【DQⅪ】Quod Erat Demonstrandum【グレイグ&ホメロス】 作:千葉 仁史
※ホメロスは亡くなっているので、グレイグの回想でしか登場しない。
※終始、勇者は出てこないが、彼はうっかりさん設定。
→後書きに解説あり。だが、解説を飛ばして次の話を読んでも構わない。
クレイモランでの狂信者との出会いから十日余りが経過した。
あれこれと手助けしてくれた亡き親友の亡霊はユダとの久方ぶりの邂逅以降、ぴたりと姿を現さなくなった。あまりにも時期が当て嵌まるものだから、英雄は狂信者の呪いを疑ってしまった程だ。故人の助言を得るためにグレイグは幾度となく深夜の自室で陣形の盤上を広げたが、無為に闇が部屋に充満していくだけで、何の答えも導き出されなかった。それどころか、亡き親友の代わりにとんでもないものを見るようになったのである。
夜も更けた誰もいない部屋の中、隅に潜む暗闇から視線を感じたグレイグが盤上から視線を外して顔を上げると、其処には火の玉が二つ仲良く並んで燃えていた。ぼうっと浮かぶ二つの火の玉を初めて目にしたとき、グレイグの率直的な感想は『気持ち悪い』であった。大きくなることも小さくなることも一つになることもなく、狭い感覚で並ぶ赤紫色の小さな二つの焔は揺れることなく棒立ちで静かに浮かび上がっていた。本物の炎のように延焼する訳でも、明かりのように周りを照らす訳でもないので、すぐに幻だと分かったが、近付く気になれず、ただ只管(ひたすら)に不気味だった。恐怖ではない、不愉快になる気味の悪さだ。その幻を見ていると、チリチリと胸の奥が痛むような気がした。常に等間隔に並んだ二つの火の玉の幻は決まってグレイグが一人の時にしか、即ち深夜の自室にしか姿を現さず、毎回黙って其処に佇んでいたのだった――まるでホメロスの亡霊の代わりとでもいうように。
親友に会えないどころか、薄気味の悪い焔が見えるようになってしまったので、グレイグが狂信者の呪いを解除しようと教会を頼ってしまうのも無理からぬ話だ。しかし呪いなんてものはなく、むしろ健康体そのものと神父に言われ、その様子を「暗闇が怖いなんて、父様から聞いた通りの幼い頃みたいね」と敬愛する女王に笑われ、元帥は顔を赤くしただけに終わった。
その火の玉の幻が日に日に霞んでいき、とうとう昨夜に至っては猫の目程度にしか光らなくなったことに気を良くしたグレイグは書庫室で次の討伐戦を考えようと過去の忘備録を読んでいた。幼い頃こそはよく幼児向けの英雄譚を好んで読んだが、今では自他認める活字嫌い・書類嫌いの元帥が時折瞼を擦りながら読む様は通りすがる者に一時の笑みを与えた。やっぱり自分で考えるのはやめて、いつも通り大まかな作戦や陣形は副官のパウロに任せようか、と思いながら欠伸を噛み潰す。パウロはグレイグより年上の五十代の男で、軍歴が長く信頼できる男であった。彼ならばグレイグが望んだ軍略を展開してくれるに違いない。そうしよう、と決めて気を抜いた矢先、強い視線を感じた。何奴と顔を上げた先にあったのは、壁際の本棚との間にできた暗がりに浮かぶ、あの赤紫色に燃える二つの火の玉の幻であった。しかも、今回は今まで以上に煌めいており、グレイグを鋭く『睨んで』いた。
(睨む?)
