだ。決して他人に与えるのを渋るような代物ではないが、今日は特別に私とななの二人だけのものにしておきたかった。

「それ、ばななに淹れてあげてるんだね」

 華恋は笑った。

「一瞬、優しい顔をしてたから。じゅんじゅん、ばななのこと大好きだもんね」

「へっ?」

 ――まさか、ね。この子にまで私の気持ちがわかるなんて。

「ああ、うん。……そうね。大切な仲間よ。ななも、あなたも、……神楽さんも」

 神楽、という単語に華恋は眉を下げた。数ヶ月前に行方不明になった、彼女の友達、いや、親友、幼なじみ――華恋の運命そのもの。華恋が何よりも大切にしている、約束の人。私はその約束について詳しくは知らないけれど、傍から見ていても大切だということは身に染みてわかっている。

 ――だって。私は、愛城華恋と神楽ひかり、二人の運命に貫かれ負けてしまったのだから。

「ありがとう、じゅんじゅん。でも、じゅんじゅんの気持ちはそれだけじゃないでしょ?」

 まさかは、存在するものね。

「あなたの目から見てもそう見えてしまうのね、私」

「隠してたの?」

 私は首を横に振った。

「そうじゃないけど。私、あなたほど顔に出ないタイプだと思っていたから」

「ひかりちゃんは、私にとって――ううん。じゅんじゅんにとっても、ばななはそれくらい大切な人なんだよね? 星みたいにキラキラした想いがあるんだよね?」

「……ええ、隠せていなかったみたいだけどね」

「私たちの上で輝く星は、雲の上でも、地球の裏でも、キラキラと輝き続けているんだよ」

 華恋はあどけなく笑った。

 

 

 部屋に戻ると、ななが私のベッドでうつ伏せになって眠っていた。

「全く。紅茶が冷めちゃうじゃない」

 文句を垂れつつも机に二人分のマグカップを置く。ゆったりと椅子に座り紅茶を啜ると、先程の長話のせいか、いつもより味と香りが濃い気がした。

「ななが寝ていて、逆に良かったかもしれないわね」

「純那ちゃん、おかえり」

 うつ伏せのまま、ななが言った。

「ただいま。……起こしちゃったかしら」

「ううん、ちょっと横になるつもりが、少し寝ちゃってたの。というか、純那ちゃんのベッドって寝心地がいいよね。私のベッドと何が違うんだろう?」

 ななは上半身だけ海老反りになると、不思議そうにポンポンとベッドを叩いた。

「いつも寝ている場所だからじゃない?」

 ななはそうじゃない、とでも言いたげに口を尖らせた。

「それもあるけど、きっと」

「ん?」

「私はやっぱり、純那ちゃんの匂いに包まれて寝るのが好きみたい」

 ななはわざとらしくはにかんだ。その笑顔で足の下から顔のてっぺんまで血がグイグイと上るのを感じ、目眩がした私は目頭を押さえた。

「ぐ、具合悪いなら……大人しく寝てなさいよ」

「もう大丈夫。それならさっき、お手洗に――」

「ぁぁぁぁああああああああああああっ! 言わなくていい! 言わなくていいからっ!」

――何か、何か彼女の気を紛らわせるもの――そうだ、紅茶!

「ほら、せっかくあなたのために淹れたんだから、大人しく紅茶を飲みなさい! ……終わっても、だるいものはだるいでしょう?」

 ななはパン、と手を叩いた。

「そうだ、純那ちゃんの紅茶!」

 ななはいそいそと携帯を取り出し、ガバリと起き上がって黄色のマグカップを撮影し始めた。一度撮って、さらに写真を見返しては、角度が気に入らないのかもう一度撮り直している。それを三回ほど続けたところで、ななは満足げに頷いた。

「うんうん、ばなないす!」

 頬が落ちそうなほど紅茶を眺めてニヤついているななは、まるでずっと欲しかったおもちゃを買ってもらったばかりの子供のようで。私の机に肘を付けて、小動物を観察するように眺め始めた。

