俺は両親から貰った名前が嫌いだった。
佐渡 遥、まるで女に付けるようなネーミングセンスを疑問に思ったのは小学生になった時だった。
入学早々すぐに出来た男友達から、お前の名前は女みたいだなと言われたのがキッカケだっただろうか?
確かクラスの女子にも遥という名前の奴がいて、そのせいで随分と揶揄われたし、その女子からも嫌われてしまったのは今となっても悪い思い出だ。
そしてその日直ぐに親に聞いたところ、どうやら産まれてくるのは女の子だと思っていたらしく、検査でもそういう判定が出ていた為に男だった時の名前を考えていなかったらしい。
なので産まれてきたのが男だったのに気付いた時は大層びっくりしたそうで、急遽名前を考えようとしたが、もうこの名前でええんやない? という昔も今も家で一番の権力を持つ母の一言で人生の敗北が決定した。
「おーい遥。これからどっか寄っていかね?」
「悪い、今日は家の買い出し当番なんだ。また今度な」
「ちぇっ、まぁ、なら仕方ないな。じゃあな遥」
「あぁ、また」
けれどこうして高校生になった今は名前で弄られることもなく、平穏無事に過ごせているので末代まで呪ってやると考えることはなかった。……てか末代までって俺も入ってんじゃん、何考えてんだほんと。
「佐渡、これを職員室まで届けるの手伝ってくれないか?」
「あ、いっすよ」
一人漫才ほど悲しいものはないなと黄昏ていた時、上から聞き覚えのある声が掛かる。
というか聞き覚えどころじゃなく、ほぼ毎日聞いている男の声で、顔を上げた先にいたのは太い眉毛と角張った髪型に竹刀を持った剣道部顧問の大文字 照彦だった。
右手に授業で使った参考書を持っていて、左手で握った竹刀を教卓に向けている。
何だ何だと目を向ければ、その上には同じ参考書が重ねられていた。
二つ返事で答えたが、あの参考書は何度使ってみても、思わず「重いなぁ」と口ずさんでしまうくらいには重い。それがクラスの半分、十七冊分ある訳だから相当だろう。
それを片手で軽々と持っている剣道部顧問兼クラスの担任の膂力に感嘆してしまうが、今はこの非力な体で職員室まで運べるかの是非が問われている。
「しかしお前は相変わらず細いなぁ。本当に持てるのか?」
「持ちます」
しかし挑発されて黙っていられるのは男じゃない、指を鳴らしながら口でゴキゴキ言うと、教卓の前に立って指を下に差し込み持ち上げた。
「ふんぬっ!」
「お〜、本当に持てるんだな。一冊
「そ、そっすか! 余裕っすね!」
嘘ついた。
膝は現在進行形でカクカクダンスを踊っていて、上体を前に反らしている。
流石に重さを量ったことは無かったけれど、道理で重い筈だ。十七冊合わせて合計八.五キロ、更に面積も大きい訳だから持ちにくく気を抜くと落としそうになる。
「さぁ行くか、佐渡」
「はい、先生」
だから先生、ちゃんと運ぶからその早歩きをどうにかして貰えないでしょうか?
「よし、ご苦労さん。いやぁ本当に助かったよ、ありがとな佐渡」
「いえ……それでは」
礼を言われるのは悪くないどころか心地よい。
その為なら面倒臭いことを進んで引き受けはしないが、多数決で決まったのなら心臓をバクバクさせて鬱になりながら努力する位には好きだ。
けれど先生、どうせならこれからはその片手の竹刀を下ろして欲しい。
何でいつも持っているのか? もしかして無機物愛者なのか? なんて聞けたら楽なのだろうが、クラスというか学校全体の噂で聞いてはならない十の不思議に入っているそうなので、ビビりの俺は聞くことが出来ない。
よくクラスの女子が、聞いてみたんだけどさぁ、と言っているのは嘘に決まっている。
本当に聞いていいのなら俺の苦労は一体何だったのかと、人生稀に見ない自己嫌悪に陥ってしまうから。
「あ、そうだ。このプリントを委員長に渡しておいてくれないか? 渡し忘れててな、アイツなら今頃演劇部で活動してると思うから、よろしくな」
「……あい、分かりますた」
思わず『し』を『す』と言ってまう位には、頭を絶望が支配し始めた。
俺はファンタジー物の主人公かと突っ込みたくなるのを我慢して、プリントを預かって職員室を出る。
思い出されるのは茶髪の長い髪をポニーテールにした女子生徒の姿。
沢山の女友達と常に会話していて、男友達も多いと聞くし、その面倒みの良さと人付き合いの良さからオカンと密かに呼ばれているような気がする。
そんな彼女の名前は姫乃木 有紗、何だか凄そうな名前の彼女は所謂ギャルで、いつも目の下に星のシールか何かを貼っていて、胸元を大きく開いてスカートはギリギリまで詰めているミニスカ。
ウチの学校はエゴサーチしたところ制服が可愛いとの情報があり、なるほど確かに、と思うくらいには彼女は美少女っぷりを発揮していた。
その元来持った巨乳の谷間が制服の隙間から見えているので、いつも視線を向けられないが、視界の端に映る度に可愛いなぁと思うくらいには可愛い。
きっと真正面から見れば鼻血が出ちゃうくらいには可愛いに違いない。
「……着いちゃったよ」
委員長の可愛さについて自問自答していると、目の前に演劇部衣装室と書かれた表札が掲げられたスライドドアが出てきた。