刹那、その疑問を吹き飛ばすかの如く胸を貫かれたような痛みが走る。その良く分からない痛みにグレイグは抱えていた本を落としてしまった。だが、不思議なことに痛みの余韻はさっぱりなかった。はて、と首を傾げる。もしかすると厄介な病の前触れかもしれない。そいつは困るな、と紫鬚を撫でながら落とした書物を拾おうと巨体を屈ませる。落とした拍子に開いてしまったページは誰も読まないからか日焼けしておらず、元帥の大きな影の中でもぼってりとした白さを放っていた。持ち上げたついでに何気なしにそのページを覗き込む。其処には昨年度の挟撃による作戦内容を記しており、陣形と配備された兵の名前が書き連ねてあった。魔物の群れをサークル状に囲い込む作戦で、兵がピンチになった場合、円の外側からパウロの遊軍が援護するといったものだ。その配備された兵の中でグレイグはホメロスの副官四人衆の一人、アウグストの名前を見付けた。
切り込み隊長のフランシスは獄死、殿を務めるメーベ・側近のユダと続けて出奔するなか、諜報部のアウグストだけが副官四人衆の中で唯一デルカダールに残った男だった。副官というホメロスに近い立ち位置だったため、海軍が陸軍に吸収されたとき、雑兵まで身分を落としたが、それでもデルカダールに残ったのは国への強い忠義心があったからだろうとグレイグは考えてた――そう、狂信者のユダとは違って。そんなことを思い返しながら次のページを開くと、作戦前・中・後の状態や戦死者の名前が整然と列挙されていた。その戦死者の欄にアウグストの名前はなかったが、彼と同じ部隊にいた、グレイグの見慣れぬ名前の者――海軍から陸軍に移動した兵士が多数殉職していた。次のページを捲る。前のページをコピーしたかのような作戦内容が綴られており、これまた戦死者の名簿にはアウグストと同じ部隊にいた者の名前がよく並んでいた。
(もしや、彼奴は死神かもしれんな)
そんな愉快なことを考えつつも、グレイグはペラペラと項を進めていく。似たような作戦内容、いつまでも残り続けて消えないアウグストの名前、その代わりに消えていく彼の周囲にいた兵士の名前。
それがあまりにも長く続くものだからグレイグは空恐ろしくなってきた。アウグストの名前が消えないからではない。ある一定のルール――アウグストの周辺に配置された元海兵の戦死率の異様な高さが守られている事実が浮かび上がってきたからだ。
昨年度分を最後まで読み切ると、グレイグは今年度の書物を手に取ったが、悴んだかのように手が震えて上手く本が開けない。ようやっと開くと、もう隠し事するのが馬鹿馬鹿しくなったと言わんばかりの陣形が目に入ってきた。
相変わらずの挟撃スタイル、新兵の近くには遊軍が控えているが、アウグストが属する元海兵部隊は一番グレイグ隊に遠く、また遊軍も期待できない位置にあった。しかも配置された場所は湿地、敵モンスターは足のない浮遊タイプ、馬もない歩兵に逃げることなんて到底不可能だろう。次のページには、その作戦の『大成功』が収められていた。ルール通り、アウグスト以外の元海兵は皆々死亡していた。びっしり埋まった名前にグレイグは臓腑の底から震え上がった。次のページを捲ると、丁度ホメロスの亡霊が見え始めた時期で、知的策略を巡らすようになったため死亡率は格段と下がっていた。またアウグスト数名を除く元海兵がいなくなったので、あのルールはきっぱりと消えていた。此処で初めてグレイグは刻を戻すかのように前のページに戻る。昨年度からずっと続く軍事行動の発案者の名前が――この湿地帯を含む平原での魔物討伐作戦を立てた男の名前が記されていた。パウロであった。
「パウロ、どういう気だ!」
軍議用の部屋の扉を勢いよく開け放ったグレイグがパウロに詰め寄る。
「七ヶ月前に行われた湿原地の陣形はなんだ? 元海兵に死ねと言うような作戦ではないか! それよりも以前の軍事行動も総てそうだ! 三年前からの書類を見直したら、お前が提示した作戦は皆、やり方が次第に段々とあからさまに明確になってきていて、まるで陸軍に編入した海兵の抹殺を目論んでいるようではないか!」