「紅茶なんて、二人で何度も淹れてるじゃない……」

「ううん。純那ちゃんが私だけのために淹れてくれた、初めてのものだから。記念に撮っておきたかったの」

 スーパーで売ってる安物だと知っているはずなのに。

 正直、淹れるのに失敗したものなのに。

 それでも、ななの言葉はやっぱり嬉しくて。

 こちらを振り向いた彼女と目が合い、示し合わせるように二人同時にゆっくりと啜る。ななはほんの一口飲んだところでベッドに座り直し、口を閉じたまま咳払いをした。

「濃いね」

「濃いわね」

 二人で笑い、もう一度見つめ合う。しばらく見つめ合ったところで、ななはおもむろに口を開いた。

「ねえ。華恋ちゃんが言ってた『それだけじゃない』って、どういう意味?」

 

 

 

――じゅんじゅん、ばななのこと大好きだもんね。

――大切な仲間よ。

――じゅんじゅんの気持ちはそれだけじゃないでしょ?

 今さっき私と華恋が交わした、数少ない会話の内容。ななはきっと、お手洗いに行く前に私のことが気になって、キッチンを見に来たのだろう。その時に、私達の会話を聞いたに違いない。それに、その時していた会話はななについての話題だったから、尚更私達の前に出てきにくかったのかもしれない。

「どこから、聞いてたのよ」

 今この瞬間だけは鏡を見たくないと思った。見てしまえばきっと、私の顔に羞恥の赤がびっしりとこびりついていただろうから。

「……純那ちゃんが、私のことが大好きか聞かれた辺りかな」

 質問しているななの顔にもまた、赤がほんのりと貼り付いている。恥ずかしいなら聴かなければいいのに、それでも気になって質問してしまうのだろう。たぶん、私が同じ立場でも同じ行動を取ったと思う。特に、ほんの少し寂しい思いをした朝は。

「……ど、どう思った?」

「あ、うん……嬉しかった、けど……」

「け、けど?」

「好きなら好きって、ちゃんと聞きたかったな、なんて……」

「か、華恋の前でなんて言えるはずないでしょっ!? それに、そういうことにはちゃんとした順番があって。いい? 恋というものは――」

「恋は決闘だよ、純那ちゃん」

「ロマン・ロラン? 一体誰から――」

 ロマン・ロランはフランスの作家であり――フランス? 私は心の中で不敵に笑う元金髪子役に『余計なことを吹き込んだわね』と文句を言った。

「だから、目を離さないで。話を逸らさないで」

 ズイ、と詰め寄られ、思わずたじろぐ。それでも逃げたくはないから、目は逸らさなかった。

「『恋は決闘。右や左を見れば敗北である』」

「うん。だから、教えて。純那ちゃんの本当の気持ちを」

「……そ、その前に、いったん紅茶を机に置いてもいいかしら?」

「純那ちゃん、話を――」

「こ、こういうのは、て、手を握りながらでも、いいでしょう?」

 

 

 告白なんて、考えたこともなかった。

 いや、考えていた。夢の中で何度もシミュレーションしていた。けれど、いざ言葉を出すとなると上手く出てこなくて、何度やっても『好き』よりも先に出てくるのは『一緒にいたい』という言葉だった。

 たぶん、それが私の本心だ。

 好きとか嫌いとか、愛しているだとか憎んでいるだとか、そんな感情なんて関係なく、ずっとななの隣で彼女の笑顔を眺めていたい。手を握っていたい、一緒に寝たい、そして時々、熱を持て余したらキスしたい。