中からは話し声が聞こえるので、誰かしらが居るのは間違いない。
出来れば人が沢山いる演劇室には入りたくないので、ここに例のあの人がいることを願いながら、軽くノックしてドアを開ける。
そして見えてきた部屋の中には一人だけ、それも例のあの人である姫乃木 有紗がそこにはいた。
「あ、ごめんね? 用事が出来たからここで切るよ。うん、分かった。じゃあまた後で、うん、バイバイ……ふぅ、で、どうしたの遥?」
相変わらず人の表情を読むのが上手い人だ。
なるべく顔には出さないようにしたが、気まずそうにしているのを察して電話を切ってくれたのだろう。
そして入学してから三ヶ月と少し、普段会話はしなく事務的なやり取り、提出物の確認くらいしか話すことがなくその会話数は片手の指で数えられる位なのに名前を覚えているし、尚且つ呼び捨てだ。
コミュ力の鬼にも程があるだろう。
「いや、えっと……その……これ」
「ん? あぁ、もしかして衣装借り受けの書類? 大文字先生に頼んでおいた奴かな? わざわざ持ってきてくれたの? ありがと遥」
これだ、緊張でガチガチに震えてキョドりながら『いや』と『えっと』と『その』と『これ』の四種類しか喋れない俺とは違う。
眩しい笑顔で話す彼女は、四種類どころかプリントの内容に加えて渡してきた人物の特定、更に労いを重ねてからの名前呼びお礼というクワトロコンボを決めてくる。
こんなの彼女を
「うん、判子も貰ったし許可も得た。これで衣装の準備は大丈夫かな? あっ、そうだ遥。ちょっと来て」
「へあう!?」
いきなり手を引かれた俺は、クソみたいな声を出しながら、トイレ行ったあと三回くらい手を洗ったっけ? とか、手汗酷くない? とか、手が柔らかいなぁ……とか色々な思考が巡る中で、中心にドデンと居座っているのが
このまま時間が止まればいいのにと幸せを感じていると、直ぐに手が離れて行ってしまう。
思わず手を舐めそうになるのを、太腿を思いっきり抓ることによって回避する……痛い。
「これどう思う? 私が家で作ってみたロングのワンピなんだ。白い生地が清楚アピしてて、かなりエモく仕上がったと思うんだけど」
「えっと……いい、と思う」
「ほんと!? これでクラスの全員から高評価貰えちゃった! やったね!」
両手を胸の前で小さくガッツポーズして、少し飛び跳ねている彼女は可愛すぎると思う。
何を言っているのかはちょっとよく分からなかったけど、単語だけではなく『と』を言えたことに感激しながらその服を見る。
通称ワンピースと呼ばれる上の服と下の服が一体になった、アニオタ目線でいえば儚い清楚キャラがよく裾を靡かせてパッケージにイラストされている時に着ている服と言えば分かりやすいだろう。
まるで店の服みたいに綺麗に作られたそれは、最初はただ布を切っただけでは? と、恐れ多いことを考えたけれど、よく見てみると白いだけではなく様々な模様が薄く縫われているのが分かる。
それは地面に生えているよく分からない小さな草を数えるかの如し精密さはミシンで縫っているのが信じられないくらいに細かい。
もしかして手縫い?
「これって……どうやって」
「ふふっ、私が手で縫ってみたんだ。勿論生地は市販のだけど、一枚の大きな布から全部仕上げてみたんだよ。三日くらい掛かったけど、かなりの自信作なんだ」
なんと、この力作は手縫いらしく付け加えて三日で完成したとのことだ。
信じられん、天才かよ、と言いそうになるのを口を閉じることによって防ぎ、ただモゴモゴ言っている変な人になるだけで済んだ。
それにしてもこれを手縫いで三日は凄すぎる。
あの、なんていうか……なんだ……マルカジリ? で売ったらかなりの値段でいけるんじゃないか?
システムはよく分からんけど。
「あ、そうだ。私早く戻らないと行けないんだ! 皆が待ってる! それじゃあ遥、しっかりと受け取ったからね!」
変なことを考えてる間に、彼女は慌てて去って行ってしまう。こんなことならもっと話しておけば良かったと後悔しながら、彼女が出て行ってから少し経った後に出ようと考えていると、振り返った彼女が言った。
「それ触ってみてもいいからね? ほら、あそこに姿鏡あるし重ね合わせてみたりしちゃって!」
いたずらっ子のような可愛い笑顔を浮かべた彼女は、ドアを開けて去って行く。
俺は暫し呆然とその去って行った時の姿を残像として思い浮かべながら固まっていた。
しかし数秒後に正常な思考が戻ってきたので、出来るだけ皺にならないようにハンガーに掛けられたワンピースを手に持って姿鏡の前に行く。
言われてしまったからには、しておかないと男の恥というものだ。
俺は一割の使命感と九割の好奇心を持って体の前に持ってきた自分自身の姿を見る。
袖がないワンピースからYシャツが見えているのが何とも不格好だが……何だろうか? このむず痒いというか、浮き足立つというか。
「……楽しい?」
俺はまるで自分が女の子になったみたいで、高鳴る心の臓を優しくワンピースの上から押さえ付けながら、今までに感じたことの無い歓喜を堪能していた。