パウロが五十代という年齢に相応しくなくぽかんとしてしまう程に、グレイグは感情の逸るまま矢継ぎ早に質問を浴びせた。しばし瞠目してしまったパウロだったが、静かに「元帥、舌が回っていないですよ。落ち着いて下さい」と声を掛けた。しかし、それはグレイグの心情を加速させるだけであった。
「これがどうして落ち着けるものか! 軍内でこのようなことは許されんぞ」
「何を仰っているのか、私には分かりかねます。どうして今更、既に片付いた案件を話題に出すのですか? 私は貴方の意に従ったまでです」
心外だ、と言わんばかりに不思議そうに上官の顔を覗き込むパウロの瞳を見てグレイグは気付いた。彼は何故英雄が憤慨しているのか一端も理解できないでいるのだ。
「俺の意に従った? お前こそ何を言ってるんだ、俺にそんな気は――」
「では、何故承認印を押したのです?」
パウロの疑問にグレイグの喉仏が引っ込む。
「私の作戦を承認したのは元帥、他ならぬ貴方ですよ」
訳が分からないと首を傾げるパウロの様は、五十路だというのに幼い子がやるそれに似ていた。元帥は思い返す――彼の言う通り、作戦書に描かれたパウロのサインの横にはグレイグの印が必ず押されており、一つとして押されていないものはなかった事実を。
パウロは代々デルカダール家に仕える軍人だった。長く仕えていただけに強い矜持の持ち主であった。当時、四十代だったパウロが二十代の青年ユダに殴られたとき、どれだけその誇りを傷付けられたことだろうか。陸軍嫌いの筆頭がユダならば、海軍嫌いの筆頭はパウロであった。その海軍トップのホメロスが謀叛者として死に、海軍が陸軍に編入されたとき、彼はどう思っただろうか。虐げる好機だと、理由が出来たと、やはり海軍は陸軍に及ばぬと嘲笑ったかもしれない。
海兵が陸軍に編入した後の一番初めの軍事行動にて、元海兵部隊に援軍がいかないよう配置した三年前の作戦書はきっとパウロのささやかな嫌がらせだったはずだ。だがしかし、パウロの予想に反して、突っ撥ねられるだろうと書いた作戦書はグレイグに承認され実行された。そして何度もそれを繰り返した結果、パウロは確信したはずだ――これはグレイグ元帥の意であると。その本懐に従って、パウロは元海兵を始末していった。ただ、それだけの話である。
(違う! 俺にそんな気など無い!)
針に糸を通すように視えてきた真実に、グレイグは叫びそうになる。しかし、その言葉が唇に乗るよりも先に赤紫色の瞳を持つ男が言った台詞が英雄を揺さ振った。
『貴様は自分の立場を本当の意味で理解していない。真実か嘘かなんてどうでもいい、英雄グレイグが口にすれば、態度に示せば、その情報は真になり、民草の同情を呼ぶのだ』
グレイグは書類仕事が苦手だ。作るのも見返すのも嫌いだ。だから部下に書類作成を任すことが多々あった。部下はグレイグの悪癖を知って笑って済ませてくれた。グレイグは部下を信頼していた。信頼を言い訳に書類を最後まで見ずに承認印を押すことはよくあった。いや、世界を救ってからのこの三年間に至っては、国の行事に忙しさにかまけて、しょっちゅうだった。それがこれだ。海軍を嫌うあまりに作った作戦書を何回も承認されたパウロは海兵抹殺がグレイグの本懐だと思い込んだ。盲目の信頼による代償は果てしなく重かった。
何も言えなくなった英雄にパウロは最後まで不思議そうな表情を浮かべたまま会釈して去っていった。その軍靴の足音に連れ立って、総ての音も遠ざかっていく。無音の中、ぽんと承認印を押す軽妙な音が聞こえたような気がした。
震えそうになる唇を噛み締めながら、グレイグは海兵死亡者の第一人目となるフランシスが亡くなった地下牢獄へ足を運んだ。英雄は『そうじゃないこと』を証明したかった。しかし、グレイグ自身、『何が』そうじゃないことを証明したいのか分からなかった。ただ歩みを止めて、振り返るのが怖かっただけかもしれない。
英雄は牢屋の見張りに三年前の書類を、元海軍副官フランシスの明細を見せるように迫った。だが、渡された書類には彼が獄死したこととその時期しか書いてなかった。どのように亡くなったのか、どの牢屋で息絶えたかすら不明だった。何故無いのだ! と元帥に責められ、可哀想な看守はパウロと同じようにやっぱり不思議そうな顔で「何故今更聞くのです?」と逆に尋ねた。
「裏切者の部下である海兵の死の記録なんて、残した方が我がデルカダール国の面汚しではありませんか」