 私がななに求めているのは、きっとそれくらいだ。

 だけど今は学校でも寮でも夏休み中でも四六時中ななと一緒にいるし、一緒に寝ている。直接キスをしたことはいけれど、眠っているななの頬に軽い口づけをしたことはある。

 つまり、欲しいものは全て満たされているのだ。

 それでもさらに求めるのは、傲慢が過ぎるのではないか。

 ななの全てを知っているわけでもないのに、ななの全てをもらってしまってもいいのだろうか。

 そもそも、私なんかでいいのだろうか。

 普段は負の感情ばかりが脳内を巡り巡って、ときどきジェットコースターのようなときめきが脳を支配し、また夢の世界でななとの告白劇を演じる。

 毎日毎日、同じことの繰り返しだ。

 ななは運命の舞台に九十九期スタァライトを選んだけれど、私にとっての運命の舞台は、もしかして――

 もし私がそれを望んでいるならば、舞台少女の名折れというものだ。

 

 

「純那ちゃん。聞かせて」

 とくん、とくんと心臓の音が聞こえる。

 感覚が研ぎ澄まされた中、握り合った四つの手が汗でベタ付いているのを感じる。

 緊張なんて生やさしいものじゃない、私の発する単語一つ一つで築いてきたものが足下からぐらりと崩れてしまいそうな恐怖。

 ななが拒むなんて考えられないのに、身体は拒否された後のことを考えてしまう。

 けど。

 今言わなかったら、いつまでも私は運命を前借りし続けるだけだ。

 だから。

「私は、あなたとどうなりたいのか、どう生きていけばいいのか、皆目見当がつかないの。ただ隣にいるわけじゃなく、ただ結ばれるだけじゃなく、もっと深くまであなたに触れた上で、胸を張ってあなたに気持ちを伝えたいの」

 全てを伝えようと思った。ななの全てを知ることはできなくても、私の全てを伝えることはできるから。

「ななの全部を知りたいの。人は、無知のままでは一歩を踏み出せない。私は、ななの全部を知って、受け入れて、ななとずっと一緒に生きていきたい」

 ななの手を痛いくらいに掴む。怖かったから。

 ななの指先が白くなるほど力強いのは、私の恐怖の表れだった。

「触れることはできるのに、掴むことはできるのに、あなたが私を求めてくれるから、私はあなたに伝えられない。あなたの頬に触れる指先から皮膚に想いが滲んでいって、いつか脳に回ればいいのにと、何度思ったかわからない。だから私は、あなたに触れるのをやめない。どんなにしつこく感じても、あなたの想いを拒まない。太陽のように燃え滾るこの胸の熱を、星のように煌めきだすあなたへの想いを、子犬のようなあなたよりずっとわがままな私を、どうか好きでいさせて。だって、この想いは全部あなたのものなのよ。私が、あなたに伝えたい全部なの。けれど、これらは全て私のエゴ。恋でも愛でもなく、全ては私のエゴだから。私は愚かな私を許せない、最も愚かな人間だから、私は、愛すべき人であるあなたを――」

 

 

「――私のものだと言い張りたい」

 伝わったかしら?

 ななの顔を改めて見直す。

 ななは、不機嫌そうに頬を膨らませていた。顔は羞恥で真っ赤なのに、目元と膨らんだ頬だけは怒りを表していた。

「嬉しい。嬉しい。嬉しい。けど、なんだろう、嬉しいのに、このモヤモヤした気持ち! 純那ちゃんは私を求めてくれている、それはずっと欲しかった言葉だったし、死んでもいいくらいに嬉しいけれどっ!」

「わ、私、な、何かいけないことを言った……?」

「……愚かだなんて、言わないでよ」

 ハッと息を呑んだ。ななの声が、つららのように尖っていたから。

「私の大好きな、私のいちばん大切な、私の純那ちゃんをバカにしないでよ! 純那ちゃんは純那ちゃんで、純那ちゃんは純那ちゃんらしく、純那ちゃんの純那ちゃん……じゃなくて、純那ちゃんは私ので、あれ……?」