さも当然とばかりに言う看守は此の三年以内に仕えるようになった兵士であった。この男はきっとフランシスのことを知らない。
フランシスはホメロスが海軍に移る前からいた男だ。ホメロスより年上でガタイがよく、斧をまるで木の棒のように振り回し、寡兵を持って魔物の群れを退いた戦歴が示す通り、勇猛果敢さを持つ海の戦士であった。
ホメロスが海軍の立て直しをすべく提督になった時、最初は不服そうな表情を浮かべていた。彼の義兄弟ともいえるご意見番のクラウスの言がなければ、きっと従わなかっただろう。そんな彼も次第にホメロスの手腕を認め、ホメロスも彼を認めた。そして、クラウスが亡くなった『あの事件』の際、フランシスがホメロスを庇って顔に大きな傷を作った後も切り込み隊長として活躍し続けた。
そんな男をこの若い兵士は『国の面汚し』と呼んだ。呼ばせたのは誰だ。それは陸軍――いや、デルカダール国の軍のトップたる元帥の態度だろう。もしかすると、そんな彼の獄死に関する書類を残さなくても良いという承認があったのかもしれないが、真相は永遠に闇の中である。
震える肩を誤魔化すようにして、グレイグはホメロスの元部下がいると思われる海軍基地へ足を進めていた。早歩きで向かいながら、グレイグは頻りに『そうではない、そういう気はなかったんだ』と思った。でも、決して『何が』とは脳内でも言えなかった。言葉にするだけで恐ろしかった。近道しようと、陸軍兵舎の近くを通りかかったとき、兵たちの声が聞こえてきた。
「それにしても、アウグスト、お前、よくもまぁ死ななかったな」
先程まで書類で何度も見た名前が聞こえ、グレイグは兵舎の影で足を止めた。幸運にも兵舎の壁が高くて兵士は元帥に気付いていない。その声の持ち主は昔からの陸軍の兵士で、アウグストよりも年下の男であった。
彼らの話題に上がっていたアウグストはユダが海軍に移る前に、ホメロスが何処からともなく連れてきた男だった。なんでも海賊に捕らわれていたところをホメロス率いる海軍が助けたとか。助けたというより、アウグストを捕らえた海賊が勝手に内輪揉めしている間に、彼がこっそり逃げようとしたところを保護したらしい。らしいばかりなのは伝聞ばかりだからだ。アウグスト自身が部隊を率いることは少なく、専ら一人で行動し、ホメロスの影から音もなく現れ、よく二人でこそこそと会話していた。出逢いはともかく、アウグストはホメロスを上司として強く信頼していたし、彼もまた信頼されていた。
「よせよ。あの下劣な男の下で働いていただけでこんな目に合うとは、とんだいい迷惑だ。全くあの上司、死んでからも最悪な野郎だったな。もっと早くくたばってくれれば、それだけ早く陸軍に行けたものを」
そのアウグストがホメロスを貶す台詞を吐いたことに、グレイグは悪寒が止まらなかった。唇、肩と続いて、手先まで震えが下ってきていた。
「ユードゥシュカ(ユダの蔑称)もだが、メーベも馬鹿な野郎だ。あんな無能上司の為に出奔するとは。人生間違えたな」
アウグストが小馬鹿にしながら口にしたメーベという男はホメロスが見出した兵士だった。海軍の立て直しをしたときに、水夫の一人だったメーベを――何を思ったのか――急に取り立てたのだった。年功序列ならぬ軍功序列に従って兵の階級を決めているグレイグには、ホメロスの行動はさっぱり分からなかった。しかし、取り立てられたメーベはめきめきと成長し、海軍一の弓の使い手となった。なんでも海風が吹く中、はるか遠くの小舟の上に立たされたオールの先の扇子に弓を射ることができたとか。魔法か? と不思議がるグレイグにホメロスは「彼奴の素質と努力によるものだ」と一言告げただけだった。そのメーベはホメロスの裏切りと死を知らされた際に出奔し、その後、彼の姿を見た者はいない。
ホメロスが亡くなった当時、フランシス・メーベは四十代、アウグストは三十代、ユダは二十代であった。その副官四人衆の彼らは年齢も得意武器も出身地もバラバラだったが、何故か仲は良く、酒場で語らっていたのをグレイグは何度も見たことがあった。強い絆で結ばれていたというのに、唯一デルカダールに残ったアウグストは平気な顔でホメロスどころかメーベも貶めた。薄情だ、とグレイグが思うが否や脳裏に赤紫色の二つの焔が浮かび、糾弾するように睨み付けた。その視線に射抜かれたことで英雄の中で一つの真実が浮かび上がってきた――ユダの言う通り、彼の心が死んでしまっただけという事実に。
指先の震えが止まらない。最初に聞こえてきた兵士の台詞「よくもまぁ死ななかったな」に集約されるように、元帥の『意思』は軍内にしっかり行き渡っていたようだ。その『意思』が浸透していたことどころか、『意思』の内容すら知らないのが、その元帥自身とは随分と洒落の訊いた皮肉だ。そうして、グレイグは思い出す――ホメロスの一件で海軍は解体され、その際、海兵は皆陸軍に編入し、今の海軍は陸軍の一部で構成された部隊であることに。つまり、今から向かう海軍にホメロスの元についていた兵士は一人もいないのである。ついていた海兵は皆陸軍に吸収され、元帥の『意思』によって淘汰され、死なずに済んだ兵士は代わりにその心が死んだ。
陸兵の笑い声が聞こえてくる。死んだ海兵に対する嫌味と侮辱の言葉が陽気な声と共にグレイグの鼓膜を揺らした。その声にはアウグストのもの混じっていた。踵を返す。今の海軍基地に行っても意味がない。嘲笑ではない明るい笑い声に、英雄と呼ばれる男は耐え切れなかった。
震える指先を握ることで隠しながら、グレイグは城内にあるホメロスの部屋へ向かって走っていた。「英雄」「元帥」と掛けられる声を一切合切無視しながら、グレイグは何遍も『違う』と心の中で叫んでいた。駆け出さなければ、その『何か』に肩を掴まれて無理矢理にでも対面されてしまいそうな気がした。振り切るように角を曲がる。逃げ込むようにホメロスの部屋を開けると、「あら、グレイグ」と敬愛する女王マルティナの姿があった。
「史書の増刷が間に合わなくて、このプレイルームをお借りしたんですよ。女王様には何度も言ったのですが、どうしても、と」
「だって、私が治める国の史書よ。それに勇者と私たちの活躍も描かれているから手伝いたかったの」
申し訳なさそうなメイドに、マルティナがはきはきと答える。どうして忘れていたのか、この部屋はホメロス亡き後にプレイルームになったのだった。壁紙も調度品も全て変わっており、無論、裏切者の遺品もなんてものは一つもない。痕跡すら残されていない。総て処分されている。部屋の中心に置かれた大きなビリヤード台の上には増刷された史書が所狭しと置かれていた。てきぱきと動き回る女王とメイドを余所に、グレイグはその紅い表紙の史書を一冊手に取った。糸で編みこまれた表紙は光沢を放っている。手触りも滑らかだ。
一回目は落とした拍子に目に入ったページだった。読もうとして読んだページではない。二回目は壁越しに聞こえてきた陸兵の会話だった。聞こうとして聞いた会話ではない。どちらも偶然だ。この部屋で増刷された史書の整理に立ち会ったのも確かに偶然であるが、今、この本を開こうとしているのは他ならぬグレイグの意思だ。開くか開くまいか。まごまごしているうちに、追いついてきた『何か』こと赤紫色の二つの幻の焔が部屋の中へ入ってきた。その視線から逃げるようにグレイグは史書のページを震える指先で開いた――真面に読まず、草稿の最後だけ読んで承認印を押した結果にできた完成品を。
端的に言おう。その『英雄譚』と呼ばれる史書にはホメロスの名前は何処にもなかった。裏切者という国の面汚しだ、削除されていても仕方がない。しかし、裏切者とはいえ、彼はこの国に大きく貢献し、功績を残していた。それごと全て削除してしまうと、ぽっかり空いてしまい、将来の歴史書となるというのに内容がちぐはぐでおかしくなってしまう。だからだろうか、その穴を塞ぐために学者たちの手によって一つのある工夫がなされていた。
彼の功績は全てグレイグのものになっていた。
ならず者の巣窟と呼ばれた海軍を僅か三年で立て直したことも、策を弄して少数の兵で海の魔物の群れを退治したことも、政(まつりごと)に進言したことも、みんなみんなグレイグの功績になっていた。
ただ一つグレイグの功績にならなったのは、六年前、ホメロスが唯一大失敗を犯した海賊退治だけであった。海軍の敗戦を受けたグレイグ率いる陸軍が援軍に入ったことで海賊退治に成功したが、ご意見番のクラウスをはじめに多くの死傷者をだした『あの事件』。それについては史書内では名もない海軍将校の失敗をグレイグが見事にカバーし、勝利に導いたという、英雄を持ち上げるための美談と化していた。