 ほろり、とななの頬を一筋の涙が伝った。

「……なんで、私が泣いてるの……?」

「――なな」

 ななの身体を抱いた。いつも通り柔らかくて、いつも通り果実の香りがするのに、抱き寄せられた彼女は赤ん坊よりも頼りなく私にすがりついている。

「自分勝手に泣いて、好きな人に抱きしめてもらうなんて。私、子供だなあ」

「子供だったのは、私の方よ」

 ななは首を横に振った。

「そんなことない。純那ちゃんは私よりずっと――」

「私も、大人だと思ってた。……けれどね。大人になるということは、必ずしも受け入れる度量が広いってことだけじゃなかったのよ。どんなものでも、絶対に受け入れられない瞬間がある。私は、ほんの少しの間でもなながいないってことを受け止め切れなくて。ななは、ずっと私を見守っていてくれてたのに」

「違うの、私はただ、私のエゴで――」

「なな。あなたのエゴは、あなたの優しさがもたらした、幾年分もの奇跡なのよ。あなたが私たちを何年も、何年も守ってくれたおかげで、私は今も舞台少女でいられる。夢を追いかけることができる」

「でも、でも――」

 ガバッと身体を離し、ななの目をまっすぐ見つめる。『恋は決闘』とはよくいったものだと、先ほど文句を言ったばかりの“彼女”に敬礼をした。

 

 

「私は、ななが好き! ななを私のものにしたい!」

 ――誰かさんを評したように、走り出したらもう止まらないのは私も同じじゃない。

「どうしようもなく好き。けど、拒否されることが一番怖かった。だから言えなかった。言えなかったから伝わらなかった。私が、あなたをこんなにも大事に思ってるってこと、」

 告白を受けた肝心の主賓は、あっけにとられた表情だった。

「拒否なんて――」

「ないの。ないのよ。ななが拒否することなんて、そんなのはないって知っているけれど! 私だけが、私だけに、私だけのために、すべてを伝えることに怯えていたから、」

 すべてを伝えることが、こんなにも怖いなんて。

 私はそこでハッとした。同じ一年間を繰り返していることを告白したあのときのななは、今までの私のように怯えていたのかもしれないと。

「――ななはあの時、何故再演の話を私にしたの?」

「それは――守りたかったからだよ。純那ちゃんを、みんなを、スタァライトを、大切なものを守りたかったからだよ。守って、守って、守り続けて! ――守り続けた先に、あの煌めきがもう一度あると信じていたんだよ。でも、今は違う。私は、新しい光を見た。舞台の上で真っ赤に咲く、可憐な花を見た。そして何より。あの日、星空の下で、新しい純那ちゃんの、新しい言葉を聞いた。その言葉が、私を造り変えた。私が新しい一歩を踏み出せるようになったのは、シェイクスピアの言葉なんかじゃない。他でもない、新しい純那ちゃん自身の言葉だったから――だから、純那ちゃんは、純那ちゃんを誇ってよ! 私だけの星でいてよ! 私だけの星は、純那ちゃんの気持ちだけは、曇らせちゃいけないんだよ!」

「曇らない。私はもう、曇らない。だって――私たちの上で輝く星は、雲の上でも、地球の裏でも、キラキラと輝き続けているの。いついかなる時でも、私はあなたの一番星になってみせる」

 ななの頬に触れる。

 手の汗はいつの間にか引いていて、陽の光を浴びた絹を滑るような肌触りだった。

 黄色い前髪を撫でるように掻き分ける。

 耳の脇まで手をやっても、眼の前の彼女のように少しの抵抗も感じなかった。

 ななはくすぐったそうにしながらも身体を固まらせて、これからされることへの期待感で顔は上気し恍惚となっていた。

 そっと、後頭部に手を伸ばす。

 期待と不安が入り交じり、視界が明暗で点滅する。

 いよいよだというのに、手が震えて抱き寄せる力も湧いてこない。

「私の、純那ちゃん」

 ななが私の名前を呼ぶ。

 手の震えが止まった。

 ――まだ、情けないな、私。

「私の、なな」

 痛いくらいに抱きしめて、壊れ物を扱うようにそっと唇を――

 

 

 綺羅星、明け星、流れ星。

 己の星は見えずとも、見えぬ私は今日限り。

 だって。

 私を見つめる私の(ひと)を、私はすでに知っているから。

 

おわり



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