『貴様は生前だけでなく、死してなおホメロス様を貶めたいようだな。あの方から尊厳や歴史を奪い取るに足らず、軍師という肩書すら剥ぎ取ろうというのか! 三ヶ月に刊行した英雄譚という名の史書! 知らぬとは言わせんぞ!』
とうとう赤紫色の二つの火の玉を持つ『何か』に肩を掴まれた。英雄がずっと焔だと思い込んでいたのは二つの眼球であった。赤紫色の気味の悪い瞳を持つ男なんて、グレイグは一人しか知らない。
「それにしても、グレイグはやっぱり凄いわ」
背後を振り返ろうとしたグレイグをマルティナの言葉が止めた。どうか否定してほしい、と思いを込めてグレイグは旅の仲間である女王を見詰めた。だが、彼女は続けてこう言ったのだった。
「私はずっとデルカダールにいなかったから詳しいことは知らないけど、こんなに活躍していたのね」
彼女はこの史書に書かれたことが真実かどうかなんて知る由がないのだ。何故なら、マルティナは十六年間ロウと旅していたのだから。しかし、ずっと城仕えしていたメイドなら分かってくれるはずだろう。この史書が嘘っぱちだらけなのを。だが、そんな甘い期待は瞬時に朗らかな笑みと共に粉砕された。
「ええ、そうでしょうとも。グレイグ元帥は英雄の名に相応しいご立派な方ですから。史書という形に残せて本当に良かったですわ」
何を言っているのか、グレイグは本当に分からなかった。耳を塞ぎたい。これではまるで、ホメロスという男が最初から存在しなかったようではないか。彼奴がいたという痕跡は、と思い巡らすグレイグの肩を『何か』が――まるで承認印を押すように――軽く叩いた。
『部下も基地も部屋も功績すら消されたというのに?』
赤紫色の瞳を持つ男が耳元でしかと呟いた。足が震え、床がぐらつくのを感じた。違う、と一つ覚えみたいに呟くが、『何が』とは言えなかった。英雄が口にすれば、態度に示せば、その情報は真実になる。メイドの言葉はその通りになったことを証明しただけの話だった。
それでも、とグレイグは蜘蛛の糸に縋るような気持ちでいた。誰かに導いてほしかった、この状況を否定するような『聞きたい』言葉を掛けてほしかった。しかし、蜘蛛の糸は優しく、それでいてはっきりと断ち切られた。
「本当はその他の英雄譚のように、英雄との結婚で終われたら良かったんだけど。この史書の次の改定はそうなるといいわね」
マルティナが史書で顔を隠しながら呟く。耳が赤い。メイドが「姫様、それは逆プロポーズですか!」と興奮気味に囃し立てる。
グレイグは女王マルティナが自身に好意を抱いていることは知っていた。だから、周りに冷やかされるたびに照れ臭くなっていた。国政が落ち着いたらいずれは、と言葉に出さずとも二人はそう思っていた。このマルティナの台詞も通常ならば嬉しかったはずだ。だが、グレイグにはもう恐怖でしかなかった。
幼い頃、何度も呼んだ英雄譚。英雄はなんて強く勇ましく凛々しい男なのだろう、と少年グレイグは憧れて何度も読み返した。その英雄にグレイグは仲間入りを果たした。数十年、数百年先に、少年グレイグが憧れたように未来の少年たちは英雄グレイグに想いを馳せるのだろう――嘘っぱちの史書を、女王との結婚で締め括られた美しい真実のお話を何度も読み返しながら。
『親友だとほざく割には、生前はホメロス様の苦しみにも裏切りにも気付かず、それどころか、死後はその功績を我が物にし、元海兵を始末した男が英雄だなんて、他の英雄に対する酷い侮辱ではないか? それともなんだ、昔の英雄譚に描かれた英雄と呼ばれた男も貴殿みたいな『立派な』戦士だったとでもいうのか?』
赤マントと同じ色のピアス、そしてブロンドの髪が宮廷内の明かりに反射する。赤紫の焔を宿す瞳を持つ狂信者ことユダの幻影(ファントム)が黒き夜の闇から抜け出し、とうとうグレイグの正面に姿を現した。身震いして、真実に直面し怯える英雄に狂信者の幻影は――クレイモランの場末のバーと同じように――その心臓へと真っ直ぐに氷の刃を突き立てた。
『この恥知らずめが!』
汗が噴き出す。心臓から四肢へと凍り付いくような錯覚を覚える。奈落の冷たさと恐ろしさに男は悲鳴を上げそうになった。
「ねぇ、グレイグ、そう思わない?」
女王が史書から顔を覗かせて声を掛けたとき、其処に将来夫となる男の姿はなかった。照れ臭いのでしょう、とメイドが笑い、マルティナもそれに倣った。だが、それに反して、数日もしないうちにグレイグは碌な引継ぎもせず、理由も話さないままに国を飛び出した。沢山慰留された、女王にも元国王にも懇願された。それでも、男は国から逃げ出した。
もうこの国にはいられなかった。
つづく
※捏造設定登場人物の紹介
フランシス……ホメロスの副官四人衆の一人であり、切り込み隊長。斧使いで一番の古株。寡兵で海の魔物を蹴散らせるほどの豪胆さを持つ。七年前の海賊退治でホメロスを庇って顔に傷を負っている。四年前にホメロスの裏切りと死を知らされた際、貴族に掴み掛ったことで投獄され、そのまま獄死した。(副官四人衆で一番の年上で四十代)
メーベ……ホメロスの副官四人衆の一人であり、殿(しんがり)務め。水夫だったが、ホメロスに大抜擢され、海軍一の弓使いとなった。海風のなか、海の小舟に立たされたオールの上の扇子を射抜くことが出来るほどの腕前。四年前にホメロスの裏切りと死を知らされた際に出奔、その後は誰も知らない。(歳はフランシスと同じくらい)
アウグスト……ホメロスの副官四人衆の一人であり、諜報部。昔海賊に攫われたが、その海賊が内部闘争を起こした際に逃げ出し、デルカダールの海軍に保護された後、ホメロスたっての希望で部下になる。四年前に海軍が陸軍に吸収された際、そのままデルカダールに雑兵として残った。元海兵の中で今も生きているのは彼を含めて数名しかいない。(歳は三十代)
ジューダス……ホメロスの副官四人衆の一人であり、側近。通称ユダ。「良禽(りょうきん)は木を択(えら)ぶ」に則って、自らホメロスの部下になる。ブロンドで赤紫色の瞳を持ち、かなりの激情家かつミーハー気質で、ホメロスの姿・戦闘スタイル・仕草を完璧にコピーしている。四年前に出奔したが、それから三年後にクレイモランでグレイグと邂逅。その際にグレイグに『呪い』に近い言葉を掛けた。今現在の消息は不明。(副官四人衆で一番若く、四年前の時点でも28歳)
パウロ……グレイグの部下であり、陸軍副官。先祖代々デルカダールに仕えているため、自負心が強い。昔、自身より遥かに年下の男であるジューダス(ユダ)に殴られて、その自負心を傷付けられたことから海軍を心から嫌っている。海軍が陸軍に吸収された際、グレイグの『意』に沿って元海兵に対する大粛清を行った。(歳は五十代、ちなみに孫までいる)
クラウス……海軍のご意見番。若きホメロスを海軍に連れてきた張本人。七年前の海賊退治でホメロスを庇って命を落とす。フランシスの義兄弟にあたる。(享年、五十代)
◆◇ 解説 ◇◆
※これを飛ばして次の話を読んでも構わない。
第一話「Ghost」にて、冒頭からグレイグが英雄譚と言う名の史書の草稿を最後しか読まずに承認印を押したツケが第三話「Go away」にて出てくるという、仕込み刀のような伏線。これに代表されるように、グレイグが最後まで読まずに承認することが常態化しており、その結果、グレイグが碌に読まずに承認したパウロの立案により行われた軍事行動により多くの海兵が死ぬことになった。
では、パウロが悪いのか? というと、そうではなく、彼はグレイグの意に沿っただけである。最初は元海兵への嫌がらせの立案だったが、それが承認され実行されてしまった。何度も何度も正義の英雄たるグレイグに承認されたので、パウロは「元海兵の抹殺」が正しいことであり、グレイグの意思であると解釈する。だから、グレイグに聞かれた際、「どうして今更、既に片付いた案件を話題に出すのですか?」と不思議に思っている。粗方の元海兵の抹殺が終わった頃合いにグレイグから軍事行動の立案をしてきたので「もう終わったのか」とパウロは解釈していたのだ。それを今更「なんで、そんなことをした!?」とグレイグに言われたら、パウロからすれば「何言ってんだ?」になるだろう。
「盲目の信頼」故にホメロスの一件で失敗していたグレイグだったが、誰にも指摘されず、自分でさえも気付いてなかったので、もう一度、失態を犯す羽目になった。間違いに気付かなければ反省すらできず、反省できないので何度でも間違いは起こすのは当然のことだ。
震えそうになる唇を噛み締めながら~
震える肩を誤魔化すようにして~
震える指先を握ることで隠しながら~
震える箇所が段々と下に降りていく(全身に回っていきつつある)描写。噛み締めたり、誤魔化したり、隠したりして「あたかも無かった」ことのように振舞った結果、ユダという幻を生み出す。ちなみに、ユダはグレイグが生み出した本物の幻(幻覚)なので、魔法でも呪いでもない。
フランシスの逸話は、三国志の魏という国の張遼や典韋だったり、呉と言う国の甘寧だったり、寡兵(少ない兵士)で敵陣を破った逸話より。
メーベの逸話は、源平合戦の那須与一の逸話(船の上の奥義に矢を射ることができた)を参考に。
アウグストの逸話は三国志において最終的に魏に仕えることになった賈詡(カク)の下記の逸話より。
帰郷の道中、賈詡は漢の支配に従わない氐族の集団に遭遇し捕らえられた。同行していた数十人が全て殺されたが、賈詡は当時異民族に威名が知られていた涼州三明の一人だった太尉段熲の親族と偽り、「私を殺した後、手厚く葬ってくれれば、我が家が必ず遺体を手厚く引き取ることだろう」と遠回しに脅迫した。氐族側はそれを聞いて驚き、賈詡を解放した。
逸話によっては自分を捕らえた族を口手八丁で仲違いさせ、その間に逃げ遂(おお)せたというものもある。つまり、アウグストは自分を捕らえた海賊を上手いこと言って仲違いさせ、その隙に逃げ出していたのだ。そんなアウグストの非凡さに気付いたホメロスが彼を「諜報部」として徴用するのは自明の理であろう。
では、何故、スパイを生業(なりわい)とする「諜報部」である彼が陸軍に残ったのか。それはアウグストが「本物」の忠義を捧げる、彼自身の才を瞬時に見抜いたホメロスの死の真相を知るためである。その結果、ホメロスや同胞の悪口を――嘘を吐きつつも残った彼が見たのは、英雄グレイグの命でパウロが元海兵を皆殺しにする様であった。アウグストは激怒したに違いない。
ところで、どうしてユダはグレイグがいるクレイモランの場末のバーに現れたのだろうか? 軍事行動の内容を知っていたのだろうか? 答えは簡単、グレイグの無能さに憤怒したアウグストがユダに伝えていたのだ。
マルティナとモーゼフ三世(デルカダール王)は十六年も失われた時間があり、その間、国を守ってくれたグレイグに信頼を置くのは当然のことだろう。要は、マルティナは軍のことに関してはからっきしで、デルカダール王は魔王に乗っ取られていたことを恥じて直ぐに隠居してしまった。つまり、グレイグの軍事行動を咎められる者は誰一人としていなかった。マルティナに至ってはグレイグにホの字で恋は盲目状態。まさか、英雄グレイグが自国の兵士を死なせる軍事行動を続けていたとは夢にも思うまい。
英雄譚と言う名の史書においても、デルカダールの十六年の詳しい歴史をマルティナやデルカダール王が知る由はなく、グレイグが「真実」として草稿に承認して出来上がった史書なのだから、当然民も「そういうものだ」と信じ切ってしまっている。
『親友だとほざく割には、生前はホメロス様の苦しみにも裏切りにも気付かず、それどころか、死後はその功績を我が物にし、元海兵を始末した男が英雄だなんて、他の英雄に対する酷い侮辱ではないか? それともなんだ、昔の英雄譚に描かれた英雄と呼ばれた男も貴殿みたいな『立派な』戦士だったとでもいうのか?』
ユダの幻の発言の通り、グレイグが自らを英雄と名乗ることは、歴代の英雄に泥を塗り、侮辱しているに他ならない。これを恥知らずと言わず、何と言うべきか。自身を「正義の戦士」と思っていたグレイグが素足で逃げ出すのも無理なからぬ話である。
※注意事項
「ユードゥシュカ」はユダの蔑称として紹介したが、ロシア語においてかなりの侮辱の呼び方(~野郎)なので要注意。罵り言葉になるので、物書きの方は「自分の作品で『ユダ』というキャラを出そうと思っていたけど、『ユードゥシュカ』の方が珍しいし、変わった響きだから、この名前にしよう」と思っても人名として使わない方が吉。
(小説「ゴロヴリヨフ家の人々」において偽善者「イウ―ドゥシュカ(ユダ)」として登場)